黒田官兵衛 — 残念です、と書いた人

先が見えすぎて疑われ、説得に行った城の牢で足を悪くした。戦国の知恵者の、最後まで勝負をあきらめきれなかった一生

残念です

「今度は、弓矢は成り立つまいと思います。残念です」

1600年の旧暦きゅうれき8月。五十五歳の男が、友人にあてた手紙に、そう書いています。

弓矢は、戦のこと。けれどこのとき、戦はもう始まっていました。ひと月ほど前に石田三成いしだみつなりが兵を挙げ、この男も、城の金銀を出して兵を集めていたのです。

それなのに、成り立つまい、と書き、残念だ、と書いた。何が成り立たないと読んだのか、手紙はそれ以上を語っていません。

男の名は、黒田如水くろだじょすい。すでに家を息子に譲ゆずり、頭を丸めた隠居いんきょの身でした。若いころは、官兵衛かんべえと呼ばれていました。

手紙を受け取った吉川広家きっかわひろいえは、毛利もうり家の一族です。この戦で、毛利家は三成みつなりの側に立つことになります。

話は、二十五年ほど前にさかのぼります。

播磨はりま(今の兵庫県の南西部)に、小寺政職こでらまさもとという大名がいました。その家老に、三十歳の若者がいた。主君の姓せいを名のって、小寺官兵衛こでらかんべえといいました。

十四歳で母を亡くしたときは、人並み外れて激しく泣いたと伝えられます。十七、八のころには和歌に打ちこみ、僧そうにいさめられて、思い直してやめたそうです。

そのころの小寺家こでらけは、迷っていました。西には、大国の毛利。東では、織田信長おだのぶながが勢いを増している。どちらにつくか。

重臣たちが集まった席で、官兵衛は言い切ったと伝えられます。これから天下を握にぎるのは、織田だ、と。

小寺家は、その読みに乗りました。1575年、官兵衛は使いとして岐阜ぎふへ行き、信長のぶながに会っています。

二年後、信長の家臣の羽柴秀吉はしばひでよしが、毛利と戦うために播磨へやって来ます。

官兵衛は、自分の城だった姫路ひめじ城を、秀吉ひでよしに差し出しました。城は荒あれているので今掃除そうじをしている、見苦しいがまず二の丸の私の家へ。そう言って秀吉を迎むかえ、掃除がすむと本丸に移した、と黒田家の記録にあります。

さらに、十歳の息子の松寿しょうじゅを、人質として信長のもとへ送った。裏切らない、というしるしです。

息子まで差し出して、自分の読みに賭かけたのです。

秀吉は、この若者をたいそう気に入ったといいます。

秀吉が自分の手で官兵衛に書いた手紙が、黒田家の記録に写されています。お前のことは、弟の小一郎こいちろうと同じくらい、気安く思っている。そして終わりのほうには、この手紙は読めもしないだろうから、さげすんで読んでくれ、とある。

のちに天下を取る男が、手紙の文のことでへりくだっている。官兵衛は、その男に頼たよりにされていたようです。

読みは、当たりつつあった。

ところが1578年、信長の家臣だった荒木村重あらきむらしげが、信長に背きます。摂津せっつ(今の大阪府北部から兵庫県南東部)の有岡城ありおかじょうにこもり、毛利と手を結んだのです。

主君の小寺政職も、毛利の側へ傾かたむきはじめました。

官兵衛は、何度も止めたといいます。自分の子を人質に出しているから言うのではない。信長は、いずれ天下の主になる人だ。一度ついた相手を裏切るのは、義に外れる。

政職まさもとは、聞きませんでした。それどころか、小寺家の家老たちが官兵衛を殺す相談をしている、という話まで聞こえてきます。

官兵衛は、ひそかに姫路へ戻もどり、父の職隆もとたかに打ち明けました。家来たちは、すすめます。この城にこもりましょう。病気だと言って、主君のもとへは使いだけを送りましょう。

官兵衛は、それを断った、と黒田家の歴史をまとめた家譜かふは書いています。

「まだ何も起きていないのに、この城にこもれば、小寺殿こでらどのに対して謀反人むほんにんになる」

「もとより武門に生まれたからには、義に当たって、命を惜おしむべきではない」

父の職隆は、その覚悟かくごはもっともだと言いました。どうしても逃のがれられないなら、そのときは腹を切れ。父と子は、互たがいに涙なみだぐんで別れたといいます。

官兵衛は、わずかな供だけを連れて、主君の城、御着ごちゃくへ戻りました。いつもと変わらない様子で過ごしたので、人々は安心したそうです。

すると、政職が頼んできます。荒木あらきのところへ行って、なんとか信長の側へ引き戻してくれ。

荒木の腹の内は、計りがたい。官兵衛はそう思っていた、と家譜にあります。それでも、信長への忠義のためだからと、断りませんでした。

旧暦10月の下旬げじゅん、官兵衛は有岡城へ向かいます。

荒木は官兵衛を城の中へ招まねき入れ、力の強い者たちを隠かくしておいて、取り押おさえさせた。そのまま、城の中の牢ろうに閉じこめたと伝えられます。

官兵衛が、自分から入っていった城でした。

官兵衛かんべえを捨てて

官兵衛かんべえが捕とらえられた、という知らせは、姫路ひめじにも届きました。

一族と家来たちは、父の職隆もとたかに問いつめます。

官兵衛を助けるなら、信長のぶながを捨てて毛利もうりにつくしかない。そうすれば、信長のもとにいる人質の松寿しょうじゅは殺される。松寿を助けるなら、信長につき続けるしかない。そうすれば、荒木あらきのもとにいる官兵衛が危ない。

どちらを取るのか。

職隆は、こう答えたと家譜かふは書いています。

「官兵衛を捨てて、いよいよ信長に従う」

人質は、こちらから決めて出したのだ。信長に従うのが、自分の本意だ。官兵衛は荒木を諫いさめに行ったのに、筋の通らないまま留め置かれた。不義なのは、荒木のほうだ。

「官兵衛がもし荒木に殺されても、思いがけない天災にあったと思うことにする」

一族も家来も、もっともだと従いました。

息子を、捨てる。父は、そう言い切ったのです。

家来たちは、誓ちかいの紙を書きました。官兵衛さまがどうなろうと、職隆さまの命令に従う。紙は三枚に分けて書かれ、名を連ねた者は四十人ほどになりました。その中に、母里太兵衛もりたへえや栗山善助くりやまぜんすけの名があります。

大正時代に伝記を書いた金子堅太郎かねこけんたろうは、黒田家に伝わるその誓いの紙を見て、血判の色があせていた、と書き残しています。

牢ろうの中の官兵衛には、そうした外のことを知るすべが、ほとんどありませんでした。

ほとんど、です。

家来たちは商人に姿を変えて、かわるがわる伊丹いたみの町に入り、牢のまわりで主の様子を探ったと伝えられます。

中でも栗山善助は、伊丹の町の銀屋しろかねやに頼たのみこんで、その家に隠かくれ住みました。牢のまわりは見張りが厳しく、近づけない。けれど、牢のそばには溜池ためいけがあって、池があるために、そこには見張りが置かれていなかった。

善助は夜の暗さにまぎれて、その池を泳およいで渡わたったといいます。牢に近づき、播磨はりまの様子と、世の中の成り行きを、官兵衛に告げました。

銀屋はやがて見張りの者にも取り入り、行き来は少し楽になったそうです。

城の中にも、手をさしのべる人がいました。

荒木の家来の加藤又左衛門かとうまたざえもんは、官兵衛を気の毒に思い、何かと手厚く扱あつかったと伝えられます。官兵衛は、その加藤と固く約束しました。もし無事に国へ帰れたら、あなたの男の子を一人、私のところへよこしなさい。松寿の弟のように育てよう。

家来の一人の母の妹が荒木に仕えていて、閉じこめられた官兵衛の着物を洗い、繕つくろって届けた、という話も家譜に残っています。

もう一つ、のちに黒田家の国となる筑前ちくぜんの古老が語り伝えた話を、金子の伝記が書き留めています。

ある日、牢の柵さくに藤ふじのつるが伝ってきて、新しい芽を出した。やがて、紫むらさきの花が咲さいた。官兵衛はそれを見て、天が自分に道を開いてくれるしるしだろうと、ひそかに心を励はげました、と。

筑前の古老たちのあいだで、長く語り継がれてきた話です。

外では、別のことが起きていました。

織田信長おだのぶながは、官兵衛がいつまでも戻もどってこないのを、荒木の仲間になって城にこもったからだと思いこんだ、と家譜は書いています。

信長は、ひどく怒おこりました。

そして、人質の松寿を殺すよう、竹中半兵衛たけなかはんべえに命じたといいます。

半兵衛は、秀吉ひでよしに仕える知恵者ちえしゃで、官兵衛とは深く信じ合う仲だった、と金子の伝記は書いています。

松寿は、十一歳でした。

戸板の上

竹中半兵衛たけなかはんべえは、すぐには従いませんでした。

官兵衛かんべえは忠義の者だ。強い味方を捨てて、弱い敵につくはずがない。半兵衛はそう言って、何度も信長のぶながを諫いさめたと伝えられます。信長は、聞き入れなかった。

半兵衛は、松寿しょうじゅを殺した、と信長に報告しました。

そして本当は、自分の領地の美濃みの(今の岐阜ぎふ県南部)の城に、松寿をかくまったと、家譜は書いています。

1579年の旧暦きゅうれき6月、その半兵衛が、病気で亡くなりました。秀吉ひでよしの軍が三木の城を囲んでいた、その陣中じんちゅうでのことです。三十六歳でした。

官兵衛は、まだ牢ろうの中にいました。

同じ年、荒木村重あらきむらしげは、ひそかに有岡城ありおかじょうを抜ぬけ出します。残された城を信長の軍が攻せめ、城の中で火が出た。見張りの者たちも、逃にげていきました。

燃える城のありさまを見た栗山善助くりやまぜんすけは、主の身を案じて、城の中へ入ったと伝えられます。

「官兵衛殿かんべえどの、官兵衛殿」

大声で呼ぶと、牢の中から答える声がした。善助は斧おので、牢の錠じょうを打ち壊こわしました。

けれど、官兵衛は立てなかった。

長く閉じこめられていたせいで、力が弱り、足がすくんで歩けなかった、と家譜かふは書いています。大正時代の伝記は、ひざにできものができ、片方の足が曲がってしまっていた、とも伝えます。

自分から入っていった城を、官兵衛は、背負われて出ました。善助と、あの銀屋しろかねやの新七しんしちが二人で背負った、と大正時代の伝記は書いています。

信長のもとへは、戸板に乗せられて運ばれたといいます。そのときの姿を、古い記録はこう書いている、と大正時代の伝記が引いています。髪かみは長く伸のびて女のよう。着物はちぎれ、虱しらみがわいて、とても目も当てられない。

信長は、自分のしたことを悔くやんでいました。人質の松寿を、まちがって殺させてしまった。官兵衛に合わせる顔がない。そう言っていたと、家譜は書いています。

そこへ、知らせが届きます。

松寿は、生きている。半兵衛が隠かくしていたのだ。

信長は、喜んだそうです。

官兵衛の息子を救った半兵衛は、そのとき、もうこの世にいませんでした。官兵衛が牢を出る、数か月前に亡くなっていたのです。

官兵衛は有馬の温泉で体を休めてから、播磨はりまへ帰りました。宿を貸した有馬の人が、土地の者を集めて、数人で送り届けてくれたそうです。

姫路ひめじでは、家の人々が集まって、まるで死んだ人が生き返ったように喜び合った、と家譜にあります。

父の職隆もとたかも、家族も、家来も、ひと言も口にできず、ただ目に涙なみだを浮うかべて、互たがいの無事を祝うばかりだった、と大正時代の伝記は書いています。

官兵衛を捨てる、と言い切った父でした。

しばらくして、官兵衛は秀吉に会いに行きました。秀吉は官兵衛の手を取って、涙を流したといいます。命がけで敵の城へ行ったのは、まことの忠義だ。長い牢の苦しさは、どれほどだったか。命が助かって、また会えたのがうれしい。

ただ、足は元に戻もどりませんでした。曲がった片足は、一生不自由なままだった、と大正時代の伝記は書いています。

牢で交わした約束は、守られました。

有岡城が落ちたあと、加藤又左衛門かとうまたざえもんの幼い息子が、官兵衛のもとへやって来ます。官兵衛はその子に黒田の姓せいを与あたえ、自分の子のようにかわいがって育てたといいます。

官兵衛は、小寺の名を捨てて、もとの黒田に戻りました。裏切りをたくらんだ者の名だから改めよ、と秀吉に言われたためだ、と大正時代の伝記は書いています。

その小寺政職こでらまさもとは、城を捨てて逃げ、備後びんご(今の広島県東部)の鞆ともで亡くなりました。残された息子と娘むすめたちは、落ちぶれて暮らしていた。

官兵衛と父の職隆は、それを嘆なげいて、秀吉に許しをもらい、家来を鞆へやって一家を呼び寄せました。海辺に新しい家を建てて住まわせ、一家が船から上がるときには、官兵衛が自分で浜はままで迎むかえに出たと伝えられます。

自分を疑い、命を危うくした主君の家族でした。恩で仇あだに報いるとはこういうことだろう、と人々は感じた、と家譜は書いています。

牢の錠を斧で打ち壊した栗山善助の名は、二十五年後、官兵衛の死の床とこで、もう一度出てきます。

心を許しがたい

1582年の旧暦きゅうれき6月3日の夜中。備中びっちゅう(今の岡山県西部)で毛利もうりの城を囲んでいた秀吉ひでよしの陣じんに、京から飛脚ひきゃくが駆かけこみました。

飛脚が知らせを渡わたした相手は、官兵衛かんべえだったと、黒田家の記録は書いています。信長のぶながと、その長男が、家臣の明智光秀あけちみつひでに討たれた。前の日の、京でのことです。

官兵衛は、まず飛脚に口止めをしたと伝えられます。よく早く来た。このことは、決して人に話すな。そのうえで、秀吉に知らせました。

秀吉は嘆なげいたあと、秘密がもれないよう、飛脚を殺せと命じた。

官兵衛は、それを止めたといいます。一日と半夜で、六十里あまり(二百数十キロ)を走ってきた者だ。これは天の使いだ。殺す罪はなく、早く来た手柄てがらがある。殺せば、天罰てんばつを受ける。官兵衛は飛脚を自分の陣屋じんやに連れていき、人に会わせずに隠かくしました。

そこからの秀吉は速かった。毛利と和睦わぼくを結んで引き返し、山崎やまざきで明智あけちを討ちます。そして、天下人への道を駆け上がっていきました。

けれど、官兵衛への見返りは、世間が思ったほどではありませんでした。

1587年、九州を平定したあと、官兵衛に与あたえられたのは、豊前ぶぜん(今の福岡県東部から大分県北部)のうち六つの郡。働きのわりに少ない、と世間は見たそうです。

秀吉は、この男は大きな領地の主にしてはならない曲者くせものだと思っていた、と、大正時代の伝記が引く古い書き物は伝えています。

秀吉がいつも口にしていたという言葉も、幕末から明治のはじめにまとめられた逸話集いつわしゅうに残っています。

「世に恐おそろしいものは、徳川と黒田だ。だが徳川は、穏おだやかな人だ。黒田の瘡天窓かさあたまは、どうにも心を許しがたい」

瘡天窓は、できもののある頭のこと。官兵衛を指した呼び名でした。

1589年、官兵衛は、家を息子の長政ながまさに譲ゆずります。四十四歳。まだ働き盛りでした。秀吉に警戒けいかいされていると気づいたからだろう、と大正時代の伝記は書いています。

それでも、秀吉のそばからは離はなれませんでした。

翌1590年、秀吉は関東の北条ほうじょう氏を、小田原の城に囲みます。

城の中では、父と兄が主君を裏切って秀吉に通じようとし、弟はそれを主君に知らせていました。のちに秀吉は官兵衛に、その弟を討てと命じます。

官兵衛は、聞きまちがえたような顔をして、父と兄のほうを討った、と江戸えど時代の初めの聞き書き『老人雑話』は書いています。秀吉に責められても、聞きまちがえました、と言うだけで、それ以上のわけは言わなかった。

その弟は、のちに加賀の大名に仕えて、五千石をもらっています。聞き書きは、これを一生の手柄だと結んでいます。

大正時代の伝記では、このとき秀吉は苦笑して、この足の悪いやつめ、またとぼけおって、と言っただけだったことになっています。

1593年、朝鮮ちょうせんへ兵を出していたさなか、官兵衛は秀吉の怒いかりを買いました。碁ごを打っていて、三人の奉行ぶぎょうを待たせたことから行き違ゆきちがいが生まれ、悪く言いつけられたのだと家譜かふは書いています。

官兵衛は頭を丸め、如水円清じょすいえんせいと名のります。

如水じょすい。水のごとし、という名です。

毛利家の重臣、小早川隆景こばやかわたかかげは、如水にこう言ったと家譜は伝えています。あなたは、決めたあとで後悔かいすることがあるでしょう。頭が鋭するどすぎて、人の話を聞くと、すぐに善し悪しを決めてしまう。水が低いほうへ流れるように。私は鈍にぶいので、よくよく考えてから決める。だから、後悔が少ない。

如水には、けちだという評判もありました。

朝鮮へ兵を出していたころ、日根野備中ひねのびっちゅうという武将が、出陣の支度をするお金がなく、人を間に立てて、如水に銀を借かりに来た。如水は、銀百枚を貸しました。

朝鮮から帰った備中は、仲立ちをした三好新右衛門みよししんえもんと連れ立って、礼を言いに来ます。借りた百枚に、利息のつもりの十枚を添そえて。

如水は人を呼んで、言いつけました。先にもらった鯛たいを三枚におろして、その骨を吸い物にして、酒を出せ。

二人は、心の中で物足りなく思ったといいます。

酒が終わって、三好が銀を差し出し、礼を述べると、如水は言ったと伝えられます。

「初めから、貸すつもりはなかった。助けるつもりだったのだ」

何度すすめても、銀は受け取らなかった。二人はすっかり感じ入って帰った、と『老人雑話』は書いています。

1598年の旧暦8月、秀吉が亡くなりました。

その知らせを受けた如水は、毛利家の一族、吉川広家きっかわひろいえに、手紙を書いています。

年寄りですから

秀吉ひでよしが亡くなって、ひと月ほどのち。如水じょすいは吉川広家きっかわひろいえへの手紙に、秀吉の死を確かに聞いたと書き、こう結んでいます。

「しかし、こういう時は、仕合わせになるものです。すぐには乱れないでしょう。そのおつもりで」

仕合わせは、めぐり合わせのこと。天下人が死んで、めぐり合わせが動く。如水は、そう読んでいたようです。

同じ手紙の端はしに、書き添そえた一行があります。

「私は筋を患わずらっていますが、気分はよいです。あなたは養生をなさらないから、よく養生をして、達者でいてください」

自分の病は軽く言って、年下の友の体のほうを心配している。

翌1599年の旧暦きゅうれきの正月、如水は、茶の湯の決まりを自分で書きました。茶室の水屋に掲かかげた、と明治の終わりに出た福本日南ふくもとにちなんの伝記は伝えています。

茶を挽ひくときは、静かに回す。茶碗ちゃわんは何度も洗う。釜かまの湯を一杓しゃくくんだら、水を一杓さす。使い捨て、飲み捨てにしない。

そして終わりのほうに、こう書いています。

「親や主君の恩をはじめ、仲間や家来の恩にもあずかることが多いのに、その恩に報いようと思う心がなく、ついには神仏の罰ばつを受ける」

だから、朝夕に湯や水を扱あつかうときにも、よくよく考えるために、ここに書きつけておく、と。

その年の旧暦10月、国へ帰った如水は、また広家ひろいえに手紙を書きました。

あと二、三年は、世の中のなりゆきをご覧になるのがよいでしょう。分に応じて、物入りの少ないようになさい。そう助言したあとで、自分のことを、こう書いています。

「私は年寄りですから、先々の頼たのみは要りません。自分が遊山ゆさんをしながらの、仕置しおきまでです」

遊山は、あちこち遊び歩くこと。仕置きは、領地を治める仕事です。五十四歳。もう大きな望みはない、ということでしょう。

秀吉のあと、豊臣とよとみ家の大名たちは、徳川家康とくがわいえやすの側と、石田三成いしだみつなりの側に割れていました。家康いえやすは兵を率いて東へ向かい、息子の長政ながまさも、それに加わっていた。如水は、九州の中津なかつの城に残っていました。

1600年の旧暦7月、三成みつなりが兵を挙げた、という知らせが中津に届きます。天下分け目の戦が、もう起きた。急いで陣じんの用意をせよ。如水はそう言ったと、家譜かふは書いています。

如水は、天守にたくわえていた金銀を取り出させ、広間に積み上げさせました。そして、領内に触ふれを出した。誰だれであっても、奉公に出たい者には、身分を問わず、この金銀を与えて召めし抱かかえる。

ふだんから多く積んでおいた金銀だから、今度の戦の費用に不足はない。如水はそう言ったといいます。集まった者は、三千六百人あまりと記されています。

中には、一度金銀を受け取ったのに、もう一度並んでもらおうとする者もいた。家来の一人が見つけて捕つかまえると、如水は、かえってその家来をたしなめたそうです。こういうときは、一人でも人数が多いと、敵にも味方にも聞こえるほうがいい。いらない詮議せんぎだ。

けちだと言われた男が、天守の金銀を配っていきます。

その最中の旧暦8月、如水は広家に、あの手紙を書きました。

「今度は、弓矢は成り立つまいと思います。残念です」

兵を集めながら、書いた手紙でした。

旧暦9月9日、如水は中津を出陣しました。九州で、三成の側についた大名の城を、次々に攻せめていきます。

その最中の旧暦9月16日、如水は、家康の側の大名の藤堂高虎とうどうたかとらに、内密の手紙を書いています。

「甲斐守かいのかみには、とにかく上方で領地をいただき、私とは別の家として、内府だいふさまにご奉公できるよう、お取り計らいをお願いします」

甲斐守は、息子の長政。内府は、家康のことです。如水は同じ手紙で、自分が今度の戦で切り取った土地についても、自分がもらえるよう取りなしてほしい、と頼んでいました。

その前の日、関ヶ原せきがはらの戦いは、終わっていました。たった一日で、家康の側が勝ったのです。

旧暦10月4日、如水は、広家にこう書き送っています。

「上方の美濃みの口の戦いが、今月までも続いていたなら、中国へ攻め上り、華々はなばなしく一合戦しようと思っていたのに、むなしく、内府の思いどおりになってしまいました。残念です」

ふた月前に、弓矢は成り立つまい、と書いたのも、自分が乗り出すほどの戦にはならない、という読みだったのかもしれません。

年寄りですから、先々の頼みは要りません。そう書いてから、まだ一年たっていませんでした。

なるにまかせて

戦のあと、如水じょすいは息子の長政ながまさにこう語った、と家譜かふは書いています。

家康いえやす公がもし関ヶ原せきがはらで負けていたら、天下はまた乱れただろう。そうなれば、自分はまず九州を従え、中国を平らげ、上方へ攻め上って、家康公を助け、天下を一つにして、忠義を尽つくすつもりだった。

同じ戦のことを、友人への手紙では、残念です、と書いていました。

家譜によれば、如水はこう続けたといいます。

「私には、この世でもう、これといった務めはない。これからは、ただ暇ひまのある身になって、静かに余生を楽しもう」

長政は、筑前ちくぜん(今の福岡県北西部)の大名になりました。新しい城の地は、福岡と名づけられます。黒田家の先祖にゆかりのある、備前びぜんの村の名です。

隠居いんきょした如水の暮らしは、質素でした。召めし使いはわずかで、近所へ出かけるときも、刀を持たせた侍さむらい一人と、草履ぞうり取り一人を連れるだけ。如水を知らない者は、ただのけちだと思っていた、と家譜にあります。

金銀も、使い道がなければ土や石と同じだ。人に用いられて、ほめられたいとも思わない。如水は、そう話していたと伝えられます。

1604年、如水の病は重くなりました。長政が、そばについて看病します。

死のひと月ほど前から、如水は、家来たちをひどくののしるようになったといいます。

家来たちは驚おどろきました。病がひどくなって、乱心されたのだ。諫いさめられる人もいない。困って、長政に告げた。

長政はそっと父に近づき、小声で言いました。家来たちが恐おそれ、心配しています。少し、おだやかになさってください。

如水は、耳を寄せよ、と言って、小声で答えたと伝えられます。

「これは、お前のためだ。乱心ではない」

家来たちに嫌きらわれて、早く長政さまの代になればいい、と思わせるためだった、と『老人雑話』は書いています。

ある日、如水は栗山備後くりやまびんごを病の床とこに呼びました。二十五年前、有岡城ありおかじょうの牢ろうの錠じょうを斧おので打ち壊こわした、あの栗山善助くりやまぜんすけです。

如水は長政の前で、戦場で身につけた甲冑かっちゅうを備後に譲ゆずる、と言いました。大正時代の伝記が引く記録によれば、こう言い渡わたしたそうです。

「今日からは、この甲冑を、私だと思え」

本当は長政に譲るべき品だが、考えがあって、お前にやる。私が死んだら、長政を自分の子と思って支えてくれ。そして長政には、備後を、如水が若返った者と思って、その諫めに背くな、と言った。

最期の言葉は、記録によって違ちがいます。

江戸えど時代の中ごろの逸話集いつわしゅう『常山紀談じょうざんきだん』では、如水は長政に、自分は並ぶ者のない博奕ばくち打ちだと言い、関ヶ原で石田がもう少し持ちこたえていれば、九州から攻め上って、日本を手のひらに握にぎるつもりだった、と語ったことになっています。

家譜では、如水は自分の死ぬ時を言い当てたとされています。二十日の辰たつの刻だろう。葬式そうしきを手厚くするな。仏事を第一にするな。国を治め、民を安らかにすることが、私の好んだ志だ。それを、死んだあとの孝行にせよ。

そして、辞世の歌を短冊たんざくに書いて、長政に与えたといいます。

和歌でした。十七、八のころに打ちこんで、僧そうにいさめられた、あの和歌です。

「おもひおく 言の葉なくて つひに行く 道はまよはじ なるにまかせて」

思い残す言葉はない。最後に行く道も、迷いはしない。なるようになるのに、まかせて。

1604年4月19日(旧暦きゅうれき3月20日)の朝、如水は亡くなりました。五十九歳でした。

弓矢は成り立つまい、と書いたとき、如水は、残念です、と添そえた。戦があっけなく終わったときも、残念です、と書いた。

本当に、思い残す言葉はなかったのか。死の床で博奕の話をした、とも伝えられる人です。

ただ、有岡ありおかの牢にいた一年、彼かれは、自分では牢を出ることもできませんでした。

そのあいだに、夜の溜池ためいけを泳およいで渡ってきた家来がいた。殺せと命じられた息子を、隠かくし通した友がいた。牢の着物を洗って届けた人がいた。錠を打ち壊し、歩けない主を背負って出た男がいた。

その男は、最後に、主の甲冑を預かりました。

残念です、と二度書いた人が、辞世の終わりに置いた言葉は、なるにまかせて、でした。