板垣退助 — 死にそびれた人
死に場所を探した武士が、刺されて、いい死に場所を得たと喜び、それから37年、原稿を枕に生きた
泣き顔で、座敷に上がるな
「板垣死すとも、自由は死せず」
刺客に向かって、彼はそう叫んだと伝えられています。いまもよく知られた言葉です。
ところが、事件のひと月後に出た記録には、少し違う言葉が書かれています。言った相手も、違う。刺客と組み合っているあいだ、二人とも無言だった、とまで書いてあるのです。
では、あの言葉は、誰に向けたものだったのか。
それを口にしたのは、泣いて帰るな、と言われて育った人でした。
乾猪之助。のちの板垣退助は、1837年、土佐(今の高知県)の城下町に生まれました。三百石あまりの田を持つ、上級の武士の家です。
母の林氏は、子どもをほとんど叱らない人でした。夜ふけまで帰らなくても、危ない遊びをしても、何も言わない。
ただ一つだけ、決まりがありました。人とけんかをして、泣きながら帰ってくると、母は必ずこう言ったと伝えられます。
「泣き顔で、座敷に上がってはいけません」
ひたすら勝つことだけを教えたのだ、と伝記は書いています。
四、五歳のころ、相撲見物に連れていかれた日のこと。お金のある家は、多くが桟敷(見物用の高い席)を作って見ていました。猪之助は怒って、「人はみな桟敷があるのに、自分だけないなんて」と言い、振り返りもせずに家へ帰ってしまったといいます。
話を聞いた母は、男の子の意気は、小さくても折ってはいけない、と言った。その日のうちに職人を数十人呼び、一晩で桟敷を作らせました。ふつうなら一週間はかかるものだったそうです。
いたずらも、相手のいちばん弱いところを突きました。雷が大嫌いな伯母が、家に泊まりに来ていたときのこと。雷が近くに落ちると、廊下の下にもぐって大きな算盤をじゃらじゃら鳴らし、雷の音に合わせた。一家はうろたえ、伯母はかんかんに怒って、雷も忘れて追いかけてきます。猪之助は隣の垣根から逃げ、すき間から頭を出して、舌を出してみせたといいます。
十四、五歳のころには、七十人あまりの若者と組んで、町なかで別の組に殴りこみ、乱闘になりました。藩は首謀者を三人選んで罰し、その一人が猪之助でした。三人の中で、いちばん年下だったそうです。
その少年が、一度だけ、すべてを投げ出しかけたことがあります。
泳ぐのが好きで、毎日のように川に入っていた。そのせいで耳を傷め、聞こえなくなったのです。医者は、本を読むことも、剣の稽古も禁じた。何をしても楽しくない日が続き、とうとう、もう何もかもおしまいだ、と思った、と伝記にあります。
(聞こえない耳で人前に出るくらいなら、家ごと手ばなしてしまおう)
親戚を集めて、養子に家をつがせる相談まで始めました。親戚は、それを許しませんでした。
ある日、自分で鼻と口をぴったりふさぎ、思いきり息を吹きこんでみた。すると音がして、耳の穴が通ったといいます。それからは、ぶり返すたびに同じやり方で治し、二十代の初めには、すっかり元に戻ったそうです。
1856年、同じ身分の者を侮辱した件で、また藩に罰せられます。城の南、家の領地である神田の里へ、遠ざけられました。
仲間たちは、ときどき慰めに来てくれた。ある日、みんなで前の山に登り、筵を敷いて酒を飲んだときのことです。一人が、漬けた梅と焼いた鰻をいっしょに食べて、腹が痛いと言いだした。この土地では、鰻と酸っぱいものは食べ合わせが悪いとされていたのです。
彼は笑って、「いい薬がある。これを飲め」と言うと、自分で、焼いた鰻を梅の実で巻き、ひと口で平らげてみせた。「まだ痛いか」。痛がっていた仲間はまもなく治り、一座は大笑いしたと伝えられます。
謹慎中の彼を、藩の重役だった吉田東洋が訪ねてきたこともありました。あなたを訴える書類が何度も机に上がって、困ったものだった。そう言って慰めて帰ったそうです。
彼のほうからは、一度も吉田の家をたずねなかった。吉田の一派を、弱々しい学者の集まりと見ていたからです。武士は戦場で死に、馬の革に包まれて帰るものだ。人の本性や理屈を語って、何になる。心の中でそう思っていた、と伝記は書いています。
謹慎のあいだ、彼は猟犬を連れて山に入り、猪や鹿を追って暮らしました。
理屈を語る人だ、と彼が見下した吉田東洋は、1862年のある夜、城から帰る道で殺されます。
この命は、しばらく預ける
1860年、父が重い病にかかりました。息子はそれまでの行いを深く悔い、昼も夜もそばを離れずに看病したと伝記にあります。父は亡くなり、退助は乾家をつぎました。
同じ年、免奉行(年貢をあつかう役)として、山深い津野山の村々を回っています。貧しい村でした。村人は道ばたにひざまずいて、年貢を軽くしてほしいと願った。わずかな粉を紙袋に入れ、みんなで回して食べていたといいます。
それを見た退助は、村の役人に言ったと伝えられます。上の役人は民に、争うなと教えているのか。自分の考えは逆だ。怠けている民を励ますには、まずけんかから始めなければならない。けんかは、恥を知ってから起こるものだ。
重役はこれを聞いて驚き、退助を叱りつけたそうです。
人を励ますのも、けんか腰でした。
土佐の武士は、身分の高い上士と、低い下士とに分かれて、もとから反目していました。1862年に吉田東洋が殺されると、そのにらみ合いが表に出てきます。
下士たちが上士の頭を狙っている。そんなうわさが、前の藩主、山内容堂の耳に入りました。どうするかと問われた退助は、きっぱり答えたと伝えられます。
「血で血を洗うのは、もとより良い策ではありません。ですが、今日のことは、ほかにどうしようもありません」
自分には五十人あまりの仲間がいる、と退助は続けた。それを聞いた重役の一人は、「乾は、本当に命知らずだ」と言ったといいます。
そのころ、下士の側に立つ中岡慎太郎が、退助を訪ねてきました。上士と下士が反目していた時期です。退助は、いきなり切り出したと伝えられます。
「私が京都にいたとき、君たちは、私を殺そうとしていたのではないか」
中岡は、えりを正して答えた。
「そんなことが、あるはずがありません」
退助は、ぱっと身を起こして叱りつけました。少しからかうような口ぶりだったといいます。
「中岡慎太郎は、男ではないのか。それなのに、まだ女のようなことを言うのか」
中岡は、わびて白状しました。
「心外千万なことですが、初めは、あなたを除かなければ、何もできないと思っていました」
すると退助は、にっこり笑ったそうです。
「きっぱりした言葉だ。これでやっと、天下の大事を語り合える」
話は細かいところへ進み、二人のひざは、だんだん前へ出ていった。座は春の風が吹いたようになごんだ、と伝記はたとえています。帰りぎわ、中岡は言いました。あなたを、ありきたりの考えの一人だと思っていたのは、私の見る目がなかった。
自分を殺すつもりだった、と白状した男を、退助は気に入ったのです。
それから数年後の1867年。江戸から京都へ駆けつけた退助を、中岡たちが迎えました。今日の策はどうなのか、と口々に聞く。退助は、しばらく黙っていた。それから、静かに答えたと伝えられます。
「江戸を出るとき、私は本当に、殿を諫めて死ぬと決めていました。それで天下の同志にわびるつもりです。この一死で殿が目をさましてくださるなら、この身は惜しくない。あとのことは、どうか君たちが考えてほしい」
死んで主君をいさめる。武士の死に方の一つです。
中岡は、座をたたいて怒りました。
「あなた一人だけ、潔くなるつもりか。国は、いま危ないときだ。男にいちばん大事なのは、死に場所だ。重い死と軽い死の見分けがつくなら、なぜ、そちらで死なずに、つまらない犬死にをするのか。あなたを死なせることは、まだ許さない。今日の大計を言え」
伝記は、ここでおかしなことを書き添えています。前に退助が中岡を叱ったときは、中岡が涙を流してわびた。この日は中岡が退助を叱り、退助が冷や汗を流してわびた。なんと不思議なめぐり合わせか、と。
退助は、長いあいだ黙っていました。やがて、こう言ったと伝えられます。
「それなら、この一死は、しばらく君たちに預けておこう」
藩に代わって、同志で幕府を倒す兵を挙げる。それが、退助の出した答えでした。中岡たちは大喜びで、手を打って三度「快」と叫んだといいます。
その年の旧暦11月、中岡は京都で、坂本龍馬といっしょにいたところを刺客に襲われました。深い傷を負い、まもなく息を引き取ります。最期まで顔色を変えず、あとのことを静かに仲間に託した、と伝記は書いています。
知らせを受けた退助は、行ったり来たりしながら悲しみの歌をうたい、どうしていいか分からなかったといいます。
(預けた命は、もう誰にも返してもらえない)
翌1868年、退助は兵を率いて京都を出ます。
土佐で彼に反対していた人たちは、こう嘆いたそうです。あの男に兵を持たせるのは、虎を野に放つようなものだ。
ひと籠の芋
1868年の旧暦2月。退助は、土佐の兵を率いて京都を出ました。新政府の側の東山道軍の先鋒として、旧幕府に味方する東の藩々を攻める軍です。
美濃の大垣で、彼は姓を「乾」から「板垣」に改めます。先祖である、武田信玄の家臣、板垣信形の姓に戻したのだ、と伝記にあります。
同じ行軍の途中、二番隊長の野本平吉が、軍の決まりを破りました。誠実で、仲間から君子と呼ばれていた人です。板垣とも親しかった。
板垣は、涙を振りはらって彼を斬った、と伝記は書いています。
同じ年の10月8日(旧暦8月23日)、板垣たちは会津の若松城に攻めかかりました。会津藩は、新政府に敵とされ、城にこもって戦った側です。城を守る側も、攻める側も、死んだり傷ついたりした者はたいへん多かった、と伝記は書いています。
その日、板垣は、軍の監督役の牧野群馬と、滝沢の峠に登っています。首をかけ合うほどの親友でした。眼下に、若松城が見えた。
群馬は、踊り上がって喜んだと伝えられます。
「ここが、私の骨を埋める場所だ。今日こそ、死ぬべき日だ」
そして板垣を振り返り、「兄」と呼びかけて聞いた。
「兄も、死ぬか」
まわりの者は、気がふれたのかと驚いて離れていったといいます。二人はいっしょに食事をすませ、山を下りて、それぞれの持ち場へ向かいました。
群馬は城の正面へ進み、自分で大砲の綱を引いて、兵を励ましました。そこへ飛んできた弾が体に当たって破裂し、夜に入って、息を引き取ります。
知らせを聞いた板垣は、涙が止まらなかったと伝記にあります。
一か月ほどして、会津は降伏を申し出ました。使者たちは、藩主をゆるやかに扱ってほしいと願った。板垣は取り次ぎの者を通して、問い返させたといいます。ゆるやかな扱いがなければ、降伏できないのか。使者たちは頭を下げて、そうではありませんと答えました。
板垣は、こう伝えさせたそうです。「ただ、板垣は頑固一点張りの男ではない、と覚えておけばよい」
それでも、降伏の旗が上がるまで、撃つのはやめさせなかった。
戦いのあと、陣中で将たちが集まり、笑いながら話していた席でのことです。降伏した藩主の父子を寺で警護していた土佐の侍の一人が、こんな話をしました。
一人の農夫が、粗末な籠に焼いた芋を入れて持ってきた。殿さまには、まことに申しわけないことですが、これは身分の低い者の手作りです。せめて、お気持ちだけでも。そう言って差し出したので、感激して取り次いだのだ、と。
一座は、口々にほめたたえました。
板垣だけが、ひと言も口をきかなかった。
やがて、ゆっくりと鎧をなでて、話しはじめたと伝えられます。
会津に攻め入ったとき、ここの人々は、妻子を連れ、家財を持って、みな逃げてしまった。刃向かってくる者は、一人もいなかった。それどころか、だんだんこちらの荷物運びになり、手間賃をもらって平気でいた。自分はそれがずっと不思議で、忘れられなかった。いまの話を聞いて、ようやく分かった。
「楽しみを共にしない者は、憂いも共にしない」
伝記の中の板垣は、そう言って続けます。君たちが、ああいう者を人の数に入れてこなかったからだ。だから国が滅びるとき、命をかけたのは、わずか三千の武士だけだった。籠ひとつの芋に、なぜそこまで感心するのか分からない。
津野山の村で、怠ける民にはまずけんかだ、と言い放った人でした。
高知に凱旋した日、町の人々は通りにあふれて出迎えを待っていました。板垣はそれを嫌い、わざと道を回って致道館に入ってしまう。見物人は、大いにがっかりしたといいます。
それから板垣は、土佐の藩政を任されました。そして仲間の福岡孝弟とともに、元の殿さまの許しを得て、自分たち武士の役目そのものを解く話を、政府に持ちこみます。武士の等級をなくすなら、先に、戦うことを家の仕事とする武士の決まった役目を解くべきだ。太政官でそう詰め寄り、同意を取りつけて土佐に帰った、と本人がのちに語っています。
上級の武士の家に生まれた人が、その身分のよりどころを、自分たちの手で外しにいったのです。
1873年、朝鮮へ使節を送るかどうかをめぐる政府内の争いに敗れ、板垣は参議(政府の中心の役)を辞めました。翌年、国民が選んだ議員による議会を開くよう求める意見書を、仲間とともに政府に出します。
それから先、彼が国を動かそうとした道具は、刀ではなく、演説でした。
1881年、板垣は自由党をつくり、その総理になります。
翌年の4月6日、岐阜。演説を終えた彼は、一人で会場の玄関を出ました。
ご本望でしょう
党の歴史をまとめた本によれば、その日、板垣は少し体調をくずしていました。それでも神道中教院の懇親会で二時間近く演説をして、疲れ、座っていられなくなったといいます。
会は、まだ続いていました。午後6時ごろ、板垣は一人で先に席を立ち、宿へ帰ることにします。みんなの楽しみを邪魔しないよう、付き添いも見送りも断ったのだ、と党の歴史の本は書いています。
玄関で靴をはき、二、三歩進んだとき。
後ろから、一人の男が抱きつくように飛びかかってきました。短刀が、右の胸に入る。
「何とするか」
板垣はそう叫んで男を振りはなした、と事件のひと月後に出た記録にあります。男は前に回りこみ、今度は左の胸を突いた。そこで初めて、相手が刺客だと気づいた、と記録は続けます。
素手でした。党の歴史の本によれば、杖さえ持っていなかった。彼は右手で、刃そのものをつかみます。もぎ取ろうとして、右手は深く切れた。左手と、左のほおにも傷を負いました。
このあいだ、板垣も刺客も、ひと言も発しなかった。記録には、わざわざかっこ書きで、そう書いてあります。
物音に気づいた人々が駆けつけ、内藤魯一が男の腕をつかんで投げ飛ばした。何人もが男を組みふせ、五十を過ぎた仲間が縛りあげる。怒った何人かは、男の顔や尻を、したたかに蹴りつけたといいます。
顔から血をしたたらせる板垣を、大野斎市が抱き起こしました。
あふれる血を見て、斎市は声をあげて泣き、「ああ、残念だ」と叫んだと記録にあります。右の袖で板垣の体から落ちる血を押さえながら、泣き続けた。
板垣は、それを聞いて振り向いた。そして、静かに言ったと書かれています。
「諸君、嘆くな。退助は死んでも、自由は滅びない。諸君、励め」
この記録では、刺客をにらんで叫んだ言葉ではありません。抱きかかえて泣いている仲間に、振り向いて言った言葉です。顔色は少しも変わらなかった、とも書いています。
傷はどうか、気分はどうか、とみんなが聞きました。胸を二か所突かれた。深く肺に届いたかもしれない。けれど、気分はふだんと変わらない。板垣はそう答えた。息は苦しくないかと聞かれても、べつに何ともないと言う。それなら肺は大丈夫だろう、と誰かが言い、みんな、やっと少しほっとしたそうです。
仲間が板垣を背負い、門の前の傘屋へ運びこみました。一人は自分の帯を解いて着物を脱ぎ、板垣の体にかけた。
傘屋で手当てを受けるあいだ、板垣は仲間の一人を枕もとに呼んでいます。明日は高富の懇親会に出る約束がある。行けなくなったと、すぐに知らせてくれ。
胸を二か所刺されて、気にしていたのは、明日の約束でした。
宿に戻った板垣は、内藤を呼んで礼を言ったと伝えられます。党の歴史の本によれば、刺客を殴り殺そうとする者たちを、内藤が厳しく止めて、役人に引き渡したからです。
「君に、感謝しなければならないことがある。君が刺客をちゃんと扱って、乱暴な目にあわせなかったことだ。これで我が党の面目が保たれた」
知らせを受けた愛知県の病院長、後藤新平も駆けつけてきました。管轄の外のことだ、と県の役人に冷たくあしらわれても、自分の職をかけ、部下の医者を連れて来たそうです。
後藤は板垣を診て、言ったと伝えられます。
「閣下は、これほどの傷なのに、脈は乱れず、熱も少しもない。しかもお顔に、喜びの色がある。閣下は、ご本望なのでしょう」
板垣は答えた。
「そうだ。かえって、いい死に場所を得たと思って、心から喜んでいるのだ」
男にいちばん大事なのは、死に場所だ。そう言って彼を叱った中岡慎太郎が死んでから、十四年あまりがたっていました。
あのとき預けた命の使い道を、ようやく見つけた気がしたのかもしれません。
後藤が席を立つと、板垣は仲間に言ったそうです。あの医者は、少し毛色の変わった男だ。政治家にできないのが惜しい。
けれど、傷は治っていきました。板垣は、死ななかった。
刺した男の名は、相原尚褧。愛知県の学校の先生で、二十七歳でした。
腹を切って、わびよ
相原尚褧は、家を出る前に、手紙を書き残していました。両親にあてた一通は、党の歴史をまとめた本に、こう収められています。
「勤王の志がやみがたく、国賊、板垣退助を倒します。けれど、上は国の法を犯し、下はお二人に孝行できなくなる。そう思うと、親不孝の罪は、おわびの言葉もありません」
勤めていた学校の同僚たちにも、三日三晩この大事を考えるために、病気だと言って休んだ、どうか許してほしい、と書いている。ある新聞の保守的な主張を愛読し、深く心酔していた人でした。
法廷は板垣のもとへ使いを出し、相原を訴えるつもりがあるかを尋ねました。板垣は答えたと伝えられます。
「あえて訴えるつもりはありません。できることなら、彼を赦してやってください」
それでも法は曲げられず、相原は無期徒刑(一生、獄につながれる刑)になりました。
自分を刺した男には、そこまで寛大だった人です。
ところが同じ年のうちに、彼は仲間に、腹を切れと迫ることになります。
党の歴史の本によれば、きっかけは、ヨーロッパ行きの話でした。後藤象二郎(あの医者の後藤とは別の人)が、外国を見てくるようにすすめ、旅費は知り合いの華族から借りてくる、と言った。板垣は承知します。
党の中では、馬場辰猪たちが、総理が日本を離れていいのか、と反対しました。別の政党は、洋行の費用は大金のはずだ、出どころが怪しい、と言いふらしました。
その疑いを、馬場たちがもう一度持ち出したと聞いて、板垣は激しく怒ったといいます。私を推して党の頭にしておきながら、ほかの党の悪口に乗って、私の名誉を傷つけようとする。無礼にもほどがある。
板垣は党の幹部を集めました。そのときの言葉が、党の歴史をまとめた本に残っています。
「もし今度のことで、私に一点でも汚れた事実があると証明されたら、私は諸君に、腹を切っておわびしよう。そのかわり、汚れた事実がないとはっきりしたら、諸君が私に、腹を切っておわびしなければならない」
ある幹部は机をたたいて、愉快だ、賛成だ、と叫んだ。馬場は、腹を切る誓いなど野蛮な古い習わしだ、と断った。別の一人は、これは我々を殺すつもりだ、と叫んだそうです。話はまとまらず、馬場たちは席を立ちました。
刺した男のことは赦してほしいと頼んだ人が、疑った仲間には、腹を切れと迫ったのです。
刃物で刺されるより、仲間に疑われるほうが、こたえたのかもしれません。
馬場たちは、のちに板垣を訪ねてわび、付き合いはいったん元に戻りました。けれど、板垣がヨーロッパから帰ったあと、ある仲間の処分をめぐって意見が分かれ、馬場たちは党を去りました。
1884年、自由党は、大阪の大融寺で解党を決めます。
結びの演説で、板垣は言いました。財産を使い果たし、体を傷つけられても、自分は少しも屈していない。そして、こう続けたと党の歴史の本にあります。
「私がもし不幸にして死んだら、諸君、どうか私の墓を、秋草の生いしげる中に埋もれさせてほしい。手柄もないのにむやみに大きな墓石を建てて、死んだあとまで石碑の品評会をするような、都の墓場の悪い習わしに染めないでくれ」
会場は、大笑いと大喝采だったと記録されています。
解党の宴では、若者が十数人、板垣の前に進み出ました。今日のごちそうに、総理にさしあげるものが何もない。せめて胴上げで、閣下の長生きを祝わせてください。そう言って板垣を担ぎあげ、何度も宙に投げあげたといいます。
板垣は顔をほころばせて、愉快だ、と言ったそうです。
それから二年半ほどたった1887年5月。武士の身分を自分の手で外しにいったこの人に、伯爵を授けるという天皇の命令が出ました。本人は大阪へ向かう途中で、何も知らなかった。
位を受けるのは、自分がこれまで言ってきたことに反する。6月、板垣は、位を辞退する文を差し出しました。
「臣は、もとより南海の一人の侍にすぎません」
南海とは、南の海に面した土佐のことです。
宮内省の次官が板垣を呼び、陛下は板垣の忠節を覚えておられる、快く受けよ、と伝えました。板垣は恐れ入って、思わず涙ぐんだといいます。
天皇への忠義に背きたくない。けれど、自分の信じるところからすれば、位を受けるわけにいかない。板挟みになって、眠ることも食べることもおろそかになった、と党の歴史の本は書いています。
7月にもう一度、辞退の文を出しました。それも送り返されます。7月15日、板垣は宮中に出向き、位を受けると書いた文を差し出しました。
辞めたかった位を、結局、受けたのです。
そのころの新聞が、板垣の財産を調べて書いています。猟犬が数頭、家鴨が20羽、猟銃が2挺。それだけだったといいます。
それから二年後。板垣を刺したあの学校の先生が、獄を出て、彼に会いに来ることになります。
枕の下の原稿
1889年、憲法の発布を祝う恩赦で、相原尚褧が獄から出てきました。
相原は人に付き添われて、東京の板垣の家を訪ねます。あのときは心得違いでした、どうか赦してください、とわびたといいます。北海道へ渡って、開拓の仕事をしたいとも話した。
板垣は答えたと伝えられます。
「あの日のことは、私怨ではなく、国を思う気持ちから出たものだ。その心は、とがめない。ただ、ことを起こす前に、見立てを誤ったのは惜しい。これから先も、板垣のすることが本当に国の害になるときは、もう一度やってもらっても、決して後悔はしない」
相原はいったん故郷に帰り、それから北海道へ向かう船に乗りました。遠州灘を渡るあいだに、行方が分からなくなったといいます。身を投げたとも、海へ落とされたとも伝えられ、本当のことは分かっていません。
板垣のほうは、それから三十年、生きました。政党をつくり直し、大臣も務め、華族たちに、位を子に継がせるのをやめようと呼びかけた。返事をよこしたのは、わずか三十七人だったといいます。
晩年の板垣は、自分の一生を、よくこんなふうにたとえたそうです。
昔の東海道には、宿場ごとに交代する人足と、京都から江戸まで一人で通して荷を運ぶ「通し人足」がいた。自分は、通し人足だ。勤王討幕、自由民権、立憲政治、社会政策と、相棒は何度も入れかわった。けれど自分は少しも変わらず、一人で全部の道のりを通してきた。
いっしょに荷を担いだ仲間の多くは、途中で去るか、先に死んでいました。命を預けた中岡慎太郎。会津の峠から城を見下ろした日に死んだ、牧野群馬。党を去った馬場辰猪も、渡ったアメリカで病に倒れていました。
1918年の秋から、板垣は病の床につきます。81歳でした。
それでも、弟子の和田三郎を呼んでは、自分の考えを語って書きとらせた。原稿は、どんどん積みあがっていきます。これから先、自分が発表する意見は、すべて同じ国の人々への遺言だ。和田が社会政策の文章を書きはじめたころから、板垣はいつもそう言っていた、と和田は書いています。
その中に、会津のことを語った一篇があります。会津が落ちた日、国のために命をかけたのは、武士の身分の者だけだった。農民や町人は、荷を担いで逃げた。幽閉された元の殿さまに芋を差し出した農夫が、ただ一人いただけだった。
五十年前、会津の陣中で見たものを、彼は病の床で、もう一度語っていました。
死んだあと、子や孫に伯爵の位を継がせないこと。それも、遺言にしたと和田は書いています。
1919年6月に持病の気管支の病がぶり返しても、板垣は本の仕上げを急ぎました。書きあがった原稿が枕もとに届くと、ひどく喜んだ。ひととおり読み終えると、枕の下に入れて、ほかの人には決して触らせなかったそうです。
7月15日。病が重くなり、板垣は和田を枕もとに呼びました。
和田は、看病に疲れた夫人の隣に座り、自分の右手で、板垣の右手を強く握った。来たのは自分です、と告げる。
板垣は、にっこり笑いました。そして、本の出版を、重ねて和田に託したと、和田は書いています。
直しも出版の用意も済んでいます、と和田が誓うと、板垣は何度もうなずいた。もっと何か言おうとしたけれど、多くは言えなかった。
夫人の目から、涙があふれて床をぬらしました。和田はこらえきれず、部屋を出て、声をあげて泣いたといいます。
翌16日の早朝、容体が急に変わります。和田は家族とともに、末期の水を捧げました。
午前8時30分。板垣退助は、原稿を枕の下に置いたまま、息を引き取りました。82歳でした。
亡くなった同じ1919年、彼の名前で出た文章があります。岐阜の場面を、本人の言葉として書いたものです。そこでは板垣は、刺客をにらんで、こう言っている。
「板垣死すとも自由は死せず」
九年前に彼が監修した党の歴史の本にも、同じ場面が、同じ言葉で書かれていました。
けれど、事件のひと月後の記録の中の彼は、刺客のほうを見ていません。血を押さえて泣いている仲間のほうへ、静かに振り向いています。
諸君、嘆くな。
泣き顔で座敷に上がるな、と言われて育った子どもが、泣いている人に、そう言っていました。
あの夕方、血を押さえて泣いた仲間がいた。背負って運んだ仲間がいた。職をかけて駆けつけた医者がいた。三十七年後、その右手を強く握った弟子がいた。
死の前の日、泣いていたのは、まわりの人たちのほうでした。彼は、笑っていた。
原稿は、枕の下に置かれたままでした。