新渡戸稲造 — 威厳いげんのない人

「太平洋の橋になりたい」と言って聞き返され、失敗談を本にしようとして、ただでさえ威厳のない身をいっそう軽くする、と友人に止められた。『武士道』の著者の、重々しくなれない一生

何のことです

「太平洋の橋になりたいと思います」

笑いながら、青年はそう答えました。英文学を学んで何をするのか、と聞かれたのです。

聞いたのは、東京大学の外山正一とやままさかずという先生でした。返ってきたのは、軽い、少し冷ややかな調子の言葉だった、と本人はのちに書いています。

「何のことだか、私には分からない。何のことです」

青年は、しかたなく説明しました。

「日本の思想を外国に伝え、外国の思想を日本に広める、仲人なこうどになりたいのです」

1883年ごろの、大学に入るための面談でした。

この青年が、新渡戸稲造にとべいなぞうです。のちに英語で『武士道ぶしどう』を書き、国際連盟で働くことになる人。このときは二十歳はたちを過ぎたばかりで、北海道の札幌農学校さっぽろのうがっこうを出たあと、東京で学び直そうとしていました。

生まれは1862年、盛岡もりおか。南部藩なんぶはんの武士の家の、三男です。父は、稲造いなぞうが幼いうちに亡くなりました。

1871年、叔父おじの養子になって、東京へ出る。九つのときだった、と本人は振ふり返っています。

それきり、母とは会えませんでした。1880年、母は亡くなります。そのとき稲造は、札幌さっぽろの学生でした。

そのころの東京では、外国の土を少しでも踏ふんだ人は、道を歩けば指をさされ、あれが誰だれそれだ、とうわさされた。だから、ぼくら少年のいちばんの目標は、一度洋行ようこうして、あとで参議さんぎになることだった、と本人の本にある。洋行は外国へ行くこと、参議は国の政治を動かす高い役目です。

ただ、外国へ出るには、お金がいる。お金もなしに力んでも、相撲すもう取りがひとりで足踏みしているのと変わらない、とも。

そのころの彼かれについて、本人がのちに白状していることがあります。

「僕ぼくは幼少のころ、非常に短気であった。人とけんかをした、悪口をした、殴なぐりもした」

どうにかして直したい、と思ったそうです。17、8歳さいのころ、彼は毎晩、寝るねる前に、その日のことを考えた。今日はどんなふうに怒ったおこったか。何度、怒りいかりに負けたか。それを、表にしていたのです。

怒りの成績表です。

その表を、彼は捨てませんでした。

東京大学の面談に来たころには、参議になる話は、もうあきらめていたそうです。面談のあと、外山先生は、笑いながら橋の話をした青年を、親身に指導してくれたそうです。

そのころ、アメリカにいる友人が、一冊の本を送ってくれました。ヘンリー・ジョージの『進歩と貧窮ひんきゅう』。読みはじめると面白くて、手放せない。大学の講義を聞くときも懐ふところに入れて、あいまに読んでいた。

ある日、外山先生が、授業の時間より少し早く教室に入ってきました。稲造はちょうど、ひとり隅すみに座って、その本を読んでいるところでした。

「何を読んでいますか」

「この本です」

「これは有名な本だが、まだ日本に来ていない。私もまだ見ていない。あなた、その大意を書いて、学芸雑誌に出してくれませんか」

先生は、しきりにすすめました。

けれど稲造は、別のことに気づいていた。この本は、出てから何年もたっている。ヨーロッパの国々の言葉に訳された、と広告にも出ている。それなのに、日本でただ一つの大学に、まだ届いていない。

日本の学問は、少なくとも8年遅れておくれている。こんな所で学んで、いちばん上まで行けたとしても、鳥のいない里で威張いばるこうもりにすぎない。そう考えた、と本人は書いています。

広い世界に出なければ。

ひとりで踏んでいた、むだな足踏みが、ここで旅の支度に変わる。腹が決まれば、かかとにも翼つばさが生える。彼は、そんな言い方で、このときの気持ちを書き残しています。

1884年9月。稲造は東京大学をやめ、国のお金ではなく、私費でアメリカへ向かいました。

太平洋の橋になりたいと言った青年が、その太平洋を渡わたるのは、これが初めてでした。

女物の寝巻ねまき

サンフランシスコに着いたのは、夜中でした。

夜が明けるまでは、上陸できない。船は錨いかりを下ろし、客はそれぞれの部屋で眠ねむりました。

稲造いなぞうは、待てなかった。一刻も早く、新しい大陸を見たい。夜中なのに部屋を飛び出し、前から大事にしてきたゲーテの小説の一節を繰くり返しながら、甲板かんぱんに上がったといいます。

「ここぞアメリカ。ここよりほかに、アメリカはない」

陸を見ようと、甲板を歩き回る。ところが、その夜に限って、甲板がやけに広い。千トンあまりの、小さな船です。いくら歩いても、甲板が終わらない。

変だな、と思いながら歩いていくと、急に大きな鉄の門に突つき当たりました。

税関でした。

「お前、どこへ行く」

声をかけられて、ようやく気がついた。船は岸に横づけされていて、彼かれは薄暗うすぐらい中、いつのまにか上陸していたのです。船が着けば小舟こぶねで陸に上がるものだと、日本のやり方で思い込こんでいた。恥はじずかしいことだが、と本人は書いています。

アメリカでの、最初の一歩でした。

東部の大学へは、汽車でほぼ一週間。ある夕方、退屈たいくつした5、6人が車両の隅すみに集まるうちに、話が宗教に、さらに神はいるのかいないのかに及およんだ。稲造は、札幌さっぽろや東京で読みかじったスペンサーの哲学てつがくを、知ったふうに振ふり回して、論じはじめた。

気がつくと、聞き手は20人あまりに増えていました。ひげもない若者の、本人の言葉で言えば「破れ英語」の話を、みんなが静かに聞いている。

しゃべり終えて、急に気恥ずかしくなった。これでは、ひとり舞台ぶたいで得意顔をしていたようなものだ。議論をゆずろうとして、こう言ったそうです。

「あなた方は、どうお考えになりますか。教えてください」

乗客たちの答えは、こうでした。私たちは自分の仕事に忙いそがしくて、魂たましいだの来世だのという話は、こんなひまなときでなければ聞けない。こういう話は面白いから、聞いておいて損はない。

そのあとに、稲造はこう書き添そえています。

「説教なら、口より耳が大切。説くより聞け」

同じ旅の途中とちゅう、汽車が駅に止まっていたときのことです。となりのホームの男が、稲造を見て呼びました。ジョン、ジョン。

アメリカで中国の人を見下して、そう呼ぶことがあるのは、聞いていた。知らん顔をしていたが、あまりにしつこいので相手をすると、男は、お前の弁髪べんぱつはどこへやった、と聞く。日本人だと答えると、男は言いました。

「日本というのは、どこだ。中国の一部か」

独立した国で、中国の東にある島国だ。そう説明すると、男はまた聞いた。

「中国から近い島国か。橋でもかかっているのか」

なるべく怒らおこらないようにして教えてやった、と稲造は書いています。日本という国を、一人にでも多く知らせたかったから、と。

すると男は汽車の中へ引っこみ、女の人を3人ほど連れてきた。そして稲造を指さして、物知り顔で説明したそうです。あの人は日本という国から来た。大学で経済学をやるそうだ。日本は中国の一部ではない。まるで見世物のようだった、と。

アメリカに来たばかりのころの話を、もう一つ。

同じ宿の日本人の友人が熱を出して寝込ねこみ、寝巻ねまきを一枚買ってきてくれ、と頼たのみました。稲造は近所の店に飛び込んで、言った。

「寝巻をくれ」

店の女の人は、けげんな顔で一枚出してきた。えりと袖口そでぐちに、レースが付いている。ほかのを何枚も出させたが、どれもレースが付いている。アメリカの寝巻は、みんなこうなのか。そう早合点して、一枚買って帰りました。

友人は、彼より3年早くアメリカに来ていた男でした。寝巻を見るなり、病気の苦しさも忘れて笑い出した。

「これは君、女の人の寝巻だよ。君はいったい、どこへ行って買ったんだ」

返しに行こうとすると、止められました。一度恥をかいて、返しに行けば、恥を二重にかくようなものだ、と。

困った稲造は、その寝巻を、2年ほど鞄かばんの底に隠かくしておいた。そのあいだに下宿のおばあさんと仲良くなり、ようやく、下宿で働く女の人にやってもらった、と本人は書いています。

1887年、稲造は、ドイツへの留学を命じられます。ボンの大学で、農業の経済を学ぶことになりました。

ヨーロッパにいるあいだに、彼は、本で読んでずっと尊敬していたベルギーの学者、ラヴレーに手紙を出しています。紹介状しょうかいじょうもなしに、会いたい、と。少し乱暴な書生のやり方だと、自分でも一度はためらったそうです。

数日で、返事が来ました。何月何日に、私の家へ来なさい。

天にも昇のぼる心地で、リエージュの町に着く。先生は娘むすめさんと一緒いっしょに、自分で戸を開けて迎むかえてくれた。それから1週間ほど、稲造はその家に泊とまりました。

ある日、二人で町を散歩しながら、話が日本の教育のことに移った。そのときのやり取りを、本人はこう書いています。

「日本の学校では、宗教の教育は何を授けるのですか」

「宗教などは教えません」

稲造は、平気で答えた。先生は、ひどく驚おどろいて、不思議そうな顔で問いただしました。

「それなら、学校では、倫理りんりの考えをどうやって教えるのです」

「倫理の科目は、別にございません」

先生は、歩いていた足を急に止めた。しばらく黙だまって立ちつくし、ひとりごとのように言った。

「道徳の教科なしに、国民を導く。どうやって、善悪の区別を覚えるのだろう」

自分に向けた問いではなかったので、答えなかった、という。

けれど、言われてみると、自分でも不思議になってきた。学校で倫理など習わなかった。それでも、善悪の区別なら、ヨーロッパの人に負けないくらいには知っている。それは、どこから来たのだろう。

日本の思想を外国に伝える仲人になりたい。そう言って海を渡わたった青年は、今度は自分のほうが、問いを抱かかえることになったのです。

その問いは、それから何年も、彼の頭から離はなれなくなります。

母の命日

ドイツのボンにいたころ、稲造いなぞうには、毎日の決まりごとがありました。

昼過ぎの3時ごろになると、必ず散歩に出て、「ミルク園」と呼ばれる所へ行く。牛が飼われ、木が茂しげって、日陰ひかげのある所です。昼寝ひるねをすませた子どもたちが、お母さんやお父さん、子守りに連れられて集まってきて、牛乳を飲んだり、木陰こかげで遊んだりしていた。

稲造はそこでコーヒーを飲みながら、子どもたちを眺ながめた。それが「ほとんど、ただ一つの楽しみであった」と、本人は書いています。

ある日、カトリックの尼僧にそうが、40人ほどの子どもを連れて通りかかりました。

孤児こじたちでした。

親に連れられて遊ぶ同じ年ごろの子を、さも恨うらめしそうに、こっちを見たり、あっちを振ふり向いたりしながら、通り過ぎていく。稲造は、気の毒に思った。俳人の一茶いっさの句が、思い浮うかんだそうです。

「おれと来て遊べよ親の無い雀すずめ」

その日は、ちょうど母の命日でした。

九つで東京へ出て、それきり会えないまま亡くした母です。

たまには慈善じぜんのまねごとでもしよう。そう思い立って、稲造は、牛乳屋のおばあさんに頼たのみました。

「どうだ、あの孤児たちに、チョコレートでもミルクでも、一杯いっぱいずつ飲ませてやってくれないか。勘定かんじょうは私がするが、そのことは尼さんあまさんには言わないでくれ」

尼僧は、こころよく受けた。子どもたちは、かたくるしい行列をくずして、腰こしかけたり、飛んだり跳はねたりしながら、めいめい好きなものを注文して、一杯ずつ飲んだ。

帰りぎわ、尼僧がおばあさんに、今日のごちそうはどなたにお礼を申し上げたらいいか、と尋たずねた。おばあさんが稲造のところへ来て、言ってもいいか、と聞く。

ほかにも客が大勢いて、なんだか間が悪い。前に頼んだとおり黙だまっていてくれ、と稲造は断りました。

すると尼僧は、子どもたちに、ごちそうしてくれた人が分からないから、みんなで讃美歌さんびかを歌ってお礼にしましょう、と言った。

40人ほどの子どもたちが、声をはりあげて歌いました。

今日は母の霊前れいぜんに、お線香と花の代わりに、異国の歌を捧ささげた。親孝行でもしたような気がした、と稲造は書いています。

勘定のときに、もう一つ、思いがけないことがありました。一杯5銭の決まりで、40人分なら2円のはずが、おばあさんは1円の勘定書を出したのです。私もふだんから、あの子たちに牛乳くらいやりたいと思っていた。でも、これが商売なので、思うようにはできない。せめて今日の分は、かかった分だけいただければ十分です、と。

下宿に帰って、母の写真を拝んだ。おばあさんも、母の供養に加わってくれたような気がしたそうです。

「孝行のしたい時分に親はなし」。この古い言葉には、限りない恨みと悔くいがこもっている。だから自分も、母の命日には、何か親不孝のつぐないをしたくなる。この話のすぐあとに、稲造はそう書いています。

次の年の命日、まだボンにいた稲造は、また同じようなことをしようとしました。

今度は、もっと上手に隠かくすつもりでした。下宿のおかみさんの自慢じまんの菓子かしを、大きいのを一つ作ってもらう。どこへ送るのかと聞かれても、明かせない、と言う。駅でぶらぶらしていた男を雇やとい、名前を書かない手紙を添そえて、町の孤児院こじいんへ届けさせた。

手紙には、こう書いたそうです。遠くからこの町に来ている者だが、今日は母の命日なので、その記念に、この菓子を母のない子どもたちに分けてやってほしい。

5週間ほどたったころ、下宿の前に住んでいた兄弟が、遊びに来ました。一度に両親を亡くして、孤児院に入った子どもたちです。

おかみさんが、久しぶりだからと例の自慢の菓子を出すと、二人は言った。この菓子、このあいだ食べたよ。

そんなはずはない。この菓子を作れるのは、うちの母さんだけだ、と下宿の子どもたち。いや、これと同じだった、と兄弟。いつ、どこで食べたのかを、おかみさんが問いただしていくと、5週間ほど前、と分かった。

そのとき稲造は、ちょうど留守でした。帰ってくるなり、入り口で子どもたちに笑われ、奥おくに入ると、おかみさんに言われたそうです。

「送り先を明かしてくだされば、私だって相応の心がけもありますのに。それに、子どもにやるのなら、工夫の凝こらしようもありましたのに。あなたがひとりで善いことをしようと思うから、いけません」

人に知られないようにする善い行いを、陰徳いんとくといいます。本人に言わせると、「僕ぼくの陰徳は、柄がらに合わないせいか、やり方に慣なれないせいか、すぐにばれた」。

なるほど、ひとりで善いことをしようと思うから、いけません。おかみさんの言葉をそのまま繰くり返して、稲造は、こう続けています。

なるほど、面白い。

ひとかけらの、亡ほろびないもの

先に恋こいを打ち明けたのは、彼女かのじょのほうだったそうです。

アメリカのある土地で稲造いなぞうが日本について講演したとき、聞きに来ていた一人が、メリー・エルキントンでした。その後、彼女のほうから恋を打ち明けたのだ、と教え子の河合栄治郎かわいえいじろうは書いています。

日本のことを外国に伝えたい。そう言って海を渡わたった青年の講演が、縁えんでした。

1891年1月、二人は結婚けっこんします。

翌月、稲造は日本に帰り、母校の札幌農学校さっぽろのうがっこうの教授になります。1894年には、札幌さっぽろの貧しい人たちが住む地区に、学校に通えない子どものための夜学校も開きました。

けれど、6年ほどで、体のほうが先に音を上げました。

1897年10月、稲造は、神経の病気で札幌農学校を辞めます。

その年の11月、鎌倉かまくらで静養しながら、ある本の序文に、彼かれはこう書いた。この夏から病気にかかり、研究はもちろん、書くことさえ医者に止められている。

それでも、仕事はやめなかった。そばで看病してくれた農学士の小谷武治こたにたけじに、病床びょうしょうで、毎日二、三十分ずつ話して、書き取ってもらったのです。

翌1898年7月、伊香保いかほで、稲造は書き上げた本『農業本論のうぎょうほんろん』の序文を書いています。

その中で、彼は、農業の学問を志したきっかけを振ふり返っている。1876年、天皇が東北を回ったとき、一家が切り開いた土地、三本木さんぼんぎで、長兄の家が仮のお宿にあてられた。祖父と父が水路を引いて荒あれ地を切り開いたことが、ほめたたえられた。

一家は感激して泣いた。三人の兄弟は、祖父の志を継つごうと、それぞれ心を決めた。長兄は水路に力を注ぎ、次兄は農学を学び、稲造も、一身を農業にささげようとした。

それなのに、思いもよらず、二人の兄は相次いで、自分を置いて逝いってしまった。そう書いたすぐあとに、この一文が来ます。

「ああ、人生の楽しみは、父母が無事であることより大きなものはなく、体が丈夫じょうぶであることより良いものはない」

父も母も、もういない。体も、思うようにならない。

けれど、同じ序文は、こう続きます。

「ただ、私には、ひとかけらの、光を失わずに亡びないものがある。どうして挫くじけようか」

この本を書いたのは、自分を慰なぐさめ、二人の兄の無念に報いるためだ。病床に横たわる日が多く、手もとに参考書も少なく、書くのも思うにまかせないので、誤りもあるだろう。読者はそのつもりで読んでほしい、とも書きました。

四百六十ページの本の初めには、短い献辞けんじがあります。亡き母の記念に、この書を捧ささげる。

九つで別れて、それきり会えなかった母でした。

そのあと、稲造は、静養のために、もう一度太平洋を渡りました。

そして1900年、アメリカで、英語の本を出します。病気の中で書いたものでした。題は『BUSHIDO』。武士道ぶしどうです。

あの散歩の日の、ラヴレー先生の問いへの答えでした。

学校で倫理りんりを教わらなくても、日本人は、どこで善悪を覚えるのか。何年も考えて、彼は自分なりの答えにたどりついた。昔から侍さむらいのあいだで、本で習うのではなく、心から心へ伝わってきた道徳がある。それに「武士道」と名をつけてみた、と本人は書いています。

その答えを、稲造は、問いをくれた人に話すことができませんでした。

先生が生きているうちに、これを話せなかったのは、今さら残念である。何年もたってから、彼は、そう書き残しています。

口先の不謹慎ふきんしんな僕ぼく

「こんなつまらない、滑稽こっけいな話を世に出すのは、ただでさえ威厳いげんのない身を、いっそう軽くする。いっそ、やめておけ」

1907年、稲造いなぞうの本の原稿げんこうを読んだ友人が、そうすすめたそうです。本人が、その本の序文に書いています。

このとき稲造は45歳さい。前の年から、東京の第一高等学校だいいちこうとうがっこう、いわゆる一高の校長をしていました。

本になったのは、あの失敗談の数々です。甲板かんぱんが終わらなかった夜。「橋でもかかっているのか」と聞かれた駅のホーム。2年間、鞄かばんの底に隠かくした寝巻ねまき。

7年前に外国から帰ってきたとき、家のお年寄りや子どもたちに、食卓しょくたくやこたつのまわりで話して聞かせた。それを書き取らせて、何年もしまいこんでいたのだそうです。

友人に止められても、稲造は出しました。その夏も数週間、病気で寝込ねこんでいた。それを好機会にして、枕まくらもとに速記者を呼び、話を足していったら、ちょうど百になった。題は『帰雁きがんの蘆あし』。

序文では、自分のことを「口先の不謹慎ふきんしんな僕ぼく」と呼んでいます。話して書き取らせたときには、乱暴な言葉や下品な言葉も使ったので、女の人が読んで困らないように、校正のときに少し直した、とも。

本の最後は、北へ帰る雁がんの話です。昔の中国の本によれば、雁は、射かけられる矢をよけるために、蘆をくわえて飛ぶのだそうです。

外国を行ったり来たりしながら、自分は何のみやげも持ち帰らなかった。そう恥はじたあとで、稲造は、こう結んでいます。

「僕も、重い荷を負って遠い道を行く途中とちゅう、つまらない流れ矢などに当たらないだけの用心に、身を守る蘆の一穂ひとほは、持って帰ったつもりだ」

身を守るものとしては、ずいぶん軽い一本でした。

流れ矢は、もう飛んできていました。

一高に着任してすぐ、学校の古い伝統から、かなり強い反発を受けた、と教え子の河合栄治郎かわいえいじろうは書いています。

河合によれば、不満を持った学生には、三つの組があった。昔からの伝統に立てこもる、運動部の学生。新渡戸にとべの考えは常識的すぎる、と不服な文芸部の学生。そして、これといった理由もなく、ただ「キザな人、好かない人」として嫌きらった学生です。

同じころ、東京帝国大学とうきょうていこくだいがくの農科大学の教授も兼かねることになった。けれど、教授たちの話し合いを通さずに上から決まったことだったので、そちらの教授たちがそろって反発した。稲造は、とうとう一度も講義をさせてもらえなかったと伝えられます。

それでも1910年、稲造は、一高での話をもとにした『ファウスト物語』という本を、一高の学生たちに捧ささげています。英語で書いた献辞けんじには、こうある。その友情は慰なぐさめのもとであり、その元気は私の心を新しくし、その誠実さは、わが国の未来への私の信頼しんらいを強めてくれた。

そして、自分の格好の悪さを、本の中で隠しませんでした。

1911年の『修養』は、心の鍛きたえ方を説いた本です。その序文で、彼かれは昔の「忘却ぼうきゃく先生」の話をしている。学問はあるのに、人の名前も年も忘れてしまい、世間から忘却先生と笑われた学者がいた。そのあとに、こう書いています。

「忘れるという一点では、残念ながら、僕はまったく先生に一歩も譲ゆずらないことを、白状せざるをえない」

翌1912年の本では、怒りいかりについて書いた。

怒りは、なくなったわけではありません。今でもけんかをすることはある、君子ではないから、と認めている。それどころか、ときどき、こう思うことさえある、と。

「自分はこんなに、いくじなしになって、いいのだろうか。もう少し怒らないと、悪くはないだろうか」

怒りを抑おさえるために、相手をばか者だと思うやり方も、一時ためしたそうです。ところが、だんだん傲慢ごうまんになって、人を見下すようになったので、やめた。

代わりにすすめたのは、相手が怒ったときに、こう言ってみることでした。

「許してくれ、おれが悪かった」

そして同じ文章の中で、17、8歳のころにつけていた、あの怒りの成績表が、今も手もとにある、と明かしたのです。

「今広げてみると、恥ずかしいような気もするが、また一里塚いちりづかを越こえたような思いもする」

一里塚つかは、昔の街道で、一里、つまり約4キロごとに道のりの目印として築いた塚のことです。

表をつけはじめてから、三十年あまりがたっていました。

向こう岸

アメリカには、二度と行かない。

稲造いなぞうは、そう言い張っていました。アメリカで、日本からの移民を締しめ出す法律ができたのです。その法律が行われているあいだは行かない。大学などから10回ほど招かれても断り続けた、と本人はのちに語っています。

そのころ彼かれは、スイスのジュネーヴにいました。1920年から6年あまり、国際連盟の事務局で事務次長として働いた。教え子の河合栄治郎かわいえいじろうは、博士はジュネーヴの名士であった、と書いています。

1931年に満洲まんしゅう事変が起きてから、アメリカの人々が日本を見る目は、ひどく悪くなっていきました。満洲は中国の東北部。そこで日本の軍が起こした事件です。

弟子の矢内原忠雄やないはらただおは、のちに追悼ついとうの文にこう書いています。先生のいわゆる「太平洋の橋」は、移民法という向こう側からの一撃いちげきに、今度はこちら側からの打撃だげきが加わって、崩くずれかけているように見えた。

その翌年、1932年の2月。稲造が松山まつやまで話したことが、問題になります。

何と言ったのか。矢内原は、追悼の文の中で、言葉そのものを書いていません。「口禍こうか事件」── 口がもとのわざわい、とだけ呼んでいます。

ただ矢内原は、この事件こそ、新渡戸にとべが満洲事変をすべてよしとしていたわけではない証拠しょうこだ、と書いた。そして、この件で新渡戸は脅おどしを受けた、とも。

同じ2月から3月にかけては、政治家や財界の人が次々に殺される血盟団けつめいだん事件も起きていました。そのころ、新渡戸の家には警官の詰つめ所が置かれ、出かけるときには護衛がついた、と記念会の年譜ねんぷにあります。

2か月後の4月、稲造は、アメリカへ向かいました。自分で立てた誓ちかいを、自分で破ったのです。

このままではアメリカの対日感情がどうなるか心配だ、という友人たちに頼たのまれたのだ、と本人は語っています。政府の側にも同じ心配があったようだ、とも。個人で行くには、自分のお金が足りない。友人たちは、金のことは心配ないから、とにかく行け、としきりにすすめた。

昔の同級生や、知り合いのアメリカ人を訪ねて話せば、その人たちが周りに伝えてくれる。こういう話になった、と本人は語っています。

「そのほうが、私自身のブロークン・イングリッシュなどで直接話すよりは、効き目があるだろう」

五十年近く前、汽車の中で「破れ英語」の哲学てつがくを聞いてもらった青年は、英語で『武士道ぶしどう』を書いたあとも、自分の英語をそう呼んでいました。

半年の予定の旅でした。帰りがけのカリフォルニアで、大学の総長たちに引き止められます。アメリカの対日世論はカリフォルニアで決まる。ここに踏ふみとどまって話してくれ、と。

ただし、と彼らは言いました。あなたが個人で、あるいは日本の領事館の力を借りて話せば、すぐにこう疑われる。

「日本政府の雇やとい人だとか、ひどいのになると、軍部からの使いの者だとか」

そこで、大学が主催しゅさいする形で話すことになりました。すると今度は、中国の領事が、なぜ日本ばかり厚く扱あつかって中国を薄うすくするのか、と二、三度、大学に抗議こうぎに来たそうです。

そこで立会人に選ばれたのが、サンフランシスコの新聞記者、チェスター・ローウェルでした。中国に深く同情していて、日本が兵の力で中国に当たることには反対している人です。稲造が話すときには、必ずこの人が、飛行機でサンフランシスコからやってきました。

ローウェルは先に立ち、中国の古い文化をほめ、そのうえで、中国はいま混乱している、と話す。後から立つ自分には、それが「たいへん都合がいい」と、稲造は帰国後に語っています。そして聴衆ちょうしゅうに、こう話すのです。

「中国は今、ローウェル氏が言ったように混沌こんとんとした有様である。これが何よりの災いのもとである。あなた方は、メキシコ、ハバナ、キューバ、ハイチといった所が混乱に陥おちいったとき、すぐに軍隊を送ったではありませんか」

こう話せば、なるほど、とうなずく人もかなりいた、と本人は語っています。

日本が中国へ兵を送った理由を、彼は、アメリカ人に向かって、そう説明したのでした。

この旅を、批判する人がいました。新渡戸博士がアメリカに渡って、日本の満洲政策を弁護して歩いたのは、平和を説いてきた人として「晩節を汚けがした」ものだ。ひどいものになると、博士は日本の軍部の求めと妥協だきょうしたのだ、とまで言われた、と矢内原は書いています。

日本では、松山での言葉のために脅される。アメリカでは、軍部の使いではないかと疑われる。そして、その旅のことで、平和の人の晩節を汚した、と言われる。

1933年3月、稲造は、メリーをアメリカに残して日本へ帰りました。同じ月、日本は、国際連盟から抜ぬけることを通告しています。かつて彼が、6年あまり働いた場所でした。

翌月、稲造は、東京帝国大学とうきょうていこくだいがくの経済学部の会で講演しました。河合が頼んだ、二度目の講演です。

一度目は、それより何年か前のことでした。そのとき、紹介しょうかいに立った河合が言いました。博士の中では、宗教と哲学と科学という、ふつうは調和しにくい三つが、「渾然こんぜんとして」調和している。

すると、壇だんに立った稲造は、いつものように冗談じょうだんを交えて言ったそうです。

「自分は頭が悪いので、『混然として』いる」

どちらも「こんぜん」と読みます。片方は、見事にとけ合っていること。もう片方は、ごちゃまぜになっていること。聴衆は笑った、と河合は書いています。

河合の覚えている晩年の稲造は、70歳さいを越こえていたのに、かくしゃくとして、声がよく通ったそうです。

その年の8月、稲造は、カナダのバンフで開かれた太平洋会議に出ました。そのあと、カナダのビクトリアの病院に入ります。

病が重くなったころ、谷川の水のせせらぎが聞きたい、ともらしたそうです。

メリーと看護婦たちは苦心して、ゴムの管を使い、トタンの板か何かに水を落として、その音を聞かせたといいます。

夫人のほかには、見舞みまう知り合いも、ほとんどいなかったそうです。

1933年10月の半ば、稲造は、その病院で亡くなりました。71歳でした。

「太平洋の橋になりたいと思います」

五十年前、笑いながらそう言って、何のことです、と聞き返された青年がいました。

その人が息を引き取ったのは、太平洋の、日本とは反対の岸でした。