福沢諭吉 — 平気なふりをする人
顔に出さない、困ったと言わない。そう決めた男が、禁酒に負け、手紙を偽り、夜道で逃げ出した一生
泣かずに剃らせた子
「お酒を飲ませてあげるから、ここを剃らせなさい」
母にそう言われると、男の子は痛いのをこらえて、泣かずにじっとしていたそうです。
首のうしろのくぼみは、剃刀が当たると痛い。だから頭を剃られるのは大嫌いだった。けれど、酒が飲めるなら話は別でした。
この話をしたのは、六十代になった本人です。生まれつきの悪い癖で、本当に恥ずかしい。そう言ってから、こう付け加えています。
「敢えて包み隠さず、明白に自首します」
福沢諭吉。かつて一万円札に描かれていた人です。
「そうじゃちこ」と言うところを、「そうでおます」と言ってしまう。九州の中津の町で、この子ときょうだいは、いつもよそ者でした。
五人とも、大坂の生まれです。父の百助が、大坂にあった中津藩の屋敷に勤めていた。末っ子の諭吉が生まれると、父はたいそう喜び、十か十一になったら寺へやって坊主にする、と母に何度も話していたといいます。その父は、諭吉が1歳半のときに亡くなり、母は子どもたちを連れて、自分の故郷の中津へ帰ってきたのでした。
大坂風の着物を着て、大坂の言葉で話す五人は、何十人もいるいとこの輪に入れない。いつも、自分たちだけで遊んでいました。
漢文の本を読むようになったころ、諭吉はある一句に出会います。
喜怒、色に顕さず。うれしいことも、腹の立つことも、顔に出さない。
これだ、と思った。それから彼は、ほめられても、心の中では喜ばない。ばかにされても、怒らない。友だちとけんかをしたことは一度もなく、泣いて家に帰って母に言いつけたこともありません。
困った、という言葉も口にしなかった。若いころから一度も言ったことがない、と年をとってから書いています。
口数は、むしろ多いほうでした。誰とでもよくしゃべる。ただ、それは表面だけだった、と本人は振り返っています。中津にいるあいだ、胸のうちを打ち明けられる友だちは、一人もできませんでした。
中津藩は、大名が治める小さな国です。その中では、身分で何もかもが決まっていた。父の百助も、身分の低い武士でした。
上の身分の子は、下の子を「貴様」と呼ぶ。下の子は、上の子に「あなた」と言う。学問をすれば、いつも諭吉が勝つ。腕っぷしでも負けない。それでも、言葉づかいは変わりません。
ある日、兄の三之助が家老に手紙を出しました。家老は、藩でいちばん上の家来です。兄は少し学者らしく、宛名に「下執事」と書き添えた。
手紙は、突き返されてきました。下執事とは何のことだ。「御取次衆」と書いてこい。
それを見ていた諭吉は、そばで一人、腹を立てて泣きました。
「馬鹿馬鹿しい。こんな所に誰がいるものか。どうしたって、もう出るより外に仕方がない」
いつも心の中でそう思っていた、と本人は書いています。
けれど、出ていくにはお金がいる。家には、ありません。
14、5歳のころ、通っていた漢学の塾に、貧しい学生が二人いました。二人とも按摩をして食いつなぎながら、学んでいる。
これを見て、諭吉は胸が躍った。一文なしで国を飛び出しても、いざとなれば按摩で食べていける。さっそく二人に習って稽古を重ね、ずいぶん腕を上げました。
1853年、アメリカの黒船が来ます。日本中が、西洋の大砲の話で持ちきりになった。兄が言いました。オランダの砲術を調べるには、オランダの本を読まなければならない。お前、読んでみる気はないか。
「人の読むものなら、横文字でも何でも読みましょう」
1854年の春、19歳の諭吉は長崎へ向かいます。
町を出るとき、彼は振り返って唾を吐きました。一度出たら鉄砲玉だ。二度と帰ってくるものか。それから早足で、さっさと駆けだした。そのときの気分のよさを、年をとってもよく覚えていました。
一年後。その中津から、母が病気だという手紙が届きます。
心配そうな顔
母が病気だから、すぐに帰ってこい。
中津のいとこからの手紙には、もう一枚、紙が添えてありました。実はこれは、家老の奥平家のご隠居さまの言いつけで書いたもの。お母さんは何ともないから、心配するな。
福沢諭吉が長崎に来て、一年ほどたったころのことです。
ご隠居さまの息子、奥平壱岐は、長崎で諭吉の世話をしてくれていた人です。どうやら、その壱岐のほうから父親に頼んで、諭吉を呼び戻させようとしているらしい。
わけは、見当がつきました。
この一年、諭吉は砲術家の山本物次郎の家に居候していた。紹介してくれたのが、壱岐です。
その家で、彼は何でも引き受けた。目の悪い先生に本を読んで聞かせ、借金の言い訳にも出向く。水を汲み、奥さんがかわいがる猫や犬の世話までする。しまいには、うちの養子にならないかと言われたほどです。
そのあいまに覚えたオランダ語が、みるみる読めるようになっていく。ABCの26文字を覚えるのに、3日かかった若者がです。
紹介した側の壱岐には、それが面白くなかったらしい。
それに、この一年、諭吉は酒を一滴も飲んでいませんでした。山本の家の人たちは、彼を下戸、つまり酒の飲めない人だと思っていた。本当は、飲みたくてたまらない。それでも「死んだ気になって」がまんしたと、本人は書いています。
母の病気までこしらえて、追い出そうとする。諭吉は、腹の底から怒りました。とことん言い争ってやろうか。
けれど、すぐに思い直す。家老の家とけんかをして、勝てるわけがない。
彼は壱岐のところへ行き、心配でたまらないという顔をしてみせました。母が急に病気になりました。ふだんは丈夫な人なのに。今ごろどんな具合か、遠くにいると気になります。
壱岐も、驚いた顔をしてみせた。それは気の毒だ。早く帰りなさい。治ったら、また来られるようにしてやろう。
翌朝、壱岐は中津の親類あての手紙を預けました。わざと封をしていない。母の病気で帰すが、勉強の途中だから、また長崎に来られるよう取り計らってやれ。
「この猿松め、馬鹿野郎め」
諭吉は、心の中で罵った。顔は最後まで、丁寧に礼を言う若者のままでした。
中津に帰る気は、はじめからありません。行くなら、江戸だ。
中津の商人、鉄屋惣兵衛と連れ立って長崎を出ました。七里歩いて諫早に着いたのは、月の明るい晩。そこで惣兵衛に打ち明けたときのやりとりを、本人は自伝にこう書き留めています。
「中津に帰るのは、いやになった。おれのこの荷物も、ついでに持って帰ってくれ」
「私は中津に帰って、お母さんに言いようがありません」
「なあに、かまうものか。おれは死にも何もしないから、おっかさんによろしく言ってくれ」
ところが、懐にはほとんどお金がない。オランダ語の辞書を売って、やっとかき集めた分だけです。大坂までの船賃には、とても足りませんでした。
そこで諭吉は、歩きながら手紙を一通こしらえた。差出人は、鉄屋惣兵衛。この方は中津の家中の若旦那で、間違いのない方だから、よろしく頼む。宛先は、下関の船宿。別れる前に、惣兵衛から名前を聞き出しておいたのです。
偽の手紙でした。船宿は、それを一目見るなり、泊めてくれた。
大坂へ向かう船は、上方見物の客でいっぱいでした。皆、酒を飲み、ばくちを打って騒いでいる。諭吉も飲みたい。けれど、お金がない。金比羅さまの近くの港では、皆が遊びに出かけ、彼は一人で船の番をしました。
15日目、船は明石に着きます。大坂まではあと15里、60キロほど。
ここから歩く。勘定は、大坂の藩の屋敷で払う。そう言っても、船頭は聞き入れません。お前さんのことは知らない。途中で降ろすわけにはいかない。頼めば頼むほど、声が大きくなっていく。
そのとき、同じ船の、下関の商人らしい男が出てきました。
「このお方はお侍じゃ。お前たちを騙すつもりではないように見受ける。もし騙したら、わしが払う。さあ、お上がりなさい」
地獄に仏とはこのことだと、諭吉は心の中で、その男を拝みました。
残りのお金は百文足らず。茶店で酒を2合と、筍の煮たのを一皿、ご飯を4、5杯。それから真っ暗な道を歩きどおしに歩き、夜10時を過ぎて、大坂の中津藩の屋敷にたどり着いた。兄の三之助が、ここで勤めていたのです。
翌日、兄の供をして中津から来ていた武八と、町を歩きました。武八は昔、大坂の福沢家で働き、赤ん坊の諭吉のお守りをしていた男です。
武八が、横町を指さした。お前が生まれるとき、夜中にあそこの産婆さんを呼びに行った。お前を抱いて、毎日相撲の稽古を見に行った。稽古場は、こっちだ。
諭吉は胸がいっぱいになって、思わず涙をこぼしました。
故郷に唾を吐いて出てきた若者が、生まれた町で泣いていました。
事情を聞いた兄は、こう言いました。
「長崎から来るなら、中津が通り道だ。その中津を横目に見て、おっかさんのところを避けて来たではないか」
ここで江戸へ行かせたら、兄弟でぐるになったことになる。大坂にも先生はいるだろう。
そうして入ったのが、医者の緒方洪庵の塾でした。1855年の春、諭吉は20歳になっていました。
兄のいる大坂で、好きなだけ本が読める。困った、と人に言うことは、この先もないはずでした。
その兄が死んだという知らせが届くのは、翌年のことです。