板垣退助 — 死にそびれた人

死に場所を探した武士が、刺されて、いい死に場所を得たと喜び、それから37年、原稿を枕に生きた

泣き顔で、座敷ざしきに上がるな

「板垣いたがき死すとも、自由は死せず」

刺客しかくに向かって、彼はそう叫さけんだと伝えられています。いまもよく知られた言葉です。

ところが、事件のひと月後に出た記録には、少し違ちがう言葉が書かれています。言った相手も、違う。刺客と組み合っているあいだ、二人とも無言だった、とまで書いてあるのです。

では、あの言葉は、誰だれに向けたものだったのか。

それを口にしたのは、泣いて帰るな、と言われて育った人でした。

乾猪之助いぬいいのすけ。のちの板垣退助いたがきたいすけは、1837年、土佐とさ(今の高知県)の城下町に生まれました。三百石あまりの田を持つ、上級の武士の家です。

母の林氏は、子どもをほとんど叱しからない人でした。夜ふけまで帰らなくても、危ない遊びをしても、何も言わない。

ただ一つだけ、決まりがありました。人とけんかをして、泣きながら帰ってくると、母は必ずこう言ったと伝えられます。

「泣き顔で、座敷ざしきに上がってはいけません」

ひたすら勝つことだけを教えたのだ、と伝記は書いています。

四、五歳のころ、相撲すもう見物に連れていかれた日のこと。お金のある家は、多くが桟敷さじき(見物用の高い席)を作って見ていました。猪之助いのすけは怒おこって、「人はみな桟敷があるのに、自分だけないなんて」と言い、振ふり返りもせずに家へ帰ってしまったといいます。

話を聞いた母は、男の子の意気は、小さくても折ってはいけない、と言った。その日のうちに職人を数十人呼び、一晩で桟敷を作らせました。ふつうなら一週間はかかるものだったそうです。

いたずらも、相手のいちばん弱いところを突つきました。雷かみなりが大嫌だいきらいな伯母おばが、家に泊とまりに来ていたときのこと。雷が近くに落ちると、廊下ろうかの下にもぐって大きな算盤そろばんをじゃらじゃら鳴らし、雷の音に合わせた。一家はうろたえ、伯母はかんかんに怒って、雷も忘れて追いかけてきます。猪之助は隣となりの垣根かきねから逃にげ、すき間から頭を出して、舌を出してみせたといいます。

十四、五歳のころには、七十人あまりの若者と組んで、町なかで別の組に殴なぐりこみ、乱闘らんとうになりました。藩はんは首謀者しゅぼうしゃを三人選んで罰ばっし、その一人が猪之助でした。三人の中で、いちばん年下だったそうです。

その少年が、一度だけ、すべてを投げ出しかけたことがあります。

泳ぐのが好きで、毎日のように川に入っていた。そのせいで耳を傷め、聞こえなくなったのです。医者は、本を読むことも、剣けんの稽古けいこも禁じた。何をしても楽しくない日が続き、とうとう、もう何もかもおしまいだ、と思った、と伝記にあります。

(聞こえない耳で人前に出るくらいなら、家ごと手ばなしてしまおう)

親戚しんせきを集めて、養子に家をつがせる相談まで始めました。親戚は、それを許しませんでした。

ある日、自分で鼻と口をぴったりふさぎ、思いきり息を吹ふきこんでみた。すると音がして、耳の穴が通ったといいます。それからは、ぶり返すたびに同じやり方で治し、二十代の初めには、すっかり元に戻もどったそうです。

1856年、同じ身分の者を侮辱ぶじょくした件で、また藩に罰せられます。城の南、家の領地である神田こうだの里へ、遠ざけられました。

仲間たちは、ときどき慰なぐさめに来てくれた。ある日、みんなで前の山に登り、筵むしろを敷いて酒を飲んだときのことです。一人が、漬つけた梅と焼いた鰻うなぎをいっしょに食べて、腹が痛いと言いだした。この土地では、鰻と酸っぱいものは食べ合わせが悪いとされていたのです。

彼は笑って、「いい薬がある。これを飲め」と言うと、自分で、焼いた鰻を梅の実で巻き、ひと口で平らげてみせた。「まだ痛いか」。痛がっていた仲間はまもなく治り、一座は大笑いしたと伝えられます。

謹慎きんしん中の彼を、藩の重役だった吉田東洋よしだとうようが訪ねてきたこともありました。あなたを訴うったえる書類が何度も机に上がって、困ったものだった。そう言って慰めて帰ったそうです。

彼のほうからは、一度も吉田よしだの家をたずねなかった。吉田の一派を、弱々しい学者の集まりと見ていたからです。武士は戦場で死に、馬の革に包まれて帰るものだ。人の本性や理屈りくつを語って、何になる。心の中でそう思っていた、と伝記は書いています。

謹慎のあいだ、彼は猟犬りょうけんを連れて山に入り、猪いのししや鹿を追って暮らしました。

理屈を語る人だ、と彼が見下した吉田東洋は、1862年のある夜、城から帰る道で殺ころされます。

この命は、しばらく預ける

1860年、父が重い病にかかりました。息子はそれまでの行いを深く悔くい、昼も夜もそばを離はなれずに看病したと伝記にあります。父は亡くなり、退助たいすけは乾いぬい家をつぎました。

同じ年、免奉行めんぶぎょう(年貢ねんぐをあつかう役)として、山深い津野山つのやまの村々を回っています。貧しい村でした。村人は道ばたにひざまずいて、年貢を軽くしてほしいと願った。わずかな粉を紙袋かみぶくろに入れ、みんなで回して食べていたといいます。

それを見た退助は、村の役人に言ったと伝えられます。上の役人は民に、争うなと教えているのか。自分の考えは逆だ。怠なまけている民を励はげますには、まずけんかから始めなければならない。けんかは、恥はじを知ってから起こるものだ。

重役はこれを聞いて驚おどろき、退助を叱しかりつけたそうです。

人を励ますのも、けんか腰ごしでした。

土佐とさの武士は、身分の高い上士じょうしと、低い下士かしとに分かれて、もとから反目していました。1862年に吉田東洋よしだとうようが殺ころされると、そのにらみ合いが表に出てきます。

下士たちが上士の頭を狙ねらっている。そんなうわさが、前の藩主はんしゅ、山内容堂やまうちようどうの耳に入りました。どうするかと問われた退助は、きっぱり答えたと伝えられます。

「血で血を洗うのは、もとより良い策ではありません。ですが、今日のことは、ほかにどうしようもありません」

自分には五十人あまりの仲間がいる、と退助は続けた。それを聞いた重役の一人は、「乾は、本当に命知らずだ」と言ったといいます。

そのころ、下士の側に立つ中岡慎太郎なかおかしんたろうが、退助を訪ねてきました。上士と下士が反目していた時期です。退助は、いきなり切り出したと伝えられます。

「私が京都にいたとき、君たちは、私を殺そうとしていたのではないか」

中岡は、えりを正して答えた。

「そんなことが、あるはずがありません」

退助は、ぱっと身を起こして叱りつけました。少しからかうような口ぶりだったといいます。

「中岡慎太郎は、男ではないのか。それなのに、まだ女のようなことを言うのか」

中岡は、わびて白状しました。

「心外千万なことですが、初めは、あなたを除かなければ、何もできないと思っていました」

すると退助は、にっこり笑ったそうです。

「きっぱりした言葉だ。これでやっと、天下の大事を語り合える」

話は細かいところへ進み、二人のひざは、だんだん前へ出ていった。座は春の風が吹ふいたようになごんだ、と伝記はたとえています。帰りぎわ、中岡は言いました。あなたを、ありきたりの考えの一人だと思っていたのは、私の見る目がなかった。

自分を殺すつもりだった、と白状した男を、退助は気に入ったのです。

それから数年後の1867年。江戸えどから京都へ駆かけつけた退助を、中岡たちが迎むかえました。今日の策はどうなのか、と口々に聞く。退助は、しばらく黙だまっていた。それから、静かに答えたと伝えられます。

「江戸を出るとき、私は本当に、殿とのを諫いさめて死ぬと決めていました。それで天下の同志にわびるつもりです。この一死で殿が目をさましてくださるなら、この身は惜おしくない。あとのことは、どうか君たちが考えてほしい」

死んで主君をいさめる。武士の死に方の一つです。

中岡は、座をたたいて怒おこりました。

「あなた一人だけ、潔くなるつもりか。国は、いま危ないときだ。男にいちばん大事なのは、死に場所だ。重い死と軽い死の見分けがつくなら、なぜ、そちらで死なずに、つまらない犬死にをするのか。あなたを死なせることは、まだ許さない。今日の大計を言え」

伝記は、ここでおかしなことを書き添そえています。前に退助が中岡を叱ったときは、中岡が涙なみだを流してわびた。この日は中岡が退助を叱り、退助が冷や汗ひやあせを流してわびた。なんと不思議なめぐり合わせか、と。

退助は、長いあいだ黙っていました。やがて、こう言ったと伝えられます。

「それなら、この一死は、しばらく君たちに預けておこう」

藩はんに代わって、同志で幕府を倒たおす兵を挙げる。それが、退助の出した答えでした。中岡たちは大喜びで、手を打って三度「快」と叫さけんだといいます。

その年の旧暦きゅうれき11月、中岡は京都で、坂本龍馬さかもとりょうまといっしょにいたところを刺客しかくに襲おそわれました。深い傷を負い、まもなく息を引き取ります。最期まで顔色を変えず、あとのことを静かに仲間に託たくした、と伝記は書いています。

知らせを受けた退助は、行ったり来たりしながら悲しみの歌をうたい、どうしていいか分からなかったといいます。

(預けた命は、もう誰だれにも返してもらえない)

翌1868年、退助は兵を率いて京都を出ます。

土佐で彼に反対していた人たちは、こう嘆なげいたそうです。あの男に兵を持たせるのは、虎とらを野に放つようなものだ。

ひと籠かごの芋いも

1868年の旧暦きゅうれき2月。退助たいすけは、土佐とさの兵を率いて京都を出ました。新政府の側の東山道とうさんどう軍の先鋒せんぽうとして、旧幕府に味方する東の藩はん々を攻せめる軍です。

美濃みのの大垣おおがきで、彼は姓せいを「乾いぬい」から「板垣いたがき」に改めます。先祖である、武田信玄たけだしんげんの家臣、板垣信形いたがきのぶかたの姓に戻もどしたのだ、と伝記にあります。

同じ行軍の途中とちゅう、二番隊長の野本平吉のもとへいきちが、軍の決まりを破りました。誠実で、仲間から君子くんしと呼ばれていた人です。板垣とも親しかった。

板垣は、涙なみだを振ふりはらって彼を斬きった、と伝記は書いています。

同じ年の10月8日(旧暦8月23日)、板垣たちは会津あいづの若松城わかまつじょうに攻めかかりました。会津藩あいづはんは、新政府に敵とされ、城にこもって戦った側です。城を守る側も、攻める側も、死んだり傷ついたりした者はたいへん多かった、と伝記は書いています。

その日、板垣は、軍の監督役かんとくやくの牧野群馬まきのぐんまと、滝沢たきざわの峠とうげに登っています。首をかけ合うほどの親友でした。眼下に、若松城が見えた。

群馬は、踊おどり上がって喜んだと伝えられます。

「ここが、私の骨を埋うめる場所だ。今日こそ、死ぬべき日だ」

そして板垣を振り返り、「兄」と呼びかけて聞いた。

「兄も、死ぬか」

まわりの者は、気がふれたのかと驚おどろいて離はなれていったといいます。二人はいっしょに食事をすませ、山を下りて、それぞれの持ち場へ向かいました。

群馬は城の正面へ進み、自分で大砲たいほうの綱つなを引いて、兵を励はげましました。そこへ飛んできた弾たまが体に当たって破裂はれつし、夜に入って、息を引き取ります。

知らせを聞いた板垣は、涙が止まらなかったと伝記にあります。

一か月ほどして、会津は降伏こうふくを申し出ました。使者たちは、藩主はんしゅをゆるやかに扱あつかってほしいと願った。板垣は取り次ぎの者を通して、問い返させたといいます。ゆるやかな扱いがなければ、降伏できないのか。使者たちは頭を下げて、そうではありませんと答えました。

板垣は、こう伝えさせたそうです。「ただ、板垣は頑固がんこ一点張りの男ではない、と覚えておけばよい」

それでも、降伏の旗が上がるまで、撃うつのはやめさせなかった。

戦いのあと、陣中じんちゅうで将たちが集まり、笑いながら話していた席でのことです。降伏した藩主の父子を寺で警護していた土佐の侍さむらいの一人が、こんな話をしました。

一人の農夫が、粗末そまつな籠かごに焼いた芋いもを入れて持ってきた。殿とのさまには、まことに申しわけないことですが、これは身分の低い者の手作りです。せめて、お気持ちだけでも。そう言って差し出したので、感激して取り次いだのだ、と。

一座は、口々にほめたたえました。

板垣だけが、ひと言も口をきかなかった。

やがて、ゆっくりと鎧よろいをなでて、話しはじめたと伝えられます。

会津に攻め入ったとき、ここの人々は、妻子を連れ、家財を持って、みな逃にげてしまった。刃は向かってくる者は、一人もいなかった。それどころか、だんだんこちらの荷物運びになり、手間賃をもらって平気でいた。自分はそれがずっと不思議で、忘れられなかった。いまの話を聞いて、ようやく分かった。

「楽しみを共にしない者は、憂うれいも共にしない」

伝記の中の板垣は、そう言って続けます。君たちが、ああいう者を人の数に入れてこなかったからだ。だから国が滅ほろびるとき、命をかけたのは、わずか三千の武士だけだった。籠ひとつの芋に、なぜそこまで感心するのか分からない。

津野山つのやまの村で、怠なまける民にはまずけんかだ、と言い放った人でした。

高知に凱旋がいせんした日、町の人々は通りにあふれて出迎むかえを待っていました。板垣はそれを嫌きらい、わざと道を回って致道館ちどうかんに入ってしまう。見物人は、大いにがっかりしたといいます。

それから板垣は、土佐の藩政はんせいを任されました。そして仲間の福岡孝弟ふくおかたかちかとともに、元の殿さまの許しを得て、自分たち武士の役目そのものを解く話を、政府に持ちこみます。武士の等級をなくすなら、先に、戦うことを家の仕事とする武士の決まった役目を解くべきだ。太政官だじょうかんでそう詰つめ寄り、同意を取りつけて土佐に帰った、と本人がのちに語っています。

上級の武士の家に生まれた人が、その身分のよりどころを、自分たちの手で外しにいったのです。

1873年、朝鮮ちょうせんへ使節を送るかどうかをめぐる政府内の争いに敗れ、板垣は参議さんぎ(政府の中心の役)を辞めました。翌年、国民が選んだ議員による議会を開くよう求める意見書を、仲間とともに政府に出します。

それから先、彼が国を動かそうとした道具は、刀ではなく、演説でした。

1881年、板垣は自由党じゆうとうをつくり、その総理そうりになります。

翌年の4月6日、岐阜ぎふ。演説を終えた彼は、一人で会場の玄関げんかんを出ました。

ご本望でしょう

党の歴史をまとめた本によれば、その日、板垣いたがきは少し体調をくずしていました。それでも神道中教院しんとうちゅうきょういんの懇親会こんしんかいで二時間近く演説をして、疲つかれ、座っていられなくなったといいます。

会は、まだ続いていました。午後6時ごろ、板垣は一人で先に席を立ち、宿へ帰ることにします。みんなの楽しみを邪魔じゃましないよう、付き添そいも見送りも断ったのだ、と党の歴史の本は書いています。

玄関げんかんで靴くつをはき、二、三歩進んだとき。

後ろから、一人の男が抱だきつくように飛びかかってきました。短刀が、右の胸に入る。

「何とするか」

板垣はそう叫さけんで男を振ふりはなした、と事件のひと月後に出た記録にあります。男は前に回りこみ、今度は左の胸を突ついた。そこで初めて、相手が刺客しかくだと気づいた、と記録は続けます。

素手でした。党の歴史の本によれば、杖つえさえ持っていなかった。彼は右手で、刃はそのものをつかみます。もぎ取ろうとして、右手は深く切れた。左手と、左のほおにも傷を負いました。

このあいだ、板垣も刺客も、ひと言も発しなかった。記録には、わざわざかっこ書きで、そう書いてあります。

物音に気づいた人々が駆かけつけ、内藤魯一ないとうろいちが男の腕うでをつかんで投げ飛ばした。何人もが男を組みふせ、五十を過ぎた仲間が縛しばりあげる。怒おこった何人かは、男の顔や尻しりを、したたかに蹴けりつけたといいます。

顔から血をしたたらせる板垣を、大野斎市おおのさいいちが抱き起こしました。

あふれる血を見て、斎市さいいちは声をあげて泣き、「ああ、残念だ」と叫んだと記録にあります。右の袖そでで板垣の体から落ちる血を押おさえながら、泣き続けた。

板垣は、それを聞いて振り向いた。そして、静かに言ったと書かれています。

「諸君、嘆なげくな。退助たいすけは死んでも、自由は滅ほろびない。諸君、励はげめ」

この記録では、刺客をにらんで叫んだ言葉ではありません。抱きかかえて泣いている仲間に、振り向いて言った言葉です。顔色は少しも変わらなかった、とも書いています。

傷はどうか、気分はどうか、とみんなが聞きました。胸を二か所突かれた。深く肺に届いたかもしれない。けれど、気分はふだんと変わらない。板垣はそう答えた。息は苦しくないかと聞かれても、べつに何ともないと言う。それなら肺は大丈夫だいじょうぶだろう、と誰だれかが言い、みんな、やっと少しほっとしたそうです。

仲間が板垣を背負い、門の前の傘屋かさやへ運びこみました。一人は自分の帯を解いて着物を脱ぬぎ、板垣の体にかけた。

傘屋で手当てを受けるあいだ、板垣は仲間の一人を枕まくらもとに呼んでいます。明日は高富たかとみの懇親会に出る約束がある。行けなくなったと、すぐに知らせてくれ。

胸を二か所刺されて、気にしていたのは、明日の約束でした。

宿に戻もどった板垣は、内藤ないとうを呼んで礼を言ったと伝えられます。党の歴史の本によれば、刺客を殴なぐり殺ころそうとする者たちを、内藤が厳しく止めて、役人に引き渡わたしたからです。

「君に、感謝しなければならないことがある。君が刺客をちゃんと扱あつかって、乱暴な目にあわせなかったことだ。これで我が党の面目が保たれた」

知らせを受けた愛知あいち県の病院長、後藤新平ごとうしんぺいも駆けつけてきました。管轄かんかつの外のことだ、と県の役人に冷たくあしらわれても、自分の職をかけ、部下の医者を連れて来たそうです。

後藤ごとうは板垣を診みて、言ったと伝えられます。

「閣下は、これほどの傷なのに、脈みゃくは乱れず、熱も少しもない。しかもお顔に、喜びの色がある。閣下は、ご本望なのでしょう」

板垣は答えた。

「そうだ。かえって、いい死に場所を得たと思って、心から喜んでいるのだ」

男にいちばん大事なのは、死に場所だ。そう言って彼を叱しかった中岡慎太郎なかおかしんたろうが死んでから、十四年あまりがたっていました。

あのとき預けた命の使い道を、ようやく見つけた気がしたのかもしれません。

後藤が席を立つと、板垣は仲間に言ったそうです。あの医者は、少し毛色の変わった男だ。政治家にできないのが惜おしい。

けれど、傷は治っていきました。板垣は、死ななかった。

刺さした男の名は、相原尚褧あいはらなおぶみ。愛知県の学校の先生で、二十七歳でした。

腹を切って、わびよ

相原尚褧あいはらなおぶみは、家を出る前に、手紙を書き残していました。両親にあてた一通は、党の歴史をまとめた本に、こう収められています。

「勤王きんのうの志がやみがたく、国賊こくぞく、板垣退助いたがきたいすけを倒たおします。けれど、上は国の法を犯し、下はお二人に孝行できなくなる。そう思うと、親不孝の罪は、おわびの言葉もありません」

勤めていた学校の同僚どうりょうたちにも、三日三晩この大事を考えるために、病気だと言って休んだ、どうか許してほしい、と書いている。ある新聞の保守的な主張を愛読し、深く心酔しんすいしていた人でした。

法廷ほうていは板垣いたがきのもとへ使いを出し、相原を訴うったえるつもりがあるかを尋たずねました。板垣は答えたと伝えられます。

「あえて訴えるつもりはありません。できることなら、彼を赦ゆるしてやってください」

それでも法は曲げられず、相原は無期徒刑むきとけい(一生、獄ごくにつながれる刑けい)になりました。

自分を刺さした男には、そこまで寛大かんだいだった人です。

ところが同じ年のうちに、彼は仲間に、腹を切れと迫せまることになります。

党の歴史の本によれば、きっかけは、ヨーロッパ行きの話でした。後藤象二郎ごとうしょうじろう(あの医者の後藤ごとうとは別の人)が、外国を見てくるようにすすめ、旅費は知り合いの華族かぞくから借りてくる、と言った。板垣は承知します。

党の中では、馬場辰猪ばばたついたちが、総理が日本を離はなれていいのか、と反対しました。別の政党は、洋行の費用は大金のはずだ、出どころが怪あやしい、と言いふらしました。

その疑いを、馬場たちがもう一度持ち出したと聞いて、板垣は激しく怒おこったといいます。私を推して党の頭にしておきながら、ほかの党の悪口に乗って、私の名誉めいよを傷つけようとする。無礼にもほどがある。

板垣は党の幹部を集めました。そのときの言葉が、党の歴史をまとめた本に残っています。

「もし今度のことで、私に一点でも汚よごれた事実があると証明されたら、私は諸君に、腹を切っておわびしよう。そのかわり、汚れた事実がないとはっきりしたら、諸君が私に、腹を切っておわびしなければならない」

ある幹部は机をたたいて、愉快ゆかいだ、賛成だ、と叫さけんだ。馬場は、腹を切る誓ちかいなど野蛮やばんな古い習わしだ、と断った。別の一人は、これは我々を殺ころすつもりだ、と叫んだそうです。話はまとまらず、馬場たちは席を立ちました。

刺した男のことは赦してほしいと頼たのんだ人が、疑った仲間には、腹を切れと迫ったのです。

刃物はもので刺されるより、仲間に疑われるほうが、こたえたのかもしれません。

馬場たちは、のちに板垣を訪ねてわび、付き合いはいったん元に戻もどりました。けれど、板垣がヨーロッパから帰ったあと、ある仲間の処分をめぐって意見が分かれ、馬場たちは党を去りました。

1884年、自由党は、大阪おおさかの大融寺だいゆうじで解党を決めます。

結びの演説で、板垣は言いました。財産を使い果たし、体を傷つけられても、自分は少しも屈くっしていない。そして、こう続けたと党の歴史の本にあります。

「私がもし不幸にして死んだら、諸君、どうか私の墓を、秋草の生いしげる中に埋うもれさせてほしい。手柄てがらもないのにむやみに大きな墓石を建てて、死んだあとまで石碑せきひの品評会をするような、都の墓場の悪い習わしに染めないでくれ」

会場は、大笑いと大喝采かっさいだったと記録されています。

解党の宴うたげでは、若者が十数人、板垣の前に進み出ました。今日のごちそうに、総理にさしあげるものが何もない。せめて胴上どうあげで、閣下の長生きを祝わせてください。そう言って板垣を担ぎあげ、何度も宙に投げあげたといいます。

板垣は顔をほころばせて、愉快だ、と言ったそうです。

それから二年半ほどたった1887年5月。武士の身分を自分の手で外しにいったこの人に、伯爵はくしゃくを授けるという天皇の命令が出ました。本人は大阪へ向かう途中とちゅうで、何も知らなかった。

位を受けるのは、自分がこれまで言ってきたことに反する。6月、板垣は、位を辞退する文を差し出しました。

「臣は、もとより南海の一人の侍さむらいにすぎません」

南海とは、南の海に面した土佐のことです。

宮内省くないしょうの次官が板垣を呼び、陛下は板垣の忠節を覚えておられる、快く受けよ、と伝えました。板垣は恐おそれ入って、思わず涙なみだぐんだといいます。

天皇への忠義に背きたくない。けれど、自分の信じるところからすれば、位を受けるわけにいかない。板挟いたばさみになって、眠ねむることも食べることもおろそかになった、と党の歴史の本は書いています。

7月にもう一度、辞退の文を出しました。それも送り返されます。7月15日、板垣は宮中に出向き、位を受けると書いた文を差し出しました。

辞めたかった位を、結局、受けたのです。

そのころの新聞が、板垣の財産を調べて書いています。猟犬りょうけんが数頭、家鴨あひるが20羽、猟銃りょうじゅうが2挺ちょう。それだけだったといいます。

それから二年後。板垣を刺したあの学校の先生が、獄を出て、彼に会いに来ることになります。

枕まくらの下の原稿

1889年、憲法の発布を祝う恩赦おんしゃで、相原尚褧あいはらなおぶみが獄ごくから出てきました。

相原は人に付き添そわれて、東京の板垣いたがきの家を訪ねます。あのときは心得違こころえちがいでした、どうか赦ゆるしてください、とわびたといいます。北海道へ渡わたって、開拓かいたくの仕事をしたいとも話した。

板垣は答えたと伝えられます。

「あの日のことは、私怨しえんではなく、国を思う気持ちから出たものだ。その心は、とがめない。ただ、ことを起こす前に、見立てを誤ったのは惜おしい。これから先も、板垣のすることが本当に国の害になるときは、もう一度やってもらっても、決して後悔こうかいはしない」

相原はいったん故郷に帰り、それから北海道へ向かう船に乗りました。遠州灘えんしゅうなだを渡るあいだに、行方が分からなくなったといいます。身を投げたとも、海へ落とされたとも伝えられ、本当のことは分かっていません。

板垣のほうは、それから三十年、生きました。政党をつくり直し、大臣も務め、華族かぞくたちに、位を子に継つがせるのをやめようと呼びかけた。返事をよこしたのは、わずか三十七人だったといいます。

晩年の板垣は、自分の一生を、よくこんなふうにたとえたそうです。

昔の東海道には、宿場ごとに交代する人足と、京都から江戸えどまで一人で通して荷を運ぶ「通し人足にんそく」がいた。自分は、通し人足だ。勤王討幕、自由民権、立憲政治、社会政策と、相棒は何度も入れかわった。けれど自分は少しも変わらず、一人で全部の道のりを通してきた。

いっしょに荷を担いだ仲間の多くは、途中とちゅうで去るか、先に死んでいました。命を預けた中岡慎太郎なかおかしんたろう。会津あいづの峠とうげから城を見下ろした日に死んだ、牧野群馬まきのぐんま。党を去った馬場辰猪ばばたついも、渡ったアメリカで病に倒たおれていました。

1918年の秋から、板垣は病の床とこにつきます。81歳でした。

それでも、弟子の和田三郎わださぶろうを呼んでは、自分の考えを語って書きとらせた。原稿げんこうは、どんどん積みあがっていきます。これから先、自分が発表する意見は、すべて同じ国の人々への遺言だ。和田が社会政策の文章を書きはじめたころから、板垣はいつもそう言っていた、と和田は書いています。

その中に、会津のことを語った一篇いっぺんがあります。会津が落ちた日、国のために命をかけたのは、武士の身分の者だけだった。農民や町人は、荷を担いで逃にげた。幽閉ゆうへいされた元の殿とのさまに芋いもを差し出した農夫が、ただ一人いただけだった。

五十年前、会津の陣中じんちゅうで見たものを、彼は病の床で、もう一度語っていました。

死んだあと、子や孫に伯爵はくしゃくの位を継がせないこと。それも、遺言にしたと和田は書いています。

1919年6月に持病の気管支の病がぶり返しても、板垣は本の仕上げを急ぎました。書きあがった原稿が枕まくらもとに届くと、ひどく喜んだ。ひととおり読み終えると、枕の下に入れて、ほかの人には決して触さわらせなかったそうです。

7月15日。病が重くなり、板垣は和田を枕もとに呼びました。

和田は、看病に疲つかれた夫人の隣となりに座り、自分の右手で、板垣の右手を強く握にぎった。来たのは自分です、と告げる。

板垣は、にっこり笑いました。そして、本の出版を、重ねて和田に託たくしたと、和田は書いています。

直しも出版の用意も済んでいます、と和田が誓ちかうと、板垣は何度もうなずいた。もっと何か言おうとしたけれど、多くは言えなかった。

夫人の目から、涙なみだがあふれて床をぬらしました。和田はこらえきれず、部屋を出て、声をあげて泣いたといいます。

翌16日の早朝、容体が急に変わります。和田は家族とともに、末期の水を捧ささげました。

午前8時30分。板垣退助いたがきたいすけは、原稿を枕の下に置いたまま、息を引き取りました。82歳でした。

亡くなった同じ1919年、彼の名前で出た文章があります。岐阜ぎふの場面を、本人の言葉として書いたものです。そこでは板垣は、刺客しかくをにらんで、こう言っている。

「板垣死すとも自由は死せず」

九年前に彼が監修かんしゅうした党の歴史の本にも、同じ場面が、同じ言葉で書かれていました。

けれど、事件のひと月後の記録の中の彼は、刺客のほうを見ていません。血を押おさえて泣いている仲間のほうへ、静かに振ふり向いています。

諸君、嘆なげくな。

泣き顔で座敷ざしきに上がるな、と言われて育った子どもが、泣いている人に、そう言っていました。

あの夕方、血を押さえて泣いた仲間がいた。背負って運んだ仲間がいた。職をかけて駆かけつけた医者がいた。三十七年後、その右手を強く握った弟子がいた。

死の前の日、泣いていたのは、まわりの人たちのほうでした。彼は、笑っていた。

原稿は、枕の下に置かれたままでした。