荻野吟子 — 扉を開けて、出ていった人

願書を四度はねつけられ、やっと開いた扉を、やがて自分から出ていった。試験を通った最初の女医の、ひたむきで割り切れない一生

診みられる側

「願書は再び呈ていして再び却下きゃっかされたり」

医者の試験を受けさせてほしい、と書いた願書を、また出して、また退しりぞけられた。三十代に入ったばかりの、ある秋のことを、彼女かのじょはのちにそう語っています。生まれてから、あれほど行きづまったことはなかった、と。

女だから、という理由で、願書はもう何度も、はねつけられていた。

なぜ、そこまでして医者になりたかったのか。話は、その十年ほど前の、ある病室にさかのぼります。

利根川とねがわのほとりの村に、名主なぬしの娘むすめとして生まれた荻野吟子おぎのぎんこは、十代のうちに、近くの名主の家へ嫁とつぎました。

やがて、重い婦人病にかかります。二十一歳にじゅういっさいのころ、東京の病院に、二年近く入院しました。一時は、命も危なかったといいます。

病室で彼女を診みるのは、男の医者たちでした。

あとに続いた女医の吉岡弥生よしおかやよいは、このころの吟子ぎんこを、こう書いています。女の体の病を、男の医者に見せる。その辛つらさを、身にしみて知った。そして、こう考えた。

「世には同病の人も多いことだと思うが、それがみんな同じ憂うれいを感じているに違ちがいない、こういう時に女の医者があって女同士の親しさで打ち解けて診てもらえるようだったら」

そして、とうとう、自分がその女の医者になろう、と決めたのだといいます。

同じ病に苦しむ女の人たちの声を、病院で聞いたことも、決心のもとになったと伝えられています。

そのころ、吟子は夫と話し合って、別れました。

いたいたしいほど若くして結婚けっこんに破れ、世の中の古いしきたりの頼たよりなさを見つくした人だった。吉岡よしおかは、吟子をそう評しています。

それから、学び直しが始まります。もともと、子どものころから学問の好きな娘でした。村の近くの塾じゅくで、漢学者の松本万年まつもとまんねんに学んでいます。

東京の国学者の塾では、飯能はんのうから来ていた八つ年下の娘、田中たなかかくを、妹のように気にかけました。二人のあいだがらを、吟子は、姉妹のよしみ、と呼んでいたといいます。かくにあてた手紙や葉書はがきは、今も三十二通が残っています。この付き合いは、吟子の一生の終わりまで続きます。

1875年には、東京にできた女子師範学校じょししはんがっこうの最初の生徒になり、四年後、よい成績で卒業しました。

そのまま先生になれば、暮らしの心配はなかった。けれど、体の中に隠かくれている病の苦しさにつけても、同じ女の人たちの悩なやみを、いよいよ思うようになったのだ、と吉岡は見ています。

卒業した、その年のことです。陸軍の軍医、石黒忠悳いしぐろただのりのもとへ、一人の女学生が、文部省の役人の紹介状しょうかいじょうを持って訪ねてきました。

のちに石黒いしぐろが書き残したところでは、娘は、女子師範学校を出た荻野吟子だと名乗った。あちこちから招かれているけれど、それを断って、これから医学を学び、女医になりたい。ついては先生の考えをうかがいに来た、と言ったそうです。

先生になる道は、目の前に開けていた。それを、自分から断ってきたのです。

石黒は少し考えてから、こう答えた。女の人は、たいてい内気なものだ。とくに婦人病などを、あらわに診られるのを嫌きらう。だから、女の医者ができるのは、とてもよいことだ。

「医学に於おいて女では学ばれぬという学科もないから、医学を修められる事には賛成です」

二十一歳の病室で、吟子が考えたことと、同じ理屈りくつでした。

では、どこの学校がよいでしょうか、と彼女は重ねて尋たずねた。石黒は、学校と話をしておくことにして、その日は帰ってもらった。

ところが、二つ三つの医学校に問い合わせると、どこからも、女の学生は断る、という返事でした。

引き受けてくれたのは、下谷したやの好寿院こうじゅいんという医学校だけです。あなたのたっての頼みならば修業させよう、と言ってくれたのだと、石黒は書いています。吉岡によれば、お寺のような名前の、ごく小さな学校でした。

1879年9月、吟子は好寿院に入りました。二十一歳の病室から、七年ほどがたっていた。

三年学んで卒業すれば、あとは国の試験を受けるだけ。

そのはずでした。

再び却下きゃっかされたり

吉岡弥生よしおかやよいの本によれば、男の学生ばかりの好寿院こうじゅいんで、吟子ぎんこはただ一人の女の学生でした。小柄こがらで、細面ほそおもてで、なで肩かたの人だったといいます。

学費と暮らしのお金は、自分で稼かせがなければならない。大商人の高島嘉右衛門たかしまかえもんの家などで家庭教師をし、役人の手紙の仕事を手伝う、通信の秘書もつとめた。友人が住まいを用意してくれたこともあります。乗り物など何一つない時分に、学校へも、教えに行く家へも、一里(四キロほど)の道のりを歩いて通った。弱い体で、よく三年も続いたものです。

様子をたずねた石黒忠悳いしぐろただのりに、好寿院の高階経徳たかしなつねのりは、たいへんな勉強家で成績もよい、とほめてくれたそうです。

1882年、吟子は好寿院を卒業します。三十一歳さんじゅういっさいでした。

国の医術開業試験いじゅつかいぎょうしけんに受かれば、医者になれる。吟子は、試験を受けさせてほしいと願書を出しました。

返ってきた答えは、女子には先例がない、でした。

吉岡よしおかの言葉を借りれば、役所は、何だ、女が、という調子で、まるで取り合わなかった。

東京府に二度。埼玉県さいたまけんに一度。内務省にも一度。四度出して、四度とも退しりぞけられています。

石黒いしぐろも、困りはてました。荻野おぎのはもちろん、私も大いに困ってしまった、と彼かれはのちに打ち明けています。何度も衛生局へ通い、局長をはじめ役人たちと、議論もし、頼たのみこみもした、と。

それでも、扉とびらは開かなかった。二年のあいだ、何も進まないまま過ぎていきます。

1892年に出た医者の伝記集によれば、好寿院を出た吟子は、群馬県ぐんまけんの伊勢崎町いせさきまちで、松本元坦まつもとげんたんという人の家に身を寄せ、その人の名前で医業を開いていました。

その松本元坦という名前は、当時の医者の名簿めいぼには見当たらないといいます。

伝記集のとおりなら、自分の名前で医者になるために願書を書きつづけた人が、そのあいだ、他人の名前で医業を開いていたことになります。

願書をまた退けられた、ある秋の暮れのことを、吟子は十年ほどのちの聞き書きで、くわしく語っています。

「願書は再び呈ていして再び却下きゃっかされたり」

あれほど行きづまったことは、生まれてから一度もなく、この先もないだろう。彼女かのじょがそう思ったのは、この秋のことでした。

親戚しんせきにも、友人にも、あざけられた。

親族の中でただ一人、医者を目指すことを応援してくれていたのは、郷里の母、かよでした。

ひとりで、高い丘おかに登ったこともあった。見下ろせば、都には何万もの家が並び、どの家からも煙けむりが上がっている。それなのに、自分に一度の食事を出してくれる家は、一軒いっけんもない。

菊きくが咲さき、木々が色づき、瓦かわらに霜しもが降りるほど冷えこむころでした。着ているものが薄うすい、とこぼせる相手さえいなかった。

前へも後ろへも進めず、手だては、もう何も残っていない。

体はやせ衰おとろえていった。ところが、心のほうは、かえって高ぶっていくばかりだった、と彼女は語ります。

そして、自分を、川の真ん中に立つ一つの岩にたとえました。荒あらい波が逆巻さかまくのは、そこに岩があるからだ、と。

吉岡の本では、吟子はついに、外国へ渡わたることまで考えます。

「もう仕方がない、どんな無理をしてでも外国に行ってドクトルの資格を得て来るばかりだ」

外国で資格を取ってきた人なら、試験なしで開業が許された。そういう時代でした。

道が開いたのは、1884年の夏でした。

6月20日、衛生局は、長崎県ながさきけんからの問い合わせに、こう答えています。

「女子タリトモ相当之の手続ヲ為なシ候そうろう上ハ差許さしゆるし候」

女であっても、しかるべき手続きをすれば、許す。長崎県にあてた答えでしたが、これで、女も試験を受けられることになりました。

9月、医術開業試験の前期の試験に、女の受験者が五人いました。三十三歳さんじゅうさんさいの吟子は、その一人です。

五人のうち、受かったのは、吟子だけでした。

親戚にも友人にもあざけられ、ひとりで丘に登って都の家々を見下ろした、あの秋から、二年とたっていません。四度はねつけられた扉を、吟子は、ようやく通ったのです。

それから十年後。吟子は、北海道の原野にいました。