新島八重 — 待てない人

止められても出ていき、結婚式には五分早く着いた。その人が、夫の死の床では「少し待て」と待たされる

止められても

「女が兵士に連つらなるのは、およしなさい」

城の中で、彼女かのじょはまわりの人々から、そう諫いさめられたといいます。

それでも、城から兵が打って出るときには、こっそり、必ず出ていきました。

1933年にまとめられた会津あいづの戦史は、もっと短く書いています。諫められても、彼女は聞かなかった。

髪かみは、城に入ったときに切り捨てていた。男ものの洋服を着て、銃じゅうを取り、城の狭間さまや高い櫓やぐらから、敵と撃うち合っていたと伝えられます。

兄が名高い砲術家ほうじゅつかだったから、いつのまにか覚えて、こうして働いたのだ。1904年にまとめられた会津の歴史は、そう書き添そえています。

山本八重やまもとやえ。のちに新島八重にいじまやえと呼ばれる人です。このとき22歳さい。会津(今の福島県の西のほう)の、若松わかまつの城の中にいました。

1868年、会津藩あいづはんは徳川とくがわの側に立って、新しい政府の軍と戦っていました。旧暦きゅうれき(昔のこよみ)の8月23日、政府の軍が城下に攻せめ入ります。藩はんの人々は城に籠こもりました。籠城ろうじょうは、およそひと月続きます。

城に入った女性たちは、けが人の手当てや食事のしたく、そのほかの雑用に、大いに働いた。同じ会津の山川健次郎やまかわけんじろうは、何十年もあとの講話で、そう語っています。

八重やえがしていたのは、それとは別のことでした。

八重の家は、砲術ほうじゅつの家でした。兄の覚馬かくまは、西洋の砲術で名の知られた人です。八重はふだんから兄に習って練習を重ね、いざというときに備えていたそうです。藩の少年たちの隊、白虎隊びゃっこたいの少年に、銃の扱あつかいを教えたこともあったといいます。

城の中には、夫もいました。但馬たじま(今の兵庫県ひょうごけんの北部)のあたりから来たという砲術家、川崎尚之助かわさきしょうのすけです。

城にあった大砲たいほうで、役に立つものは数門だけ。それで、山の上に陣じんを取った敵を撃ち返した。その役目を受け持ったのが川崎かわさきで、助手は八重という女性だった、と山川やまかわは語っています。

この年、八重の家族は、ばらばらになっていきました。

年の初め、京都の近くの伏見ふしみの戦いで、弟は傷を負い、江戸えどで亡くなっていた。兄の覚馬は京都で、敵方の薩摩藩さつまはんの屋敷やしきに閉じこめられていました。

籠城のさなか、その兄が京都の河原で処刑しょけいされた、といううわさが流れてきます。母のさくは、うわさは信じない、と言ったそうです。やがて、兄が生きていることが、出入りの農家を通じて伝わってきました。

城の中も、安全ではありませんでした。

旧暦9月14日、政府の軍は総攻撃そうこうげきをかけます。数十門の大砲で攻め立て、朝から晩まで、砲声ほうせいが途切とぎれなかった。城の中でも、砲弾ほうだんに当たって死ぬ人が少なくなかった、と山川は語っています。山川の兄の妻も、この日に撃たれて亡くなりました。

父の権八ごんぱちは、城から一里半(6キロ)ほどの所で、仲間とともに討ち死にしました。61歳でした。

旧暦9月22日、会津藩は降伏こうふくします。

藩主はんしゅが城を出ると決まり、八重も人々とともに城を去ることになった。そのとき、一首の歌をよんだと伝えられます。

「あすよりはいづこの誰だれか詠ながむらん馴なれし大城おおしろにのこす月影つきかげ」

あしたからは、どこの誰が眺ながめるのだろう。住みなれたこの城に、残していく月の光を。

よみおえると、八重は声をあげて泣いた、と、あの会津の歴史は書いています。

誰もが同じ思いで城を出たのだから、この歌には、ひときわ胸にせまるものがあった。歴史をまとめた人は、そう書き添えました。

髪を切り、銃を取り、止められても出ていった人でした。その人が、城を出る日に、月の歌をよんで泣いた。

三年後の京都。

目の見えなくなっていた兄は、夜ごとに目を覚ましては、妹にこうせがんだといいます。

「おい八重、それからどうだった。話してくれ」

五分早い花嫁はなよめ

会津あいづが攻せめられていると聞きながら、駆かけつけることもできなかった兄でした。

覚馬かくまは、故郷がほろびていくのを、ひどく悲しんでいたといいます。籠城ろうじょうの話を、何度でも聞きたがったのは、そのためでした。

1871年、母は八重やえと、兄の娘むすめを連れて、京都の兄のもとへ移っていました。父と弟は、もういない。

京都へ移った一行に、最初の夫、川崎尚之助かわさきしょうのすけの名はありません。二人がいつ、どうして別れたのか、はっきりしたことは分かっていません。

兄は目が見えないまま、京都府の顧問こもんとして働いていました。法律にくわしく、都でも名の知られた人です。

その兄の影響えいきょうで、八重は英語を学びはじめます。髪かみは西洋風に結い、はき物は西洋の靴くつ。京都の女紅場にょこうばという女子の学校で、寮りょうの世話役の舎監しゃかんも務めました。生徒たちには、蚕の育て方なども教えていた。当時の代表的な「新しい女」だった、と、のちの伝記は書いています。

1872年、兄は、京都の博覧会のための英語の案内書を作ることになりました。ドイツから来た印刷機で刷るのですが、そのためには、小さな活字を一つずつ拾って並べる人がいる。

活字を拾ったのは、八重だったといいます。刷り上がったのは、京都の町とその周りの絵の入った、48ページの英語の案内書。著者は兄です。兄の名で出る案内書を、妹が一文字ずつ拾って、形にしたのです。

翌1873年、京都府の役人の槇村正直まきむらまさなおが、東京で閉じこめられました。取り戻もどしてほしいと府に頼たのまれた兄は東京へ向かい、付き添そったのは八重でした。京都から横浜よこはままでは人力車で通し、横浜からは、できたばかりの汽車に初めて乗った。

東京では、目の見えない兄を背負って、政府の重い役についていた三人の家を、訪ねて回ったと伝えられます。やがて槇村まきむらは、京都へ取り戻されました。

その槇村には、祇園ぎおんで舞妓まいこの手を引いて歩いている、といううわさがありました。八重がそれを兄の耳に入れると、かえって叱しかられたそうです。

目の見えない兄は、その舞妓がどれほど美しいかも知らなかった、と伝記は書き添えています。

(その人を取り戻すために、東京じゅう兄さんを背負って回ったのは、どこの誰だれでしたっけ)

1875年、八重は一人の男性と婚約こんやくします。

新島襄にいじまじょう。京都に、キリスト教の学校を開こうとしていた人です。八重はすでにキリスト教を信じるようになっていて、女紅場の生徒たちに、キリストの教えを書いた本を渡わたしてもいたと伝えられます。

襄じょうはアメリカの友人への手紙に、婚約者こんやくしゃのことをこう書いています。

「彼女かのじょは、目の見えない兄にどこか似ています。それが自分の務めだと信じたら、誰のことも恐おそれません」

学校のほかの役人たちが怖こわがってできないときにも、彼女は学校のために、何度も府の長官の前に出ていった、と手紙は続けます。

婚約が知れると、八重はすぐに、学校の職を解かれました。生徒たちにキリスト教が広まるのを、府の長官がおそれたからだと、同じ手紙は伝えています。

手紙には、こうもありました。「いつ結婚けっこんすることになるのか、私には分かりません。宣教師の仲間たちに決めてもらうつもりです」

翌1876年の正月はじめ、八重は洗礼せんれいを受けました。京都で初めての洗礼です。一緒いっしょに受けたのは、宣教師デヴィスの、幼い子どもでした。

結婚式けっこんしきも、同じころ、御所ごしょに近いデヴィスの家で開かれました。

結婚の当日、二人は一緒に式場へ向かう約束をしていました。

八重は人力車で、襄の家へ迎むかえに行きます。約束より五分ほど早く着いた。

襄は、こう言ったと伝えられます。

「早いじゃないか。今日つけていく襟飾えりかざりを洗ったので、いま火熨斗ひのしをかけているところだ」

襟飾りはネクタイのこと。火熨斗は、炭火を入れて布のしわをのばす、昔のアイロンです。

花嫁はなよめは五分早く着き、花婿はなむこはまだ、ネクタイにアイロンをかけていた。

集まったのは、親類や学校の先生、知り合いなど、三、四十人。ごく質素な式でした。

「式のあと、軽い食事が運ばれて、みなが幸せそうでした。この土地で初めての、日本人のキリスト教徒の結婚でした」と、襄は友人に書き送っています。

同じ手紙で、襄は友人にあやまってもいます。本当は前もって知らせるべきでしたが、力に余るほど忙いそがしかったのです、と。自分の結婚の知らせが、遅れてしまったのでした。

ただ、この結婚を、こころよく思わない人もいました。府の顧問の妹と、キリスト教の学校を開く男。政略結婚せいりゃくけっこんだ、と言う人は、何十年もあとまでいたといいます。

やがて、この花嫁を、人前で一度ならず二度ならず、こき下ろすことになる少年が、夫の学校にやって来ます。

頭は西洋、胴どうは日本

少年が、初めて同志社どうししゃに着いた夜のことです。

宣教師の家で、祈いのりの集まりがありました。その中に一人、日本の着物の上に、西洋の婦人がかぶる帽子ぼうしのようなものをかぶった女性がいた。

まるで化け物の行列のようなありさまだった、と、のちの評論は書いています。少年は苦々しく、その姿をじっと見ていたといいます。その女性が、新島襄にいじまじょうの妻でした。

少年の名は、徳富猪一郎とくとみいいちろう。のちに蘇峰そほうの名で、たくさんの本を書く人です。

そのころの八重やえの姿は、こう伝えられています。束ねた髪かみに、ボンネット(西洋の婦人の帽子)。首には、えりのようなもの。肩かたから足までは、袴はかまをつけない日本の着物。そして足には、西洋の靴くつ。

1876年の暮れ、八重は、デヴィスの家で、数人の女の子に英語の初歩の読本を教えはじめました。宣教師の女性たちが歌を教え、八重が読本を教える。それくらいの、小さな始まりでした。生徒の中には、9歳さいの男の子もまじっていたそうです。これが、のちの同志社女学校どうししゃじょがっこうになります。

学生たちの演説会の日。襄じょうは夫婦そろって会に出て、学生の演説を聞き、話し方を教えていました。

その夫婦の目の前で、徳富とくとみは演説をしました。ここに、鶴つるのような女がいる。そう始めて、こう言ったと伝えられます。

「その頭は西洋、胴どうは日本」

夫人の悪口でした。それも、一度ではなかった。

徳富は、のちに自分の本で打ち明けています。夫人が先生のことを話すとき、「襄、襄」と呼ぶのが、気に食わなかった。それで義憤ぎふんにかられて、演説会で、一度ならず二度ならず、ずいぶん手厳しく攻撃こうげきした、と。十五、六歳のころのことです。

学生たちが「先生」と呼ぶ人を、妻は名前で呼んでいたのです。

襄は、一言も言わなかったそうです。少年への態度も、変えなかった。

では、八重は。

心の中では怒おこっていたかもしれないが、自分に対して、とくに態度を変えることはなかった。さすがは会津あいづが生んだ女性だ。そう書いたのは、攻撃した徳富のほうでした。八重自身が何と言ったのかは、見つかっていません。

彼女かのじょの「新しさ」は、服だけではありませんでした。

同志社では毎日の午後、学生たちが源平げんぺいの二組に分かれて、球を投げ合う合戦をしていました。その球を考えたのが、八重だったといいます。

古い布に布団ふとんの綿を、石のように固く包んだもの。破れると、中にはたいてい石ころが詰つめられた。

球はひゅうひゅうと飛び、毎日けが人が出ました。一方の大将だった海老名弾正えびなだんじょうは、この球に当たって、前歯を何本か折ったと、学校の歴史に残っています。のちに同志社の総長になる人です。

寒くなってからの話も、残っています。

京都では、天長節てんちょうせつ(天皇の誕生日の祝日)の11月3日を過ぎると、綿入わたいれを着るのがならわしでした。ところが学生の金森通倫かなもりみちともは、11月の半ばになっても、単衣ひとえ一枚で祈りの会に出て、ふるえていた。

見かねた八重は、体の寸法をはかるのも悪いと思って、ひとり見当をつけて、綿入れを仕立てました。金曜日の夜、金森かなもりだけを呼び止めて、それを渡わたします。

金森は学校へ帰る途中とちゅう、うれしさと寒さにたまらず、御所ごしょの門の下で、その綿入れを着たという話です。

ある日、襄が、木の棒で自分の手を散々に打って、学校から帰ってきたことがありました。

しばらくして、夫婦で牛肉を買いに出かけた先で、八重が何かのはずみに夫の手に触ふれると、襄は「あ痛いた」と言ったそうです。見ると、手が紫むらさき色になっている。驚おどろいて尋たずねると、車夫がいるから、帰ってから話す、と襄は答えました。

八重は、こう言ったと伝えられます。

「それなら、英語で話してください」

こうして彼女は、夫が自分の手を打ったわけを、帰りを待たずに知りました。夫婦で一台の人力車に乗ることも、とっさの英語も、学生たちには、いまいましく思う者が少なくなかったそうです。

二人で喜び合う日も、ありました。1879年の暮れ、学校のための資金の願いがかなったと知らせる手紙を読んで、襄は、主がしてくださった、と声をあげ、涙なみだを流して喜んだ。そして妻と二人、神の前にひざまずいて、心から感謝した、とアメリカの恩人に書いています。

それでも、と徳富は書いています。

あれほど無礼なことを言いながら、自分は平気で新島家にいじまけに出入りし、ときどき夫人の手料理の五目飯を、ごちそうになっていた。今考えても、自分で不思議でならない、と。

その徳富が十数年後、襄の最後の言葉を書きとめる役になります。

少し待て

「私たちにとって、本当に幸せな日でした」

1885年の暮れ、新島襄にいじまじょうは、アメリカの恩人の夫人への手紙に、そう書いています。1年半あまりの欧米おうべいの旅から、京都の家に帰った日のことです。

年老いた両親が、待ちかねていました。妻の八重やえは、きちんとした日本の夕食を用意していた。みなで日本風に座って食べた、と。

2年後の手紙では、その妻が、警官になっています。

「妻は、いつも私を見張っています。警官のように、私のペンと紙を取りあげ、お客には、話をやめてくれと頼たのむのです」

胸の中は、これからの計画で、火山のように燃えている。なのに、妻が止める。もう日本のどこにも隠かくれられない、と妻には言ったけれど、それをありがたく思っている、と。

襄じょうの体は、このころ、弱っていました。

1888年の夏、東京。医者は、心臓が大きくなっていて、もう元には戻もどらない、いつ命が終わってもおかしくない、と告げます。

襄は、それを落ち着いて聞いた、と自分で書いている。けれど妻には、とても耐たえられないことのようでした。

医者は八重に、本人には秘密にしておくように、と言っていたのです。

「でも、かわいそうに、彼女かのじょは秘密を守れませんでした」

同じ手紙の終わりに、襄はこう書き足しています。

「妻が戻ってきて、もうやめなさいと言います。ここに書いたことは、妻には知らせていません」

秘密を守れない妻と、妻にないしょの手紙を書く夫でした。

1889年7月19日。この日のことを、八重は自分の筆で書き残しています。

政治家の井上馨いのうえかおるが、病みあがりの襄を自分の馬車に乗せ、外務大臣の大隈重信おおくましげのぶの官邸かんていへ連れていってくれた。そこで、大学をつくるための寄付を、力のある人々に頼んでくれたのです。その夜、3万2千円が集まりました。

夜11時ごろ、家に帰った。八重の覚え書きには、こうあります。

「非常の悦よろこびにて共に神に感謝をなして、十二時に床とこに就つく」

たいそう喜んで、二人で神に感謝して、夜中の12時に床についた。

その年の暮れ、襄は神奈川の大磯おおいその宿で、病の体を休めることになりました。

それを知った八重は心配して、そばへ行きたがった。けれど襄は、84歳さいの母のそばにいてやってほしい、と頼みます。そして、こう言い聞かせたといいます。

「昔の武士は、戦に妻を連れていかなかった」

(その戦に、私は銃じゅうを持って出ていたのですけれど)

八重は、京都に残りました。

1890年1月5日の日付で、大磯の襄から、「八重さま」あての手紙が届きます。

新年の思いを詠よんだ歌を、池袋清風いけぶくろきよかぜという人に直してもらってほしい。自分は歌の道を少しも心がけていない者だから、何とか歌になるように、という頼みでした。

八重は、その手紙を同志社どうししゃの図書館へ持っていきました。そこにいた人が、その場で歌を直して渡わたすと、八重はもう一枚を取り出した、と、その人は書いています。

「これも襄が詠んだものです。ついでに直してください」

それからまもなく、襄の病は重くなりました。

夫人を呼びにやってはどうか、と勧すすめられて、襄はこう答えたと記録されています。

「いや、少し待て」

八重に電報が打たれたのは、1月19日でした。八重は京都や東京の友人たちと一緒いっしょに、夫の枕まくらもとへ急ぎます。

待てない人が、待たされたあとで、ようやく呼ばれたのでした。

21日、襄は八重にこう言ったと、襄の手紙を集めたアメリカの伝記は記録しています。

「京都から友人たちが来たら、励はげまして、私のために泣かないように言ってください。私も、情のある人間です。みんなの悲しみに心を動かされて、自分の悲しみで、それをもっと大きくしてしまうかもしれない」

同じ日の朝早く、襄は八重と、仲間の小崎弘道こざきひろみち、それに徳富猪一郎とくとみいいちろうを呼んで、遺言ゆいごんを口で述べました。書きとめたのは、あの徳富とくとみでした。

八重には、こうも言い残した、と同じ伝記は書いています。

「私が死んでも、記念の碑ひを建ててはいけません。『ジョセフ・ニイジマの墓』と書いた木の杭くいが一本あれば、十分です」

23日。苦しい中で、襄は左の手を上げ、笑って「十分だ、十分だ」と言ったと伝えられます。

その日、襄は、八重の左の手を枕にしたまま、息を引き取りました。

息を引き取るとすぐ、徳富は八重に向かって、こう言ったと自伝に書いています。

「私は同志社にいたころから、あなたには、まことにすまないことをしました。しかし、新島にいじま先生が亡くなられたからには、これからは、あなたを先生の形見かたみとしてお扱あつかいします。あなたも、そのつもりで、私とつきあってください」

八重がどう答えたのかは、書き残されていません。

形見かたみ

夜は荒あれ、道は泥どろと、とけかけの雪でぬかるんでいました。

1890年1月24日。襄じょうの遺体を乗せた汽車が京都に着いたのは、真夜中近くでした。駅では千人が待っていて、そのうち600人以上が学生だった。学生たちは、ほかの誰だれにも棺ひつぎに触ふれさせず、交代でかついで、家までの道を運んだそうです。

二か月あまりたった、4月1日。

大隈重信おおくましげのぶのもとに、一通の手紙が届きました。大磯おおいそで襄が遺言として残した、大隈おおくまへの別れのあいさつです。

添そえ状には、三人が名前を並べていました。先頭に新島八重子にいじまやえこ。続いて徳富猪一郎とくとみいいちろう、小崎弘道こざきひろみち。

かつて八重やえをこき下ろした、あの少年と並べての連名でした。

襄の手紙は、自分が死んだあとも、末長く心にかけていてほしい、という願いで結ばれていた。

夫の死のあと、ある学生が、奨学金しょうがくきんのことを八重に尋たずねています。

深井英五ふかいえいご。のちに日本銀行の総裁になる人です。襄から毎月、じかに奨学金を手渡てわたされていた学生でした。けれど襄の話しぶりは、いつも淡々たんたんとしていて、深井ふかいは、自分にはとくに関心がないのか、と思ったこともあったといいます。

八重はこう言った、と深井は自伝に書いています。

「襄は、ふだんから、たびたびあなたのことを話していました」

深井は、そのとき初めて、それを知りました。

八重の目に映る夫は、人の見る夫と、少しちがっていたようです。夫の写真をめぐる話も、伝わっています。夏期学校の記念に写真屋で撮とった一枚で、写り方のせいで、襄が少し猿さるのような顔に写ってしまった。ところが夫人は、その写真のほうが本当の夫に近い、と言ったとか。それはおそらく夫人の思いちがいだろう、と、そのうわさを聞いた吉田清太郎よしだせいたろうは語っています。

1892年、兄の覚馬かくまが亡くなりました。

1894年、日本と清しん(今の中国)とのあいだで、戦争が始まります。

11月4日。日本赤十字社の京都支部は、会員の一人に「看護婦取締とりしまり」の役を頼たのみ、広島ひろしまへ送り出しました。看護婦たちをまとめ、そのふるまいに目を配る役です。新島八重子、48歳さいでした。

26年前は、およしなさいと止められて、こっそり出ていった人です。今度は、頼まれて出ていきました。

京都から送られた救護の一団には、医長の猪子止戈之助いのこしかのすけと、副取締ふくとりしまりの高木晴子たかぎはるこがいました。行き先は、戦地から兵士を受け入れる広島の予備病院の、第三分院。八重は、それから、そこで働きます。

かつて城の狭間さまから、敵の兵と撃うち合った人が、今度は傷ついた兵士たちのいる病院にいた。そのことを、八重がどう思っていたのかは分かりません。病室で何を言い、何をしたのか。八重自身の言葉は、見つかっていません。

残っているのは、日本赤十字社の記録の評です。広島で看護婦たちの風紀がよく保たれたのは、新島八重子ら取締の力が大きかった。別の記録は、八重をふくむ取締たちを、言葉もふるまいもきちんとしていて、看護婦たちには、ていねいで、本当の母や姉のようだった、と書いています。

戦争のあと、医長の猪子いのこ、副取締の高木たかぎとともに、八重には勲章くんしょうが贈おくられました。

1896年には母のさくも亡くなり、1907年、八重は夫の残した家を、そっくり同志社どうししゃに寄付しています。明治の終わりごろには、籠城ろうじょうのときの苦労を人に語りました。『男装して会津城あいづじょうに入りたる当時の苦心』という題の写本が、会津あいづの図書館の古い目録に残っています。題からすると、京都で、目の見えない兄に夜ごと聞かれた、あの籠城の話だったのかもしれません。

徳富とくとみは、夫の死の日の「形見」の約束を、そのあとずっと守ったと書いています。75歳の八重を京都に訪ねたことが、旅の記録に一行だけ残っています。

1927年。同志社の教会の創立五十年を記念して、二週間にわたる集まりが京都で開かれました。講師として招かれた堀貞一ほりていいちという人が、そこで、自分の見聞きした襄の姿を語りました。

81歳の八重は、その話をとても喜びました。そして、夫の遺品を三つ、ほんの少しずつ、堀ほりに分けています。

襄が若い日に上海しゃんはいで切った髪かみ。お宮参りの日の、幼い襄の着物の布。船の上で働いたときの、襦袢じゅばんの布。

1932年、八重は86歳で亡くなりました。夫を見送ってから、42年がたっていました。

もう一度、会津の城に戻もどります。

およしなさい、と止められても、彼女かのじょはこっそり出ていった。城に入った日には、自分の髪を切り捨てていた。

その人のそばには、いつも誰かがいました。夜ごとに、それからどうだった、とせがんだ、目の見えない兄。「誰のことも恐おそれません」と手紙に書き、死の床で「少し待て」と言った夫。かつて人前で彼女をこき下ろし、夫の死の日に「先生の形見として」と詫わびた徳富。

夫が上海で切った髪は、八重の手から、人の手へと渡わたっていきました。

城の日に、彼女が自分で切った髪がどうなったのか。それを書きとめたものは、見つかっていません。