平賀源内 — 家来にならない人
誰も開けられない袋を開け、藩を離れてからは、どこにも仕えなかった。江戸の何でも屋の、自由で孤独な一生
末座の男
「この口を、試しに開けてみてください。開けた人に、差し上げましょう」
オランダの商館長カランスが、酒の席で、袋を一つ取り出しました。江戸にある、オランダ人の宿でのことだった、と杉田玄白が書き残しています。
袋の口は、知恵の輪になっていた。
座の客が、順に手に取ります。あれこれ工夫しても、誰も開けられない。袋は次から次へと回されて、とうとう、いちばん下の席にいた男のところまで来ました。
男は袋を手に取って、しばらく考えていた。
それから、たちまち口を開けてしまいました。
座の客は言うまでもなく、カランスも、その頭の速さに感心した。袋は、その場で男のものになりました。
男の名は、平賀源内。
生まれつき物の道理にさとく、才がはしこい。しかも、そのときどきの世間の好みに、よく合う。玄白は、源内をそう書いています。二人は、古くからの友人でした。
この日から源内は、オランダ人の宿にたびたび通うようになりました。
ある日、カランスが、碁石のような形の石を見せた。大蛇の頭の中から出る石だと言われている、というのです。
源内は、それが何に効くのかを聞いて帰りました。そして翌日、自分で作った石を一つ、持っていった。
カランスは、前の日に見せたものと同じだ、と言った。大蛇の頭から出るはずの石を、源内は一日で作ってきたことになります。
人の手で、それも一日で、同じ物が作れたのです。それなら、カランスの石も、大蛇の頭から出たものではないはずだ。では、何でできているのか。それは龍の骨で作ったものだろう、と源内は言います。カランスは言い返しました。
「天と地のあいだに、龍などというものはいません。どうして、その骨で作れるのですか」
そこで源内は、故郷の讃岐の小豆島で出た、大きな龍の歯につながった骨を出してみせた。
これこそ龍の骨だ、と示したのです。龍などいない、と言ったばかりの相手の前に。
カランスはたいそう驚きました。中国の薬の本を求め、骨をもらって帰って、お礼に、動物の本、草木の本、貝の本と、オランダの本を何冊も贈ってきた。
もっとも、二人がじかに話したわけではありません。間に通訳が入っていて、一字一言まで通じ合ったわけではなかった、と玄白は書き添えています。
通訳をはさんで、龍がいるか、いないかを言い合っていたことになります。
宴の末座にいたこの男は、四国の讃岐から出てきた人でした。話は、源内がまだ讃岐にいたころに戻ります。
生まれたのは、1728年か、その翌年。高松藩の米蔵の番をする、身分の低い役人の家でした。藩は、大名が治める小さな国のようなものです。少年のころから、薬になる草木や石、動物を調べる本草学を学んだ、と伝えられます。
藩主に小役人として取り立てられたとき、源内はため息をついて、こう言った。のちに玄白が、源内の墓の碑に書き残しています。
「男がこの世に生きるからには、国の益にならなければ。どうして黙って、郷里にとどまっていられるものか」
やがて長崎で一年ほど学び、江戸に出た源内は、1759年、各地の薬や産物を持ち寄って見せ合う物産会を、主になって開きました。
仕切っていたのは、まだ藩に仕える身の男でした。
1761年、源内は藩に、辞めさせてほしいと願い出ます。
医術の修業に昼も夜も打ち込まなければ、技は身につかない。けれど、そうすればご奉公がおろそかになる。だから、長いお暇をいただきたい。
藩主は惜しみながらも、源内の志を察して、許しました。学問のための手当として、三人扶持もくれた。扶持は、主君が家来に米で渡す手当のことです。
これで、自由の身になりました。
ただ、許しの書きつけには、最後に一行が添えられていました。
ほかの家に仕官することは、許さない。
甲斐もない
「せっかく江戸へ来た甲斐も、ありません」
藩を辞めたその年の旧暦12月と見られる手紙で、源内は讃岐の友人に、そう書いています。
自由の身になったはずでした。ところが、ひどく忙しい。藩主が目黒へ出かけるときには、たびたびお供をしなければならない。屋敷への出入りはこれまでどおり、と許しの書きつけにあったとおりです。
集めた産物も、医学の本も、散らかったまま。学問は、少しもはかどらない。
「心はひとつでも、なかなか成就はできそうにありません。まことに不愉快のきわみです」
ただ、同じ手紙には、お礼も書いてあります。学問のための三人扶持は、ありがたい。仕官ではなく学問の手当なので、どこに住んでいても、もらえるらしい。たいへんありがたい、と。
あるとき、源内の家を、若い儒学者の柴野栗山が、友人の立原翠軒を連れて訪ねたことがあります。こんな話が伝わっています。
翠軒は、源内に会ったことがない。紹介を頼むと、栗山はこう言ったという。
「いや、それほど感心して見るほどの人物ではない。ただ、人柄はすこぶる立派だから、一度会う値打ちはあるだろう。学問は無い人だが」
夏のことで、出てきた源内は絹の袴をつけていた。なるほど人柄は立派で、弁舌もさわやかです。
やがて源内は、近ごろ自分で考え出した、ふいご仕掛けの火鉢を持ち出してきます。ほどよく火をおこし、自分で田楽を焼いて、二人にふるまった。
学問は無い、と言われた男が、自作の火鉢で田楽を焼いている。
1765年ごろ、源内は秩父の山奥に入りました。金や鉄を掘るためです。荒川に船を通して、朽ちるにまかせていた山の木も、炭に焼いて江戸へ送れるようにした。
家を継いだ妹の夫、権太夫にあてた手紙は、意気が上がっています。
「天下に並ぶもののない大山、大木がございます。さてさて、勇ましいことでございます」
ところが同じ手紙で、話は急に苦しくなる。
「炭山に五人、川船に七人。鉄山は休んでいてさえ二人、牛四匹、川船六艘。これを私ひとりの力で、養っております」
はじめの入り用に骨が折れて、郷里への仕送りもできなかった。これからは少し楽になります、と手紙は続きます。別の手紙によれば、炭の儲けも、元手を問屋に出してもらったので、四分の一しか手に入らない。
1770年、源内はふたたび長崎へ行きました。
そして、オランダの本や器械を求め、エレキテルを手に入れて帰ってきます。人の体から火を出して、病を治すという、オランダの器械です。その仕組みをようやく工夫して、人々を驚かせた、と杉田玄白は書いています。
エレキテルが動くようになり、大名の屋敷から、見せに来てほしいと声がかかるのは、もう少しあとのことです。
松代藩の医者にあてた、ある年の旧暦7月3日の手紙が残っています。明日、うかがいます。ついては、人をよこしてください。器械は重いので、担ぐのに三、四人。それから、かごを担ぐ人足を三人。
「私も重うございますので、達者な人を」
追伸も、ついていました。
私はひどく太っていて、暑さに苦しむので、夏のあいだは、よそのお屋敷へは出ません。けれど、あなたがご逗留のうちにご覧に入れたいので、うかがいます。そう書いたうえで、こう頼んでいる。
「涼しい所に置いてくださいますよう、第一にお願い申し上げます」
酒は飲めない下戸なので、食事などのおかまいは無用です。そして、もう一度。
「涼しい所を、ひとえにお願い申し上げます」
同じ相手にあてた、旧暦7月7日の手紙もあります。前の日、殿様には喜んでいただけた。けれど、家中の人たちに見せたときは、うまくいかなかった。
「御家中の方々にご覧に入れたときは、火がなかなか出ず、さんざんなありさまで、残念に存じます」
今日はたいそう疲れて、字が乱れております。お許しください、と手紙は続きます。
さて、1771年のことです。源内は郷里の友人たちに、こう書きました。
「何をいたしましても、口すぎの芸はたくさんございますから、飯粒はいただきません。これから先、仕官はお勧めくださいますな」
飯粒とは、主君からもらう米のことでしょう。同じ手紙には、発句も一つ添えてありました。
「涼しさや くわほう寝て待て 江戸便り」
果報は寝て待て、のもじりです。翌日の手紙では、吉野の山は一面の銀と銅で、掘らせてほしいと願い出た、まだ返事はない、と書いたあと、こう胸を張っています。
「肥前から摂津までは、おおかた探しました。古今の大山師になりました」
山師は、山を探して鉱石を掘る人のこと。もうけ話で人をだます人のことでもありました。
その覚悟が試されたのは、二年後です。
北の秋田藩が、源内に二百石の領地を与えよう、と言い出したのです。