柳原白蓮 — 始終、嘘をついていた人
養女に出され、二度嫁がされ、新聞に裁かれ、息子を戦争で失った。「筑紫の女王」と呼ばれた歌人の、嘘から始まる長い道
埋め合わせの子
「私、断崖から落っこちるようなことをしてやろうかと思うの」
1921年10月7日。建ったばかりの屋敷の、北向きの薄暗い八畳間で、ひとりの女性が友だちにそう言いました。
言いながら、ほろほろと涙をこぼしていた。
友だちの名は、久保より江。福岡に住む歌人で、この日のことを、その年の暮れに書き残しています。
十三日後、その人は、あることをします。それから数日のうちに、新聞の社会面は、そのことで埋めつくされました。
その人の名は、柳原燁子。歌を詠むときは、白蓮と名乗っていました。
このとき35歳。結婚して、十年がたっていた。
ただ、その十年より前から、彼女の行き先は、たいてい誰かが決めてきました。
生まれたのは1885年。父は伯爵、生みの母は芸妓でした。品川の里親の家で、そこが本当の家だと思いこむほどかわいがられて育ち、学校に上がる年に、柳原の家へ戻されます。
何年もしないうちに、また家を出されます。行き先は、北小路という子爵の家。父の弟が養子に入っていながら、飛び出してしまった家です。その穴をふさぐために、少女が、養女として差し出されました。年をとってから、彼女はこう語っています。
「その不義理の埋め合わせに私はこの子爵家に養女にやられました」
華族女学校の同級生の多くは、友禅や矢絣の美しい着物で、馬車や人力車に乗って通ってきました。
燁子は、護国寺の近くの養家から永田町の学校まで、行きも帰りも歩いた。およそ二里(8キロ)はあったろう、と本人は言います。電車もバスもない時代です。
「お蔭で足は今でも達者です」
六十代の終わりになって、彼女はそう付け加えています。
その学校を、燁子は途中でやめています。十代の半ばで、北小路家の資武と結婚したのです。
数えで十六の年には、男の子を産みました。
その年の日記が「涙の綴り」の書き出しだった、とのちに長谷川時雨は書いています。燁子自身は、十六の自分を、こう詠みました。
殊更に黒き花などかざしけるわが十六の涙の日記
わざわざ黒い花を髪に挿していた、十六歳の、涙の日記。
もう一首。
おとなしく身をまかせつる幾年は親を恨みし反逆者ぞ
言われるままに、おとなしく従ってきた年月。その内側にいたのは、親を恨む反逆者だった。
やがて彼女は、この家を出ます。埋め合わせのもとになった叔父も、21歳のときに養子先を出たのだそうです。
「私も二一の時この家を出ました。妙に二一に因縁があるといって養父母はなげいていました」
男の子は、北小路の家に残して出ました。
自分が埋め合わせに差し出されたその家に、今度は、自分の子を置いていったのです。
実家に戻り、キリスト教の学校で二、三年を過ごしたあと、1911年、燁子は二度目の結婚をします。
相手は、福岡の炭鉱王、伊藤伝右衛門。燁子より25歳上で、炭鉱で石炭を掘るところから身を起こし、学校で学んだことのない人でした。
家のための生贄、人身御供だとまで言われた、と時雨は書いています。
本人の言い分は、少し違います。
「破れた魂を持った女は今さら恋愛の何のと考える身の上ではなかったのでした」
相手がずっと年上でも、学校で学んでいなくても、「ただ愛情さえ深ければそれに満足できる私でありました」。
望みも、一つありました。夫の作った財産で、世の中のために社会事業をして、「哀れな人々の友となれるなら」。ミッション・スクールが教えてくれた望みだった、と彼女は言う。
どれも、四十年以上たってからの回想です。
その同じ回想の中で、燁子は、嫁ぎ先の家のことを語っています。家には母親の違う養子が何人もいて、夫はその子たちにも愛情を持たなかった。
「情愛というものをまったく忘れた冷たい家庭でした」
その家で、燁子は十年を過ごすことになります。
嘘をつかなければ
炭鉱王の妻になっても、お金は自由になりませんでした。
使えるのは、毎月決まった額のお小遣いだけ。着物や帯も、自分で選んで買うのではない。夫が見立てて、あてがったものを着る。
友人の大学教授の夫人のほうが、よほど豊かに、好きな着物や帯を買っていた。それを見て、うらやましかった、と燁子はのちに語っています。
足りないときは、夫から借りた。夫は、よく貸してくれた。ただ、借りたものだから、あとで必ず返した。夫は、あたりまえの顔をして受け取った、と。
お小遣いを上げてもらうのに、助けてくれた人もいました。夫の妾です。妻のほかに夫が囲っていたその女性が、燁子をかばって、夫に頼んでくれたのです。
「考えてみれば妙ちきりんなものでした」
そう言ってから、燁子は続けています。
「だから始終嘘をついていなければ日が送れないのです。苦痛はそこにありました」
しまいには、ほとほと空おそろしくなった。心も魂も、汚れはててゆくばかりだった、とも。
外から見えていたのは、まるで違う姿でした。
嫁いで間もないころの、四月か五月の日曜日。久保より江は、二日市の駅の改札口で、ひとりの女性とすれ違いました。高い鼻、引き締まった唇、整った横顔に、目を奪われた。その帰り道、ある炭鉱家が奉納した真新しい石の大鳥居のそばで、料理屋の入り口に揃えてある下駄の真ん中に、薄紫の草履が一足ありました。さっきの人が誰だったのか、より江はそれで気づいた、と書いています。
その冬、二人は初めて言葉を交わしました。そこにいたのは、想像していた高慢な貴婦人ではありません。「無邪気なあでやかなお姫様」が座っていた、とより江は書いている。
歌も、評判になっていきます。1915年、最初の歌集『踏絵』が出ました。装丁は、古い沼の水のような青。見返しは銀でした。
わが足は大地につきてはなれ得ぬその身もてなほあくがるる空
私の足は、大地についたまま離れられない。その体のまま、それでも空にあこがれる。
世間は彼女を、「筑紫の女王」と呼びました。
ただ、近くにいた人の中には、首をかしげる人もいた。ある人は、あの生活が嫌なのだとは、どうしても思えない、あの人の歌はどこまでが芸術で、どこまでが生活なのか、と言っていたそうです。長谷川時雨が、信用できる人から聞いた話として書きとめています。
1920年、東京の雑誌『解放』の編集者が、別府の別荘を訪ねてきました。七つ年下の青年、宮崎龍介。燁子の書いた戯曲を雑誌に載せる、打ち合わせのためです。
龍介は二晩泊まり、帰りは燁子が小倉まで見送った、と伝えられています。初めて会ったこの青年に、燁子は、書くことのほかに楽しみのない自分の暮らしを話したといいます。
やがて、龍介の机の上に、電報が届くようになります。電文は、恋の歌でした。それが山のように積もって、仲間たちがうらやんだ。時雨は、そう聞いています。
その年の暮れ、より江の家に、東京の知り合いから羽子板が二枚届きました。燁子と仲よく分けなさい、泣かないでね、と書き添えてある。
二人は、くじを引きました。燁子に当たったのは、歌舞伎の「お嬢吉三」の羽子板。娘の姿をした盗賊の役です。
「ああ、よかった」
燁子は本音をはばかりもせずにそう言って、無邪気に笑った、とより江は書いています。
翌年の暮れ、より江は、その羽子板を飾りながら、この日のことを思い出して書きつけています。
「二人の間に秘密はないと思っていたが……」
1921年の秋、燁子は、博多の芸妓だった舟子を身請けして、屋敷に呼びました。お金を払って芸妓の仕事をやめさせ、引き取ったのです。亡くなった京都の侍女の代わりに、とより江の文にはあります。
10月7日。より江を八畳間へ案内したのも、この舟子でした。
その日のことを、より江は歌にも詠んでいます。新しい御殿の中で、あなたが選んだ、北向きの薄暗い、寂しい小部屋。
より江は、歌人の斎藤茂吉から頼まれた、祝いの歌のことで来ていました。歌を書くための絹地を差し出すと、燁子は言った。
「何日までですか。私、お祝いの歌は困るけれど」
そう言って、文机の上に置いた。
それから、家の事情を次から次へと訴えはじめます。より江は慰める言葉が見つからず、襖に散らした色紙の模様を、じっと見ていた。
「私、断崖から落っこちるようなことをしてやろうかと思うの」
ほろほろとこぼれる涙に、より江のまぶたも重くなった。それをしかねない気性だとは知っていた。けれど、それがすぐ目の前に迫っているとは、知るよしもなかった、とより江は振り返っています。
正午を知らせる号砲に驚いて、より江は急いでいとまごいをしました。そのうちゆっくりお話ししたいことがある、と言いながら、燁子は見送ってくれた。
十年の歳月は、この美しい人にも荒んだ影を落としていた。より江はそう思いながら、帰っていきます。
そのうち、という日は来ませんでした。「私たちの最後の日となってしまった十月七日」と、より江はその年の暮れに書いています。
13日後の、10月20日の朝。燁子は東京駅で、福岡へ帰る夫を、午前9時30分の特急に見送りました。
夫の話では、妻は月末には博多へ帰ってくる約束でした。
燁子は、泊まっていた日本橋の旅館、島屋に戻りませんでした。