新渡戸稲造 — 威厳のない人
「太平洋の橋になりたい」と言って聞き返され、失敗談を本にしようとして、ただでさえ威厳のない身をいっそう軽くする、と友人に止められた。『武士道』の著者の、重々しくなれない一生
何のことです
「太平洋の橋になりたいと思います」
笑いながら、青年はそう答えました。英文学を学んで何をするのか、と聞かれたのです。
聞いたのは、東京大学の外山正一という先生でした。返ってきたのは、軽い、少し冷ややかな調子の言葉だった、と本人はのちに書いています。
「何のことだか、私には分からない。何のことです」
青年は、しかたなく説明しました。
「日本の思想を外国に伝え、外国の思想を日本に広める、仲人になりたいのです」
1883年ごろの、大学に入るための面談でした。
この青年が、新渡戸稲造です。のちに英語で『武士道』を書き、国際連盟で働くことになる人。このときは二十歳を過ぎたばかりで、北海道の札幌農学校を出たあと、東京で学び直そうとしていました。
生まれは1862年、盛岡。南部藩の武士の家の、三男です。父は、稲造が幼いうちに亡くなりました。
1871年、叔父の養子になって、東京へ出る。九つのときだった、と本人は振り返っています。
それきり、母とは会えませんでした。1880年、母は亡くなります。そのとき稲造は、札幌の学生でした。
そのころの東京では、外国の土を少しでも踏んだ人は、道を歩けば指をさされ、あれが誰それだ、とうわさされた。だから、ぼくら少年のいちばんの目標は、一度洋行して、あとで参議になることだった、と本人の本にある。洋行は外国へ行くこと、参議は国の政治を動かす高い役目です。
ただ、外国へ出るには、お金がいる。お金もなしに力んでも、相撲取りがひとりで足踏みしているのと変わらない、とも。
そのころの彼について、本人がのちに白状していることがあります。
「僕は幼少のころ、非常に短気であった。人とけんかをした、悪口をした、殴りもした」
どうにかして直したい、と思ったそうです。17、8歳のころ、彼は毎晩、寝る前に、その日のことを考えた。今日はどんなふうに怒ったか。何度、怒りに負けたか。それを、表にしていたのです。
怒りの成績表です。
その表を、彼は捨てませんでした。
東京大学の面談に来たころには、参議になる話は、もうあきらめていたそうです。面談のあと、外山先生は、笑いながら橋の話をした青年を、親身に指導してくれたそうです。
そのころ、アメリカにいる友人が、一冊の本を送ってくれました。ヘンリー・ジョージの『進歩と貧窮』。読みはじめると面白くて、手放せない。大学の講義を聞くときも懐に入れて、あいまに読んでいた。
ある日、外山先生が、授業の時間より少し早く教室に入ってきました。稲造はちょうど、ひとり隅に座って、その本を読んでいるところでした。
「何を読んでいますか」
「この本です」
「これは有名な本だが、まだ日本に来ていない。私もまだ見ていない。あなた、その大意を書いて、学芸雑誌に出してくれませんか」
先生は、しきりにすすめました。
けれど稲造は、別のことに気づいていた。この本は、出てから何年もたっている。ヨーロッパの国々の言葉に訳された、と広告にも出ている。それなのに、日本でただ一つの大学に、まだ届いていない。
日本の学問は、少なくとも8年遅れている。こんな所で学んで、いちばん上まで行けたとしても、鳥のいない里で威張るこうもりにすぎない。そう考えた、と本人は書いています。
広い世界に出なければ。
ひとりで踏んでいた、むだな足踏みが、ここで旅の支度に変わる。腹が決まれば、かかとにも翼が生える。彼は、そんな言い方で、このときの気持ちを書き残しています。
1884年9月。稲造は東京大学をやめ、国のお金ではなく、私費でアメリカへ向かいました。
太平洋の橋になりたいと言った青年が、その太平洋を渡るのは、これが初めてでした。
女物の寝巻
サンフランシスコに着いたのは、夜中でした。
夜が明けるまでは、上陸できない。船は錨を下ろし、客はそれぞれの部屋で眠りました。
稲造は、待てなかった。一刻も早く、新しい大陸を見たい。夜中なのに部屋を飛び出し、前から大事にしてきたゲーテの小説の一節を繰り返しながら、甲板に上がったといいます。
「ここぞアメリカ。ここよりほかに、アメリカはない」
陸を見ようと、甲板を歩き回る。ところが、その夜に限って、甲板がやけに広い。千トンあまりの、小さな船です。いくら歩いても、甲板が終わらない。
変だな、と思いながら歩いていくと、急に大きな鉄の門に突き当たりました。
税関でした。
「お前、どこへ行く」
声をかけられて、ようやく気がついた。船は岸に横づけされていて、彼は薄暗い中、いつのまにか上陸していたのです。船が着けば小舟で陸に上がるものだと、日本のやり方で思い込んでいた。恥ずかしいことだが、と本人は書いています。
アメリカでの、最初の一歩でした。
東部の大学へは、汽車でほぼ一週間。ある夕方、退屈した5、6人が車両の隅に集まるうちに、話が宗教に、さらに神はいるのかいないのかに及んだ。稲造は、札幌や東京で読みかじったスペンサーの哲学を、知ったふうに振り回して、論じはじめた。
気がつくと、聞き手は20人あまりに増えていました。ひげもない若者の、本人の言葉で言えば「破れ英語」の話を、みんなが静かに聞いている。
しゃべり終えて、急に気恥ずかしくなった。これでは、ひとり舞台で得意顔をしていたようなものだ。議論をゆずろうとして、こう言ったそうです。
「あなた方は、どうお考えになりますか。教えてください」
乗客たちの答えは、こうでした。私たちは自分の仕事に忙しくて、魂だの来世だのという話は、こんなひまなときでなければ聞けない。こういう話は面白いから、聞いておいて損はない。
そのあとに、稲造はこう書き添えています。
「説教なら、口より耳が大切。説くより聞け」
同じ旅の途中、汽車が駅に止まっていたときのことです。となりのホームの男が、稲造を見て呼びました。ジョン、ジョン。
アメリカで中国の人を見下して、そう呼ぶことがあるのは、聞いていた。知らん顔をしていたが、あまりにしつこいので相手をすると、男は、お前の弁髪はどこへやった、と聞く。日本人だと答えると、男は言いました。
「日本というのは、どこだ。中国の一部か」
独立した国で、中国の東にある島国だ。そう説明すると、男はまた聞いた。
「中国から近い島国か。橋でもかかっているのか」
なるべく怒らないようにして教えてやった、と稲造は書いています。日本という国を、一人にでも多く知らせたかったから、と。
すると男は汽車の中へ引っこみ、女の人を3人ほど連れてきた。そして稲造を指さして、物知り顔で説明したそうです。あの人は日本という国から来た。大学で経済学をやるそうだ。日本は中国の一部ではない。まるで見世物のようだった、と。
アメリカに来たばかりのころの話を、もう一つ。
同じ宿の日本人の友人が熱を出して寝込み、寝巻を一枚買ってきてくれ、と頼みました。稲造は近所の店に飛び込んで、言った。
「寝巻をくれ」
店の女の人は、けげんな顔で一枚出してきた。えりと袖口に、レースが付いている。ほかのを何枚も出させたが、どれもレースが付いている。アメリカの寝巻は、みんなこうなのか。そう早合点して、一枚買って帰りました。
友人は、彼より3年早くアメリカに来ていた男でした。寝巻を見るなり、病気の苦しさも忘れて笑い出した。
「これは君、女の人の寝巻だよ。君はいったい、どこへ行って買ったんだ」
返しに行こうとすると、止められました。一度恥をかいて、返しに行けば、恥を二重にかくようなものだ、と。
困った稲造は、その寝巻を、2年ほど鞄の底に隠しておいた。そのあいだに下宿のおばあさんと仲良くなり、ようやく、下宿で働く女の人にやってもらった、と本人は書いています。
1887年、稲造は、ドイツへの留学を命じられます。ボンの大学で、農業の経済を学ぶことになりました。
ヨーロッパにいるあいだに、彼は、本で読んでずっと尊敬していたベルギーの学者、ラヴレーに手紙を出しています。紹介状もなしに、会いたい、と。少し乱暴な書生のやり方だと、自分でも一度はためらったそうです。
数日で、返事が来ました。何月何日に、私の家へ来なさい。
天にも昇る心地で、リエージュの町に着く。先生は娘さんと一緒に、自分で戸を開けて迎えてくれた。それから1週間ほど、稲造はその家に泊まりました。
ある日、二人で町を散歩しながら、話が日本の教育のことに移った。そのときのやり取りを、本人はこう書いています。
「日本の学校では、宗教の教育は何を授けるのですか」
「宗教などは教えません」
稲造は、平気で答えた。先生は、ひどく驚いて、不思議そうな顔で問いただしました。
「それなら、学校では、倫理の考えをどうやって教えるのです」
「倫理の科目は、別にございません」
先生は、歩いていた足を急に止めた。しばらく黙って立ちつくし、ひとりごとのように言った。
「道徳の教科なしに、国民を導く。どうやって、善悪の区別を覚えるのだろう」
自分に向けた問いではなかったので、答えなかった、という。
けれど、言われてみると、自分でも不思議になってきた。学校で倫理など習わなかった。それでも、善悪の区別なら、ヨーロッパの人に負けないくらいには知っている。それは、どこから来たのだろう。
日本の思想を外国に伝える仲人になりたい。そう言って海を渡った青年は、今度は自分のほうが、問いを抱えることになったのです。
その問いは、それから何年も、彼の頭から離れなくなります。
母の命日
ドイツのボンにいたころ、稲造には、毎日の決まりごとがありました。
昼過ぎの3時ごろになると、必ず散歩に出て、「ミルク園」と呼ばれる所へ行く。牛が飼われ、木が茂って、日陰のある所です。昼寝をすませた子どもたちが、お母さんやお父さん、子守りに連れられて集まってきて、牛乳を飲んだり、木陰で遊んだりしていた。
稲造はそこでコーヒーを飲みながら、子どもたちを眺めた。それが「ほとんど、ただ一つの楽しみであった」と、本人は書いています。
ある日、カトリックの尼僧が、40人ほどの子どもを連れて通りかかりました。
孤児たちでした。
親に連れられて遊ぶ同じ年ごろの子を、さも恨めしそうに、こっちを見たり、あっちを振り向いたりしながら、通り過ぎていく。稲造は、気の毒に思った。俳人の一茶の句が、思い浮かんだそうです。
「おれと来て遊べよ親の無い雀」
その日は、ちょうど母の命日でした。
九つで東京へ出て、それきり会えないまま亡くした母です。
たまには慈善のまねごとでもしよう。そう思い立って、稲造は、牛乳屋のおばあさんに頼みました。
「どうだ、あの孤児たちに、チョコレートでもミルクでも、一杯ずつ飲ませてやってくれないか。勘定は私がするが、そのことは尼さんには言わないでくれ」
尼僧は、こころよく受けた。子どもたちは、かたくるしい行列をくずして、腰かけたり、飛んだり跳ねたりしながら、めいめい好きなものを注文して、一杯ずつ飲んだ。
帰りぎわ、尼僧がおばあさんに、今日のごちそうはどなたにお礼を申し上げたらいいか、と尋ねた。おばあさんが稲造のところへ来て、言ってもいいか、と聞く。
ほかにも客が大勢いて、なんだか間が悪い。前に頼んだとおり黙っていてくれ、と稲造は断りました。
すると尼僧は、子どもたちに、ごちそうしてくれた人が分からないから、みんなで讃美歌を歌ってお礼にしましょう、と言った。
40人ほどの子どもたちが、声をはりあげて歌いました。
今日は母の霊前に、お線香と花の代わりに、異国の歌を捧げた。親孝行でもしたような気がした、と稲造は書いています。
勘定のときに、もう一つ、思いがけないことがありました。一杯5銭の決まりで、40人分なら2円のはずが、おばあさんは1円の勘定書を出したのです。私もふだんから、あの子たちに牛乳くらいやりたいと思っていた。でも、これが商売なので、思うようにはできない。せめて今日の分は、かかった分だけいただければ十分です、と。
下宿に帰って、母の写真を拝んだ。おばあさんも、母の供養に加わってくれたような気がしたそうです。
「孝行のしたい時分に親はなし」。この古い言葉には、限りない恨みと悔いがこもっている。だから自分も、母の命日には、何か親不孝のつぐないをしたくなる。この話のすぐあとに、稲造はそう書いています。
次の年の命日、まだボンにいた稲造は、また同じようなことをしようとしました。
今度は、もっと上手に隠すつもりでした。下宿のおかみさんの自慢の菓子を、大きいのを一つ作ってもらう。どこへ送るのかと聞かれても、明かせない、と言う。駅でぶらぶらしていた男を雇い、名前を書かない手紙を添えて、町の孤児院へ届けさせた。
手紙には、こう書いたそうです。遠くからこの町に来ている者だが、今日は母の命日なので、その記念に、この菓子を母のない子どもたちに分けてやってほしい。
5週間ほどたったころ、下宿の前に住んでいた兄弟が、遊びに来ました。一度に両親を亡くして、孤児院に入った子どもたちです。
おかみさんが、久しぶりだからと例の自慢の菓子を出すと、二人は言った。この菓子、このあいだ食べたよ。
そんなはずはない。この菓子を作れるのは、うちの母さんだけだ、と下宿の子どもたち。いや、これと同じだった、と兄弟。いつ、どこで食べたのかを、おかみさんが問いただしていくと、5週間ほど前、と分かった。
そのとき稲造は、ちょうど留守でした。帰ってくるなり、入り口で子どもたちに笑われ、奥に入ると、おかみさんに言われたそうです。
「送り先を明かしてくだされば、私だって相応の心がけもありますのに。それに、子どもにやるのなら、工夫の凝らしようもありましたのに。あなたがひとりで善いことをしようと思うから、いけません」
人に知られないようにする善い行いを、陰徳といいます。本人に言わせると、「僕の陰徳は、柄に合わないせいか、やり方に慣れないせいか、すぐにばれた」。
なるほど、ひとりで善いことをしようと思うから、いけません。おかみさんの言葉をそのまま繰り返して、稲造は、こう続けています。
なるほど、面白い。
ひとかけらの、亡びないもの
先に恋を打ち明けたのは、彼女のほうだったそうです。
アメリカのある土地で稲造が日本について講演したとき、聞きに来ていた一人が、メリー・エルキントンでした。その後、彼女のほうから恋を打ち明けたのだ、と教え子の河合栄治郎は書いています。
日本のことを外国に伝えたい。そう言って海を渡った青年の講演が、縁でした。
1891年1月、二人は結婚します。
翌月、稲造は日本に帰り、母校の札幌農学校の教授になります。1894年には、札幌の貧しい人たちが住む地区に、学校に通えない子どものための夜学校も開きました。
けれど、6年ほどで、体のほうが先に音を上げました。
1897年10月、稲造は、神経の病気で札幌農学校を辞めます。
その年の11月、鎌倉で静養しながら、ある本の序文に、彼はこう書いた。この夏から病気にかかり、研究はもちろん、書くことさえ医者に止められている。
それでも、仕事はやめなかった。そばで看病してくれた農学士の小谷武治に、病床で、毎日二、三十分ずつ話して、書き取ってもらったのです。
翌1898年7月、伊香保で、稲造は書き上げた本『農業本論』の序文を書いています。
その中で、彼は、農業の学問を志したきっかけを振り返っている。1876年、天皇が東北を回ったとき、一家が切り開いた土地、三本木で、長兄の家が仮のお宿にあてられた。祖父と父が水路を引いて荒れ地を切り開いたことが、ほめたたえられた。
一家は感激して泣いた。三人の兄弟は、祖父の志を継ごうと、それぞれ心を決めた。長兄は水路に力を注ぎ、次兄は農学を学び、稲造も、一身を農業にささげようとした。
それなのに、思いもよらず、二人の兄は相次いで、自分を置いて逝ってしまった。そう書いたすぐあとに、この一文が来ます。
「ああ、人生の楽しみは、父母が無事であることより大きなものはなく、体が丈夫であることより良いものはない」
父も母も、もういない。体も、思うようにならない。
けれど、同じ序文は、こう続きます。
「ただ、私には、ひとかけらの、光を失わずに亡びないものがある。どうして挫けようか」
この本を書いたのは、自分を慰め、二人の兄の無念に報いるためだ。病床に横たわる日が多く、手もとに参考書も少なく、書くのも思うにまかせないので、誤りもあるだろう。読者はそのつもりで読んでほしい、とも書きました。
四百六十ページの本の初めには、短い献辞があります。亡き母の記念に、この書を捧げる。
九つで別れて、それきり会えなかった母でした。
そのあと、稲造は、静養のために、もう一度太平洋を渡りました。
そして1900年、アメリカで、英語の本を出します。病気の中で書いたものでした。題は『BUSHIDO』。武士道です。
あの散歩の日の、ラヴレー先生の問いへの答えでした。
学校で倫理を教わらなくても、日本人は、どこで善悪を覚えるのか。何年も考えて、彼は自分なりの答えにたどりついた。昔から侍のあいだで、本で習うのではなく、心から心へ伝わってきた道徳がある。それに「武士道」と名をつけてみた、と本人は書いています。
その答えを、稲造は、問いをくれた人に話すことができませんでした。
先生が生きているうちに、これを話せなかったのは、今さら残念である。何年もたってから、彼は、そう書き残しています。
口先の不謹慎な僕
「こんなつまらない、滑稽な話を世に出すのは、ただでさえ威厳のない身を、いっそう軽くする。いっそ、やめておけ」
1907年、稲造の本の原稿を読んだ友人が、そうすすめたそうです。本人が、その本の序文に書いています。
このとき稲造は45歳。前の年から、東京の第一高等学校、いわゆる一高の校長をしていました。
本になったのは、あの失敗談の数々です。甲板が終わらなかった夜。「橋でもかかっているのか」と聞かれた駅のホーム。2年間、鞄の底に隠した寝巻。
7年前に外国から帰ってきたとき、家のお年寄りや子どもたちに、食卓やこたつのまわりで話して聞かせた。それを書き取らせて、何年もしまいこんでいたのだそうです。
友人に止められても、稲造は出しました。その夏も数週間、病気で寝込んでいた。それを好機会にして、枕もとに速記者を呼び、話を足していったら、ちょうど百になった。題は『帰雁の蘆』。
序文では、自分のことを「口先の不謹慎な僕」と呼んでいます。話して書き取らせたときには、乱暴な言葉や下品な言葉も使ったので、女の人が読んで困らないように、校正のときに少し直した、とも。
本の最後は、北へ帰る雁の話です。昔の中国の本によれば、雁は、射かけられる矢をよけるために、蘆をくわえて飛ぶのだそうです。
外国を行ったり来たりしながら、自分は何のみやげも持ち帰らなかった。そう恥じたあとで、稲造は、こう結んでいます。
「僕も、重い荷を負って遠い道を行く途中、つまらない流れ矢などに当たらないだけの用心に、身を守る蘆の一穂は、持って帰ったつもりだ」
身を守るものとしては、ずいぶん軽い一本でした。
流れ矢は、もう飛んできていました。
一高に着任してすぐ、学校の古い伝統から、かなり強い反発を受けた、と教え子の河合栄治郎は書いています。
河合によれば、不満を持った学生には、三つの組があった。昔からの伝統に立てこもる、運動部の学生。新渡戸の考えは常識的すぎる、と不服な文芸部の学生。そして、これといった理由もなく、ただ「キザな人、好かない人」として嫌った学生です。
同じころ、東京帝国大学の農科大学の教授も兼ねることになった。けれど、教授たちの話し合いを通さずに上から決まったことだったので、そちらの教授たちがそろって反発した。稲造は、とうとう一度も講義をさせてもらえなかったと伝えられます。
それでも1910年、稲造は、一高での話をもとにした『ファウスト物語』という本を、一高の学生たちに捧げています。英語で書いた献辞には、こうある。その友情は慰めのもとであり、その元気は私の心を新しくし、その誠実さは、わが国の未来への私の信頼を強めてくれた。
そして、自分の格好の悪さを、本の中で隠しませんでした。
1911年の『修養』は、心の鍛え方を説いた本です。その序文で、彼は昔の「忘却先生」の話をしている。学問はあるのに、人の名前も年も忘れてしまい、世間から忘却先生と笑われた学者がいた。そのあとに、こう書いています。
「忘れるという一点では、残念ながら、僕はまったく先生に一歩も譲らないことを、白状せざるをえない」
翌1912年の本では、怒りについて書いた。
怒りは、なくなったわけではありません。今でもけんかをすることはある、君子ではないから、と認めている。それどころか、ときどき、こう思うことさえある、と。
「自分はこんなに、いくじなしになって、いいのだろうか。もう少し怒らないと、悪くはないだろうか」
怒りを抑えるために、相手をばか者だと思うやり方も、一時ためしたそうです。ところが、だんだん傲慢になって、人を見下すようになったので、やめた。
代わりにすすめたのは、相手が怒ったときに、こう言ってみることでした。
「許してくれ、おれが悪かった」
そして同じ文章の中で、17、8歳のころにつけていた、あの怒りの成績表が、今も手もとにある、と明かしたのです。
「今広げてみると、恥ずかしいような気もするが、また一里塚を越えたような思いもする」
一里塚は、昔の街道で、一里、つまり約4キロごとに道のりの目印として築いた塚のことです。
表をつけはじめてから、三十年あまりがたっていました。
向こう岸
アメリカには、二度と行かない。
稲造は、そう言い張っていました。アメリカで、日本からの移民を締め出す法律ができたのです。その法律が行われているあいだは行かない。大学などから10回ほど招かれても断り続けた、と本人はのちに語っています。
そのころ彼は、スイスのジュネーヴにいました。1920年から6年あまり、国際連盟の事務局で事務次長として働いた。教え子の河合栄治郎は、博士はジュネーヴの名士であった、と書いています。
1931年に満洲事変が起きてから、アメリカの人々が日本を見る目は、ひどく悪くなっていきました。満洲は中国の東北部。そこで日本の軍が起こした事件です。
弟子の矢内原忠雄は、のちに追悼の文にこう書いています。先生のいわゆる「太平洋の橋」は、移民法という向こう側からの一撃に、今度はこちら側からの打撃が加わって、崩れかけているように見えた。
その翌年、1932年の2月。稲造が松山で話したことが、問題になります。
何と言ったのか。矢内原は、追悼の文の中で、言葉そのものを書いていません。「口禍事件」── 口がもとのわざわい、とだけ呼んでいます。
ただ矢内原は、この事件こそ、新渡戸が満洲事変をすべてよしとしていたわけではない証拠だ、と書いた。そして、この件で新渡戸は脅しを受けた、とも。
同じ2月から3月にかけては、政治家や財界の人が次々に殺される血盟団事件も起きていました。そのころ、新渡戸の家には警官の詰め所が置かれ、出かけるときには護衛がついた、と記念会の年譜にあります。
2か月後の4月、稲造は、アメリカへ向かいました。自分で立てた誓いを、自分で破ったのです。
このままではアメリカの対日感情がどうなるか心配だ、という友人たちに頼まれたのだ、と本人は語っています。政府の側にも同じ心配があったようだ、とも。個人で行くには、自分のお金が足りない。友人たちは、金のことは心配ないから、とにかく行け、としきりにすすめた。
昔の同級生や、知り合いのアメリカ人を訪ねて話せば、その人たちが周りに伝えてくれる。こういう話になった、と本人は語っています。
「そのほうが、私自身のブロークン・イングリッシュなどで直接話すよりは、効き目があるだろう」
五十年近く前、汽車の中で「破れ英語」の哲学を聞いてもらった青年は、英語で『武士道』を書いたあとも、自分の英語をそう呼んでいました。
半年の予定の旅でした。帰りがけのカリフォルニアで、大学の総長たちに引き止められます。アメリカの対日世論はカリフォルニアで決まる。ここに踏みとどまって話してくれ、と。
ただし、と彼らは言いました。あなたが個人で、あるいは日本の領事館の力を借りて話せば、すぐにこう疑われる。
「日本政府の雇い人だとか、ひどいのになると、軍部からの使いの者だとか」
そこで、大学が主催する形で話すことになりました。すると今度は、中国の領事が、なぜ日本ばかり厚く扱って中国を薄くするのか、と二、三度、大学に抗議に来たそうです。
そこで立会人に選ばれたのが、サンフランシスコの新聞記者、チェスター・ローウェルでした。中国に深く同情していて、日本が兵の力で中国に当たることには反対している人です。稲造が話すときには、必ずこの人が、飛行機でサンフランシスコからやってきました。
ローウェルは先に立ち、中国の古い文化をほめ、そのうえで、中国はいま混乱している、と話す。後から立つ自分には、それが「たいへん都合がいい」と、稲造は帰国後に語っています。そして聴衆に、こう話すのです。
「中国は今、ローウェル氏が言ったように混沌とした有様である。これが何よりの災いのもとである。あなた方は、メキシコ、ハバナ、キューバ、ハイチといった所が混乱に陥ったとき、すぐに軍隊を送ったではありませんか」
こう話せば、なるほど、とうなずく人もかなりいた、と本人は語っています。
日本が中国へ兵を送った理由を、彼は、アメリカ人に向かって、そう説明したのでした。
この旅を、批判する人がいました。新渡戸博士がアメリカに渡って、日本の満洲政策を弁護して歩いたのは、平和を説いてきた人として「晩節を汚した」ものだ。ひどいものになると、博士は日本の軍部の求めと妥協したのだ、とまで言われた、と矢内原は書いています。
日本では、松山での言葉のために脅される。アメリカでは、軍部の使いではないかと疑われる。そして、その旅のことで、平和の人の晩節を汚した、と言われる。
1933年3月、稲造は、メリーをアメリカに残して日本へ帰りました。同じ月、日本は、国際連盟から抜けることを通告しています。かつて彼が、6年あまり働いた場所でした。
翌月、稲造は、東京帝国大学の経済学部の会で講演しました。河合が頼んだ、二度目の講演です。
一度目は、それより何年か前のことでした。そのとき、紹介に立った河合が言いました。博士の中では、宗教と哲学と科学という、ふつうは調和しにくい三つが、「渾然として」調和している。
すると、壇に立った稲造は、いつものように冗談を交えて言ったそうです。
「自分は頭が悪いので、『混然として』いる」
どちらも「こんぜん」と読みます。片方は、見事にとけ合っていること。もう片方は、ごちゃまぜになっていること。聴衆は笑った、と河合は書いています。
河合の覚えている晩年の稲造は、70歳を越えていたのに、かくしゃくとして、声がよく通ったそうです。
その年の8月、稲造は、カナダのバンフで開かれた太平洋会議に出ました。そのあと、カナダのビクトリアの病院に入ります。
病が重くなったころ、谷川の水のせせらぎが聞きたい、ともらしたそうです。
メリーと看護婦たちは苦心して、ゴムの管を使い、トタンの板か何かに水を落として、その音を聞かせたといいます。
夫人のほかには、見舞う知り合いも、ほとんどいなかったそうです。
1933年10月の半ば、稲造は、その病院で亡くなりました。71歳でした。
「太平洋の橋になりたいと思います」
五十年前、笑いながらそう言って、何のことです、と聞き返された青年がいました。
その人が息を引き取ったのは、太平洋の、日本とは反対の岸でした。