和気清麻呂 — 信じきれない人
神のお告げさえ「信じがたい」と言ったと伝えられる人。名を「穢麻呂」に変えられ、いつも姉の少しあとを歩いた、奈良時代の役人の一生
姉の代わりに
「その名は、穢麻呂とする」
769年、旧暦9月。皆、よく聞け、と結ばれた天皇の詔に、この一文がありました。
もとの名は、清麻呂。清らかな麻呂、という名が、きたない麻呂に書き換えられた。姓も取り上げられ、新しく「別部」とされます。
同じ詔は、三つ年上の姉の名も取り上げていました。尼になって「法均」と名のっていた姉を、もとの名の「広虫売」に戻す、と。
詔が挙げた理由は、こうです。この弟と姉が、ひどく悪い偽りの言葉を作り、姉の法均が、それを天皇に申し上げた。
ところが、この詔を書き写した歴史書『続日本紀』は、そのすぐあとに、まるで違う話を続けています。
偽りを言ったのは、姉と弟ではなかった、という話です。
話は、4年前にさかのぼります。
姉と弟は、備前(今の岡山県)の藤野の一族でした。二人そろって都で女帝に仕え、どちらも目をかけられていた。
765年の旧暦正月。前の年の反乱をしずめた手柄で、大勢の役人が位を上げてもらいました。その日の記録に、二人の名前があります。
弟の清麻呂は、六位のまま。手柄のしるしの勲位が一つ、ついただけでした。
姉は、七位から、一気に五位へ。五位から上は、役人の中でも別格の身分です。その日の宴は、五位以上の人たちのために開かれました。
招かれる側に、姉はいた。弟は、いなかった。
姉の広虫は、そういう人でした。
若いころ、結婚の約束をした相手がいた。けれど仕えていた天皇が髪をおろして尼になると、自分も後を追って尼になり、天皇から、胸の内を打ち明けられる相手になります。
前の年の反乱では、巻き添えで死刑になるはずの人が、375人いました。法均が強く諫め、天皇はそれを聞き入れて、死刑を流罪などに軽くしています。
乱のあとは飢えと病がはやり、草むらに子を捨てる人までいた。法均は人をやって拾わせ、83人の子を、みな自分の養子にしました。
768年には、尼のまま、四位に準じる扱いを受けています。
弟のほうは、宮中を守る武官でした。
姉の背中を見ながら働くのは、誇らしくもあり、少し息苦しくもあったのかもしれません。
それから4年後の769年。清麻呂は、天皇の床のもとに呼ばれました。天皇はこう言ったと、続日本紀は書いています。
「昨夜、夢に八幡の神の使いが来て言った。大神は申し伝えたいことがあるので、尼の法均をよこしてほしい、と。そなた清麻呂が代わりに行って、神のお告げを聞いてこい」
神が呼んだのは、姉でした。
もう一つの歴史書『日本後紀』では、天皇は夢の中で、こう答えたことになっています。法均は体が弱く、遠い道のりには堪えられない。代わりに、清麻呂を遣わす。
弟は、姉の代わりの使いでした。
行き先は、九州の宇佐にある、八幡の神の宮です。
その宮からは、少し前に、あるお告げが都に届いていました。道鏡を天皇の位につければ、天下は太平になる。
道鏡は、天皇がいちばん頼りにしていた僧です。法王と呼ばれ、出入りには先払いを立て、乗り物も天皇のものに似せていたと、日本後紀は書いています。
続日本紀によれば、そのお告げは偽物でした。九州の役所、大宰府で神事を受け持つ役人が、道鏡に気に入られようとして、神の教えだと偽ったのです。道鏡は、それを聞いて深く喜んだ。
出発の前、その道鏡が清麻呂にこう言ったと、続日本紀は書いています。
「大神が使いを呼んだのは、思うに、私が位につくことを告げるためだろう」
そして、位や役職を約束して誘ったといいます。日本後紀は、約束したのは大臣の位だったとしています。
まるで反対のことを言った人もいました。道鏡の昔の師だった、路豊永です。日本後紀によれば、清麻呂にこう語ったといいます。
「道鏡がもし天の位にのぼったら、私はどんな顔をして、その臣下になれようか。私は二、三の仲間と、今の世の伯夷になるだけだ」
伯夷は、昔の中国で、正しくないと思った王に仕えず、山にこもって死んだ人です。
清麻呂はその言葉を深くもっともだと思い、いつも命を投げ出す覚悟を抱いていた、と伝えられます。
宇佐の宮で、お告げがありました。
清麻呂は、すぐにはうなずきませんでした。神に祈って、こう言ったと、日本後紀は伝えています。
「今、大神がお教えになったことは、国の大事です。お告げは、信じがたい。どうか、神のしるしをお示しください」
神は、たちまち姿を現しました。
背の高さは、三丈(約9メートル)ほど。色は、満月のようだった。
清麻呂は魂が消え、我を失って、仰ぎ見ることもできなかったといいます。
(見せてくれと言ったのは、自分なのに)
お告げは、こうだったと、続日本紀は書いています。
「わが国は、国のはじまりから、君と臣が定まっている。臣を君にしたことは、まだない。天の位を継ぐ者には、必ず皇統の人を立てよ。道に外れた人は、早く払いのけよ」
日本後紀は、神がさらにこう続けたとしています。
「汝は、道鏡の恨みを恐れるな。私が必ず助ける」
このとき清麻呂は、神に一つ、誓いを立てたといいます。国が落ち着いたら、必ず次の天皇に申し上げて、神の願いをかなえる。身を砕き、命を落としても、神の言葉をたがえない。神が望んだのは、お経と寺でした。ずっとのちに、息子たちが朝廷に出した文書が、そう伝えています。
清麻呂は都へ戻り、神の教えのとおりに奏上しました。
道鏡は、大いに怒った。
行きは輿で、帰りは馬で
続日本紀によれば、道鏡は清麻呂の役目を解き、因幡(今の鳥取県)の員外介に出しました。定員の外に置かれた、国の次官です。
日本後紀のほうは、天皇が清麻呂を殺すにしのびず、因幡へ出したのだと書いています。
清麻呂が因幡に着く前に、次の詔が出ました。冒頭の、あの詔です。
詔は、こう始まっていました。臣下というものは、君に従い、浄く正しく明るい心で、君を助け護るものだ。
そのうえで、清麻呂と姉の法均が偽りの言葉を作り、法均が天皇に申し上げた、と責めた。
公式の記録の上では、嘘をついたのは、姉と弟のほうでした。
詔は、こうも言っています。
「清麻呂たちは、仕える者だと思えばこそ、姓も与えて治めてきた」
今は、けがれた者として退ける。だから与えた姓を取り上げて別部とし、名を穢麻呂とする。浄い心で仕えよ、と始まった同じ詔の、終わりのほうでした。
詔は、姉と並んで退けられる、もう一人の尼のことも書いています。明基は広虫売と、「身は二つでも、心は一つ」だと知っているから、同じく名を取り上げる。
姉には、天皇にそう言わせるほどの仲間がいました。
同じ詔には、ふしぎな一文もあります。清麻呂たちと一緒にはかった者がいるのは、知っている。けれど君は慈しみをもって政をおこなうものだから、憐れんで許す。
詔を出した天皇の心も、まっすぐ一つではなかったのかもしれません。
清麻呂は役人の名簿から除かれ、大隅(今の鹿児島県の東部)へ流されました。姉は尼をやめさせられ、備後(今の広島県の東部)へ。
二人は、別々の国へ送られた。
日本後紀は、道鏡がさらに追っ手を出し、途中で清麻呂を殺そうとした、と書いています。ところが雷雨で辺りが暗くなり、すぐには手を下せなかった。そのうちに天皇の使いが来て、清麻呂は、かろうじて助かったといいます。
都には、清麻呂を気にかける人もいました。役人の藤原百川です。清麻呂の忠義を哀れんで、備後の国で受け取っていた二十戸ぶんの税を、流された先へ送り届けたと伝えられます。
備後は、姉が流された国でもありました。
日本後紀は、姉が流された話に続けて、弟について、こんな話を書いています。
清麻呂は、脚が萎えて、立てなかった。
八幡の神を拝むため、病んだ体のまま輿に乗って出かけた。豊前の宇佐の郡まで来ると、猪が三百頭ほど、道の両側に並んでいた。猪たちはゆっくり歩いて十里ほど先に立ち、それから山の中へ走り込んだ。見た人は、みな不思議がったそうです。
社を拝んだその日、清麻呂は、はじめて立って歩けた。
行きは輿に乗って行き、帰りは、馬を走らせて帰った。道ゆく人で、驚き怪しまない者はなかったといいます。
この話は、時代が下るにつれて形を変えていきます。
四百年あまりのちの『水鏡』という本では、道鏡が怒って、清麻呂の脚の筋を断ち切ってから流したことになっている。宇佐で拝むと、切られたすねが治った、と。
いちばん古い記録にあるのは、切られた脚ではありません。萎えて、立てなくなった脚です。
なぜ萎えたのかは、分かっていません。宇佐で神の姿を仰ぎ見られず、恐れるな、と言われた人です。怖さが、脚に来たのかもしれません。
流された先からの声も、一つ残っています。
宇佐の宮の古い記録を集めた、『宇佐託宣集』(1313年)という本があります。そこに、770年旧暦3月の日付で、大隅の清麻呂が書いたとされる文書が載っている。本当に清麻呂が書いたものかどうかは、疑われています。
その文書によれば、流された土地の人々が、こんな話をしていました。大神のお告げがあった、というのです。
「私は実は、この大隅の国に移ってきた。だから、早く顕されたい」
清麻呂は、こう書いています。今告げられたこの言葉は、もしかすると、本当のことかもしれない。だから、あえて腹の底を書いて申し上げる。
文書の終わりには、こう名のってあります。輔治能清麻呂。
詔が穢麻呂と呼んだ人が、自分で書いた名は、清麻呂でした。前に申し上げた神のしるしにつながる話なので、本名を書いて、あえて申し上げる、と添えてあります。
770年、旧暦8月。称徳天皇が亡くなりました。その月のうちに、道鏡は下野(今の栃木県)の寺へ移されます。同じ日、あのお告げを伝えた役人も、南の島の長官に出されました。
翌月、大隅の清麻呂と、備後の広虫を、都へ呼び戻せという命令が出ました。流されて、一年ほどでした。
日本後紀によれば、ふるさとの先祖の墓のまわりには、大きな木が林のように茂っていた。
清麻呂が流された日に、その木は、人の手で伐り払われていたといいます。
同じ宮で、もう一度
都に戻った清麻呂は、墓のことを文書にして、朝廷に申し出ました。
誰が木を伐ったのかは、分かっていません。返ってきたのは、詔でした。先祖の四人と清麻呂を、美作と備前の国造とする。国造は、古くからその土地を治めてきた家に与えられる、名誉の呼び名です。
日本後紀によれば、都に戻った清麻呂には、もとの名も返されました。穢麻呂は、ふたたび清麻呂になった。
姉の広虫は、天皇への願いや報告を取り次ぐ役を任されています。
翌771年、清麻呂の位は、流される前と同じ五位に戻されました。五位のうち、いちばん下の段です。
同じ年の旧暦9月、新しい役目が決まります。播磨(今の兵庫県の南西部)の員外介。
二年前、因幡に出されたときと同じ、定員の外の次官でした。
772年、下野から、道鏡が死んだという知らせが届きます。清麻呂がそれをどう聞いたかは、伝わっていません。
続日本紀は道鏡の死を伝えながら、罰しなかったわけを書いています。先の天皇がかわいがった人なので、法にかけるにはしのびなかった、と。
「しのびない」という同じ言葉が、清麻呂の命も、道鏡の命も、救っていました。
773年の旧暦正月。清麻呂は、豊前の国の長官になっていました。
宇佐の宮が、ある国です。
その旧暦正月2日の日付で、清麻呂は九州の役所、大宰府に文書を出しています。
「ここ数年のあいだ、八幡大神の禰宜や宮司たちが、お告げにことよせて、たびたび妖しい言葉を口にしている。国を乱すだけでなく、朝廷をあざむくことまである。これまでの国司は、これを正してこなかった。国を治める者の務めが、こんなものでよいはずがない」
役人と占いの者がそろって神の宮へ行き、本当か偽りかを、はっきりさせたい。清麻呂は、そう願い出ました。
大宰府はこれを認め、同じ旧暦正月の15日に、占いが行われます。大宰府から来た使いは、主神という神事の役人でした。四年前、偽のお告げを伝えた役人と、同じ役目です。
占いの結果、禰宜の一人、辛嶋勝与曽女のお告げは偽りだ、と出ました。
占いは、もう一つのお告げも調べています。大神は、大隅の国で、早くまつられることを望んでいる。そういうお告げは、本当か。
こちらは、本当だと出ました。
三年前、流された大隅から清麻呂が知らせたとされる話と、同じ中身です。
四年前、同じ宮で、お告げは信じがたい、と言った人です。
今度は、お告げを調べる側に立っていた。そのまま信じもせず、捨てもせず、確かめようとする。流されても、名を奪われても、その癖は変わらなかったのかもしれません。
位のほうは、動きませんでした。
774年、清麻呂と広虫は、そろって「朝臣」という、一つ上の姓を与えられます。姓をもらった日は、姉と同じでした。けれど清麻呂の位は、五位のいちばん下のままでした。
宇佐での誓いも、すぐには果たせませんでした。息子たちの文書によれば、清麻呂が神の願いのことを天皇に申し上げたのは、780年。天皇は感じ入って、自ら勅書を作ったといいます。誓いから、十一年がたっていました。
姉は、先へ進んでいきました。781年の旧暦3月には、五位のいちばん上の段へ。
弟が最初に五位に上がってから、十五年。弟は、ずっと同じ段にいた。
781年、新しい天皇が位につきます。
その年の旧暦11月、姉の広虫は、四位に上がりました。
二日あと、弟の清麻呂も、四位に叙されます。五位のいちばん下から、間の三つの段を、一度に飛びこえた。
清麻呂は、数えで49歳。十六年前に先を越された姉と、同じ位に並んだ日でした。
姉の、二日あとでした。
掘りきれなかった川
784年、都が平城から長岡へ移されました。
喪のために遅れた皇后と、平城に残っていた中宮。その二人を新しい都へ迎える行列の係を、清麻呂が務めています。翌月には、宮造りの手柄で、位が一つ上がりました。
前の年から、清麻呂は摂津の国の長官でした。今の大阪府の北部から、兵庫県の南東部にかけての国です。
786年には、国の田と税をあつかう民部省の次官も兼ねます。摂津で田を人々に分け直す役の、長にもなった。
同じ年、摂津の役所から、一つの願いが出ています。長官は、清麻呂でした。
宿場で荷運びや馬の世話をする駅子たちは、ほかの国では、税の一つを免じられている。ところが都のまわりの国には、もともとその税がないので、免じられる分もない。結局、ほかの国の駅子より重い負担を負っている。逃げ出す者を止められないのは、そのためだ。だから、駅子の税を免じてほしい。
願いは許され、都のまわりのほかの国にも、同じ扱いが広がりました。
788年には、ふるさとの和気郡の人々の願いを、朝廷に取り次いでいます。和気郡は、清麻呂が宇佐へ向かう少し前の769年に、藤野郡から名を改めた郡です。
郡の役所と人々のあいだには、大きな川があった。雨が降るたびに行き来ができなくなり、川の西に住む百姓は、たびたび役所の務めを果たせない。そこで、川の西に新しく郡を立ててほしい。願い出たのは、百七十人あまりでした。
願いは許され、川の西に磐梨郡ができました。
磐梨は、清麻呂の一族の、もとの姓「磐梨別公」と同じ名です。
同じ788年。清麻呂は、もっと大きな計画も天皇に申し上げています。
「河内と摂津の国の境に川を掘り、堤を築いて、荒陵から南へ河内川を導き、西の海へ通します。そうすれば、肥えた土地がますます広がり、田を開くことができるでしょう」
肥えた土地が、ますます広がる。申し上げた言葉は、明るい見通しでした。
この仕事は、清麻呂に任されました。必要な人手は、のべ二十三万人あまり。働く人には、食べ物が配られることになった。
その結末を、日本後紀は短く書いています。
河内川を掘って、まっすぐ西の海へ通し、水害を除こうとした。費えはたいへん大きく、仕事は、とうとう成らなかった。
いつ、誰が止めたのか。どこまで掘れたのか。それは伝わっていません。
二十三万人あまりの手間を見込んだ川は、海に通じないまま終わりました。
同じころ、都そのものも、なかなかでき上がりませんでした。
長岡の新しい都は、十年たっても完成せず、費えは数えきれなかった、と日本後紀は書いています。
そこで清麻呂は、ひそかに天皇に申し上げ、狩りに出かけるということにして、葛野の土地を見てもらったといいます。都は、あらためてそこへ移されました。のちの平安京、今の京都です。
長岡は、十年前、清麻呂自身が行列をととのえて、皇后たちを迎え入れた都でした。
自分の手で、成らなかった工事を抱えた人です。費えばかりがかさむことの重さを、身にしみて知っていたのかもしれません。
宇佐で我を失ったこの人には、別の顔もありました。
役所の仕事に慣れていて、とくに昔のことに詳しかった。民部省の決まりをまとめた『民部省例』二十巻を書き、中宮の言いつけで一族の歴史『和氏譜』をまとめて、天皇にたいへん喜ばれたといいます。
793年、清麻呂は、能登(今の石川県)の田、五十八町を、一つの寺に納めたいと願い出て、許されました。
神願寺。息子たちの文書によれば、宇佐の神の願いをかなえるために、清麻呂が自分の財で建てた寺です。
宇佐で誓ってから、二十四年がたっていました。
私たち二人
796年、旧暦9月。都が平安京に移って二年後のことです。山城の国の田が、二町ずつ、姉と弟に与えられました。
先にもらったのは、姉の広虫。十二日あとに、弟の清麻呂。
このときの記録では、弟は三位、姉は四位です。位では、弟はとうに姉を追いこしていた。それでも、もらう順番は姉が先でした。
798年、清麻呂は、役目を辞めさせてほしいと願い出ます。天皇は手厚い言葉で、それを許さなかった。代わりに、子や孫に伝えるための田、二十町を与えています。
799年、旧暦正月。姉の広虫が亡くなりました。七十歳でした。
日本後紀は、姉の死を短く記しています。人となりは素直で、節操に欠けるところがなかった。天皇がたいへん信頼し、重んじた。そして、くわしいことは清麻呂の話の中にある、と書き添えています。
姉の一生は、弟の伝の中で語られることになりました。
その伝によると、姉は亡くなる前、弟に一つの遺言を残していました。
「七日ごとの法事や、喪の明ける日に、供養に手間をかけてはいけない。ただ二、三人の修行者と静かな部屋に座り、仏を拝んで懺悔するだけでいい。後の世の子孫は、私たち二人を仰いで、手本とせよ」
私たち二人。
神に呼ばれたのは、姉でした。弟は、その代わりに宇佐へ行った。姉は最後に、その弟と自分を、一つに並べています。
伝は、天皇が姉について、こう語ったとも書いています。
「そばに仕える者たちには、ほめる声も、そしる声も入り乱れる。けれど、法均が人の過ちを口にするのを、聞いたことがない」
姉と弟は、財産を分けずに、一緒に持っていたといいます。
流されたときは、別々の国へ。呼び戻されたときは、同じ日の命令で。
姉の死から一か月ほどのちの、旧暦2月。清麻呂も亡くなりました。六十七歳。息子が六人、娘が三人いました。
最期の様子も、最後の言葉も、伝わっていません。
残っているのは、肩書きです。民部卿、造宮大夫。新しい都の宮を造る役所の長でした。川を海まで通せなかった人は、最後まで、都を造る仕事の中にいました。
長男の広世は、若いころ、ある事件に連座して閉じ込められたことがあります。何の事件だったのかは、分かっていません。天皇の特別な許しで、役人に戻っていました。
その年の旧暦12月。その広世が、天皇に一通の文書を出しました。
「亡き父清麻呂は、日ごろいつも言っておりました。自分は厚い禄をいただきながら、公の役に立っていない。国造の名をいただきながら、民に恵みを与えていない、と」
父はふるさとを恋しく思い、あの貧しい人々を憐れんで、忘れることができなかった。
だから、家の田百町を、ふるさとの八つの郡、三十あまりの郷の、飢えた人々を救う分にあてたい。広世は、そう願い出ました。
時は、すき間を駆けぬける馬のように止まらない。父の願いは、果たされなかった。だから今、その志を申し上げる、と。
願いは、許されました。
備前の田は、その後ずっと、飢えた人に分け与える田になった。ふるさとの人々はその恵みを受けた、と日本後紀は書いています。
広世はのちに、大学の南の自分の家を「弘文院」とし、書物を数千巻おさめました。日本後紀は、それで父の志をとげた、とも書いています。
父の願いを伝えたあの文書は、こう書き出されていました。
亡き父、清麻呂。
三十年前、天皇の詔が「穢麻呂」と書き換えた名でした。