金子みすゞ — 書き写す人
叔父の決めた結婚を受け入れ、書くことを禁じられても、手帳にだけは唄を書き写し続けた童謡詩人
見本の手帳
その三冊の手帳は、もともと売り物ではなかったといいます。
本屋の店先に置く、見本の手帳だったそうです。博文館という出版社のポケットダイアリーで、1925年のものと、1926年のもの。
1929年。その古い手帳に、一人の女の人が、自分の書いた童謡を書き写していきました。
一冊目は『美しい町』。二冊目は『空のかあさま』。三冊目は『さみしい王女』。同じ三冊を、二組つくっています。
そのころ彼女は、夫から、詩を書くことを禁じられていました。詩の仲間と手紙をやりとりすることも、許されなかった。病気で、床に伏せる日が続いていました。
一組は、東京にいる弟へ。もう一組は、たった一度だけ会ったことのある、名の知れた詩人へ。
なぜ、書くことを禁じられていたのか。なぜ、同じものを二組も。
金子テル。童謡を書くときの名前を、みすゞといいました。
話は、それより二十年以上も前の、小さな漁師町にさかのぼります。
山口県の仙崎。日本海に面した漁師町で、昔は鯨をとる港でした。テルは1903年の4月11日、この町に生まれています。
1906年、テルが2歳のとき、父が亡くなります。親類の本屋の支店をまかされて、海の向こうの清の国(今の中国)に渡っていた先でのことでした。
残された母のミチは、祖母のウメ、兄の堅助、テルと暮らしながら、仙崎でただ一軒の本屋を始めます。金子文英堂です。
この家族には、もう一人、子どもがいました。
テルより2歳下の弟、正祐です。
父が亡くなった翌年、まだ2歳にならない正祐は、下関の叔母の家へ、養子に出されました。叔母は母の妹で、その夫は、清の国にも支店を出していた本屋、上山文英堂の主人です。夫婦には、子どもがいなかったのです。
正祐は、そのことを知らされずに育ちます。仙崎の兄と姉のことは、いとこだと思っていました。
小学校に上がったテルは、1年生から6年生まで、級長を続けました。級長は、クラスをまとめる役目です。六年のあいだ、その役はほかの子に回りませんでした。
1916年に入った女学校は、英語やテニスも教える、新しい学校でした。二年後には、子どものための雑誌『赤い鳥』が生まれ、童謡や童話の雑誌が次々に出はじめます。テルは、本屋の娘として、そういう時代に十代を過ごしました。
女学校の3年生のとき、正祐の育ての母だった叔母が、病気で亡くなりました。
翌年、母のミチは、叔母の夫だった上山松蔵と再婚して、下関へ移ります。
正祐から見れば、亡くなった母のかわりに、仙崎の叔母が家に来たことになる。本当は、自分を産んだ母でした。
仙崎には、祖母と兄とテルの三人が残りました。
このころから、正祐がたびたび仙崎へやって来るようになります。兄と、テルと、正祐。三人は、本や音楽の話をする、気の合う仲間になりました。
1920年、テルは女学校を、卒業生の総代として出ました。先生は、奈良の女子高等師範学校へ進んで、先生になってはどうかと勧めたといいます。
テルは、進みませんでした。家の本屋を手伝いはじめます。
なぜ断ったのかは、分かっていません。
翌年の夏、叔父の松蔵が倒れると、テルは九州の大学病院へ付き添い、一か月半ほどを病室で過ごしました。
その年の9月、正祐が曲を作りはじめます。テルは、一つ頼みごとをしています。北原白秋の詩「片恋」に、曲をつけてほしい。
いとこだと思っている相手に、です。
1922年の秋、兄が結婚します。翌1923年の春、テルは母に呼ばれて、下関へ移ることになりました。20歳でした。
仙崎を出る前に、テルは女学校時代の親友に、手づくりの小唄集を贈っています。題は『こはれたぴあの』。こわれたピアノ、という意味です。
下関での仕事は、店番でした。叔父の本屋の本店ではなく、商品館という建物の中にある支店でした。そこで、一人で店番をするのです。
下関に来て間もない5月、テルは町の写真館で、写真を一枚撮っています。20歳の顔が写ったこの写真は、のちに、弟の手もとに残ることになります。
それから間もなく、テルは童謡を書きはじめます。名前は、みすゞ。
童謡は、子どもが歌う唄として書かれる詩です。そのころは、名の知れた大人の詩人たちも、雑誌の上で次々に童謡を発表していました。雑誌には投稿の欄があり、送られてきた作品の中から、選者の詩人が良いものを選んで載せるのです。
6月、彼女は四つの雑誌に作品を送りました。子ども向けの『童話』『金の星』と、女の人向けの『婦人倶楽部』『婦人画報』です。
(四つも出せば、どれか一つは、目にとまるかもしれない)
9月、四つの雑誌の9月号すべてに、みすゞの作品が載りました。
その一つ、『金の星』の9月号に、こんな唄があります。
「おや鳩子ばと お鳩が三羽 八百屋の軒で クックと啼いた。」
唄は、こう続きます。
「茄子はむらさき キャベツはみどり いちごの赤も つやつやぬれた」
八百屋の軒先の鳩から、店先の野菜と果物の色へ、目が移っていく。店番の目で見た唄だったのかもしれません。
雑誌『童話』で童謡を選んでいた詩人、西條八十は、この新人を、イギリスの女性詩人ロセッティになぞらえて称えました。
童謡を書きはじめて、わずか三か月あまりのことでした。
いとこではなく
下関の上山文英堂で、テルは、正祐と同じ家に暮らすことになりました。正祐は、みすゞの唄を読んでは、こまかく批評し、励ましたといいます。いとこだと思っている相手の唄を、です。
店番のみすゞには、一つ癖がありました。
好きな詩や童謡を、手帳に書き写すのです。書き写した手帳は、そのまま、自分だけの選集になっていきました。
売り物の高い本の表紙を、そっと持ち上げて、中に載っていたロセッティの詩の翻訳を手帳に書き写したこともあったと伝えられます。八十が彼女をなぞらえた、あの詩人です。本屋の娘でなければ、できない書き写し方でした。
1924年、雑誌『童話』に、みすゞの「大漁」が載りました。
ふるさとの仙崎は、鯨や魚をとって暮らしながら、とった鯨や魚の供養を欠かさない町です。「大漁」も、大漁を喜ぶ人たちのかげで、とられた魚のほうを思う唄でした。
にぎやかな景色の、裏側を見ている。のちに、みすゞの代表作と呼ばれる一編です。
同じ1924年には、前の年に『婦人画報』に載った「おとむらひ」が、八十の編んだ詩の選集に収められています。
『童話』には、そのあとも、みすゞの唄が次々に載りました。この雑誌だけで、42編。そのうち16編は、選者がとくに推したものでした。
1924年の夏には、仙崎へ帰ったその帰り道、結婚した、あの女学校時代の親友と、同じ汽車で下関へ戻っています。
翌1925年の5月、下関で、一通の通知が正祐のもとに届きます。徴兵検査の知らせでした。そこで正祐は初めて、自分が養子で、父が育ての父だったことを知ります。自分の家だと思っていた本屋は、育ての家だったのです。
ただ、仙崎の兄と姉が実のきょうだいだということは、まだ知らされていませんでした。
7月、その親友が亡くなりました。『こはれたぴあの』を贈った相手です。朝鮮から仙崎へ、病気の母の看病に帰ってきて、自分も病に倒れたと伝えられます。
その年の後半、テルに縁談が持ちこまれます。
話を持ってきたのは、叔父の松蔵でした。母の再婚相手で、正祐の育ての父。テルが4年前、九州の病院で一か月半付き添った、あの叔父です。相手は、上山文英堂の店員で、番頭格の宮本啓喜という男でした。番頭は、ほかの店員をまとめる、いちばん上の店員のことです。
なぜ叔父は、この縁談を急いだのか。のちの伝記の説明では、叔父が気にかけていたのは、テルよりも正祐のほうでした。正祐は、テルを好きになっているのではないか。跡取りなのに、店を継ぐ覚悟もまだ見えない。そこで先にテルを嫁がせてしまおうとした、というのです。
テルは、この話を受け入れました。母の立場と、正祐の立場を思ってのことだったといいます。
八十にロセッティになぞらえられた詩人が、叔父の決めた相手と結婚する。自分の望みは、どこかへしまいこんだのかもしれません。
1926年の1月、正祐は、テルの縁談を知りました。
正祐は、反対の意見を書いた建白書を出します。目上の人に、意見を書いて差し出す文書です。2月には仙崎まで出かけていき、涙ながらに談判したと伝えられます。
このとき正祐は、初めて知ったといいます。
テルが、いとこではなく、実の姉だということを。
テルは22歳。正祐は、もうすぐ21歳になるところでした。
物心ついてから、ずっといとこだと思ってきた相手でした。自分が泣いて止めようとしていたのは、実の姉の結婚だった。正祐がそれをどう受け止めたのかは、分かっていません。
それでも、結婚は止まりませんでした。2月17日、テルは宮本啓喜と結婚し、上山文英堂の2階で暮らしはじめます。22歳でした。
同じ春の4月、正祐が家を出ました。この結婚に、最後まで強く反対していたといいます。
それをきっかけに、叔父と夫の仲が悪くなります。夫は文英堂を追われる形になり、テルも夫について、店を出ました。
同じ1926年、みすゞは、童謡を書く詩人たちの集まり「童謡詩人会」への入会を認められます。会の名前で出た『日本童謡集』には、「大漁」と「お魚」が載りました。会員には、八十のほか、北原白秋、島崎藤村、野口雨情といった名前が並んでいます。
女性の会員は、与謝野晶子と、みすゞの二人だけでした。
11月、娘のふさえが生まれます。
あの見本の手帳に、二組の書き写しをつくる日まで、あと三年たらずです。
二組の手帳
1927年の夏、下関の駅で、みすゞは西條八十に会いました。
雑誌『童話』で、みすゞの唄を選び、若い童謡詩人たちの中で、ひときわ大きな星だ、とまでほめてくれた人です。
雑誌の上でしか知らなかった人に、初めて会う日です。みすゞは、まだ1歳にならないふさえを背負って、駅へ出かけていったと伝えられます。会いたくて、山を越えてきたのだと、八十に話したそうです。
二人が顔を合わせたのは、生涯で、このとき一度きりでした。
八十はのちに、このときのことを書いて、雑誌に発表しています。題は「下ノ関の一夜」。けれど、それが活字になるのは、みすゞが亡くなった翌年のことです。
8月には、仙崎で一緒に暮らした祖母のウメが亡くなりました。
その年の11月、夫は自分たちの住まいで、商売を始めました。食べ物とおもちゃを売る店で、屋号は辰巳屋。
そのあと、テルは病気になります。夫からうつされた病気でした。
テルは24歳。ふさえは、1歳になったばかりでした。
体の具合は、よくなりませんでした。
翌1928年の3月、童謡詩人の島田忠夫が、みすゞを訪ねて下関の商品館まで来ています。
みすゞは病気で寝ていて、会うことができませんでした。
同じ童謡を書く人が、わざわざ訪ねてきてくれた。その人に、顔を見せることもできなかったのです。
同じ年の7月、家を出ていた正祐が、東京へ出ることになります。
このときテルは、一通の手紙を書いています。あて先は、東京の古川緑波という人。弟の仕事が決まるよう、後押しする手紙でした。
正祐は、文藝春秋社の雑誌『映画時代』の編集部に入ります。のちには、この緑波の舞台の脚本も書くようになりました。
自分の結婚に反対して家を出た弟のために、テルは、手紙を書いたのでした。
正祐が下関からいなくなると、夫は、テルに詩を書くことを禁じました。詩の仲間と手紙をやりとりすることも、禁じた。
(書くなと言われても、覚えている唄までは、取り上げられない)
女学校の総代で、四つの雑誌に一度に載り、与謝野晶子と並んで詩人の会に名を連ねた人です。その人が、自分の家の中で、書くことを禁じられました。
それまでは、唄を書けば、雑誌に送ることができた。送れば、八十が読んでくれた。その道が、家の中で閉ざされたのです。投稿も、仲間への手紙も、外へ向かって言葉を出すことでした。その両方が、止められた。
テルが夫にどう答えたのかは、分かっていません。
このころ、母校の女学校から会報への寄稿を頼まれたテルは、返事を書いています。空高く飛んでいた想像の翼は、今は切られてしまった。そういう意味のことが書かれていたと伝えられます。
ただ、手もとには、書きためてきた唄が残っていました。雑誌に載ったものよりも、載らなかったもののほうが、ずっと多かった。
その唄が、やがて見本の手帳に書き写されることになります。
1929年の5月、雑誌『愛誦』に、みすゞの「夕顔」が載っています。星が夕顔に、さびしくはないのかと尋ね、夕顔が、さびしくはないと答える唄です。
生きているあいだに雑誌に載ったみすゞの唄で、確かめられる最後のものが、この「夕顔」です。
1923年の投稿から6年。雑誌に載ったみすゞの唄は、全部で90編ほどでした。
結婚してから、一家は何度も住まいを移っています。1929年の夏には、4回目の引っ越し。それを終えると、テルは、病気の床に伏せるようになりました。
その年の9月、テルは一枚の葉書に、こんなことを書いています。
朝、雑巾がけを少しした。そうしたら、また五日、休んだ。
大げさな言葉は、どこにもありません。少しの雑巾がけと、休んだ日数。病気の毎日を、そんなふうに数えていたのかもしれません。
その夏から秋にかけて、テルは、あの見本の手帳を広げます。
本屋の店先に置くための見本だったという、博文館のポケットダイアリーです。ポケットダイアリーは、上着のポケットに入るくらいの、小さな手帳のこと。1925年のものと、1926年のもの。1929年の今となっては、どちらも、とうに年の過ぎた手帳です。
そこへ、書きためてきた童謡を、書き写していきました。
一冊目に『美しい町』、二冊目に『空のかあさま』、三冊目に『さみしい王女』と、題をつけた。三冊で、五百十二編。そのうち八割をこえる唄は、どの雑誌にも載ったことのないものでした。
店番をしていたころから、好きな詩を手帳に書き写してきた人です。人の詩を書き写すことには、慣れていた。
今度、書き写しているのは、自分の詩でした。
それも、一組では終わりません。同じ三冊を、もう一組つくっています。病気で寝こむ日のあいまに、五百十二編を、二度。
一組は、東京の正祐へ。一年前、テルが仕事の後押しの手紙を書いた弟です。
もう一組は、西條八十へ。下関の駅で、たった一度だけ会った人です。
正祐へ送った一組は、今も残っています。一冊目と二冊目は、きれいに清書されている。ところが三冊目の『さみしい王女』には、書き直したあとが残っているそうです。
清書のつもりで書き写しながら、まだ直したい言葉が、見つかってしまったのかもしれません。
詩を書くことは、禁じられたままでした。そのなかでテルは、書き写した唄の手帳を、人に託したのです。
この清書を終えたあと、テルは、新しい唄を書かなかったといいます。
10月、テルは、もう一冊、新しい手帳を書きはじめます。
題は『南京玉』。南京玉は、糸を通して首かざりにする、小さなガラスの玉のことです。
中に書きとめたのは、3歳になる娘、ふさえの言葉でした。
娘が口にした、たどたどしい言葉を、一つずつ拾って、手帳に書いていく。
自分の唄を書くことを禁じられたあと、テルは、娘の言葉を書きとめはじめたのでした。
人の詩を書き写した娘は、自分の唄を書き写し、最後に、わが子の言葉を書きとめる人になっていました。
その手帳を書きはじめて、四か月。年が明けると、テルは、夫と別れて暮らしはじめます。
弟の手もと
1930年の2月。病気が重くなるなかで、テルは離婚を決めていました。
同じ月の終わりには、離婚が決まります。テルは3歳のふさえを連れて、母のいる上山文英堂へ戻りました。
残った問題は、ふさえでした。
そのころの決まりでは、子どもを手もとで育て、その子のことを決める権利、親権は、父親にしか認められていなかった。テルは、せめて娘を自分の手もとで育てたいと求めました。
夫は、一度はそれを受け入れたといいます。けれど、すぐに考えを変え、娘を渡せと強く求めるようになりました。
やがて、夫から手紙が届きます。3月10日に、ふさえを引き取りに行く、という知らせでした。
その前の日、3月9日。テルは、亀山八幡宮の隣にある写真館へ行き、写真を撮っています。帰りに桜餅を買って、ふさえと分けて食べたと伝えられます。
夜、テルはふさえを風呂に入れ、娘が寝つくのを見届けました。
それから、三通の手紙を書いています。夫にあてたもの、正祐にあてたもの、そして叔父と母にあてたものです。
翌3月10日、テルは上山文英堂で亡くなりました。自ら命を絶ったのです。26歳でした。
正祐にあてた手紙には、弟を、わたしたちの選手と呼んで、勇ましく行け、と送り出す言葉があったといいます。
夫にあてた手紙には、こういう意味のことが書かれていました。どうしても娘を連れていくというなら、それは仕方がない。けれど、あなたが娘に与えられるのはお金で、心を育てるものではない。私は娘を、心の豊かな子に育てたい。だから、娘は母のミチに預けてほしい。
ふさえは、その後、テルの母ミチのもとで育てられました。
テルは、仙崎の遍照寺に葬られました。2歳で別れた父と、同じお墓です。
みすゞが亡くなって二か月後、西條八十が新しく始めた雑誌『蠟人形』に、みすゞの唄が二編、載りました。「象」と「四つ辻」です。翌年には、八十が、あの下関の駅で会った日のことを書いて、彼女を悼んでいます。「下ノ関の一夜」という文章です。
同じ1931年、正祐は、童謡は、もう雑誌の世の中から置いていかれてしまった、本にするのは難しい、と考えるようになっていたといいます。
1935年には、八十が、少女向けの雑誌に、みすゞから送られてきた童謡集の中から唄を選んで載せています。下関で会った日の思い出を、書き添えて。あの二組めの手帳は、たしかに八十のもとに届いていたのです。
けれど、詩集は出ませんでした。
正祐は、のちに上山雅輔の名で、劇の脚本を書き、子どもの劇団をつくります。そのあいだもずっと、姉から届いた三冊の手帳を、手もとに置いていました。
みすゞの名前は、少しずつ忘れられていきます。
戦争のあとには、子どものための全集や童謡集に、みすゞの唄がいくつか収められています。それでも、広く知られることはありませんでした。
1957年、岩波文庫の『日本童謡集』に、みすゞの唄がただ一編だけ収められました。「大漁」です。
1966年、その一編を読んで強く心を動かされた大学1年生がいました。のちに童謡詩人になる、矢崎節夫です。矢崎は、みすゞの残したものを探しはじめます。
1970年には、みすゞと同じころに投稿していた詩人の一人が、雑誌に載ったみすゞの唄を集めて、自分のお金で本にしました。
矢崎が、みすゞの弟にたどりついたのは、探しはじめて16年目のことです。1982年6月20日。東京で、77歳の上山雅輔は、訪ねてきた矢崎に、三冊の手帳と、姉の写真を預けました。
写真は4枚だったといいます。20歳の春に下関の写真館で撮ったもの。姉と弟で並んで撮ったもの。結婚の記念のもの。そして、亡くなる前の日に撮ったものです。
本屋の見本だったという、あの古い手帳です。中には、五百十二編の唄が書き写してありました。
1983年の暮れ、新聞が、遺された唄の手帳が見つかったことを伝えます。
それでも、出版を引き受けてくれる会社は、なかなか見つかりませんでした。JULA出版局の編集者が、先に予約の注文を集めてから出す、というやり方を考えます。1984年、三冊の手帳は全集になりました。
3年後の1987年、雅輔は、自分のつくった劇団で、みすゞの唄を朗読し、言葉を使わない劇で演じる舞台を上演しています。
娘を育てたのは、母のミチでした。唄を活字にしたのは、たった一度会っただけの八十でした。手帳を半世紀あまり手もとに置いたのは、いとこだと思って育った弟でした。その弟を探し出したのは、16年探し続けた矢崎でした。
雅輔が亡くなったのは、1989年の4月11日だったといいます。
姉の、誕生日でした。