津田梅子 — 自分の国の言葉
6歳で海を渡り、日本語を忘れて帰ってきた。結婚もせず「変な人」と見られた娘が、自分の居場所を自分で作った一生
手も足も縛られて
手も足も縛られている。耳も聞こえず、口もきけない。
17歳の娘が、アメリカにいる育ての母へ、英語でそう書き送りました。1882年の12月のことです。
娘がいたのは、外国ではありません。生まれた国の、自分の家族の家でした。
手紙には、こんなことも書いてあります。日本の食べ物はおいしくて、不思議なほど自然な味がする。ああ、言葉もこんなふうに、すんなり戻ってきてくれたら。一つのことを言うのに、六つも七つも言い方がある。それを全部教えられると、すっかりこんがらがってしまう。
津田梅子。当時の名前は、うめ。のちに自分で梅子と改めるこの娘は、日本語を、ほとんど忘れていました。
忘れるだけの時間が、たっぷりあったのです。
話は、十一年前に戻ります。
1871年12月23日、横浜からアメリカへ向かう船に、五人の女の子が乗っていました。岩倉具視たち、政府の使節団と同じ船です。政府が募った、日本で最初の女子留学生です。上の二人は14歳。いちばん下が梅子で、満6歳でした。
出発の前、五人は皇后から書きつけを渡されています。やがて女子の学校ができたときには、学び終えて帰ったそなたたちが、女性の手本となるように。
船が太平洋を渡っているあいだに、梅子は7歳になりました。
荷物の中には、両親が持たせたものがありました。日本の挿絵入りの百科事典が、大きな本で二冊。その本には、こう書きこまれていました。
「愛する娘うめへ 父より 江戸にて 1871年12月19日」
それから、手紙を書くための紙と、鉛筆と、墨。
家族の絵もありました。父の家の縁側に、一家がそろっている絵。母が、小さな梅子の手を取っている絵。
ワシントンで五人の世話を引き受けたアメリカ人、チャールズ・ランマンは、翌年に出した本に、この子のことをこう書いています。
「少しもホームシックの様子がない。連れの娘たちによれば、日本を出てから、一度も悲しそうにしたことがないという」
少なくとも周りの目には、この子は、さびしがっているようには見えなかった。
梅子が預けられたのは、ワシントンの近く、ジョージタウンの、子どものいないランマン夫妻の家でした。英語はとても早く身につき、着いた年の11月には、アメリカの母になったランマン夫人が、日本にいる梅子の母へ、そう書き送っています。
8歳の春、梅子は、キリスト教の洗礼を受けたいと、自分から夫妻に打ち明けました。
1873年7月13日、フィラデルフィアの近くの教会。司祭は初め、小さな子どもに授ける洗礼のつもりでいました。ところが、8歳の梅子があまりにしっかりしているので、大人と同じ洗礼を授けた。そう記録に残っています。
アメリカで暮らすあいだに、日本語は少しずつ抜けていきました。
一緒に渡った山川捨松と永井繁子は、近くに住んで、たびたび会い、日本語で話していた。梅子には、そういう相手がいなかった。来たばかりのころは日本語で書いていた両親への手紙も、続きませんでした。
1882年、梅子は女学校を卒業します。十年あまりの留学が終わり、捨松と二人、日本へ帰る船に乗りました。
帰りの船の日記に、梅子は、気づいたことを書いています。家族の誰も、今の自分がどんな人間なのかを知らない。
日本に着く直前の、11月19日。ランマン夫人への手紙です。
今朝、捨松と二人、目を覚ますなり言い合った。考えてもみて、あと一日。あと二十四時間だけ。
うれしくて、じっとしていられない。なのに次の瞬間には、妙な不安でいっぱいになる。自分の国の言葉さえ話せたら、どんなに楽だろう。
自分の国の言葉。梅子は日本語のことを、手紙にそう書いていました。
1882年11月、横浜。十一年ぶりに会う家族が、二人を温かく迎えました。
家に帰ってからも、父の仙か、姉の琴子が通訳しなければ、梅子は何ひとつできませんでした。
自分の家族と話すのに、梅子には、通訳が要ったのです。
結婚していないというだけで
わたしは、おとなしくて、きちんとしていて、規則正しくて、時間も守っている。ランマンさんは、信じないでしょうけれど。
帰国して一か月ほどたった、1882年12月17日の手紙に、梅子はそう書いています。アメリカの母がよく知っている梅子は、どうやら、そういう娘ではなかったらしい。
少なくとも日本の家では、そうしていたようです。
十日ほどあとの手紙では、アメリカに帰って、みなさんにもう一度会いたくなることはよくある、と打ち明けています。
それでも、ほかの形がよかったとは思わない。自分は役に立たなければならない。たくさん知っているからではなく、教育を受けた日本の女だから。梅子は、そう続けました。
ところが、年が明けると、調子が変わります。
1883年1月6日。日本語の勉強は、思うように進んでいませんでした。外国人と同じくらい難しい。わたしには、語学の才能がない。
ああ、かわいそうなわたし。自分の国の言葉を覚えるのに、こんなに苦労する人はいない。そこまで書いています。
やっと一つの文を覚えて、口に出してみる。すると、それは子どもや使用人にだけ使う言い方で、ほかの人に言ったらとても失礼になる、と教えられる。代わりに言うべきなのは、長くて、つかみどころのない、わけの分からない文だという。
「わたし」と「あなた」の言い方だけで、八つ以上ある。手紙には、そうも書いてあります。
困っていたのは、言葉だけではありませんでした。
国のお金で十年以上学んで帰ってきた二人に、政府は、何の仕事も用意していませんでした。梅子と捨松は、政府の偉い人たちにあいさつに回りました。自分たちのことを、思い出してもらうためです。話は、少しも進みませんでした。
同じ1月6日の手紙に、梅子は書いています。ときどき、わたしたちは何のためにアメリカへ行ったのだろうと思う。何かの役に立てるとは思えない。政府はわたしたちの仕事に関心がないようで、わたしたちは、忘れられているみたいだ。
自分は役に立たなければならない、と書いてから、まだ九日しかたっていませんでした。
三人の集まる場所がありました。
一足先に帰っていた繁子の家です。繁子は、梅子たちが帰った翌月に、アメリカで知り合った海軍士官と結婚していた。梅子、捨松、繁子。三人は自分たちを「トリオ」と呼んでいました。
久しぶりに三人がそろった日のことを、梅子は書いています。話したのはいつもと同じ。自分たちの大きな責任と、それなのに、どう果たせばいいのか分からないこと。
「わたしたちには、友だちがいません。本当の友だちは、おたがいのほかに。考え方は、日本人ともまるで違うし、ここにいる外国人とも違う。だから、相談し合い、助け合えるのは、わたしたち三人だけなのです」
三人のあいだで、よく話題になったことがあります。結婚です。
当時の日本では、14歳から16歳くらいの娘が、もう嫁に行く年ごろとされていました。梅子は18歳になっていた。
1月16日の手紙では、こう書いています。
結婚したくならないかぎり、結婚はしない。たとえ世捨て人のように暮らすことになっても。愛のほかのものばかりが重んじられる、ふつうの日本の結婚だけは、何があってもしない。
6月6日には、こうです。
それでも、自分の学校が欲しい。結婚はせずに。絶対にしないとは言わない。ひとりでやっていくのは、とても、とてもつらいから。
ほかの人と違うと感じて、見下されるのは、なんてつらいのだろう。自分のやり方でやれたらいいのに。結婚していないというだけで、みんなに変な人だと思われずに。そう嘆いたあとに、梅子は書き足しています。でも、それも試練の一つ。試練は、来るものなのだ、と。
自分の学校。
それは、梅子ひとりの夢ではありませんでした。
アメリカにいたころから、梅子と捨松は、日本に女子の学校を作ろうと話し合っていた。アメリカの大学を出た捨松が中心になり、高校までの梅子がそれを手伝う。そういう心づもりでした。
1883年11月、捨松は結婚します。相手は陸軍卿の大山巌。陸軍のいちばん上に立つ人で、妻を亡くしていました。
梅子にとって、大きな衝撃だったようです。陸軍卿の夫人が、自分で教壇に立つことは、もう考えられませんでした。
翌年の1月4日、梅子はランマン夫人に、捨松のことを書いています。夫に合わせて、捨松は教会にも行かなくなった。
そういう妻らしいおとなしさには、我慢がならない。梅子は、そうも書きました。
学校を作るはずだった二人のうち、残ったのは、日本語の話せないほうでした。