曹操 — 見習うな、と書いた人
「私はどういう人間か」と人に聞いたと伝えられ、最後は自分で答えを書きました。三国志の曹操の、怒りと涙の多い一生
私は、どういう人間か
「私は、どういう人間か」
若い男にそう聞かれて、相手は答えなかったといいます。
男はしつこく聞き直しました。相手はようやく口を開きます。
「あなたは、治まった世なら有能な家臣。乱れた世なら、姦雄だ」
姦雄とは、悪知恵にたけた英雄のこと。ほめ言葉にも悪口にも聞こえます。
それを聞いた男は大笑いしたと伝えられています。四世紀の歴史家、孫盛が書き留めた話です。答えたのは、人物の評価で名高い許劭という人でした。別の歴史書では答えの言葉も、答えるまでのいきさつも違っています。
笑った男の名は、曹操。のちに中国の北半分を治め、千年以上たった今も物語の中で「悪役」を演じ続けている人です。
二世紀の中国。後漢という王朝の終わりごろ、155年に曹操は沛国の譙という町で生まれたとされます。
祖父の曹騰は宮廷で皇帝の身の回りに仕える宦官でした。宦官は子を持てません。父の曹嵩はその養子です。父がどこの家に生まれたのか、陳寿の歴史書『三国志』は「詳しく知ることができない」とだけ書いています。
その『三国志』によれば、少年の曹操は機転がきき、はかりごとが得意でした。けれど男気をきどって遊びまわり、行いを改めようとはしませんでした。世の人は彼を特別な子とは見ていなかったといいます。
敵方の呉の人が書いたとされる『曹瞞伝』には、こんな話があります。
遊んでばかりの曹操のことを叔父がたびたび父に告げ口しました。困った曹操は道で叔父に会うと、わざと顔をゆがめ、口を曲げてみせました。驚いた叔父がわけを聞くと、急に中風になったのだ、と答えたそうです。
叔父から聞いた父があわてて息子を呼びます。息子の顔はいつもどおりでした。
「もともと中風になどなっていません。叔父上に嫌われているので、でたらめを言われたのです」
それからというもの、父は叔父の告げ口を信じなくなったそうです。
ただ、この若者を特別な人物だと見た大人もいました。大臣を務めた橋玄は曹操にこう告げたと、『三国志』は書いています。
「天下は乱れようとしている。時代を担うほどの才でなければ、救えない。それを安んじることができるのは、あなたであろう」
二十歳で曹操は都の洛陽で北の地区の治安を受け持つ役人、北部尉になりました。
『曹瞞伝』によれば、着任した曹操は役所の四つの門を直させ、五色の棒を門の左右に十本あまりずつ掛けました。決まりを破る者は、力のある家の者でもこの棒で打ち殺したといいます。
数か月後、皇帝のお気に入りの宦官、蹇碩の叔父が禁じられた夜歩きをしました。曹操はすぐに殺しました。
都は静まりました。けれど皇帝の側近たちは彼を憎み、手出しができないので、そろって推薦して地方の頓丘の長官に栄転させたといいます。
そのころ自分が何を望んでいたかを曹操は三十年以上のちに出した令(命令の文書)に自分で書いています。
「私は孝廉に挙げられたばかりのころ、年が若かった。もとより山野に隠れて名を知られた人物でもなかったので、世の人に、平凡で愚かな者と見られるのを恐れた。一つの郡の長官になって、よい政治を行い、名を上げて、世の人にはっきり知ってほしいと思った」
孝廉とは、親孝行で正直な若者を役人に推薦する仕組みのこと。二十歳の曹操もそうして推薦された一人でした。
(姦雄でもいい)
やがて宮廷では権力者たちの横暴がひどくなります。曹操は合わせることができず、何度も逆らいました。家に災いが及ぶのを恐れ、病気だと言って故郷に帰ります。町の外に家を建て、春と夏は書物を読み、秋と冬は狩りをして過ごしたと、魏の朝廷がまとめた『魏書』は書いています。
同じ令の中で曹操はその後ふたたび召し出されたころの望みも明かしています。
「侯に封じられ、征西将軍になって、そのあと墓の道に『漢の故征西将軍曹侯の墓』と記されたい。これが私の志だった」
漢の国の亡き征西将軍、曹侯の墓。それが若い曹操の望んだ墓でした。
189年、皇帝が亡くなり、都は大混乱に陥ります。兵を率いて乗り込んだ将軍の董卓が新しい皇帝を勝手に立てました。董卓は曹操に高い位を与えようとしましたが、曹操は受けず、名前を変えて裏道を東へ逃げました。
中牟という町で宿場の役人に怪しまれて捕まります。町の中にこっそり彼の正体を知る者がいて、取りなしてくれたおかげで放されたといいます。
この逃げる途中で曹操は人を殺しています。ただ、その話は書いた人によって大きく違います。
旧友の呂伯奢の家に立ち寄ったときのことです。伯奢は留守でした。
『魏書』では、伯奢の息子が客人と組んで、曹操の馬と荷物を奪おうとしました。曹操は自分で刃をふるい、数人を斬ったとあります。
晋の時代の『世語』では、五人の息子は客をもてなす支度をととのえていました。董卓の命令に背いた曹操は自分を捕らえるつもりではないかと疑い、夜のうちに八人を殺して去ったといいます。
三つめの話は、のちに名高くなります。千年あまりのちの小説『三国志演義』が旅の連れと、伯奢を道で斬る場面を書き足し、悪役・曹操の決めぜりふに仕立てたからです。
もとになったのは、孫盛の『雑記』のこんな一節でした。
曹操は食器の触れ合う音を聞いて、自分を殺す相談だと思いこみ、夜のうちに殺してしまいました。それから痛ましげに言ったといいます。
「私が人に背くことがあっても、人に私を背かせはしない」
そう言って曹操は去りました。
白骨は野に
中平6年、旧暦の冬12月。曹操は陳留で家の財産を投げ出し、兵を集めて立ち上がりました。三十五歳。目当ては、都で好き放題をしていた董卓を討つことです。
翌年、董卓を討つ軍が各地で立ち、名家の袁紹がその盟主に選ばれます。
董卓は都の洛陽を焼き、皇帝を連れて西の長安へ移りました。曹操は今こそ天が董卓を滅ぼす時だ、一戦で天下は定まる、と仲間の将軍たちに進軍を説いたと『三国志』にあります。
けれど董卓の軍は強く、袁紹たちは誰も先に進もうとしませんでした。
曹操は自分の兵に張邈が分けてくれたわずかな兵を加えて、西へ向かいます。滎陽で董卓の軍とぶつかり、敗れました。死んだり傷ついたりした兵はとても多くいました。曹操も流れ矢に当たり、乗っていた馬も傷つきました。
いとこの曹洪が自分の馬を曹操に渡しました。その馬で曹操は夜のうちに逃げ延びます。
酸棗の陣に戻ると、十万あまりの兵が集まったまま、毎日宴会を開いていました。攻め進む相談をする者はいなかったと、『三国志』は書いています。
曹操は将軍たちに策を示し、こう責めたと伝えられます。
「今、兵は正義のために立ったのに、疑って進まず、天下の望みを裏切っている。私はひそかに、諸君のために恥ずかしく思う」
将軍たちはその策を取り上げませんでした。
兵が足りません。曹操は南の揚州まで行き、四千人あまりを集めます。ところが帰り道でその多くが反乱を起こしました。『魏書』によれば、兵たちは夜、曹操のテントに火を放ちます。曹操は自ら剣をとって数十人を斬り、陣の外へ逃れたといいます。裏切らなかった者は五百人あまりでした。
正しいことを言った男のもとに残ったのは五百人でした。
盟主の袁紹ともすきま風が吹きはじめます。袁紹は別の人を皇帝に立てようと曹操を誘い、断られました。また、手に入れた玉の印を曹操と同席した場で掲げてみせました。曹操は笑いましたが、このときから袁紹を嫌った、と『三国志』は書いています。
このころの戦を詠んだとされる曹操の詩があります。題は「蒿里行」。蒿里とは、死んだ人の魂が行く場所の名です。
「白骨が野にさらされ、千里のあいだ、鶏の鳴く声もない。生き残った民は、百人に一人。これを思うと、はらわたがちぎれる」
そこへ知らせが届きます。
戦乱を避けて身を寄せていた父の曹嵩が、徐州を治める陶謙の領地で殺されたのです。
どう殺されたのかは書によって違います。陶謙が兵を送って一家を襲った、という話。陶謙が付けた護衛の隊長が財物に目がくらんで殺した、という話。
『三国志』の本文は、曹操は復讐を志して東を討った、とだけ書いています。
193年から翌年にかけて、曹操は徐州に攻め込みました。五つの城を落とし、海辺の東海の地まで攻め進みます。
本文は一句だけ書き添えています。
「通った所では、多くの人を殺戮した」
何人が殺されたのか、本文には書かれていません。百五十年ほどのちの歴史家、孫盛は「罪は陶謙にあるのに、その配下の者たちを殺したのは、過ちである」と書きました。
「生き残った民は、百人に一人」と嘆く詩を書いた男の軍が徐州で多くの人を殺していました。
194年、曹操が徐州にいるあいだに足もとの兖州が寝返ります。味方だった張邈と陳宮が猛将の呂布を迎え入れたのです。
引き返した曹操は濮陽で呂布と戦いました。陣を崩され、燃える火の中を駆け抜けて、馬から落ちます。左の手のひらを焼きました。
このときのことを後の書『献帝春秋』はこう伝えています。呂布の騎兵が曹操を捕まえます。ところが、相手が曹操だと分かりません。
「曹操はどこだ」
「黄色い馬に乗って逃げていくのが、そうだ」
騎兵は曹操を放して、黄色い馬を追っていきました。
その年は蝗の害もあって、穀物の値段は一斛五十万銭あまりに跳ね上がりました。人が人を食べた、と本文は書いています。曹操は集めたばかりの兵を解き放ちました。
そこへ袁紹から使いが来ました。手を組もう、という申し入れです。
兖州を失い、兵の食べ物も尽きていた曹操はそれを受けようとしました。
本当の、別れだな
止めたのは、家臣の程昱でした。
曹操はその諫めに従いました。袁紹の下にはつかなかったのです。
兖州が寝返ったころ、曹操のもとを去った人たちがいました。
畢諶という家臣は寝返った張邈に家族を人質に取られていました。曹操は彼に言ったと、本文は書いています。
「あなたの年老いた母上は、あちらにいる。行きなさい」
畢諶は額を地につけ、二心はありません、と誓いました。曹操は心を打たれて涙を流したといいます。
ところが畢諶は曹操のもとを出るとそのまま張邈のところへ逃げました。
曹操は魏种だけは私を見捨てないだろう、とも言っていました。その魏种も逃げました。知らせを聞いた曹操は怒って言ったといいます。
「魏种め、南の越か北の胡へでも逃げないかぎり、許しはしない」
数年後、二人とも捕らえられます。曹操は畢諶について、親に孝行な者は主君にも忠実なはずだ、私が求めているのはそういう人だ、と言って役人に取り立てました。魏种のときは「ただ、その才のためだ」と言って縄を解き、使ったと本文にあります。
196年、曹操は皇帝を迎えて、許の町に都を移します。
その年曹操は屯田を始めました。民を募って土地を耕させ、食べ物を作らせる仕組みです。飢えれば奪い、満ちれば捨てて自分から崩れていく軍が多いなかで、この年に穀物百万斛を得たと『魏書』はいいます。
翌197年の旧暦正月。宛の町で張繡という武将が曹操に降参しました。
ところが張繡はまもなく悔やんで寝返ります。不意を突かれた曹操は敗れ、流れ矢に当たりました。
魏の朝廷がまとめた『魏書』によれば曹操の馬、絶影は頬と足に矢を受け、曹操も右の腕を射られたといいます。
晋の時代の『世語』はこう書いています。長男の曹昂は自分の馬を父に差し出しました。曹操はそれで逃げ延び、曹昂は殺された、というのです。
曹操の甥の安民もこのとき死んでいます。
護衛の隊長、典韋は曹操を逃がすために門で戦い続けました。数十の傷を負い、目をむいて敵を罵りながら死んだと、『三国志』は伝えます。
典韋が死んだと聞いて、曹操は涙を流しました。人を募って遺体を取り戻させ、自ら亡骸の前に出て声をあげて泣いたといいます。
退いたあと曹操は将軍たちを集めて言ったと、本文は書いています。
「私は張繡らを降したのに、すぐに人質を取らなかった。その失敗で、こうなったのだ。私は、なぜ負けたのかが分かっている。諸君、見ていなさい。これからは、二度と負けない」
負けた理由は、分かった。
けれど、息子は戻らない。
その年の旧暦11月、曹操は再び宛へ向かう途中、淯水という川のほとりで死んだ将兵を祭りました。曹操はむせび泣いて涙を流し、兵たちもみな声をあげて泣いたと、『魏書』は書いています。
泣き続けている人がもう一人いました。
曹操の妻、丁夫人です。
曹昂は丁夫人が産んだ子ではありません。生みの母の劉夫人が早くに亡くなり、丁夫人がわが子として育てたのです。
『魏略』によれば丁夫人はいつもこう言っていました。
「私の子を殺しておいて、少しも気にかけない」
そして、とめどなく泣いたといいます。
曹操は怒り、夫人を実家に帰しました。気持ちが折れるのを待ったのだ、と『魏略』は書いています。
『魏略』はそのあとのことも伝えています。
曹操は夫人に会いに出かけました。
夫人は機を織っていました。「殿がお着きです」と取り次ぎの者が告げても、機の前に座ったまま元のとおりです。
曹操はそばへ行き、夫人の背中をなでて言いました。
「こちらを向いてくれ。一緒に車に乗って、帰ろう」
夫人は振り向きませんでした。返事もしませんでした。
曹操は後ろへ下がり、戸の外に立って、もう一度言いました。
「まだ、だめか」
答えはありませんでした。
(負けた理由ならいつでも言える。この人の前では、何を言えばいいのか)
曹操は言いました。
「本当の、別れだな」
裸足の出迎え
198年、曹操は呂布を攻めました。その途中で彭城の町を「屠った」と、『三国志』は書いています。町を攻め落とし、そこにいた人々を殺したことを言う言葉です。下邳の城を水攻めにし、一か月あまりで呂布と陳宮を捕らえて二人とも殺しました。
残る大きな敵は、ひとり。北の四つの州を手に入れ、十万を超える兵を持つ袁紹です。
将軍たちは勝てないと言いました。曹操は袁紹の人となりを並べてみせたと本文にあります。
「私は袁紹という男を知っている。志は大きいが、知恵は小さい。顔つきは厳しいが、肝は小さい。兵は多いが、指図がはっきりしない。土地が広く、食べ物が多くても、ちょうど私への贈り物になるだけだ」
200年、両軍は官渡でにらみ合います。
強気の言葉とは裏腹でした。本文によれば、曹操の兵は一万に足りず、けが人が二、三割でした。袁紹は土の山を築き地下道を掘って攻めてきます。矢が雨のように陣の中へ降り、兵は盾をかぶって歩いたといいます。兵の食べ物も少なくなっていきました。
曹操は都を守る荀彧に手紙を書き、許へ引き返すことを相談しました。
荀彧の返事はこうだったと本文は伝えます。あなたは最も弱い力で最も強い相手に当たっている。ここで抑えきれなければ、必ずつけこまれる。今が天下の分かれ目だ。袁紹は人を集めることはできても、使うことはできない。
曹操は踏みとどまりました。
そこへ袁紹の側から一人の男が逃げてきます。袁紹の参謀だった許攸です。
そのときのことを敵方が書いた『曹瞞伝』はこう伝えています。
許攸が来たと聞くと、曹操は裸足のまま出迎え、手をたたいて笑いました。
座につくと、許攸は兵の食べ物があとどれほどあるのかを聞きます。曹操は一年はもつ、と答えました。重ねて聞かれると半年、と答えます。本当のことを言っていない、と責められて曹操はようやく白状したといいます。
「さっきのは冗談だ。実は、一か月分くらいしかない。どうしたらいい」
許攸は烏巣にいる袁紹の食べ物の輸送隊を襲え、と教えました。
曹操は自ら五千の兵を率いて夜のうちに烏巣を襲いました。袁紹の救いの騎兵が近づくと、そばの者が兵を分けて防がせてくださいと言います。曹操は怒って言ったと、本文にあります。
「敵が背後に来てから、知らせろ」
兵たちは死にものぐるいで戦い、烏巣は落ちました。
『曹瞞伝』はこのあと曹操の軍が袁紹の兵を千人あまり殺し、それを袁紹の軍に見せつけたと書いています。また、曹操が袁紹の軍八万(七万とも)を生き埋めにしたと多くの書が記している、と五世紀の注釈者、裴松之が書き留めています。
裴松之はこの記事を疑わず、逆に八千人では逃げ散る八万人を縛れないのだから、曹操の兵は本文の「一万に足りない」ほど少なくなかったはずだ、と論じています。
袁紹は北へ逃げ帰りました。
残された袁紹の書類の中から曹操は許の都の人々や自分の軍の者たちが袁紹に送っていた手紙を見つけます。
曹操はそれをみな焼きました。『魏氏春秋』はそのとき曹操がこう言ったと伝えます。
「袁紹が強かったころは、私でさえ、自分の身を保てなかった。まして、ほかの者はなおさらだ」
202年の旧暦正月、曹操は故郷の譙に軍をとどめ、令を出しました。
「故郷の人々は、ほとんど死に絶えた。国の中を一日歩いても、知った顔に会わない。私は悲しく、胸が痛む」
令は戦で死んで跡継ぎのいない兵のために親類を探して家を継がせ、よい田と耕す牛を与え、子に学問を教える先生を置くように命じています。
同じ年曹操は使いを送り、橋玄の墓を祭らせました。若いころ、「それを安んじることができるのは、あなたであろう」と言ってくれた人です。
祭りの文に曹操は昔の約束を書いています。橋玄がくつろいだ席で冗談めかして言った言葉でした。
「私が死んだあと、墓の前を通りかかって、一斗の酒と一羽の鶏を供えずに行ったら、車が三歩も進まないうちに腹が痛くなっても、恨むなよ」
その場の冗談だ。けれど、よほど親しくなければ、こんなことは言わない。曹操はそう書き添えています。
同じ202年の旧暦5月、袁紹は病で血を吐き、亡くなりました。
204年、曹操は袁紹の本拠地、鄴を落とします。
曹操は袁紹の墓に行って祭りました。声をあげて泣き、涙を流しました。袁紹の妻をいたわり家の者と宝物を返し、絹や綿、食べ物を与えた、と本文は書いています。
本文はこの場面に二人が兵を挙げたころの会話を添えています。
袁紹が聞きました。うまくいかなかったら、どこを拠り所にするか。曹操が逆に聞き返すと、袁紹は北の土地に異民族の兵を合わせて天下を争う、と答えます。
曹操の答えはこうでした。
「私は天下の人々の知恵と力を使い、道理をもってそれを動かす。そうすれば、できないことはない」
勝ったのは、曹操でした。
その曹操が敵の墓の前で泣いたのです。百五十年ほどのちの孫盛は反逆者の墓で悲しみを尽くすのは政治の道を誤ったものだ、と批判しています。
泣いた理由を曹操は書き残していません。
天下に、分かり合える者は少ない
郭嘉は曹操の参謀の中でいちばん若い男でした。字は奉孝。
207年、北の異民族、烏丸を討ちに行く遠い戦に将軍たちはこぞって反対しました。賛成したのは、郭嘉だけだったといいます。
曹操は勝ちました。けれど帰り道で郭嘉は重い病にかかります。曹操は見舞いの使いを次々に送りました。
郭嘉は死にました。三十八歳でした。
曹操は家臣たちにこう言ったと、『三国志』は書いています。
「諸君は年がみな私と同じ世代だが、奉孝だけがいちばん若かった。天下のことが片づいたら、後のことを託すつもりだったのに、働き盛りで死んでしまった。これも、運命か」
翌208年、曹操は丞相になります。皇帝を助けて政治を取りしきる、いちばん上の大臣です。南の荊州は戦わずに降り、曹操の大軍は逃げる劉備を追って南へ進みました。
旧暦12月、赤壁。
『三国志』の曹操の伝の記事は短いものです。曹操は赤壁で劉備と戦い、不利でした。疫病がはやって多くの兵が死に、軍を引き揚げた、とあるだけです。
引き揚げる途中、曹操は嘆いたと、本文は書いています。
「郭奉孝がいたら、私をこんな目にあわせはしなかったのに」
荀彧にあてた手紙でも曹操は郭嘉のことを書いています。
「奉孝は年が四十にも満たず、私と十一年つきあった。険しいことも苦しいことも、みな一緒に味わった。(中略)そのうえ奉孝は、私を分かってくれる者だった。天下に、互いに分かり合える者は少ない。だから、なおさら痛ましく、惜しい。どうしたらいい、どうしたらいい」
同じ208年、もう一つの死がありました。
曹操の子、曹沖。十三歳。五、六歳で大人のような知恵があったと、本文はいいます。
曹操の馬の鞍が倉で鼠にかじられたことがありました。番人は死罪を恐れます。曹沖は番人に三日待ってから名乗り出なさい、と言いました。それから自分の着物に刀で、鼠がかじったような穴をあけ、悲しそうな顔をして父の前に出たのです。
わけを聞かれると、鼠に着物をかじられると持ち主に不吉なことがある、と世間では言いますから、と答えました。曹操はばかげた話だ、気にするな、と言いました。
やがて番人が鞍のことを申し出ます。曹操は笑って言ったといいます。
「息子の着物は身のそばにあったのに、かじられたのだ。まして柱に掛けた鞍なら、なおさらだ」
番人は何も咎められませんでした。
曹操は家臣たちの前でたびたび曹沖をほめていました。跡を継がせたい気持ちがあったと、本文は書いています。
その曹沖が病にかかりました。曹操は自ら神に命を乞います。
曹沖が死ぬと、曹操の悲しみは深いものでした。慰めに来た曹丕に曹操はこう言ったと本文にあります。
「これは私の不幸だ。そして、お前たちの幸いだ」
曹丕は、曹沖の兄。のちに曹操の跡を継ぐ人です。
曹沖の病が重かったころ、曹操はもう一つ悔やむことを口にしています。
それより前、曹操は名医の華佗に持病の頭痛を診させていました。華佗は故郷に帰りたがり、妻の病気を口実に期限を過ぎても戻りませんでした。調べさせると、嘘でした。曹操は華佗を牢に入れました。
荀彧が命乞いをしました。華佗の腕は本当にすぐれていて、人の命がかかっている、と。曹操は答えたと本文にあります。
「心配するな。天下に、こんな鼠のような者がいなくなるとでもいうのか」
華佗は牢の中で死にました。
曹沖が危うくなったとき、曹操は嘆いたといいます。
「華佗を殺したことを、私は悔やむ。この子を、無理に死なせてしまった」
同じ208年、何度も曹操に逆らってきた名士の孔融が孫権の使いに曹操の悪口を言ったとして、市場で処刑されています。幼い二人の子もともに殺されました。
210年の旧暦12月、曹操は長い令を出します。兵を手放して、自分の領地に引っこんだらどうか。そう言う人たちへの答えでした。
「もし国に私がいなかったら、何人が皇帝を名のり、何人が王を名のっていたか分からない。人は、私が強く盛んなのを見、また私が天命というものを信じない性質なので、身のほど知らずの野心があると、勝手に推し量っているのではないか。そう思うたびに、心が落ち着かない」
同じ令で曹操は兵を手放すことは決してできない、とも書いています。兵を離れれば人に殺されるのが本当に恐ろしいからだ、と。
そして、この心の内を妻たちにもいつも話している、と書きます。
「私が死んだあと、お前たちはみな、よそへ嫁いでいくだろう。そのとき私の心を伝えて、ほかの人々にも知らせてほしいのだ」
212年、家臣たちが曹操を「国公」に昇らせようと動きました。王に次ぐ自分の国を持つ位です。
荀彧は反対しました。曹操は正義の兵を挙げて朝廷を正した人だ。君子は徳によって人を愛するもの。こんなことをすべきではない、と。
本文は書いています。曹操はこれで心が穏やかでなくなった、というのです。
その年荀彧は寿春で病にかかり、憂いのうちに亡くなりました。五十歳でした。
『魏氏春秋』には別の話が残っています。曹操が荀彧に食べ物を贈りました。開けてみると、器は空でした。荀彧は薬を飲んで死んだ、というのです。
官渡で引き返すなと書き送った人でした。郭嘉を失った悲しみを打ち明けた相手でした。
翌年、曹操は魏公になりました。
見習うな
213年の旧暦正月、曹操は濡須の川口で南の孫権の軍と向き合っていました。
呉の書『呉歴』によれば、孫権は軽い船に乗って自ら曹操の陣を見に来ました。曹操はむやみに弓を射るなと命じます。孫権の船も、武器も、隊列もきちんと整っている。それを見て曹操はため息をついて言ったといいます。
「子を持つなら、孫仲謀のような子がいい。劉景升の息子などは、豚か犬のようなものだ」
孫仲謀は孫権のこと。劉景升の息子は戦わずに曹操に降った荊州の主です。
孫権からは手紙が届きました。
「春の水が増えてきます。あなたは早くお帰りなさい」
別の紙にはこうありました。
「あなたが死なないかぎり、私は安心できない」
曹操は将軍たちに孫権は私を欺かない、と言って、軍を引き揚げました。
翌214年、遠征に出る曹操は二十三歳の息子曹植に本拠地の鄴の留守を任せて言いました。
「私は昔、頓丘の長官になったとき、二十三歳だった。あのころにしたことを思い返しても、今になって悔いはない。お前も今、二十三だ。励まずにいられようか」
216年、曹操は魏王になります。
そのころ人選びを任されていた重臣の崔琰が手紙に「いつか変わる時が来る」と書いたことを、身のほど知らずだと告げ口されました。曹操は怒り、崔琰を罪人の労役に落とします。それでも崔琰は言葉も顔色も屈しなかったといいます。曹操は令を出して死を命じました。
敵方が書いた『曹瞞伝』によれば、ほかにも言葉で曹操を傷つけた辺譲という人が殺され、その一族も滅ぼされています。
217年の令に曹操は曹植のことをこう書いています。
「はじめ私は、子建こそ、子どもたちの中でいちばん大事を任せられると思っていた」
子建は曹植の字です。その年曹植は皇帝のための道を車で走り、宮殿の司馬門を開けさせて出ていきました。曹操は激怒し、門を預かる役人は罪に問われて死にます。曹操の別の令にはこうあります。
「臨菑侯の植が、勝手に出かけ、司馬門を開いて金門まで行ってから、私はこの子を、違う目で見るようになった」
219年、曹操は曹植を将軍にして、関羽に囲まれた味方を救いに行かせようとしました。呼び出すと、曹植は酔っていて、命令を受けられません。曹操は取りやめました。兄の曹丕が無理に飲ませたのだ、という話も伝わっています。
同じころ漢中で劉備と争っていた曹操が出した令は、「鶏肋」の一語だけだったと、『九州春秋』は伝えます。誰も意味が分からない中、楊脩だけが荷造りを始めました。鶏のあばら骨は、捨てるには惜しいが、食べても身がない。王は帰るおつもりだ、と。
その楊脩も殺されます。跡継ぎをめぐる争いを案じた曹操が、才があり、袁氏の甥でもある楊脩を罪に問うて殺したと、本文は書いています。罪の中身を本文は書きませんが、『典略』は曹操の言いつけを外に漏らし、諸侯と通じた罪だとしています。
219年の冬、関羽を討つと申し出てきた孫権が手紙で曹操に家来を名のり、天命を説いてきました。皇帝になれ、ということです。曹操はその手紙を人々に見せて言った、と『魏略』は伝えます。
「この小僧は、私を炉の火の上に座らせるつもりか」
家臣たちも皇帝になるよう勧めました。『魏氏春秋』によれば曹操はこう答えたといいます。
「もし天命が私にあるなら、私は周の文王になろう」
周の文王は天下の三分の二を手にしながら、最後まで殷の王に仕えた人です。新しい王朝を開いたのは、その息子でした。
敵方の『曹瞞伝』には晩年の曹操が洛陽の北部尉の役所を元よりも立派に建て直させたという記事があります。二十歳のとき、五色の棒を門に掛けた、あの役所です。
220年、旧暦の正月。曹操は洛陽で亡くなりました。六十六歳。
遺令(死に際の命令)は『三国志』の本文に残っています。
「天下はまだ安定していない。昔からの葬りの礼に従うことはできない。葬りが終わったら、みな喪服を脱げ。兵を率いて守りについている者は、持ち場を離れるな。役人は、それぞれの務めを果たせ。その季節の着物で棺に納め、金や玉や宝物を墓に入れるな」
八十年ほどのち、宮廷の書庫でこの遺令を読んだ文人の陸機がほかの部分を書き写しています。
「余った香は、夫人たちに分けてよい。部屋でなすことがなければ、履や組みひもを作って売ることを覚えよ」
末の子の豹を指さして、四人の息子たちに示し、「お前たちに、苦労をかける」と言って、涙を落とした、と陸機は書いています。
そして遺令には曹操が自分のことを書いた一節があります。
「私が軍の中で法を守らせたのは、正しかった。けれど、小さな怒りや、大きな過ちは、見習ってはならない」
「私は、どういう人間か」。若いころ、曹操はそれを人に尋ね、返ってきた答えに大笑いしたと伝えられます。
最後の答えは自分で書きました。
敗れた夜、自分の馬を渡したいとこの曹洪。『世語』によれば、馬を父に差し出して死んだという長男の曹昂。門で戦い続けた典韋。引き返すな、と書き送った荀彧。曹操が答えを書き終えるまでの道にはその人たちがいました。
若いころの望みの一つは、墓に「漢の故征西将軍曹侯の墓」と記されることでした。
遺令にはこうもあります。側室や歌い手たちを鄴に建てた銅爵台に住まわせよ。月の一日と十五日には私の帳に向かって音楽を奏でよ。
「お前たちは、ときどき銅爵台に登って、私の西陵の墓所を、望め」