中原中也 — 憎みきれない人
恋人を親友に奪われ、弟と幼い息子を亡くし、酒場で影とけんかした。「汚れつちまつた悲しみに」の詩人の、口惜しくて憎みきれない一生
割れ物
一緒に暮らしてきた女が、別の男のもとへ移る日。彼は、女の割れ物を届けてやった。車に載せにくく、女ひとりでは持ちきれない分を、相手の男が借りて待っている家まで。
のちに彼は、その日のことを、こう書き始めています。
「私はほんとに馬鹿だったのかもしれない。」
十八歳の、十一月の終わりでした。同じ日に、彼自身も下宿を変えることにしていた。自分の荷物を運送屋に渡してしまうと、女の荷物の片づけまで手伝っていたのです。
文章の中で、彼はその男を「私の敵の男」と呼んでいます。
そして、すぐに言い足している。その男は、自分の親しい友だった。それに、その夕方に行かなければならない駅までの途中に、ちょうど男の家があったのだ、と。
言い足したことは、もう一つあります。ちょうど女に退屈していたところで、去っていくのを、内心では喜んでもいた。ところが、いよいよ去ると決まった日から、猛烈に悲しくなった、と。
中原中也。のちに詩人として名を残す若者の、十八歳の出来事です。
女は、三つ年上の長谷川泰子。相手の男の名は、文章では伏せてある。年譜によれば、小林秀雄でした。
話を、少しさかのぼります。
中也は1907年、山口の湯田温泉に、長男として生まれました。父の転勤で、幼いころは各地を移り住んでいます。
金沢にいたのは、五歳から六歳にかけて。越してきて、ある夕方、弟と二人で、近所の子どもたちが遊んでいる寺の庭へ行きました。ひとりが、名前はなんだ、と聞いた。
彼は、自分の「中也」という名前が、ひどくいやだった。ためらったあげく、小さな声で「一郎」と答えた。
それが「イチオー」と聞き違えられた。みんなは急に打ち解けて、イチオー遊ぼう、と寄ってきた。金沢にいるあいだじゅう、彼の呼び名はイチオーだった、と本人は振り返っている。
寺ばかりの町で、葬式をたくさん見た。葬式があるたびに、子どもたちは名刺を持って寺へ行き、お菓子をもらって帰ってくる。うらやましくて、母に名刺をくれと頼んだ。母の答えは、こうだった。
「あれはお葬式のお供に行く人の子どもだけがもらえるのです」
それでも、みんなは名刺を持って出かけてはお菓子を持って帰ってくる。今でもそれは不思議だ、とある。
1915年の1月、弟の一人が病気で亡くなります。中也は七歳でした。詩作は、この弟を歌うことから始まった。年譜は、そう記しています。
十五歳で中学を落第し、移った京都の中学で、泰子と知り合います。一緒に暮らし始めたのは1924年。家族には知らせないままでした。
翌年の3月、二人で東京へ出る。受けた高等学校には、落ちた。東京での知り合いは、小林と、小林を引き合わせてくれた富永太郎の二人だけ。その富永も、泰子が去るひと月ほど前に、病気で亡くなっていた、と彼は書いています。
十一月の終わりの、あの日に戻ります。
割れ物の包みを、彼は新しい家の玄関に置いた。
次の間では、小林が茶色の褞袍を着て、ひどくうつむいて新聞を読んでいた。すぐに引き返そうとすると、泰子が、少し遊んでいけと言う。続いて小林も、ちょっと上がれよ、と言う。彼は、上がった。
何をしゃべったのか、よくは覚えていない。ただ、小林に皮肉めいたことを言ったのは覚えている、という。
すると泰子が、彼に目配せをした。まるで、まだ彼の女であるかのように。
彼は、むらむらとした。それなら、どうして自分を棄てる必要があったのだ。
さよならを言って、冷えた靴をはいた。越してきたばかりの家で、玄関には電球がなかった。暗い玄関まで見送りに出てきたのは、泰子だけでした。
慌てていたので、ガラスの格子戸は少ししか開かなかった。体を横にして出るとき、泰子の顔が見えた。
その瞬間、彼は、いかにも悪漢らしい微笑を作ってみせた、と書いています。
「俺は、棄てられたのだ!」
郊外の道は、夜露でしっとり湿っていた。遠くの暗い森のほうで、電車の音がしていた。彼は身震いした。
駅はすぐ近くだったのに、とても電車に乗る気にはなれなかった。切り開かれたばかりの野の中の道を、次の駅まで歩いた。
新しい下宿に着いたのは、夜中の零時半。二階に上がると、荷物は先に届いていた。布団だけは今夜のうちに荷をほどかなければならない。そう思うと、ひどく、がっくりきた。荷造りの細引の、頭にのぼってくる匂いを、今も覚えている、と。
しかたがないので聖書を取り出して読み始めたが、どこを読んだのか、少しも覚えていない。なぜ聖書だったのか、今となってはおかしいくらいだ、とも記しています。
涙は、出なかった。
口惜しき人
「私はただもう口惜しかった。私は『口惜しき人』であった。」
泰子が去ってから、日がたつほど、口惜しさはつのっていった。中也は、そう書いています。
次の受験は、四か月先でした。父からも母からも、準備はできたかと言ってくる。
朝起きると、彼は下宿を出た。漢文や英語の受験参考書を持って出たことも、二、三度あった。東京の街を、ただほっつき歩くのです。
参考書は、重い荷物になっただけでした。
下宿には、眠りに帰るだけ。泰子と暮らしていたことを、両親は知らない。ちょっと知っている程度の人なら、東京に五人いた。そのうち四人は小林を尊敬している人たちで、残る一人は、自分など相手にしてくれそうもなかった、と彼は振り返っている。
「私は大東京の真ん中で、一人にされた!」
女に逃げられる日まで、自分はいつも前を見つめていられた、とある。
それが、すっかり失われた。人がだんだん嫌いになり、世界は狭くなって、自分を締め殺しそうだった。
「だが私は生きたかった。生きたかった!」
本は、手当たりしだいに読んだ。おもしろいからではない。ほかにどうしようもなかったからだ、と。
「友に裏切られたことは、見も知らぬ男に裏切られたより悲しい」
けれど、去った女が知らない所へ行くより、自分の知っている男の所にいるほうがよかった。そう思う気持ちも、彼にはあった。
卑怯だからだろうか。そうかもしれない、と自分で認めている。そのうえで、自分には「人が憎めきれない」心の力があるのではないか、と問い返してもいる。
小説家なら、ここで女と新しい男のいきさつを書くところだろう。けれど自分には、そんなことに興味はない。彼は、そう断っている。断っておきながら、女のことは、あれこれ考えています。
「あの女は、俺を嫌ってもいないのだし、それにむこうの男がそんなに必要でもなかったのだ……あれは遊戯の好きな性の女だ……いっそ俺をしんから憎んで逃げてくれたのだったら、まだよかっただろう……」
その冬、彼は一冊の詩集に出会います。
宮沢賢治の『春と修羅』。まだ世に認められていない詩人の本でした。彼はそれを愛読書にし、何冊か買って、友人のところへ持っていった。
読んだ本からは何も得なかった、と書いた若者が、この本は、自分で買って人に届けていたのです。
1926年の春、日本大学の予科に入る。大学に進む前の課程です。9月には、家族に知らせないまま、やめてしまった。
小林との縁は、切れていません。
1928年の4月、中也は短い文章を書き、題に「a Cobayashi」と添えた。小林へ、という意味です。書き出しは、こうです。
「人がいかにもてなしてくれようとも、それがただ暖かい色をした影に見え……」
人にもてなされても、それが影にしか見えない。そのさびしさを、泰子が去っていった先の男に宛てて書いていたのです。
同じ文章の中で、彼はこうも言い切っている。
「実生活は論理的にやるべきだ!」
同じ年、小林もまた、泰子のもとを去りました。
1930年の12月。泰子が子どもを産みます。父親は、中也でも、小林でもない人でした。
その子の名付け親になったのは、中也でした。