曹操 — 見習うな、と書いた人

「私はどういう人間か」と人に聞いたと伝えられ、最後は自分で答えを書きました。三国志の曹操そうそうの、怒りと涙の多い一生

私は、どういう人間か

「私は、どういう人間か」

若い男にそう聞かれて、相手は答えなかったといいます。

男はしつこく聞き直しました。相手はようやく口を開きます。

「あなたは、治まった世なら有能な家臣。乱れた世なら、姦雄かんゆうだ」

姦雄とは、悪知恵わるぢえにたけた英雄えいゆうのこと。ほめ言葉にも悪口にも聞こえます。

それを聞いた男は大笑いしたと伝えられています。四世紀の歴史家、孫盛そんせいが書き留めた話です。答えたのは、人物の評価で名高い許劭きょしょうという人でした。別の歴史書では答えの言葉も、答えるまでのいきさつも違ちがっています。

笑った男の名は、曹操そうそう。のちに中国の北半分を治め、千年以上たった今も物語の中で「悪役」を演じ続けている人です。

二世紀の中国。後漢ごかんという王朝の終わりごろ、155年に曹操は沛国はいこくの譙しょうという町で生まれたとされます。

祖父の曹騰そうとうは宮廷きゅうていで皇帝こうていの身の回りに仕える宦官かんがんでした。宦官は子を持てません。父の曹嵩そうすうはその養子です。父がどこの家に生まれたのか、陳寿ちんじゅの歴史書『三国志さんごくし』は「詳くわしく知ることができない」とだけ書いています。

その『三国志』によれば、少年の曹操は機転がきき、はかりごとが得意でした。けれど男気をきどって遊びまわり、行いを改めようとはしませんでした。世の人は彼かれを特別な子とは見ていなかったといいます。

敵方の呉ごの人が書いたとされる『曹瞞伝そうまんでん』には、こんな話があります。

遊んでばかりの曹操のことを叔父おじがたびたび父に告げ口しました。困った曹操は道で叔父に会うと、わざと顔をゆがめ、口を曲げてみせました。驚おどろいた叔父がわけを聞くと、急に中風ちゅうぶになったのだ、と答えたそうです。

叔父から聞いた父があわてて息子を呼びます。息子の顔はいつもどおりでした。

「もともと中風になどなっていません。叔父上に嫌きらわれているので、でたらめを言われたのです」

それからというもの、父は叔父の告げ口を信じなくなったそうです。

ただ、この若者を特別な人物だと見た大人もいました。大臣を務めた橋玄きょうげんは曹操にこう告げたと、『三国志』は書いています。

「天下は乱れようとしている。時代を担うほどの才でなければ、救えない。それを安んじることができるのは、あなたであろう」

二十歳はたちで曹操は都の洛陽らくようで北の地区の治安を受け持つ役人、北部尉ほくぶいになりました。

『曹瞞伝』によれば、着任した曹操は役所の四つの門を直させ、五色の棒を門の左右に十本あまりずつ掛かけました。決まりを破る者は、力のある家の者でもこの棒で打ち殺ころしたといいます。

数か月後、皇帝のお気に入りの宦官、蹇碩けんせきの叔父が禁じられた夜歩きをしました。曹操はすぐに殺しました。

都は静まりました。けれど皇帝の側近たちは彼を憎にくみ、手出しができないので、そろって推薦すいせんして地方の頓丘とんきゅうの長官に栄転させたといいます。

そのころ自分が何を望んでいたかを曹操は三十年以上のちに出した令れい(命令の文書)に自分で書いています。

「私は孝廉こうれんに挙げられたばかりのころ、年が若かった。もとより山野に隠かくれて名を知られた人物でもなかったので、世の人に、平凡へいぼんで愚おろかな者と見られるのを恐おそれた。一つの郡の長官になって、よい政治を行い、名を上げて、世の人にはっきり知ってほしいと思った」

孝廉とは、親孝行で正直な若者を役人に推薦する仕組みのこと。二十歳さいの曹操もそうして推薦された一人でした。

(姦雄でもいい)

やがて宮廷では権力者たちの横暴がひどくなります。曹操は合わせることができず、何度も逆らいました。家に災いが及およぶのを恐れ、病気だと言って故郷に帰ります。町の外に家を建て、春と夏は書物を読み、秋と冬は狩かりをして過ごしたと、魏ぎの朝廷ちょうていがまとめた『魏書ぎしょ』は書いています。

同じ令の中で曹操はその後ふたたび召めし出されたころの望みも明かしています。

「侯こうに封ほうじられ、征西将軍せいせいしょうぐんになって、そのあと墓の道に『漢の故征西将軍曹侯の墓』と記されたい。これが私の志だった」

漢の国の亡き征西将軍、曹侯の墓。それが若い曹操の望んだ墓でした。

189年、皇帝が亡くなり、都は大混乱に陥おちいります。兵を率いて乗り込こんだ将軍の董卓とうたくが新しい皇帝を勝手に立てました。董卓は曹操に高い位を与あたえようとしましたが、曹操は受けず、名前を変えて裏道を東へ逃にげました。

中牟ちゅうぼうという町で宿場の役人に怪あやしまれて捕つかまります。町の中にこっそり彼の正体を知る者がいて、取りなしてくれたおかげで放されたといいます。

この逃げる途中とちゅうで曹操は人を殺しています。ただ、その話は書いた人によって大きく違います。

旧友の呂伯奢りょはくしゃの家に立ち寄ったときのことです。伯奢はくしゃは留守でした。

『魏書』では、伯奢の息子が客人と組んで、曹操の馬と荷物を奪うばおうとしました。曹操は自分で刃やいばをふるい、数人を斬きったとあります。

晋しんの時代の『世語せご』では、五人の息子は客をもてなす支度をととのえていました。董卓の命令に背いた曹操は自分を捕らえるつもりではないかと疑い、夜のうちに八人を殺して去ったといいます。

三つめの話は、のちに名高くなります。千年あまりのちの小説『三国志演義さんごくしえんぎ』が旅の連れと、伯奢を道で斬る場面を書き足し、悪役・曹操の決めぜりふに仕立てたからです。

もとになったのは、孫盛の『雑記ざっき』のこんな一節でした。

曹操は食器の触ふれ合う音を聞いて、自分を殺す相談だと思いこみ、夜のうちに殺してしまいました。それから痛ましげに言ったといいます。

「私が人に背くことがあっても、人に私を背かせはしない」

そう言って曹操は去りました。

白骨は野に

中平ちゅうへい6年、旧暦きゅうれきの冬12月。曹操そうそうは陳留ちんりゅうで家の財産を投げ出し、兵を集めて立ち上がりました。三十五歳さい。目当ては、都で好き放題をしていた董卓とうたくを討つことです。

翌年、董卓を討つ軍が各地で立ち、名家の袁紹えんしょうがその盟主に選ばれます。

董卓は都の洛陽らくようを焼き、皇帝こうていを連れて西の長安ちょうあんへ移りました。曹操は今こそ天が董卓を滅ほろぼす時だ、一戦で天下は定まる、と仲間の将軍たちに進軍を説いたと『三国志さんごくし』にあります。

けれど董卓の軍は強く、袁紹たちは誰だれも先に進もうとしませんでした。

曹操は自分の兵に張邈ちょうばくが分けてくれたわずかな兵を加えて、西へ向かいます。滎陽けいようで董卓の軍とぶつかり、敗れました。死んだり傷ついたりした兵はとても多くいました。曹操も流れ矢に当たり、乗っていた馬も傷つきました。

いとこの曹洪そうこうが自分の馬を曹操に渡わたしました。その馬で曹操は夜のうちに逃にげ延びます。

酸棗さんそうの陣じんに戻もどると、十万あまりの兵が集まったまま、毎日宴会えんかいを開いていました。攻せめ進む相談をする者はいなかったと、『三国志』は書いています。

曹操は将軍たちに策を示し、こう責めたと伝えられます。

「今、兵は正義のために立ったのに、疑って進まず、天下の望みを裏切っている。私はひそかに、諸君のために恥はずかしく思う」

将軍たちはその策を取り上げませんでした。

兵が足りません。曹操は南の揚州ようしゅうまで行き、四千人あまりを集めます。ところが帰り道でその多くが反乱を起こしました。『魏書ぎしょ』によれば、兵たちは夜、曹操のテントに火を放ちます。曹操は自ら剣けんをとって数十人を斬きり、陣の外へ逃れたといいます。裏切らなかった者は五百人あまりでした。

正しいことを言った男のもとに残ったのは五百人でした。

盟主の袁紹ともすきま風が吹ふきはじめます。袁紹は別の人を皇帝に立てようと曹操を誘さそい、断られました。また、手に入れた玉の印を曹操と同席した場で掲かかげてみせました。曹操は笑いましたが、このときから袁紹を嫌きらった、と『三国志』は書いています。

このころの戦を詠よんだとされる曹操の詩があります。題は「蒿里行こうりこう」。蒿里こうりとは、死んだ人の魂たましいが行く場所の名です。

「白骨が野にさらされ、千里のあいだ、鶏にわとりの鳴く声もない。生き残った民は、百人に一人。これを思うと、はらわたがちぎれる」

そこへ知らせが届きます。

戦乱を避さけて身を寄せていた父の曹嵩そうすうが、徐州じょしゅうを治める陶謙とうけんの領地で殺ころされたのです。

どう殺されたのかは書によって違ちがいます。陶謙が兵を送って一家を襲おそった、という話。陶謙が付けた護衛の隊長が財物に目がくらんで殺した、という話。

『三国志』の本文は、曹操は復讐ふくしゅうを志して東を討った、とだけ書いています。

193年から翌年にかけて、曹操は徐州に攻め込こみました。五つの城を落とし、海辺の東海とうかいの地まで攻め進みます。

本文は一句だけ書き添そえています。

「通った所では、多くの人を殺戮さつりくした」

何人が殺されたのか、本文には書かれていません。百五十年ほどのちの歴史家、孫盛そんせいは「罪は陶謙にあるのに、その配下の者たちを殺したのは、過ちである」と書きました。

「生き残った民は、百人に一人」と嘆なげく詩を書いた男の軍が徐州で多くの人を殺していました。

194年、曹操が徐州にいるあいだに足もとの兖州えんしゅうが寝返ねがえります。味方だった張邈と陳宮ちんきゅうが猛将もうしょうの呂布りょふを迎むかえ入れたのです。

引き返した曹操は濮陽ぼくようで呂布と戦いました。陣を崩くずされ、燃える火の中を駆かけ抜ぬけて、馬から落ちます。左の手のひらを焼きました。

このときのことを後の書『献帝春秋けんていしゅんじゅう』はこう伝えています。呂布の騎兵きへいが曹操を捕つかまえます。ところが、相手が曹操だと分かりません。

「曹操はどこだ」

「黄色い馬に乗って逃げていくのが、そうだ」

騎兵は曹操を放して、黄色い馬を追っていきました。

その年は蝗いなごの害もあって、穀物の値段は一斛こく五十万銭あまりに跳はね上がりました。人が人を食べた、と本文は書いています。曹操は集めたばかりの兵を解き放ちました。

そこへ袁紹から使いが来ました。手を組もう、という申し入れです。

兖州を失い、兵の食べ物も尽つきていた曹操はそれを受けようとしました。

本当の、別れだな

止めたのは、家臣の程昱ていいくでした。

曹操そうそうはその諫いさめに従いました。袁紹えんしょうの下にはつかなかったのです。

兖州えんしゅうが寝返ねがえったころ、曹操のもとを去った人たちがいました。

畢諶ひつしんという家臣は寝返った張邈ちょうばくに家族を人質に取られていました。曹操は彼かれに言ったと、本文は書いています。

「あなたの年老いた母上は、あちらにいる。行きなさい」

畢諶は額を地につけ、二心はありません、と誓ちかいました。曹操は心を打たれて涙なみだを流したといいます。

ところが畢諶は曹操のもとを出るとそのまま張邈のところへ逃にげました。

曹操は魏种ぎちゅうだけは私を見捨てないだろう、とも言っていました。その魏种も逃げました。知らせを聞いた曹操は怒おこって言ったといいます。

「魏种め、南の越えつか北の胡こへでも逃げないかぎり、許しはしない」

数年後、二人とも捕とらえられます。曹操は畢諶について、親に孝行な者は主君にも忠実なはずだ、私が求めているのはそういう人だ、と言って役人に取り立てました。魏种のときは「ただ、その才のためだ」と言って縄なわを解き、使ったと本文にあります。

196年、曹操は皇帝こうていを迎むかえて、許きょの町に都を移します。

その年曹操は屯田とんでんを始めました。民を募つのって土地を耕させ、食べ物を作らせる仕組みです。飢うえれば奪うばい、満ちれば捨てて自分から崩くずれていく軍が多いなかで、この年に穀物百万斛こくを得たと『魏書ぎしょ』はいいます。

翌197年の旧暦きゅうれき正月。宛えんの町で張繡ちょうしゅうという武将が曹操に降参しました。

ところが張繡はまもなく悔くやんで寝返ります。不意を突つかれた曹操は敗れ、流れ矢に当たりました。

魏ぎの朝廷ちょうていがまとめた『魏書』によれば曹操の馬、絶影ぜつえいは頬ほおと足に矢を受け、曹操も右の腕うでを射られたといいます。

晋しんの時代の『世語せご』はこう書いています。長男の曹昂そうこうは自分の馬を父に差し出しました。曹操はそれで逃げ延び、曹昂は殺ころされた、というのです。

曹操の甥おいの安民あんみんもこのとき死んでいます。

護衛の隊長、典韋てんいは曹操を逃がすために門で戦い続けました。数十の傷を負い、目をむいて敵を罵ののしりながら死んだと、『三国志さんごくし』は伝えます。

典韋が死んだと聞いて、曹操は涙を流しました。人を募って遺体を取り戻もどさせ、自ら亡骸なきがらの前に出て声をあげて泣いたといいます。

退いたあと曹操は将軍たちを集めて言ったと、本文は書いています。

「私は張繡らを降したのに、すぐに人質を取らなかった。その失敗で、こうなったのだ。私は、なぜ負けたのかが分かっている。諸君、見ていなさい。これからは、二度と負けない」

負けた理由は、分かった。

けれど、息子は戻らない。

その年の旧暦11月、曹操は再び宛へ向かう途中とちゅう、淯水いくすいという川のほとりで死んだ将兵を祭りました。曹操はむせび泣いて涙を流し、兵たちもみな声をあげて泣いたと、『魏書』は書いています。

泣き続けている人がもう一人いました。

曹操の妻、丁夫人ていふじんです。

曹昂は丁夫人が産んだ子ではありません。生みの母の劉夫人りゅうふじんが早くに亡くなり、丁夫人がわが子として育てたのです。

『魏略ぎりゃく』によれば丁夫人はいつもこう言っていました。

「私の子を殺しておいて、少しも気にかけない」

そして、とめどなく泣いたといいます。

曹操は怒り、夫人を実家に帰しました。気持ちが折れるのを待ったのだ、と『魏略』は書いています。

『魏略』はそのあとのことも伝えています。

曹操は夫人に会いに出かけました。

夫人は機はたを織っていました。「殿とのがお着きです」と取り次ぎの者が告げても、機の前に座ったまま元のとおりです。

曹操はそばへ行き、夫人の背中をなでて言いました。

「こちらを向いてくれ。一緒いっしょに車に乗って、帰ろう」

夫人は振ふり向きませんでした。返事もしませんでした。

曹操は後ろへ下がり、戸の外に立って、もう一度言いました。

「まだ、だめか」

答えはありませんでした。

(負けた理由ならいつでも言える。この人の前では、何を言えばいいのか)

曹操は言いました。

「本当の、別れだな」

裸足はだしの出迎え

198年、曹操そうそうは呂布りょふを攻せめました。その途中とちゅうで彭城ほうじょうの町を「屠ほふった」と、『三国志さんごくし』は書いています。町を攻め落とし、そこにいた人々を殺ころしたことを言う言葉です。下邳かひの城を水攻めにし、一か月あまりで呂布と陳宮ちんきゅうを捕とらえて二人とも殺しました。

残る大きな敵は、ひとり。北の四つの州を手に入れ、十万を超こえる兵を持つ袁紹えんしょうです。

将軍たちは勝てないと言いました。曹操は袁紹の人となりを並べてみせたと本文にあります。

「私は袁紹という男を知っている。志は大きいが、知恵ちえは小さい。顔つきは厳しいが、肝きもは小さい。兵は多いが、指図がはっきりしない。土地が広く、食べ物が多くても、ちょうど私への贈おくり物になるだけだ」

200年、両軍は官渡かんとでにらみ合います。

強気の言葉とは裏腹でした。本文によれば、曹操の兵は一万に足りず、けが人が二、三割でした。袁紹は土の山を築き地下道を掘ほって攻めてきます。矢が雨のように陣じんの中へ降り、兵は盾たてをかぶって歩いたといいます。兵の食べ物も少なくなっていきました。

曹操は都を守る荀彧じゅんいくに手紙を書き、許へ引き返すことを相談しました。

荀彧の返事はこうだったと本文は伝えます。あなたは最も弱い力で最も強い相手に当たっている。ここで抑おさえきれなければ、必ずつけこまれる。今が天下の分かれ目だ。袁紹は人を集めることはできても、使うことはできない。

曹操は踏ふみとどまりました。

そこへ袁紹の側から一人の男が逃にげてきます。袁紹の参謀さんぼうだった許攸きょゆうです。

そのときのことを敵方が書いた『曹瞞伝そうまんでん』はこう伝えています。

許攸が来たと聞くと、曹操は裸足はだしのまま出迎むかえ、手をたたいて笑いました。

座につくと、許攸は兵の食べ物があとどれほどあるのかを聞きます。曹操は一年はもつ、と答えました。重ねて聞かれると半年、と答えます。本当のことを言っていない、と責められて曹操はようやく白状したといいます。

「さっきのは冗談じょうだんだ。実は、一か月分くらいしかない。どうしたらいい」

許攸は烏巣うそうにいる袁紹の食べ物の輸送隊を襲おそえ、と教えました。

曹操は自ら五千の兵を率いて夜のうちに烏巣を襲いました。袁紹の救いの騎兵きへいが近づくと、そばの者が兵を分けて防がせてくださいと言います。曹操は怒おこって言ったと、本文にあります。

「敵が背後に来てから、知らせろ」

兵たちは死にものぐるいで戦い、烏巣は落ちました。

『曹瞞伝』はこのあと曹操の軍が袁紹の兵を千人あまり殺し、それを袁紹の軍に見せつけたと書いています。また、曹操が袁紹の軍八万(七万とも)を生き埋うめにしたと多くの書が記している、と五世紀の注釈者ちゅうしゃくしゃ、裴松之はいしょうしが書き留めています。

裴松之はこの記事を疑わず、逆に八千人では逃げ散る八万人を縛しばれないのだから、曹操の兵は本文の「一万に足りない」ほど少なくなかったはずだ、と論じています。

袁紹は北へ逃げ帰りました。

残された袁紹の書類の中から曹操は許きょの都の人々や自分の軍の者たちが袁紹に送っていた手紙を見つけます。

曹操はそれをみな焼きました。『魏氏春秋ぎししゅんじゅう』はそのとき曹操がこう言ったと伝えます。

「袁紹が強かったころは、私でさえ、自分の身を保てなかった。まして、ほかの者はなおさらだ」

202年の旧暦きゅうれき正月、曹操は故郷の譙しょうに軍をとどめ、令を出しました。

「故郷の人々は、ほとんど死に絶えた。国の中を一日歩いても、知った顔に会わない。私は悲しく、胸が痛む」

令は戦で死んで跡継あとつぎのいない兵のために親類を探して家を継つがせ、よい田と耕す牛を与あたえ、子に学問を教える先生を置くように命じています。

同じ年曹操は使いを送り、橋玄きょうげんの墓を祭らせました。若いころ、「それを安んじることができるのは、あなたであろう」と言ってくれた人です。

祭りの文に曹操は昔の約束を書いています。橋玄がくつろいだ席で冗談めかして言った言葉でした。

「私が死んだあと、墓の前を通りかかって、一斗いっとの酒と一羽の鶏にわとりを供えずに行ったら、車が三歩も進まないうちに腹が痛くなっても、恨うらむなよ」

その場の冗談だ。けれど、よほど親しくなければ、こんなことは言わない。曹操はそう書き添そえています。

同じ202年の旧暦5月、袁紹は病で血を吐はき、亡くなりました。

204年、曹操は袁紹の本拠地ほんきょち、鄴ぎょうを落とします。

曹操は袁紹の墓に行って祭りました。声をあげて泣き、涙なみだを流しました。袁紹の妻をいたわり家の者と宝物を返し、絹や綿、食べ物を与えた、と本文は書いています。

本文はこの場面に二人が兵を挙げたころの会話を添えています。

袁紹が聞きました。うまくいかなかったら、どこを拠より所にするか。曹操が逆に聞き返すと、袁紹は北の土地に異民族の兵を合わせて天下を争う、と答えます。

曹操の答えはこうでした。

「私は天下の人々の知恵と力を使い、道理をもってそれを動かす。そうすれば、できないことはない」

勝ったのは、曹操でした。

その曹操が敵の墓の前で泣いたのです。百五十年ほどのちの孫盛そんせいは反逆者の墓で悲しみを尽つくすのは政治の道を誤ったものだ、と批判しています。

泣いた理由を曹操は書き残していません。

天下に、分かり合える者は少ない

郭嘉かくかは曹操そうそうの参謀さんぼうの中でいちばん若い男でした。字は奉孝ほうこう。

207年、北の異民族、烏丸うがんを討ちに行く遠い戦に将軍たちはこぞって反対しました。賛成したのは、郭嘉だけだったといいます。

曹操は勝ちました。けれど帰り道で郭嘉は重い病にかかります。曹操は見舞みまいの使いを次々に送りました。

郭嘉は死にました。三十八歳さいでした。

曹操は家臣たちにこう言ったと、『三国志さんごくし』は書いています。

「諸君は年がみな私と同じ世代だが、奉孝だけがいちばん若かった。天下のことが片づいたら、後のことを託たくすつもりだったのに、働き盛りで死んでしまった。これも、運命か」

翌208年、曹操は丞相じょうしょうになります。皇帝こうていを助けて政治を取りしきる、いちばん上の大臣です。南の荊州けいしゅうは戦わずに降り、曹操の大軍は逃にげる劉備りゅうびを追って南へ進みました。

旧暦きゅうれき12月、赤壁せきへき。

『三国志』の曹操の伝の記事は短いものです。曹操は赤壁で劉備と戦い、不利でした。疫病えきびょうがはやって多くの兵が死に、軍を引き揚あげた、とあるだけです。

引き揚げる途中とちゅう、曹操は嘆なげいたと、本文は書いています。

「郭奉孝がいたら、私をこんな目にあわせはしなかったのに」

荀彧じゅんいくにあてた手紙でも曹操は郭嘉のことを書いています。

「奉孝は年が四十にも満たず、私と十一年つきあった。険しいことも苦しいことも、みな一緒いっしょに味わった。(中略)そのうえ奉孝は、私を分かってくれる者だった。天下に、互たがいに分かり合える者は少ない。だから、なおさら痛ましく、惜おしい。どうしたらいい、どうしたらいい」

同じ208年、もう一つの死がありました。

曹操の子、曹沖そうちゅう。十三歳。五、六歳で大人のような知恵ちえがあったと、本文はいいます。

曹操の馬の鞍くらが倉で鼠ねずみにかじられたことがありました。番人は死罪を恐おそれます。曹沖は番人に三日待ってから名乗り出なさい、と言いました。それから自分の着物に刀で、鼠がかじったような穴をあけ、悲しそうな顔をして父の前に出たのです。

わけを聞かれると、鼠に着物をかじられると持ち主に不吉ふきつなことがある、と世間では言いますから、と答えました。曹操はばかげた話だ、気にするな、と言いました。

やがて番人が鞍のことを申し出ます。曹操は笑って言ったといいます。

「息子の着物は身のそばにあったのに、かじられたのだ。まして柱に掛かけた鞍なら、なおさらだ」

番人は何も咎とがめられませんでした。

曹操は家臣たちの前でたびたび曹沖をほめていました。跡あとを継つがせたい気持ちがあったと、本文は書いています。

その曹沖が病にかかりました。曹操は自ら神に命を乞こいます。

曹沖が死ぬと、曹操の悲しみは深いものでした。慰なぐさめに来た曹丕そうひに曹操はこう言ったと本文にあります。

「これは私の不幸だ。そして、お前たちの幸いだ」

曹丕は、曹沖の兄。のちに曹操の跡を継ぐ人です。

曹沖の病が重かったころ、曹操はもう一つ悔くやむことを口にしています。

それより前、曹操は名医の華佗かだに持病の頭痛を診みさせていました。華佗は故郷に帰りたがり、妻の病気を口実に期限を過ぎても戻もどりませんでした。調べさせると、嘘うそでした。曹操は華佗を牢ろうに入れました。

荀彧が命乞いをしました。華佗の腕うでは本当にすぐれていて、人の命がかかっている、と。曹操は答えたと本文にあります。

「心配するな。天下に、こんな鼠のような者がいなくなるとでもいうのか」

華佗は牢の中で死にました。

曹沖が危うくなったとき、曹操は嘆いたといいます。

「華佗を殺ころしたことを、私は悔やむ。この子を、無理に死なせてしまった」

同じ208年、何度も曹操に逆らってきた名士の孔融こうゆうが孫権そんけんの使いに曹操の悪口を言ったとして、市場で処刑しょけいされています。幼い二人の子もともに殺されました。

210年の旧暦12月、曹操は長い令を出します。兵を手放して、自分の領地に引っこんだらどうか。そう言う人たちへの答えでした。

「もし国に私がいなかったら、何人が皇帝を名のり、何人が王を名のっていたか分からない。人は、私が強く盛んなのを見、また私が天命というものを信じない性質なので、身のほど知らずの野心があると、勝手に推し量っているのではないか。そう思うたびに、心が落ち着かない」

同じ令で曹操は兵を手放すことは決してできない、とも書いています。兵を離はなれれば人に殺されるのが本当に恐ろしいからだ、と。

そして、この心の内を妻たちにもいつも話している、と書きます。

「私が死んだあと、お前たちはみな、よそへ嫁とついでいくだろう。そのとき私の心を伝えて、ほかの人々にも知らせてほしいのだ」

212年、家臣たちが曹操を「国公」に昇のぼらせようと動きました。王に次ぐ自分の国を持つ位です。

荀彧は反対しました。曹操は正義の兵を挙げて朝廷ちょうていを正した人だ。君子は徳によって人を愛するもの。こんなことをすべきではない、と。

本文は書いています。曹操はこれで心が穏おだやかでなくなった、というのです。

その年荀彧は寿春じゅしゅんで病にかかり、憂うれいのうちに亡くなりました。五十歳でした。

『魏氏春秋ぎししゅんじゅう』には別の話が残っています。曹操が荀彧に食べ物を贈おくりました。開けてみると、器は空でした。荀彧は薬を飲んで死んだ、というのです。

官渡かんとで引き返すなと書き送った人でした。郭嘉を失った悲しみを打ち明けた相手でした。

翌年、曹操は魏公ぎこうになりました。

見習うな

213年の旧暦きゅうれき正月、曹操そうそうは濡須じゅしゅの川口で南の孫権そんけんの軍と向き合っていました。

呉ごの書『呉歴ごれき』によれば、孫権は軽い船に乗って自ら曹操の陣じんを見に来ました。曹操はむやみに弓を射るなと命じます。孫権の船も、武器も、隊列もきちんと整っている。それを見て曹操はため息をついて言ったといいます。

「子を持つなら、孫仲謀そんちゅうぼうのような子がいい。劉景升りゅうけいしょうの息子などは、豚ぶたか犬のようなものだ」

孫仲謀は孫権のこと。劉景升の息子は戦わずに曹操に降った荊州けいしゅうの主です。

孫権からは手紙が届きました。

「春の水が増えてきます。あなたは早くお帰りなさい」

別の紙にはこうありました。

「あなたが死なないかぎり、私は安心できない」

曹操は将軍たちに孫権は私を欺あざむかない、と言って、軍を引き揚あげました。

翌214年、遠征えんせいに出る曹操は二十三歳さいの息子曹植そうしょくに本拠地ほんきょちの鄴ぎょうの留守を任せて言いました。

「私は昔、頓丘とんきゅうの長官になったとき、二十三歳だった。あのころにしたことを思い返しても、今になって悔くいはない。お前も今、二十三だ。励はげまずにいられようか」

216年、曹操は魏王ぎおうになります。

そのころ人選びを任されていた重臣の崔琰さいえんが手紙に「いつか変わる時が来る」と書いたことを、身のほど知らずだと告げ口されました。曹操は怒いかり、崔琰を罪人の労役に落とします。それでも崔琰は言葉も顔色も屈くっしなかったといいます。曹操は令を出して死を命じました。

敵方が書いた『曹瞞伝そうまんでん』によれば、ほかにも言葉で曹操を傷つけた辺譲へんじょうという人が殺ころされ、その一族も滅ほろぼされています。

217年の令に曹操は曹植のことをこう書いています。

「はじめ私は、子建しけんこそ、子どもたちの中でいちばん大事を任せられると思っていた」

子建は曹植の字です。その年曹植は皇帝こうていのための道を車で走り、宮殿きゅうでんの司馬門しばもんを開けさせて出ていきました。曹操は激怒げきどし、門を預かる役人は罪に問われて死にます。曹操の別の令にはこうあります。

「臨菑侯りんしこうの植が、勝手に出かけ、司馬門を開いて金門まで行ってから、私はこの子を、違ちがう目で見るようになった」

219年、曹操は曹植を将軍にして、関羽かんうに囲まれた味方を救いに行かせようとしました。呼び出すと、曹植は酔よっていて、命令を受けられません。曹操は取りやめました。兄の曹丕そうひが無理に飲ませたのだ、という話も伝わっています。

同じころ漢中かんちゅうで劉備りゅうびと争っていた曹操が出した令は、「鶏肋けいろく」の一語だけだったと、『九州春秋きゅうしゅうしゅんじゅう』は伝えます。誰だれも意味が分からない中、楊脩ようしゅうだけが荷造りを始めました。鶏にわとりのあばら骨は、捨てるには惜おしいが、食べても身がない。王は帰るおつもりだ、と。

その楊脩も殺されます。跡継あとつぎをめぐる争いを案じた曹操が、才があり、袁氏えんしの甥おいでもある楊脩を罪に問うて殺したと、本文は書いています。罪の中身を本文は書きませんが、『典略てんりゃく』は曹操の言いつけを外に漏もらし、諸侯しょこうと通じた罪だとしています。

219年の冬、関羽を討つと申し出てきた孫権が手紙で曹操に家来を名のり、天命を説いてきました。皇帝になれ、ということです。曹操はその手紙を人々に見せて言った、と『魏略ぎりゃく』は伝えます。

「この小僧こぞうは、私を炉ろの火の上に座らせるつもりか」

家臣たちも皇帝になるよう勧すすめました。『魏氏春秋ぎししゅんじゅう』によれば曹操はこう答えたといいます。

「もし天命が私にあるなら、私は周の文王になろう」

周の文王は天下の三分の二を手にしながら、最後まで殷いんの王に仕えた人です。新しい王朝を開いたのは、その息子でした。

敵方の『曹瞞伝』には晩年の曹操が洛陽らくようの北部尉ほくぶいの役所を元よりも立派に建て直させたという記事があります。二十歳はたちのとき、五色の棒を門に掛かけた、あの役所です。

220年、旧暦の正月。曹操は洛陽で亡くなりました。六十六歳。

遺令いれい(死に際の命令)は『三国志さんごくし』の本文に残っています。

「天下はまだ安定していない。昔からの葬ほうむりの礼に従うことはできない。葬りが終わったら、みな喪服もふくを脱ぬげ。兵を率いて守りについている者は、持ち場を離はなれるな。役人は、それぞれの務めを果たせ。その季節の着物で棺ひつぎに納め、金や玉や宝物を墓に入れるな」

八十年ほどのち、宮廷きゅうていの書庫でこの遺令を読んだ文人の陸機りくきがほかの部分を書き写しています。

「余った香こうは、夫人たちに分けてよい。部屋でなすことがなければ、履くつや組みひもを作って売ることを覚えよ」

末の子の豹ひょうを指さして、四人の息子たちに示し、「お前たちに、苦労をかける」と言って、涙なみだを落とした、と陸機は書いています。

そして遺令には曹操が自分のことを書いた一節があります。

「私が軍の中で法を守らせたのは、正しかった。けれど、小さな怒りや、大きな過ちは、見習ってはならない」

「私は、どういう人間か」。若いころ、曹操はそれを人に尋たずね、返ってきた答えに大笑いしたと伝えられます。

最後の答えは自分で書きました。

敗れた夜、自分の馬を渡わたしたいとこの曹洪そうこう。『世語せご』によれば、馬を父に差し出して死んだという長男の曹昂そうこう。門で戦い続けた典韋てんい。引き返すな、と書き送った荀彧じゅんいく。曹操が答えを書き終えるまでの道にはその人たちがいました。

若いころの望みの一つは、墓に「漢の故征西将軍せいせいしょうぐん曹侯そうこうの墓」と記されることでした。

遺令にはこうもあります。側室や歌い手たちを鄴に建てた銅爵台どうじゃくだいに住まわせよ。月の一日と十五日には私の帳とばりに向かって音楽を奏でよ。

「お前たちは、ときどき銅爵台に登って、私の西陵せいりょうの墓所を、望め」