二宮尊徳 — 取り戻して、手放した人

伯父に、家も田畑もない身で学問などするなと叱られた少年が、家を取り戻し、自分の手で潰した。金次郎の、頑固で不器用な一生

着物で覆おおった灯

「お前には家もない。田畑もない。人の助けで命をつないでいる身で、学問をして何になる。すぐにやめろ」

伯父おじの万兵衛まんべえは、夜に本を読んでいた甥おいを、そう叱しかりつけたと伝えられます。お前を養うのに、どれだけ物入りか。それを思わずに、夜学のために灯の油まで使うのは、恩知らずだ。

甥は泣いて、こう謝ったといいます。

「わたしが、まちがっていました」

名前は、金次郎きんじろう。のちの二宮尊徳にのみやそんとくです。薪まきを背負い、歩きながら本を読む少年の像で知られている人です。

ただ、弟子が書いた伝記の中の金次郎は、少し様子が違ちがいます。山へ薪を取りに行く行き帰り、懐ふところに『大学だいがく』という書物を入れて、歩きながら声に出して読んでいた。道で大声で読むので、村の人たちは怪あやしみ、おかしな子だと見る者もいたといいます。

金次郎は1787年9月4日、相模国さがみのくにの栢山村かやまむらに生まれました。父の利右衛門りえもんは、村じゅうから「善人」と呼ばれた人だった、と伝記は書いています。頼たのまれれば施ほどこし、頼まれれば貸す。そうするうちに、祖父の残した財産を数年で使い果たした。

金次郎が数えで五つの年、酒匂川さかわがわの堤つつみが切れました。家の田畑は、ほとんどが石の河原になった。

やがて、父が重い病にかかります。薬代がなく、父は田を売って二両を作った。治ったあと、その二両を持って医者に礼に行くと、医者は涙なみだを流して半分だけ受け取り、残りで田を買い戻もどしなさいと勧すすめたと伝えられます。貧しさも豊かさも、車の輪のように回るものだ、と。

父は医者を三度拝んで、そのとおりにした。迎むかえに出ていた金次郎の前を、父は両手を舞まわせるようにして帰ってきたそうです。

金次郎は幼いころから草鞋わらじを作り、それで毎日一合の酒を買って、毎晩父にすすめていたといいます。

数えで十二のころからは、家の代わりに、酒匂川の堤の工事に出ました。けれど子どもの力では、一人前の役に立たない。彼かれは天に向かって、こう願ったと伝えられます。

「わたしは力が足りなくて、一家の務めを果たせません。どうか早く、大人にしてください」

1800年、父が亡くなります。金次郎は数えで十四歳。母は、末の子までは育てきれないと言って、乳飲み子を親類に預けたといいます。

その夜から、母は眠ねむれなくなった。張った乳が痛み、涙で枕まくらを濡ぬらしていた。わけを知った金次郎は、明日から山で薪を伐きって売り、弟を育てるから、すぐに連れ戻してほしい、と頼んだ。母は喜んで、夜道へ飛び出しました。夜中の行き来はやめてほしいと息子が止めても聞かず、隣村となりむらの親類の家から赤ん坊あかんぼうを抱だいて帰ってきた。親子四人で喜び合ったそうです。

ある正月のことは、こう伝えられています。

村では、大神楽だいかぐらが家々を回って舞う習わしがありました。舞ってもらう家は百文ひゃくもんを出す。断る家も、十二文じゅうにもんを渡わたして帰ってもらう。その十二文が、なかった。母が家じゅうを探しても、一文も出てこない。

金次郎が言いました。

「うちは貧しくても、村の一軒いっけんです。十二文もないと言っても、信じてはもらえないでしょう。家じゅうで田に出ていて、誰もいないふりをするほかありません」

母はそのとおりにした。戸を閉め、親子で息を殺して伏ふせた。やがて大神楽がやって来て、めでたい言葉を呼びかける。戸の内からは、何の音もしない。大神楽は、隣となりの家へ去っていきました。

母と子は、そこでようやく胸をなでおろしました。

1802年、その母も病で亡くなりました。家の財産は尽つき、田畑は人の手に渡っていた。三人の兄弟は親類に分けて預けられ、金次郎は伯父の万兵衛の家に引き取られます。

冒頭ぼうとうの夜は、その家でのことでした。

叱られたあと、金次郎は川べりの、草も生えない荒あれ地を耕しました。菜種をまくと、七、八升しょうがとれた。それを市で売って、灯の油を買います。自分の手で作った油でした。

伯父は、また叱った。自分の力で油を手に入れたのなら、わしの物入りには関わらない。だが、学んで何の役に立つ。そんな無駄むだをするより、夜ふけまで縄なわをなって、家の仕事を助けろ。

金次郎は、言われたとおりにしました。夜になれば縄をない、筵むしろを織る。

そして家の者が寝静ねしずまると、毎晩こっそり灯をともし、着物でそれを覆おおった。光が外にもれないようにして、字を書き、本を読んだ。鶏にわとりが鳴くまで続けたと、伝記は書いています。

昼は山で薪を取り、田を耕し、堤の工事に出て賃金をもらう。そのお金がまとまると、村の夫を亡くした女の人や、身寄りのない年寄りに、二百文、三百文と分けてしまった。自分のためには使わない。伝記は、それを苦しさの中の楽しみにしていた、と書いています。

道では大声で読み、家の中では光さえ隠かくす。どちらも、同じ少年でした。

1803年、洪水こうずいで用水堀ようすいぼりの流れが変わり、使われなくなった古い堀ほりの跡あとがありました。金次郎は休みの日にそこを起こし、村の人が捨てた余り苗なえを拾い集めて植えた。やがて、俵一つほどの実りがあったといいます。

金次郎は喜んで、こう言ったと伝えられます。

「小さなものを積み重ねて大きくするのは、自然の道だ。これで先祖代々の家を興し、先祖の霊れいを安らかにできることは、まちがいない」

家もない、と伯父に言われた身でした。

一枚ずつ買い戻もどした田

伯父おじの家を出て、よその家に身を寄せながら働いたのち、数えで二十歳の年に、金次郎きんじろうは生まれた家へ帰りました。

伝記によれば、何年も人が住んでいなかった家はひどく傷み、伸のびた草が軒のきを覆おおっていた。彼かれはひとりで草を払はらい、壊こわれたところを直し、そこにひとりで住んで、昼も夜も働いた。

捨て苗なえから得た、あの一俵。彼はそれを種にして、年ごとに増やしてきた、と伝記は書いています。

帰ったその年、人の手に渡わたっていた田を、一枚買い戻もどしました。質に入っていた、小さな田です。払ったのは、三両でした。

空き家だった家から、ようやく煙けむりが上がるようになった。伝記は、そう書いています。

四年後、取り戻した田畑は、一・五ヘクタールほどになっていた。翌年には、本と本箱を買った。

もう、灯を着物で隠かくす必要はありませんでした。

1817年、中島なかじまきのと結婚けっこんします。まもなく、若いころに奉公ほうこうした小田原藩おだわらはんの家老、服部はっとり家から、借金を何とかしてほしいと頼たのまれました。百姓ひゃくしょうの自分に、武士の家のことは分からない。金次郎はそう言って断りましたが、何度も頼まれ、とうとう引き受けたと伝えられます。

出かける前、彼は妻に言いました。お前はきっと困るだろう。わたしのために、家を守ってくれ。五年で、あの家の心配を取り除いて、帰ってくる。

妻は涙なみだを流して、わかりました、と答えたと伝記は書いています。

服部家に着くと、彼はまず、家の名は残っていても中身はもう人のものだ、と主人を責め、家老は伏ふして詫わびたといいます。

そのうえで、金次郎は条件を出した、と伝えられます。

「食事は必ず飯と汁しるだけに限り、着物は必ず木綿もめんに限ること。決して、無用のことを好まないこと」

その仕事のさなかの1819年、男の子が生まれました。徳太郎とくたろう。その子は、ひと月ほどで亡くなった。同じ年、金次郎ときのは別れます。なぜ別れたのか、確かなことは伝わっていません。

五年で帰る、と言って出てきた家でした。家を守ってくれ、と頼んで出てきた妻でした。五年たたないうちに、そこから子も妻もいなくなった。

翌年、彼は岡田波子おかだなみこを妻に迎むかえました。

服部家の仕事がまだ続いていたころ、今度は藩主はんしゅから、役人が何人行っても立て直せなかった、荒あれはてた村を任せたい、と話が来ます。彼は、また断り続けました。

1821年、ようやくその村、桜町さくらまちを見に行った彼は、藩主にこう申し上げたといいます。立て直す道はある。ただし藩からは、一両のお金も出さないでほしい。荒れ地は、荒れ地の力で開くのだ、と。

同じ年、服部家の借金は片づきました。礼にと言われたお金は、受け取るとすぐ、家の使用人たちに分けてしまったといいます。

服部家からは、何ひとつ受け取らずに帰った。

1822年、金次郎は桜町の仕事を引き受けます。決めた日、彼は先祖の墓に参り、手を合わせました。家に帰って、妻の波子なみこに告げたと伝えられます。

これから桜町へ行く。どんな苦労があるか分からない。苦労をいやだと思う気持ちがあるなら、今のうちに去ってくれ。

波子は答えました。

「あなたが水の中、火の中を踏ふんで行くなら、わたしも一緒いっしょに踏みます」

金次郎は笑って、「お前の言うとおりだ」と言ったそうです。

1823年。生まれた家に帰ってから、十七年。一枚ずつ買い戻してきた田畑を、彼は売りました。家の道具も売り払った。

数えで三つの息子、弥太郎やたろうを連れて、一家は桜町へ向かいます。