小泉セツ — 名乗らなかった語り手
怪談を語り聞かせ、名前は出さなかった。小泉八雲の妻の、困って笑って一緒に震えた一生
本を見てはいけない
「本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければ、いけません」
夫は、妻にいつもそう言いました。ずっとのちに、妻自身がそう語り残しています。
淋しい夜には、ランプの芯を下げて、妻が昔話をする。夫は声を低くし、息を殺して、恐ろしそうに聞いている。その様子があまりに怖そうなので、話すほうにも自然と力がこもった。
手もとの本を見ながら話すと、止められる。だから妻は、話がすっかり自分のものになるまで覚え込んだ。しまいには、夢にまで見るようになりました。
夫の名は、ラフカディオ・ハーン。のちの小泉八雲です。妻の思い出話の中で、彼はいつも「ヘルン」と呼ばれています。
妻の名は、セツといいました。
本を見てはいけない、と言われたこの人は、上の学校で学んだ人ではありませんでした。
程度の高い女学校は出ていない。英語も、自由には話せない。セツはそのことを残念がっていた、と、のちの伝記は書いています。
1868年、セツは松江の士族の家に生まれました。父は小泉湊という、松江藩の武士です。
けれど、セツは稲垣という別の家に、養女に出されます。
明治の世になると、武士の暮らしは崩れていきました。実の父は織物の工場を起こしたものの、失敗した。武士あがりの商売がよく行き着く結末だった、と伝記は書いています。
小泉の家も、稲垣の家も、貧しくなった。若いセツは機を織って、暮らしを助けました。
物語の好きな娘でした。
身内にも、語りつがれる人がいた。母方の祖父は出雲で名の知れた家老で、身持ちの悪い主君を三度いさめ、江戸の屋敷で切腹したと伝えられます。その話は芝居にも、講談にもなりました。
のちに、セツはこの祖父の話を、長男のために自分の手で書き残しています。
ヘルンに出会う前に、セツは一度結婚しています。伝記のほうは、そのころのセツについて、学問も芸事もひととおり身につけたあとで思いがけない不幸にあっていた、とだけ書いています。
1890年8月の終わり、松江に一人の外国人がやって来ました。中学校と師範学校で英語を教える、新しい先生です。
その日、セツはまだヘルンと出会っていません。それでものちに、船が着いた大橋から見える景色を、細かく語っています。東には大山が富士のようにそびえ、西は湖と空がぴったり溶けあって、白い帆が行き来している。そして、こう付け加えた。
「ヘルンには先ずこの景色が気に入ったろうと思われます」
見ていない場面を、見てきたように語る。語り手の癖は、このころから始まっていたのかもしれません。
その学校の教頭、西田千太郎のすすめで、セツはこの先生の家に入ることになります。1890年の暮れか、翌年の初めのことでした。
町では、この先生の人柄がもう知れ渡っていた。だからセツも、不安のうちにも安心して嫁いだ、と伝記にはあります。
1891年のことです。
ある夕方、セツは軒の端に立って、湖の夕暮れを眺めていました。すぐ下の渚で、四、五人のいたずらな子どもが、小さな子猫を水に沈めては上げ、上げては沈めている。
セツは子どもたちにわびを言って、子猫を家に連れて帰った。
その話をすると、ヘルンはこう言ったと、セツは振り返っています。
「おゝ可哀相の小猫むごい子供ですね」
そう言いながら、びっしょり濡れてぶるぶる震えている子猫を、そのまま自分の懐に入れて、温めてやったのです。
「その時私は大層感心致しました」
その年の6月、二人と女中と子猫は、城の堀に近い北堀の屋敷へ移りました。山を背にした庭を、ヘルンはひどく気に入った。
山鳩が「テテポッポ、カカポッポ」と鳴く。松江では、そう聞くのです。するとヘルンは大喜びでセツを呼んだ。
「あの声聞きますか、面白いですね」
そして自分でも、テテポッポ、カカポッポと真似をして、これでよいか、とセツに聞いたそうです。
ただ、この人の優しさは、ときどき、とんでもない形で外にあふれ出しました。
毎度、弱りました
末次の家に、隣に越してきた人が、あいさつかたがたコルク抜きを借りに来たことがあります。セツが来て、まだ間もないころでした。
その人は、ヘルンが前に泊まっていた宿に、同じく泊まっていた人でした。ヘルンが、では、あの宿屋の主人のお友達ですか、と聞く。隣の人は、何心なく、はい、友達です、と答えた。
するとヘルンは、こう言って奥へ引っこんでしまったと、セツは書いています。
「あの珍らしい不人情者の友達、私は好みません。さようなら、さようなら」
宿の主人は、眼を病んだ小さな娘を、なかなか医者に見せようとしなかった。ほかにも事情はあったようですが、いちばんはそれに腹を立てて、ヘルンは宿を出ていたのです。
隣の人には、何のことやら分からない。間に入って言いわけをしたのは、セツでした。「その時は随分困りました」。
セツはのちに、夫をこう語っています。女よりも優しい、親切なところがあった。ただ、幼いころから世の悪い者にいじめられて泣いてきたので、一国者で、感情の鋭いことは驚くほどだった。一国者とは、がんこ者のことです。
旅に出ても、同じでした。
1891年の夏、二人は伯耆(今の鳥取県)へ旅に出ました。東郷の池という温泉で、一週間ほど泊まるつもりで宿に入ると、大勢が酒を飲んで騒いでいる。
ヘルンは、すぐにセツの袂を引いた。
「駄目です、地獄です、一秒でさえもいけません」
よくいらっしゃいました、と案内する宿の者に、好みません、と言って、そのまま出てしまう。宿の者も、車夫も、驚いていました。セツも騒がしい宿はいやだと思ったけれど、ヘルンのほうは地獄だと言うのです。
「私は未だ年も若い頃ではあり、世馴れませんでしたから、この一国には毎度弱りましたが、これはヘルンの極まじりけのないよいところであったと思います」
加賀の潜戸という海の洞窟に、船で入ったときもそうでした。船頭が、この洞窟にまつわる恐ろしい話をする。するとヘルンは、着たばかりの服をまた脱ぎはじめた。泳ぎたいのです。
船頭は止めた。セツも、こんな恐ろしい言い伝えのある所には何かが潜んでいるから、といさめた。
ヘルンは、とうとう泳ぐのをあきらめました。そして翌日まで、ものも言わずに残念がっていた、とセツは書いています。
本気で心配になったこともあります。
書きものに熱中すると、ヘルンはありもしないものを見たり、聞いたりする。気が違うのではないか。セツは、西田に尋ねたことがあった、と自分で打ち明けている。あまりに深く熱中しすぎるからだと、だんだん分かってきたそうです。
1891年11月、ヘルンは熊本の学校へ移りました。セツと、セツの養父母も一緒でした。
熊本での一日を、ヘルンは友人への手紙に書いています。朝6時に目覚ましが鳴ると、妻が起きて自分を起こす。昔のサムライ時代の、まじめなあいさつで。
夜、ヘルンは鉛筆を持ったまま、床の中で書きつづけることがある。そんなときでも、先に休む妻は、いつも昔の習慣どおりにこう言う。
「お先き御免蒙ります」
そこまでへりくだらなくていい、とヘルンはやめさせようとした。けれど、やめさせられなかった、と手紙にあります。
一国者は、夫だけではなかったのかもしれません。
1892年の夏には、隠岐の島々を回りました。西洋人を見るのは初めてという土地で、見物人が山のように集まる。宿の向かいの家のひさしに上った見物人が、ひさしごと落ちる騒ぎまでありました。
ヘルンは、この騒ぎにずいぶん迷惑していた。それでもセツには、平気なふりで「こんな面白い事はない」と言っていた。自分を慰め、励ますためだった、とセツは書いています。
1893年11月、長男の一雄が生まれます。
ヘルンは、アメリカの友人への手紙に書きました。妻は無事だが、自分は心配した。そして、こう続けています。
「自分の子供を生んでくれる女を虐待する男も世の中にはあるものだと思い出したら、天地もしばらく暗くなるような気が致しました」
そのころから、ヘルンは日本人になることを考えはじめていました。
イギリス人のまま、領事の前で結婚すれば、セツもイギリス人になり、日本で財産を持つ権利を失う。日本風の結婚だけでは、法律の上で正式な結婚にならない。日本人になれば、外国人並みの高い給料で雇われる望みはなくなる。それも承知の上で、自分が日本人になる道を選んだ、と手紙にはあります。
セツはのちに、ヘルンは私たち妻子のために、どれほど我慢も心配もしてくれたか分からない、帰化のことでもそうだった、と語っています。
1896年2月、手続きが終わりました。ヘルンは、セツの家に入る形で日本人になった。
新しい名は、小泉八雲。
小泉は、セツの家の名です。
やがて、日本の怪談を集めた本が、海の向こうで出版されることになります。英語の表紙に刷られた名は、ラフカディオ・ハーン。セツの名は、ありません。