大隈重信 — 惜おしくない、と言う人

爆弾ばくだんで右足を失っても、惜おしいこともない、と言い切った明治の政治家

溝みぞを跳とんだ足

「数十年前に切っておくべきだった足を、よくもあの日まで、とっておけたものだ。そう思えば、惜おしいこともない」

自分の右足について、そう語った男がいます。1895年に本になった、本人の思い出話の中の言葉です。

その右足は、本が出る六年前、投げつけられた爆弾ばくだんで傷を負い、切り落とされていました。

数十年も前に、切っておくべきだった。いったい、何があったのでしょう。

話は、少年のころにさかのぼります。

学友たちと、溝みぞを跳とび越こえる競争をしたことがありました。溝の幅はばは一間(約1.8メートル)あまり。彼かれは足を踏ふみ外し、右足をひどく傷めました。

傷は、手のひらほどの大きさのただれになった。肉が落ちて、骨が見えた、と本人は語っています。

今の医者なら、すぐに足を切り落として、早く治しただろう。けれど当時は、そういう手術に慣れた医者がいなかった。ほかに打つ手もなく、そのまま放っておくしかなかった。

しばらくは、ひどい痛みが続いた。その右足は後々まで、左足より少しやせていると感じた、とも言います。

少年の名は、大隈重信おおくましげのぶ。1838年、佐賀藩さがはんに生まれました。藩はんというのは、殿様とのさまが治める一つの国のようなものです。佐賀藩の殿様は、鍋島家なべしまけでした。

幼いころに父を亡くし、母の手で育てられた人です。

足のけがは、もとはといえば自分の不注意のせいでもある。大隈おおくまは、そう認めています。しかも、こりない若者でした。

病気が少しよくなると、すぐ学校へ出て、ほかの学生と成績を争う。食べるのも、酒を飲むのも、まるで控ひかえない。ときには仲間と、町の外まで何里も歩きに出かけて、わざわざ体力をむだに使う。

そんな無理を重ねて、弱っていた体は、ますます弱りました。二十四、五歳ごさいのころには、四十すぎの顔に見えると言われたそうです。

あるときは、病気が四か月近くも治らなかった。学校の決まりでは、休めるのは三日まで。もう退学した者として扱あつかわれ、学年の初めからやり直しになりかけた。副島そえじまという人たちが力を尽つくしてくれて、ようやく同じ学年に残れたこともあったといいます。

その無理は、学校とのけんかでも同じでした。

佐賀藩の学校、弘道館こうどうかんでは、朱子学しゅしがくという中国の学問だけを教えていました。年ごろになっても学業を修められない者は、家の禄ろく(藩からもらう給料)を、八割も減らされる。

藩にはさらに、『葉隠はがくれ』という、武士の心得を説いた書がありました。その中には、こんな一節まであった、と大隈は引いています。お釈迦しゃかさまも孔子こうしも、楠木正成くすのきまさしげも武田信玄たけだしんげんも、鍋島家に仕えたことがないのだから、敬うには足りない。

藩じゅうの人間を、ひとり残らず同じ型にはめて、ひとりひとりの、何ものにもしばられない気風をなくしてしまった。大隈は、のちにそう批判しています。

十六歳じゅうろくさいのころ、学校の中で、朱子学ばかりの教え方に反対する運動が起こります。大隈は、その運動をしきりに助けて、勢いをあおった。学生の寮りょうは、南と北の二つの建物が、廊下ろうかをはさんで向かい合っていた。その南と北で争いになり、だんだん激しくなって、ついに殴なぐり合いにまでなりました。

藩は、関わった者たちを処分しました。大隈は、反対派の首謀者しゅぼうしゃのひとりとして、学校を追い出されます。

一緒いっしょに処分された仲間の多くは、父や兄にさとされ、親戚しんせきに忠告されて、心を入れかえたと言って学校に戻もどっていきました。

大隈は、戻りませんでした。それどころか、のちにこう語っています。

「追い出されると、いよいよ心を奮い立たせ、いよいよ決心を固めた。だから、いよいよ反対の気炎をあおった」

母は、家のことはてきぱきと決めるのに、子どものすることには、あまり口を出さない人でした。

家は、仲間の集まる場所でした。酒を飲み、大声で歌い、言い争い、明け方にようやく解散する日も少なくなかった。母は少しも嫌いやな顔をせず、むしろ楽しそうに世話を焼いた、と大隈は振ふり返っています。

叔父おじも、叔母おばも、姉の夫も、何度もていねいに説教をした。しまいには、母に詰つめ寄る人まで出ました。

母は、息子がもう心を決めているのを見て、学校に戻れと無理に言うことはしませんでした。

「それは私にとって、大きな幸せだった」

大隈は、そう語っています。もしあのとき母にひどく叱しかられていたら、家の楽しさまで壊こわしていたかもしれない、とも。

追い出されたことを、大隈は「この一時の不幸こそ、私にとって将来の幸福となった」と振り返ります。

けれど同じ口で、こうも言っている。あのとき、はっきりした考えがあってやったのだとは言わない。むしろ、気持ちのおもむくままにやったのだ、と。

友だちの多くを失った。親戚の気持ちも、藩の信用もなくした。自分に望みをかける人は、ほとんどいなくなった、と本人は言います。

追い出された少年が次に向かったのは、オランダの学問、蘭学らんがくでした。

苦心してオランダという国の成り立ちを定めた法を読み、彼はこう感嘆かんたんした、と振り返っています。

「夷狄いてきの国にも、こんなよい制度があるのか」

夷狄とは、外国の人を見下して呼ぶ言葉です。

さらにアメリカの独立宣言を読んで、自由や権利というものの意味を知った、とも言います。

見下していた相手に、学ぶ。一緒に追い出された仲間の中で、その道へ進んだのは、彼ひとりでした。

大隈おおくまとは談判しない

やがて大隈おおくまは、藩主はんしゅの鍋島閑叟なべしまかんそうから、航海術を学べと諭さとされます。

大隈は、断りました。

航海術なんて、いかにも卑いやしい船乗りの仕事のように思えたからだ、と本人は語っています。それより、父の跡あとを継ついで、長崎の砲台ほうだいの指令長官になりたかった。父はその指令長官で、彼かれは幼いころから、大砲たいほうの話を聞いて育っていたのです。

外国の書物の値打ちには気づいたのに、外国の船の値打ちには、まだ気づいていなかったのかもしれません。

やがて藩はんは、大隈たち三十人あまりを選んで長崎に送り、英語を学ぶ塾じゅく、致遠館ちえんかんをつくります。

もっとも本人は、のちに自分の学問について、こう言い切っています。

「ありていに言えば、私は今日まで、とくに専門の学問を修めたことはない。ただ、いろいろな雑多な知識を少し得ただけで、一つも取るに足るものはない」

1867年、大隈は大きな賭かけに出ます。

副島種臣そえじまたねおみと一緒いっしょに、藩を抜ぬけ出した。脱藩だっぱんです。藩の許しを得ずに、藩の外へ飛び出すことをいいます。

目指したのは、京都と大阪。将軍の徳川慶喜とくがわよしのぶに会い、政権を朝廷ちょうていに返すよう、じかに説くつもりでした。

二、三か月、走り回った。けれど、慶喜よしのぶには会えない。そのうちに藩の役人に捕つかまり、佐賀さがへ連れ戻もどされました。

謹慎きんしんを命じられ、親類の家に預けられる身になります。

同じ1867年のうちに、将軍は政権を朝廷に返しました。大政奉還たいせいほうかんです。大隈が説きに行こうとしたことは、大隈のいないところで起きました。

「むなしく好機を人にゆずってしまったのは、思えば、悲しむべき身の上だった」

のちに、大隈はそう語っています。

謹慎が解けて長崎へ向かう途中とちゅう、今度は病が彼を襲おそいます。

寒気をこらえて舟ふねに乗り、諫早いさはやから駕籠かごで長崎へ向かった。その駕籠の中で、何度も気を失いました。猩紅熱しょうこうねつ。かかった者はたいてい死を免れない、と言われていた病でした。

一週間ほど意識が戻らず、まわりの人たちは、もう助からないとあきらめた、と本人は言います。西洋の医者も日本の医者も、かわるがわる手を尽つくして、どうにか命は取りとめた。けれど大事な三、四か月を、寝床ねどこの上で過ごすことになりました。

この病のことを、大隈はこう振ふり返ります。

「そもそも天地のあいだに不要なものがないのなら、病もまた、不要ではない」

そして、すぐあとに付け足しています。

「もちろん私たちは、自分から病を求めてかかるのがまちがいだということを、知っている」

1868年。新しくできた明治政府に、大隈は呼ばれました。外国との交渉こうしょうを受け持つ役人です。三十歳さんじゅっさいでした。

長崎の浦上うらかみの村で、キリスト教を信じる人たちをどう扱あつかうか。その問題で、イギリスの公使パークスと談判することになります。公使は、国を代表して外国に置かれる役人のこと。談判の場所は、大阪の本願寺ほんがんじの別院でした。

席に着くなり、パークスはこう言った、と大隈はのちに語っています。

「私は大隈とは談判しない。こんな地位の低い者には、責任がないからだ」

少し意外な一言ではあった。けれど、これはパークスのいつもの手だと思って、さほど気にも留めなかった。本人は、そう振り返っています。

列席していた上の役人たちが、大隈は日本の政府に認められている、と取りなして、ようやく談判が始まりました。

大隈は、言い返しました。日本の法で日本人を罰ばっするのに、外国の口出しは受けない。キリスト教の歴史は、争いの歴史ではないか、とまで論じた。

パークスは手を振り、机をたたいて怒おこったといいます。

「これは妄言もうげんだ。言い過ぎだ」

「あなたがたは、卑怯ひきょうだ」

「試しに国の禁を解いて、数百人の信徒を許してみなさい。あなたがたの心配は、すべて取り越こし苦労に終わるだろう。そうしなければ、私は断言する。はっきり断言する。日本は、必ず滅ほろびる」

大隈は、笑って答えた、と本人は語っています。

「いたずらに外国人の指図に従う日こそ、わが国が滅びる時だろう。わが国の事情なら、私たちのほうが、あなたがたより、よく知っている」

談判は朝の十時ごろに始まり、昼ごはんも食べずに、夕方まで続きました。結果は、とうとうけんか別れでした。

あとで大隈は、通訳のシーボルトを呼んで、あの日のパークスの様子を尋たずねています。パークスは今日の談判に驚おどろいていた、とシーボルトは答え、パークスの言葉を伝えたそうです。

「これまで日本で、大隈のような者と談判したことはない」

地位が低いから相手にしない、と言われた男が、相手を驚かせて帰ってきたのです。

それから二十一年後。外国との条約を結び直す仕事の途中で、彼は爆弾ばくだんを投げつけられます。

傷を負ったのは、あの右足でした。