黒田官兵衛 — 残念です、と書いた人
先が見えすぎて疑われ、説得に行った城の牢で足を悪くした。戦国の知恵者の、最後まで勝負をあきらめきれなかった一生
残念です
「今度は、弓矢は成り立つまいと思います。残念です」
1600年の旧暦8月。五十五歳の男が、友人にあてた手紙に、そう書いています。
弓矢は、戦のこと。けれどこのとき、戦はもう始まっていました。ひと月ほど前に石田三成が兵を挙げ、この男も、城の金銀を出して兵を集めていたのです。
それなのに、成り立つまい、と書き、残念だ、と書いた。何が成り立たないと読んだのか、手紙はそれ以上を語っていません。
男の名は、黒田如水。すでに家を息子に譲り、頭を丸めた隠居の身でした。若いころは、官兵衛と呼ばれていました。
手紙を受け取った吉川広家は、毛利家の一族です。この戦で、毛利家は三成の側に立つことになります。
話は、二十五年ほど前にさかのぼります。
播磨(今の兵庫県の南西部)に、小寺政職という大名がいました。その家老に、三十歳の若者がいた。主君の姓を名のって、小寺官兵衛といいました。
十四歳で母を亡くしたときは、人並み外れて激しく泣いたと伝えられます。十七、八のころには和歌に打ちこみ、僧にいさめられて、思い直してやめたそうです。
そのころの小寺家は、迷っていました。西には、大国の毛利。東では、織田信長が勢いを増している。どちらにつくか。
重臣たちが集まった席で、官兵衛は言い切ったと伝えられます。これから天下を握るのは、織田だ、と。
小寺家は、その読みに乗りました。1575年、官兵衛は使いとして岐阜へ行き、信長に会っています。
二年後、信長の家臣の羽柴秀吉が、毛利と戦うために播磨へやって来ます。
官兵衛は、自分の城だった姫路城を、秀吉に差し出しました。城は荒れているので今掃除をしている、見苦しいがまず二の丸の私の家へ。そう言って秀吉を迎え、掃除がすむと本丸に移した、と黒田家の記録にあります。
さらに、十歳の息子の松寿を、人質として信長のもとへ送った。裏切らない、というしるしです。
息子まで差し出して、自分の読みに賭けたのです。
秀吉は、この若者をたいそう気に入ったといいます。
秀吉が自分の手で官兵衛に書いた手紙が、黒田家の記録に写されています。お前のことは、弟の小一郎と同じくらい、気安く思っている。そして終わりのほうには、この手紙は読めもしないだろうから、さげすんで読んでくれ、とある。
のちに天下を取る男が、手紙の文のことでへりくだっている。官兵衛は、その男に頼りにされていたようです。
読みは、当たりつつあった。
ところが1578年、信長の家臣だった荒木村重が、信長に背きます。摂津(今の大阪府北部から兵庫県南東部)の有岡城にこもり、毛利と手を結んだのです。
主君の小寺政職も、毛利の側へ傾きはじめました。
官兵衛は、何度も止めたといいます。自分の子を人質に出しているから言うのではない。信長は、いずれ天下の主になる人だ。一度ついた相手を裏切るのは、義に外れる。
政職は、聞きませんでした。それどころか、小寺家の家老たちが官兵衛を殺す相談をしている、という話まで聞こえてきます。
官兵衛は、ひそかに姫路へ戻り、父の職隆に打ち明けました。家来たちは、すすめます。この城にこもりましょう。病気だと言って、主君のもとへは使いだけを送りましょう。
官兵衛は、それを断った、と黒田家の歴史をまとめた家譜は書いています。
「まだ何も起きていないのに、この城にこもれば、小寺殿に対して謀反人になる」
「もとより武門に生まれたからには、義に当たって、命を惜しむべきではない」
父の職隆は、その覚悟はもっともだと言いました。どうしても逃れられないなら、そのときは腹を切れ。父と子は、互いに涙ぐんで別れたといいます。
官兵衛は、わずかな供だけを連れて、主君の城、御着へ戻りました。いつもと変わらない様子で過ごしたので、人々は安心したそうです。
すると、政職が頼んできます。荒木のところへ行って、なんとか信長の側へ引き戻してくれ。
荒木の腹の内は、計りがたい。官兵衛はそう思っていた、と家譜にあります。それでも、信長への忠義のためだからと、断りませんでした。
旧暦10月の下旬、官兵衛は有岡城へ向かいます。
荒木は官兵衛を城の中へ招き入れ、力の強い者たちを隠しておいて、取り押さえさせた。そのまま、城の中の牢に閉じこめたと伝えられます。
官兵衛が、自分から入っていった城でした。
官兵衛を捨てて
官兵衛が捕らえられた、という知らせは、姫路にも届きました。
一族と家来たちは、父の職隆に問いつめます。
官兵衛を助けるなら、信長を捨てて毛利につくしかない。そうすれば、信長のもとにいる人質の松寿は殺される。松寿を助けるなら、信長につき続けるしかない。そうすれば、荒木のもとにいる官兵衛が危ない。
どちらを取るのか。
職隆は、こう答えたと家譜は書いています。
「官兵衛を捨てて、いよいよ信長に従う」
人質は、こちらから決めて出したのだ。信長に従うのが、自分の本意だ。官兵衛は荒木を諫めに行ったのに、筋の通らないまま留め置かれた。不義なのは、荒木のほうだ。
「官兵衛がもし荒木に殺されても、思いがけない天災にあったと思うことにする」
一族も家来も、もっともだと従いました。
息子を、捨てる。父は、そう言い切ったのです。
家来たちは、誓いの紙を書きました。官兵衛さまがどうなろうと、職隆さまの命令に従う。紙は三枚に分けて書かれ、名を連ねた者は四十人ほどになりました。その中に、母里太兵衛や栗山善助の名があります。
大正時代に伝記を書いた金子堅太郎は、黒田家に伝わるその誓いの紙を見て、血判の色があせていた、と書き残しています。
牢の中の官兵衛には、そうした外のことを知るすべが、ほとんどありませんでした。
ほとんど、です。
家来たちは商人に姿を変えて、かわるがわる伊丹の町に入り、牢のまわりで主の様子を探ったと伝えられます。
中でも栗山善助は、伊丹の町の銀屋に頼みこんで、その家に隠れ住みました。牢のまわりは見張りが厳しく、近づけない。けれど、牢のそばには溜池があって、池があるために、そこには見張りが置かれていなかった。
善助は夜の暗さにまぎれて、その池を泳いで渡ったといいます。牢に近づき、播磨の様子と、世の中の成り行きを、官兵衛に告げました。
銀屋はやがて見張りの者にも取り入り、行き来は少し楽になったそうです。
城の中にも、手をさしのべる人がいました。
荒木の家来の加藤又左衛門は、官兵衛を気の毒に思い、何かと手厚く扱ったと伝えられます。官兵衛は、その加藤と固く約束しました。もし無事に国へ帰れたら、あなたの男の子を一人、私のところへよこしなさい。松寿の弟のように育てよう。
家来の一人の母の妹が荒木に仕えていて、閉じこめられた官兵衛の着物を洗い、繕って届けた、という話も家譜に残っています。
もう一つ、のちに黒田家の国となる筑前の古老が語り伝えた話を、金子の伝記が書き留めています。
ある日、牢の柵に藤のつるが伝ってきて、新しい芽を出した。やがて、紫の花が咲いた。官兵衛はそれを見て、天が自分に道を開いてくれるしるしだろうと、ひそかに心を励ました、と。
筑前の古老たちのあいだで、長く語り継がれてきた話です。
外では、別のことが起きていました。
織田信長は、官兵衛がいつまでも戻ってこないのを、荒木の仲間になって城にこもったからだと思いこんだ、と家譜は書いています。
信長は、ひどく怒りました。
そして、人質の松寿を殺すよう、竹中半兵衛に命じたといいます。
半兵衛は、秀吉に仕える知恵者で、官兵衛とは深く信じ合う仲だった、と金子の伝記は書いています。
松寿は、十一歳でした。
戸板の上
竹中半兵衛は、すぐには従いませんでした。
官兵衛は忠義の者だ。強い味方を捨てて、弱い敵につくはずがない。半兵衛はそう言って、何度も信長を諫めたと伝えられます。信長は、聞き入れなかった。
半兵衛は、松寿を殺した、と信長に報告しました。
そして本当は、自分の領地の美濃(今の岐阜県南部)の城に、松寿をかくまったと、家譜は書いています。
1579年の旧暦6月、その半兵衛が、病気で亡くなりました。秀吉の軍が三木の城を囲んでいた、その陣中でのことです。三十六歳でした。
官兵衛は、まだ牢の中にいました。
同じ年、荒木村重は、ひそかに有岡城を抜け出します。残された城を信長の軍が攻め、城の中で火が出た。見張りの者たちも、逃げていきました。
燃える城のありさまを見た栗山善助は、主の身を案じて、城の中へ入ったと伝えられます。
「官兵衛殿、官兵衛殿」
大声で呼ぶと、牢の中から答える声がした。善助は斧で、牢の錠を打ち壊しました。
けれど、官兵衛は立てなかった。
長く閉じこめられていたせいで、力が弱り、足がすくんで歩けなかった、と家譜は書いています。大正時代の伝記は、ひざにできものができ、片方の足が曲がってしまっていた、とも伝えます。
自分から入っていった城を、官兵衛は、背負われて出ました。善助と、あの銀屋の新七が二人で背負った、と大正時代の伝記は書いています。
信長のもとへは、戸板に乗せられて運ばれたといいます。そのときの姿を、古い記録はこう書いている、と大正時代の伝記が引いています。髪は長く伸びて女のよう。着物はちぎれ、虱がわいて、とても目も当てられない。
信長は、自分のしたことを悔やんでいました。人質の松寿を、まちがって殺させてしまった。官兵衛に合わせる顔がない。そう言っていたと、家譜は書いています。
そこへ、知らせが届きます。
松寿は、生きている。半兵衛が隠していたのだ。
信長は、喜んだそうです。
官兵衛の息子を救った半兵衛は、そのとき、もうこの世にいませんでした。官兵衛が牢を出る、数か月前に亡くなっていたのです。
官兵衛は有馬の温泉で体を休めてから、播磨へ帰りました。宿を貸した有馬の人が、土地の者を集めて、数人で送り届けてくれたそうです。
姫路では、家の人々が集まって、まるで死んだ人が生き返ったように喜び合った、と家譜にあります。
父の職隆も、家族も、家来も、ひと言も口にできず、ただ目に涙を浮かべて、互いの無事を祝うばかりだった、と大正時代の伝記は書いています。
官兵衛を捨てる、と言い切った父でした。
しばらくして、官兵衛は秀吉に会いに行きました。秀吉は官兵衛の手を取って、涙を流したといいます。命がけで敵の城へ行ったのは、まことの忠義だ。長い牢の苦しさは、どれほどだったか。命が助かって、また会えたのがうれしい。
ただ、足は元に戻りませんでした。曲がった片足は、一生不自由なままだった、と大正時代の伝記は書いています。
牢で交わした約束は、守られました。
有岡城が落ちたあと、加藤又左衛門の幼い息子が、官兵衛のもとへやって来ます。官兵衛はその子に黒田の姓を与え、自分の子のようにかわいがって育てたといいます。
官兵衛は、小寺の名を捨てて、もとの黒田に戻りました。裏切りをたくらんだ者の名だから改めよ、と秀吉に言われたためだ、と大正時代の伝記は書いています。
その小寺政職は、城を捨てて逃げ、備後(今の広島県東部)の鞆で亡くなりました。残された息子と娘たちは、落ちぶれて暮らしていた。
官兵衛と父の職隆は、それを嘆いて、秀吉に許しをもらい、家来を鞆へやって一家を呼び寄せました。海辺に新しい家を建てて住まわせ、一家が船から上がるときには、官兵衛が自分で浜まで迎えに出たと伝えられます。
自分を疑い、命を危うくした主君の家族でした。恩で仇に報いるとはこういうことだろう、と人々は感じた、と家譜は書いています。
牢の錠を斧で打ち壊した栗山善助の名は、二十五年後、官兵衛の死の床で、もう一度出てきます。
心を許しがたい
1582年の旧暦6月3日の夜中。備中(今の岡山県西部)で毛利の城を囲んでいた秀吉の陣に、京から飛脚が駆けこみました。
飛脚が知らせを渡した相手は、官兵衛だったと、黒田家の記録は書いています。信長と、その長男が、家臣の明智光秀に討たれた。前の日の、京でのことです。
官兵衛は、まず飛脚に口止めをしたと伝えられます。よく早く来た。このことは、決して人に話すな。そのうえで、秀吉に知らせました。
秀吉は嘆いたあと、秘密がもれないよう、飛脚を殺せと命じた。
官兵衛は、それを止めたといいます。一日と半夜で、六十里あまり(二百数十キロ)を走ってきた者だ。これは天の使いだ。殺す罪はなく、早く来た手柄がある。殺せば、天罰を受ける。官兵衛は飛脚を自分の陣屋に連れていき、人に会わせずに隠しました。
そこからの秀吉は速かった。毛利と和睦を結んで引き返し、山崎で明智を討ちます。そして、天下人への道を駆け上がっていきました。
けれど、官兵衛への見返りは、世間が思ったほどではありませんでした。
1587年、九州を平定したあと、官兵衛に与えられたのは、豊前(今の福岡県東部から大分県北部)のうち六つの郡。働きのわりに少ない、と世間は見たそうです。
秀吉は、この男は大きな領地の主にしてはならない曲者だと思っていた、と、大正時代の伝記が引く古い書き物は伝えています。
秀吉がいつも口にしていたという言葉も、幕末から明治のはじめにまとめられた逸話集に残っています。
「世に恐ろしいものは、徳川と黒田だ。だが徳川は、穏やかな人だ。黒田の瘡天窓は、どうにも心を許しがたい」
瘡天窓は、できもののある頭のこと。官兵衛を指した呼び名でした。
1589年、官兵衛は、家を息子の長政に譲ります。四十四歳。まだ働き盛りでした。秀吉に警戒されていると気づいたからだろう、と大正時代の伝記は書いています。
それでも、秀吉のそばからは離れませんでした。
翌1590年、秀吉は関東の北条氏を、小田原の城に囲みます。
城の中では、父と兄が主君を裏切って秀吉に通じようとし、弟はそれを主君に知らせていました。のちに秀吉は官兵衛に、その弟を討てと命じます。
官兵衛は、聞きまちがえたような顔をして、父と兄のほうを討った、と江戸時代の初めの聞き書き『老人雑話』は書いています。秀吉に責められても、聞きまちがえました、と言うだけで、それ以上のわけは言わなかった。
その弟は、のちに加賀の大名に仕えて、五千石をもらっています。聞き書きは、これを一生の手柄だと結んでいます。
大正時代の伝記では、このとき秀吉は苦笑して、この足の悪いやつめ、またとぼけおって、と言っただけだったことになっています。
1593年、朝鮮へ兵を出していたさなか、官兵衛は秀吉の怒りを買いました。碁を打っていて、三人の奉行を待たせたことから行き違いが生まれ、悪く言いつけられたのだと家譜は書いています。
官兵衛は頭を丸め、如水円清と名のります。
如水。水のごとし、という名です。
毛利家の重臣、小早川隆景は、如水にこう言ったと家譜は伝えています。あなたは、決めたあとで後悔することがあるでしょう。頭が鋭すぎて、人の話を聞くと、すぐに善し悪しを決めてしまう。水が低いほうへ流れるように。私は鈍いので、よくよく考えてから決める。だから、後悔が少ない。
如水には、けちだという評判もありました。
朝鮮へ兵を出していたころ、日根野備中という武将が、出陣の支度をするお金がなく、人を間に立てて、如水に銀を借りに来た。如水は、銀百枚を貸しました。
朝鮮から帰った備中は、仲立ちをした三好新右衛門と連れ立って、礼を言いに来ます。借りた百枚に、利息のつもりの十枚を添えて。
如水は人を呼んで、言いつけました。先にもらった鯛を三枚におろして、その骨を吸い物にして、酒を出せ。
二人は、心の中で物足りなく思ったといいます。
酒が終わって、三好が銀を差し出し、礼を述べると、如水は言ったと伝えられます。
「初めから、貸すつもりはなかった。助けるつもりだったのだ」
何度すすめても、銀は受け取らなかった。二人はすっかり感じ入って帰った、と『老人雑話』は書いています。
1598年の旧暦8月、秀吉が亡くなりました。
その知らせを受けた如水は、毛利家の一族、吉川広家に、手紙を書いています。
年寄りですから
秀吉が亡くなって、ひと月ほどのち。如水は吉川広家への手紙に、秀吉の死を確かに聞いたと書き、こう結んでいます。
「しかし、こういう時は、仕合わせになるものです。すぐには乱れないでしょう。そのおつもりで」
仕合わせは、めぐり合わせのこと。天下人が死んで、めぐり合わせが動く。如水は、そう読んでいたようです。
同じ手紙の端に、書き添えた一行があります。
「私は筋を患っていますが、気分はよいです。あなたは養生をなさらないから、よく養生をして、達者でいてください」
自分の病は軽く言って、年下の友の体のほうを心配している。
翌1599年の旧暦の正月、如水は、茶の湯の決まりを自分で書きました。茶室の水屋に掲げた、と明治の終わりに出た福本日南の伝記は伝えています。
茶を挽くときは、静かに回す。茶碗は何度も洗う。釜の湯を一杓くんだら、水を一杓さす。使い捨て、飲み捨てにしない。
そして終わりのほうに、こう書いています。
「親や主君の恩をはじめ、仲間や家来の恩にもあずかることが多いのに、その恩に報いようと思う心がなく、ついには神仏の罰を受ける」
だから、朝夕に湯や水を扱うときにも、よくよく考えるために、ここに書きつけておく、と。
その年の旧暦10月、国へ帰った如水は、また広家に手紙を書きました。
あと二、三年は、世の中のなりゆきをご覧になるのがよいでしょう。分に応じて、物入りの少ないようになさい。そう助言したあとで、自分のことを、こう書いています。
「私は年寄りですから、先々の頼みは要りません。自分が遊山をしながらの、仕置きまでです」
遊山は、あちこち遊び歩くこと。仕置きは、領地を治める仕事です。五十四歳。もう大きな望みはない、ということでしょう。
秀吉のあと、豊臣家の大名たちは、徳川家康の側と、石田三成の側に割れていました。家康は兵を率いて東へ向かい、息子の長政も、それに加わっていた。如水は、九州の中津の城に残っていました。
1600年の旧暦7月、三成が兵を挙げた、という知らせが中津に届きます。天下分け目の戦が、もう起きた。急いで陣の用意をせよ。如水はそう言ったと、家譜は書いています。
如水は、天守にたくわえていた金銀を取り出させ、広間に積み上げさせました。そして、領内に触れを出した。誰であっても、奉公に出たい者には、身分を問わず、この金銀を与えて召し抱える。
ふだんから多く積んでおいた金銀だから、今度の戦の費用に不足はない。如水はそう言ったといいます。集まった者は、三千六百人あまりと記されています。
中には、一度金銀を受け取ったのに、もう一度並んでもらおうとする者もいた。家来の一人が見つけて捕まえると、如水は、かえってその家来をたしなめたそうです。こういうときは、一人でも人数が多いと、敵にも味方にも聞こえるほうがいい。いらない詮議だ。
けちだと言われた男が、天守の金銀を配っていきます。
その最中の旧暦8月、如水は広家に、あの手紙を書きました。
「今度は、弓矢は成り立つまいと思います。残念です」
兵を集めながら、書いた手紙でした。
旧暦9月9日、如水は中津を出陣しました。九州で、三成の側についた大名の城を、次々に攻めていきます。
その最中の旧暦9月16日、如水は、家康の側の大名の藤堂高虎に、内密の手紙を書いています。
「甲斐守には、とにかく上方で領地をいただき、私とは別の家として、内府さまにご奉公できるよう、お取り計らいをお願いします」
甲斐守は、息子の長政。内府は、家康のことです。如水は同じ手紙で、自分が今度の戦で切り取った土地についても、自分がもらえるよう取りなしてほしい、と頼んでいました。
その前の日、関ヶ原の戦いは、終わっていました。たった一日で、家康の側が勝ったのです。
旧暦10月4日、如水は、広家にこう書き送っています。
「上方の美濃口の戦いが、今月までも続いていたなら、中国へ攻め上り、華々しく一合戦しようと思っていたのに、むなしく、内府の思いどおりになってしまいました。残念です」
ふた月前に、弓矢は成り立つまい、と書いたのも、自分が乗り出すほどの戦にはならない、という読みだったのかもしれません。
年寄りですから、先々の頼みは要りません。そう書いてから、まだ一年たっていませんでした。
なるにまかせて
戦のあと、如水は息子の長政にこう語った、と家譜は書いています。
家康公がもし関ヶ原で負けていたら、天下はまた乱れただろう。そうなれば、自分はまず九州を従え、中国を平らげ、上方へ攻め上って、家康公を助け、天下を一つにして、忠義を尽くすつもりだった。
同じ戦のことを、友人への手紙では、残念です、と書いていました。
家譜によれば、如水はこう続けたといいます。
「私には、この世でもう、これといった務めはない。これからは、ただ暇のある身になって、静かに余生を楽しもう」
長政は、筑前(今の福岡県北西部)の大名になりました。新しい城の地は、福岡と名づけられます。黒田家の先祖にゆかりのある、備前の村の名です。
隠居した如水の暮らしは、質素でした。召し使いはわずかで、近所へ出かけるときも、刀を持たせた侍一人と、草履取り一人を連れるだけ。如水を知らない者は、ただのけちだと思っていた、と家譜にあります。
金銀も、使い道がなければ土や石と同じだ。人に用いられて、ほめられたいとも思わない。如水は、そう話していたと伝えられます。
1604年、如水の病は重くなりました。長政が、そばについて看病します。
死のひと月ほど前から、如水は、家来たちをひどくののしるようになったといいます。
家来たちは驚きました。病がひどくなって、乱心されたのだ。諫められる人もいない。困って、長政に告げた。
長政はそっと父に近づき、小声で言いました。家来たちが恐れ、心配しています。少し、おだやかになさってください。
如水は、耳を寄せよ、と言って、小声で答えたと伝えられます。
「これは、お前のためだ。乱心ではない」
家来たちに嫌われて、早く長政さまの代になればいい、と思わせるためだった、と『老人雑話』は書いています。
ある日、如水は栗山備後を病の床に呼びました。二十五年前、有岡城の牢の錠を斧で打ち壊した、あの栗山善助です。
如水は長政の前で、戦場で身につけた甲冑を備後に譲る、と言いました。大正時代の伝記が引く記録によれば、こう言い渡したそうです。
「今日からは、この甲冑を、私だと思え」
本当は長政に譲るべき品だが、考えがあって、お前にやる。私が死んだら、長政を自分の子と思って支えてくれ。そして長政には、備後を、如水が若返った者と思って、その諫めに背くな、と言った。
最期の言葉は、記録によって違います。
江戸時代の中ごろの逸話集『常山紀談』では、如水は長政に、自分は並ぶ者のない博奕打ちだと言い、関ヶ原で石田がもう少し持ちこたえていれば、九州から攻め上って、日本を手のひらに握るつもりだった、と語ったことになっています。
家譜では、如水は自分の死ぬ時を言い当てたとされています。二十日の辰の刻だろう。葬式を手厚くするな。仏事を第一にするな。国を治め、民を安らかにすることが、私の好んだ志だ。それを、死んだあとの孝行にせよ。
そして、辞世の歌を短冊に書いて、長政に与えたといいます。
和歌でした。十七、八のころに打ちこんで、僧にいさめられた、あの和歌です。
「おもひおく 言の葉なくて つひに行く 道はまよはじ なるにまかせて」
思い残す言葉はない。最後に行く道も、迷いはしない。なるようになるのに、まかせて。
1604年4月19日(旧暦3月20日)の朝、如水は亡くなりました。五十九歳でした。
弓矢は成り立つまい、と書いたとき、如水は、残念です、と添えた。戦があっけなく終わったときも、残念です、と書いた。
本当に、思い残す言葉はなかったのか。死の床で博奕の話をした、とも伝えられる人です。
ただ、有岡の牢にいた一年、彼は、自分では牢を出ることもできませんでした。
そのあいだに、夜の溜池を泳いで渡ってきた家来がいた。殺せと命じられた息子を、隠し通した友がいた。牢の着物を洗って届けた人がいた。錠を打ち壊し、歩けない主を背負って出た男がいた。
その男は、最後に、主の甲冑を預かりました。
残念です、と二度書いた人が、辞世の終わりに置いた言葉は、なるにまかせて、でした。