広岡浅子 — 甘えたことのない人
十二歳ごろ本を禁じられ、炭鉱に入り、大学をつくり、六十歳で生徒になった。誰にも甘えたことのない人の、遅すぎた涙
本を禁じられた子
本を読むことを、一切禁じられた。
十二歳のころのことです。言い渡したのは、家の大人たちでした。女に学問はいらない。ふだんから、そう言われていた子です。
少女は、引き下がりませんでした。押さえつけられるほど、はね返そうとする気持ちは固くなった。禁じられたあとで考えたことを、本人がのちに自伝に書いています。
「女子といえども人間である。学問がいらないという道理はない。しかも、学べば必ず身につけられる頭があるのだから、どうにかして学びたいものだ」
広岡浅子。1849年、京都の豪商、三井家の娘として生まれた人です。
幼いうちは父母に従い、嫁いだら夫に従い、年をとったら子に従え。そのころの女の子は、そう教えられて育ちました。兄弟やいとこたちが、学問を一時も怠ってはならないと言われるかたわらで、浅子だけが、女だから学問はいらないと言われる。それがつくづく残念だった、と自伝にあります。
だから、耳を傾けた。四書五経の素読に。昔の中国から伝わった学問の本を、声に出して読む稽古です。聞いているうちに、学問がおもしろくてたまらなくなった。家の大人たちが読書を禁じたのは、そのあとでした。
毎日させられていた裁縫、茶の湯、生け花、琴の稽古は、どれもひととおりこなした。けれど自分から好んで励んだのは、書くことと計算だった、と1900年の人物評は書いています。
じっとしているのは、性に合わなかったらしい。1916年の雑誌は、こんな話を伝えています。
十二、三歳のころのことです。浅子は髪をくずしては、よく母に小言を言われていた。髪さえなければ叱られない。そう考えたのだといいます。ある晩、結い上げてもらった髪を自分で切り落とし、そのまま朝まで眠ってしまった。朝になって気づいた乳母は、たいへんな騒ぎです。当の本人は、けろりとして笑っていたそうです。代わりに付け髷をつけてみても、すぐに落ちてしまったといいます。
結婚の相手は、とっくに決まっていました。
一歳。まだ片言も話せないうちに、大阪の広岡家に嫁ぐことが決まっていた、と自伝にあります。大阪の豪商、加島屋です。相手は、その分家を継ぐことになっていた信五郎。浅子より八つ年上でした。
親類の家どうしで、何代も縁組みを重ねる。「重縁」といって、当時は喜ばれた結婚の形でした。
物事の道理が分かってくると、浅子はこれにも腹を立てるようになります。
「女子を器物と同じように、親の手から夫の手に渡すということは、不当なことであろう」
そう考えるようになった、と自伝は続けます。それでも、決まりは動きませんでした。
嫁ぐことになって、何事も人に運命を決められていく女の境遇の哀れさを、いっそう痛切に感じた、と本人は書いています。1865年、十五歳で、浅子は加島屋へ嫁ぎました。
嫁いでみると、もう一つ、気になることがありました。
家の主人が、自分の家の商売にまるで関わらないのです。仕事は番頭たちに任せきり。自分は毎日、謡曲や茶の湯を楽しんでいる。お金持ちの家では、よくあることでした。
それを見た十代の嫁が、こう心に決めた、と自伝にあります。
「このままでは、いつまでも家業が栄えるかどうか疑わしい。一朝事あれば、一家の運命を両肩に担って、自分が立たなければならない」
一朝事あれば。ひとたび何かが起きたら、という意味です。家の主人に頼るのでも、番頭たちに任せるのでもない。自分が担う。十代の嫁は、そう決めたのです。
そのための準備も始めました。簿記、算術、商売についての本。眠る時間を削って、毎晩ひとりで読み、一心に身につけようとした。
十二歳のころに禁じられた本を、嫁いだ娘は、夜ごと自分の手で取り戻していきました。
嫁いで三年後の1868年。徳川の世が終わり、明治の世が始まります。
大きく揺れる時代の中で、大阪の豪商たちは、たいへんな困難にぶつかりました。
「一朝」が、来たのです。
狂気扱い
貸したお金は、戻ってこない。借りたお金は、返さなければならない。
明治の初め、加島屋が落ちこんだのは、そういう穴でした。長州の毛利家をはじめ、大名家とお金の貸し借りをしてきた店です。時代が変わると、大名に貸したお金は戻らなくなった。1900年に出た人物評は、そのころの加島屋を、大恐慌に陥ったと書いています。
浅子は、表に立ちました。
「奮然起って事業界に身を投じました」
維新のあとのことを、本人は自伝にこう書いています。
貸したお金が戻らない加島屋にも、返さなければならない借りは残っていました。まずしたのは、その返済を待ってもらう頼みに、歩き回ることでした。東京では、深川から小石川まで、人力車に乗らずに歩いた。汽車も汽船も、乗るのはいつも三等だった。のちに本人が、新聞でそう振り返っています。
宇和島藩の屋敷では、こんなことがあったと伝えられます。
応対に出た用人は、ろくに取り合わなかった。浅子は、そのまま帰らなかった。追いやられた足軽の部屋で、荒くれ者たちに混じって一晩を明かし、とうとう、加島屋の借りの返済を待ってもらう約束を取りつけて帰ったといいます。
表に名前を出せない浅子が、夫の名で書いた書状も、今も残っています。
かつての大名家に、加島屋が借りていたお金の半分以上を帳消しにしてほしいと、重ねて願い出たものです。差出人の名の横に、「同信五郎 代アサ」の署名と印がある。信五郎の代わりの、アサ。
借金の始末がつくと、浅子は、次のことを考えはじめます。
石炭でした。
1884年ごろ、加島屋は石炭の商売に乗り出します。けれど石炭の値段が大きく下がって会社はたたみ、手元に残った九州の炭鉱も、地の下の大きな断層に阻まれて、掘るのを止めてしまいます。
人物評によれば、炭鉱の仕事は、山師の仕事だと恐れて大反対する親類を、浅子が損と得をじゅんじゅんと説いて押し切って始めたものでした。身内からは迷惑がられ、世間からは嘲られた。それでも、浅子は手放さなかった。
「隣の鉱区は盛んなのに、わが鉱区だけがうまくいかない道理はない」
浅子はそう叫んだ、と記者は書いています。1895年、鉱区の別の場所を、新しく掘りはじめました。
今度は、自分で炭鉱へ乗りこみます。九州へ行くときの汽車は、いちばん安い下等の席。たいていは一人旅だったそうです。
現場では、鉱夫の服を着て、雨の日もいとわず穴の中へもぐり、鉱夫たちを指図したことがたびたびあった、と伝えられています。
ある雑誌記事は、炭鉱の事務所の中に、機織りの場があったと書いています。浅子は暇を見つけては機に向かい、事務所に用ができれば機を下りて、仕事をてきぱきと裁いたそうです。
土地の人たちのあいだには、ずっとのちまで、こんな言い伝えが残りました。あの炭鉱を始めたのは「後家さん」だった。
後家さんとは、夫に先立たれた女の人のことです。けれど浅子の夫は、このころまだ健在でした。夫のいる女が、自分で炭鉱を切り回す。そのほうが、土地の人たちには思いもよらないことだったのかもしれません。
のちに浅子は、このころを自伝で振り返っています。女が社会で働くことさえ珍しい時代に、男もまだ手をつけない、冒険のような仕事をあえてやった。だから、
「狂気扱いにせられたことも度々でありました」
断崖絶壁をよじ登るような、危ないところを歩いてきた、とも書いています。
そのころ、知り合いの紹介で、一人の男が浅子の前に現れます。
成瀬仁蔵。日本には、女のための高い教育が必要だ。男は、浅子にそう説きました。
少女のころ本を禁じられた人の前に、女の大学の話が置かれた。
炭鉱では、まだ枕を高くして眠れる時が、一刻もないころです。家では、夫までもが浅子を頼りにしている。その両肩に、もう一つ載せるのか。