聖徳太子(厩戸皇子) — 聖人と呼ばれすぎた人
負けるかもしれないと考えて、木の像を髪にのせた少年。聖人と呼ばれつづけた人の、記録のすき間に残る素顔
髪の上の四天王
「負けてしまうのではないか。願をかけなければ、うまくいかない」
数えで十四歳の少年は、心の中でそう考えた、と『日本書紀』は書いています。
少年がいたのは、戦の場でした。それも、軍のいちばん後ろです。
前のほうでは、味方が押し返されていた。相手は、稲城と呼ばれる砦を築いて守っている。大将の物部守屋は、自分で木の枝のあいだに登り、雨のように矢を射かけてくる。味方の皇子たちの軍も、役人たちの兵も、怖じけづいて、三度も退きました。
少年の髪は、額の上で束ねてありました。十五、六歳ごろまでの少年がした、昔の結い方です。
少年は、白膠木という木を切り取った。それで急いで、四天王の像を作ります。仏の教えと、この世を守るとされる、四人の神です。
できた像を、束ねた髪の上にのせた。
そして、こう誓ったと伝えられます。
「いま、もし私を敵に勝たせてくださるなら、必ず、世を守る四天王のために、寺と塔を建てます」
この戦を呼びかけた蘇我馬子も、同じように誓いました。勝たせてくれたなら、寺と塔を建て、仏の教えを広めます、と。
この少年が、厩戸皇子。のちに聖徳太子と呼ばれる人です。
書紀は、この人について、ふしぎな話をいくつも書き残しています。母が宮の中を見回っていて、馬の役所の厩の戸に当たったとき、苦しむこともなく、ふいに産んだ。生まれてすぐに、ものを言った。大人になると、十人の訴えを一度に聞いて、一つも聞きもらさなかった。
まるで、聖人の話です。
けれど、同じ書紀に出てくる十四歳の彼は、負けるかもしれないと考えて、急ごしらえの像を髪にのせる少年でした。
この年は、少年にとって、失うことの続いた年でした。
旧暦四月、少年の父、用明天皇が病に倒れます。
父は、この息子をかわいがり、宮の南の上の御殿に住まわせていた、と書紀は書いています。それで少年は「上宮」とも呼ばれました。
病を得た父は、宮に戻り、家臣たちを前にして、こう言ったと伝えられます。
「私は、仏と、その教えと、僧に、身をゆだねたいと思う。みなで話し合ってほしい」
物部守屋は、横目でにらみつけて、ひどく怒ったといいます。
法隆寺にある薬師の像の銘には、こんな話も刻まれています。病の重くなった父は、炊屋姫と少年を呼び、病が治るように、寺と薬師の像を造ると誓った。けれど、像ができる前に、亡くなってしまった。
旧暦四月九日、父は亡くなりました。
二か月後の夜中、兵たちが、ある皇子の宮を取り囲みました。兵はまず高い楼に登り、皇子の肩を打った。皇子は楼から落ち、わきの部屋へ逃げこむ。兵たちは灯をかかげて、皇子を殺しました。
殺されたのは、穴穂部皇子。厩戸皇子の母と同じ母から生まれた、皇子のおじです。
兵を差し向けたのは、蘇我馬子たちでした。炊屋姫の命令を受けての形だった、と書紀は書いています。
そのとき少年がどこで何をしていたのか、書紀は何も書いていません。
旧暦七月、父は磐余の陵に葬られました。同じ月、少年は、馬子の側の軍にいた。同じ軍には、父の腹違いの弟、泊瀬部皇子もいました。
戦の場へ、話を戻します。
守屋の軍は強く、その兵は家々を埋め、野にあふれていたと書紀は書きます。少年が髪に像をのせたのは、その軍を前にしたときでした。
戦は、一本の矢で変わります。
迹見赤檮という男が、木の上の守屋を射落とした。守屋とその子どもたちは殺され、守屋の軍は、たちまち崩れました。
勝ったのは、馬子の側でした。
戦のあと、摂津の国に、四天王寺が造られます。だれが造ったのか、書紀は書いていません。ただ、すぐあとに、馬子も、もとの誓いのとおり飛鳥に寺を建てた、と続くので、少年の誓いが果たされたようにも読めます。
ただ、そのころの人々は、こんなことを言い合っていた、と書紀は書いています。
「蘇我の大臣の妻は、物部守屋大連の妹だ。大臣は、妻の計りごとをむやみに使って、大連を殺したのだ」
勝った側にも、勝った側の、暗いうわさがありました。
少年は、やがて三十年近く、この馬子と並んで、国の政を動かしていくことになります。
猪の首
「いつになったら、この猪の首を斬るように、私の嫌いな人を斬れるのだろう」
献上された猪を指さして、天皇はそう言ったと伝えられます。
この天皇は、あの泊瀬部皇子でした。五年前、厩戸皇子と同じ軍で、物部守屋と戦った人です。戦のあと位につき、のちに崇峻天皇と呼ばれます。
天皇のまわりには、いつもより多くの武器がそろえられた。
その言葉を聞いた蘇我馬子は、嫌われているのは自分だ、と恐れました。仲間を集め、天皇を殺す相談を始めます。
592年、旧暦十一月三日。馬子は、今日は東の国々から貢ぎ物が届く日だ、と群臣を欺いて、手下の男に、天皇を殺させました。
天皇は、その日のうちに葬られた。
厩戸皇子は、数えで十九歳。この事件を伝える『日本書紀』の記事に、彼の名は出てきません。
次に天皇の位についたのは、炊屋姫でした。のちに推古天皇と呼ばれる、女性の天皇です。厩戸皇子の父の妹、つまり叔母にあたります。
593年、二十歳の厩戸皇子は、皇太子に立てられました。政治のことは、すべてこの皇太子に任された、と書紀は書いています。
その隣には、大臣の馬子がいた。書紀には、天皇が「皇太子と大臣」に命じる場面が、何度も出てきます。
書紀は、この皇太子のことを、こうも書いています。
「一度に十人の訴えを聞いて、聞きもらさずに裁いた。まだ起きていないことも、前もって知っていた」
別の古い記録、『上宮聖徳法王帝説』は、同じ話を、八人と書いています。
十人か、八人か。本によって、人数がちがうのです。
そのころ、高麗から恵慈という僧が海を渡ってきて、皇太子の師になりました。仏の教えは恵慈に、儒教などの書物は別の学者に学び、どちらにもよく通じた、と書紀は書いています。
海の向こうとの争いも、続いていました。
600年、倭の軍は、朝鮮半島の任那を助けるために、新羅を攻めます。新羅の王は白旗をあげて、降参しました。そのあと、新羅と任那の王は、使いに天皇あての手紙を持たせて、こう誓ったと伝えられます。
「天には神がおり、地には天皇がおられます。この二つの神のほかに、何を恐れましょう。これからは、攻め合いません」
ところが、倭の将軍たちが引き上げると、新羅はすぐに、また任那を攻めました。
その二年後、皇太子の弟、来目皇子が、新羅を攻める将軍に任じられました。同じ母から生まれた、すぐ下の弟です。
授けられた兵は、二万五千人。来目皇子は筑紫まで進み、船を集め、兵糧を運ばせた。
ところが、そこで病に倒れます。攻めに出ることは、できませんでした。
翌603年、旧暦二月四日。来目皇子は、筑紫で亡くなりました。早馬の使いが、都へ知らせを届けます。
推古天皇はひどく驚き、皇太子と馬子を呼んで、こう言ったと伝えられます。
「新羅へ向かう大将軍の来目皇子が、亡くなった。大きな仕事を前にして、果たせなかった。なんと悲しいことか」
まだ起きていないことも知っていた、と書かれた兄が、この知らせをどう聞いたのか。書紀に残っているのは、天皇の言葉だけです。
旧暦四月、来目皇子の兄の当麻皇子が、代わりの将軍になりました。皇太子とは、母のちがうきょうだいです。
当麻皇子は七月に難波を出て、播磨まで進む。そこで、連れていた妻が、赤石で亡くなりました。当麻皇子は妻を赤石の丘に葬り、引き返した。
新羅を攻める話は、そのまま行われずに終わります。
弟は病に倒れ、もう一人の皇子は妻を失って、引き返した。
その年の旧暦十一月一日。皇太子は、役人たちに向かって言ったと伝えられます。
「私は、尊い仏の像を持っている。だれか、この像を受け取って、うやうやしく拝む者はいないか」
進み出たのは、秦河勝という男でした。
「わたくしが、拝みます」
河勝は像を受け取り、それをもとに寺を建てました。蜂岡寺です。
弟を亡くし、もう一人の皇子の遠征も止まった、その年の終わりのことでした。
翌月には、冠位十二階が始まります。役人の位を十二に分け、位ごとに色のちがう布で冠を縫う決まりでした。
そして、翌604年の旧暦四月。書紀は、皇太子が自ら、初めて十七の条からなる決まりを作った、と書いています。
一度に十人の訴えを聞き、まだ起きていないことも知っていた、と書かれた人です。
その人が作ったとされる決まりの、十番目の条に、こんな一文があります。
「私が、かならず聖人だというわけではない」
戸より高い仏
「私が、かならず聖人だというわけではない。相手が、かならず愚か者だというわけでもない。どちらも、ただの凡夫なのだ」
凡夫とは、迷いをかかえて生きる、ふつうの人のこと。『日本書紀』が、皇太子の作として載せている文の一節です。
書紀は、604年の条に、皇太子が自ら初めて作ったものとして、十七の条からなる決まりを載せています。のちに十七条の憲法と呼ばれる文です。
本当に皇太子が書いたのかどうかは、いまも学者のあいだで意見が分かれています。
ただ、書いた人は、人をよく見ていました。
十番目の条は、怒りについての条です。人が自分とちがうからといって、怒るな。人にはみな心があり、心にはそれぞれ、ゆずれないものがある。相手が正しければ、こちらがまちがっている。こちらが正しければ、相手がまちがっている。そう書いてから、あの一文が来ます。
最初の条は、和を大切にせよ、と言ったすぐあとに、こう続けます。人はみな仲間を作る。物ごとをよく分かった人は、少ない。
もし本当に彼が書いたのなら、争いの中で、おじを二人失ってきた人の言葉です。
五番目の条は、お金で動く役人を責めています。お金のある者の訴えは、石を水に投げこむように、すっと通る。貧しい者の訴えは、水を石にかけるように、はね返される。
この決まりができる四年前、600年のことです。海の向こうの隋の記録に、倭の国から来た使いの話が残っています。
隋の役人に国の様子を聞かれて、使いはこう答えました。倭の王は、天を兄とし、日を弟としている。夜が明ける前に出てきて政治を聞き、あぐらをかいて座っている。日が出ると仕事をやめて、あとは弟に任せる、と言うのです。
隋の皇帝は言いました。
「これは、まったく筋が通らない」
そして、改めるように言い聞かせた、と隋の記録にあります。この記録は倭の王の名を「多利思北孤」(本によっては「多利思比孤」)と書いていて、推古天皇の名も、皇太子の名も出てきません。
それからの倭の国は、身なりを整えていきます。
603年には、冠の色で役人の位を分けた。605年には、皇太子が、王族や役人たちに、褶という衣を着けるよう命じています。
606年、旧暦四月八日。銅で造った大きな仏の像ができあがり、元興寺の金堂に納められることになりました。
ところが、像のほうが、金堂の戸より高かった。中へ入らないのです。
職人たちは相談して、こう言ったと伝えられます。
「堂の戸を壊して、入れてしまおう」
けれど、像を造った鞍作鳥は、すぐれた腕前で、戸を壊さずに像を堂の中へ入れました。
翌月、天皇は鳥をほめて、「これはみな、お前の手柄だ」と言った、と書紀は書きます。鳥には位と、田が与えられました。
同じ年の旧暦七月、皇太子は、天皇にたのまれて、勝鬘経という経を講じました。三日で説き終えた。この年には、法華経も講じています。
天皇はたいへん喜んで、播磨の国の田を百町、皇太子に与えた。皇太子は、それをそのまま斑鳩寺に納めました。
607年、旧暦七月。小野妹子が、隋へ遣わされます。
隋の記録によれば、このとき倭の使いは言いました。海の西の菩薩のような天子が、仏の教えをふたたび盛んにしていると聞いた。だから、あいさつに来た。仏の教えを学ぶ僧も、数十人連れてきた、と。
差し出された手紙には、こう書いてありました。
「日の出るところの天子が、手紙を、日の沈むところの天子に届ける。お変わりはないか」
隋の皇帝、煬帝は、これを読んで不機嫌になり、外国の客を受け持つ役所の長に言いました。
「蛮族の手紙に、無礼なものがある。二度と私に聞かせるな」
この手紙を書いたのがだれなのかは、分かっていません。皇太子だと考える学者もいます。
翌608年の旧暦四月、妹子は、隋の使いたちを連れて帰ってきました。ところが、使いの一行が難波に着いたあと、妹子はこう申し出たと伝えられます。
「私が帰るとき、唐の皇帝は、私に手紙を授けました。ところが、百済の国を通った日に、百済の人に探し出されて、奪われました。それで、差し上げることができません」
書紀は、隋のことを「唐」と書いています。
役人たちは話し合って、言いました。
「使いというものは、死んでも使命を失わないものだ。それなのに、どうして怠けて、大国の手紙をなくしたのか」
妹子は、流罪と決まりました。
そのとき、推古天皇が言いました。
「妹子には、手紙をなくした罪がある。けれど、軽々しく罰してはならない。大国の客たちが聞いても、よくは思うまい」
妹子は、許されました。
旧暦八月、隋の使いが都に入ります。手紙が差し出された日、皇子も王族も役人も、みな金の髻華を頭に着け、錦や色とりどりの絹の衣で迎えました。
翌月、隋の使いが帰るとき、妹子はもう一度、大使に選ばれます。書紀によれば、持たされた天皇の手紙は、こう始まっていました。
「東の天皇が、つつしんで、西の皇帝に申し上げる」
隋の記録にある前の手紙は、「日の出るところの天子」で始まっていました。
妹子は、もう一度、海を渡っていきました。
名を言わない人
「私のまだらの皮がいやだというなら、白いまだらの牛や馬も、この国では飼えないことになります」
612年。海の向こうの百済から来た男が、そう言い返したと伝えられます。
男の顔と体には、白いまだらがありました。人とちがうのを嫌われ、重い病ではないかと疑われて、海の島に棄てられそうになったのです。
男は、続けたといいます。
「それに、私には少しばかり才があります。山の形を造ることができる。私を留めて使えば、国の役に立ちます。どうして、むなしく海の島に棄てるのですか」
人々はその言葉を聞き入れて、男を棄てませんでした。男は宮の南の庭に、仏の世界の山、須弥山の形と、呉の国ふうの橋を造った。人々は彼を、路子工と呼んだそうです。
言い返した男は、助かりました。
翌613年の旧暦十一月、書紀は、いくつもの池を造ったことと、難波から都まで大きな道を通したことを記しています。
その翌月、旧暦十二月一日。皇太子は、片岡に出かけました。
道ばたに、飢えた人が倒れていた。名前を聞いても、答えません。
皇太子はその人を見て、飲み物と食べ物を与えた。それから、自分の着ていた衣を脱いで、その人に掛け、こう言ったと伝えられます。
「安らかに、寝ていなさい」
そして、こう歌ったと伝えられます。
「しなてる片岡山に、食べ物に飢えて倒れている、その旅人、あわれ。親もなしに、おまえは生まれ育ったのか。おまえには、仕える主君もいないのか。食べ物に飢えて倒れている、その旅人、あわれ」
名前を答えなかった人に、親はいないのか、主君はいないのか、と歌で問いかけているのです。
次の日、皇太子は使いをやって、その人の様子を見に行かせました。使いが戻ってきたとき、飢えた人は、もう死んでいた。
皇太子は、ひどく悲しみました。その場所に葬らせ、墓をかたく封じさせた。
ここから先は、『日本書紀』が伝える、ふしぎな話になります。
数日のち、皇太子は、そばに仕える者を呼んで言いました。
「先日、道に倒れていた飢えた人は、ただの人ではない。きっと、真人だ」
真人とは、道をきわめた人のことです。
使いが墓へ行ってみると、墓は封じたまま、動かされてはいなかった。ところが開けてみると、なきがらは消えていました。棺の上には、衣だけが、たたんで置いてあったといいます。
皇太子はもう一度使いをやって、その衣を取ってこさせた。そして、前と同じように、それを着ました。死んだ人に掛けてやった、自分の衣でした。
そのころの人々はたいへん驚いて、「聖人は聖人を知る、というのは本当だ」と言い合ったそうです。
どちらも、ただの凡夫なのだ。そう書いたとされる人が、名前も知らない飢えた人のことを、ただの人ではない、と言いました。
(あの人は、死んでしまったのではない。どこかへ、行ったのだ)
救えなかった人を、ただの人のままにしておけなかったのかもしれません。
615年、旧暦十一月十五日。高麗の僧、恵慈が、国へ帰っていきました。
二十年前に海を渡ってきて、皇太子の師となった、あの恵慈です。
古い記録『上宮聖徳法王帝説』によれば、恵慈は、皇太子が作ったとされる経の注釈の書を携えて、帰っていったといいます。
数年ののち、海の向こうの恵慈のもとに、一つの知らせが届くことになります。
世の中は、仮のもの
620年。皇太子と島大臣は、いっしょに相談して、天皇たちの記録と、国の記録を書き記しました。
島大臣とは、蘇我馬子のことです。
おじを殺させた男の軍で、十四歳の少年が木の像を髪にのせてから、三十三年。二人は並んで、この国の歴史を書いていた。
同じ年の旧暦十二月、空に、雉の尾のような形をした赤い気が現れた、と『日本書紀』は書いています。長さは一丈あまり、三メートルほどでした。
翌621年、旧暦十二月二十一日。皇太子の母、穴穂部間人皇女が亡くなりました。
年が明けた旧暦一月二十二日。今度は、皇太子が病の床につきます。
皇太子の病が続くなか、膳の家から来た妃も、疲れから病に倒れ、二人はともに床につきました。法隆寺の釈迦の像の光背に刻まれた銘が、そう伝えています。
妃と王子たち、そして家臣たちは、深く憂えて、いっしょに願をかけました。皇太子の身の丈と同じ大きさの、釈迦の像を造ります。この願いの力で、どうか病が治り、命がのびて、この世に安らかにいられますように。もし、それが定められた命なら、浄土へ。
『上宮聖徳法王帝説』には、こんな話も残っています。
臨終が近づいたとき、膳夫人は、水を乞うた。けれど、皇太子は許さなかった。夫人は、そのまま亡くなった。皇太子は、夫人をしのぶ歌を詠んだ、と。歌は「いかるがの」と始まります。
なぜ許さなかったのか。それは、分かっていません。
道ばたの見知らぬ人には、飲み物と食べ物を与えた人でした。
旧暦二月二十一日、妃が亡くなりました。その翌日の夜半、皇太子も亡くなった、と銘と帝説は書いています。数えで四十九歳でした。
書紀は、亡くなった日を、その一年前の二月五日の夜半としています。十人と八人のように、ここでも本によって、日付がちがうのです。
書紀は、そのときの人々の様子を書き残しています。年寄りは、かわいい子を亡くしたように、塩や酢の味も分からなくなった。幼い子どもたちは、やさしい父母を亡くしたように泣き、その声が道にあふれた。田を耕す者は鋤を止め、米をつく女は杵を止めた。
みな、こう言ったといいます。
「日も月も、光を失った。天も地も、崩れてしまった。これから先、だれを頼りにすればいいのか」
知らせは、海の向こうの高麗にいる恵慈にも届きました。
恵慈は、皇太子のために僧を招いて供養の食事を用意し、自ら経を説いた。その日、こう誓ったと伝えられます。
「日本の国に、聖人がいる。上宮豊聡耳皇子という。まことに天が許し与えた人で、奥深い聖の徳をもって、日本の国に生まれた。(…)仏の教えを敬い、民の苦しみを救った。これは、まことに大聖である。いま、太子は亡くなられた。私は異国の者だが、心は、金をも断つほど固く結ばれている。ひとり生き残って、何になろう。私は来年の二月五日に、必ず死ぬ。そして浄土で上宮太子に会い、ともに人々を救おう」
恵慈は、告げたとおり、翌年の二月五日に亡くなりました。帝説では、恵慈が告げた日は二月二十二日。皇太子が亡くなったのと、同じ日です。
人々は、上宮太子だけでなく、恵慈もまた聖人だ、と言い合ったそうです。
623年、旧暦三月。願をかけた釈迦の像が、できあがりました。銘には、仏を造った人の名が「止利」と刻まれています。戸を壊さずに大きな仏を堂へ入れた、あの鞍作鳥と同じ、「とり」という名です。
病が治りますように、という願いは、かなわなかった。像だけが、願いのとおりにできあがりました。
父のときも、同じでした。病の父が治るようにと誓った薬師の像は、父の死に間に合わず、のちに推古天皇と皇太子が造り上げた、と法隆寺の薬師の像の銘は伝えています。
皇太子には、ほかにも妃がいました。その一人が、橘大女郎です。
彼女は、推古天皇の前に進み出て、こう申し上げたと、刺しゅうの帳の銘は伝えています。
「申し上げるのは恐れ多いのですが、心が止まりません。私の大王と、母の王とが、約束していたかのように、続いて旅立ってしまわれた。痛ましさは、ほかに比べようもありません」
「私の大王は、こうおっしゃっていました。世の中は、仮のもの。ただ仏だけが、まことである、と。その教えを味わうと、大王は、天寿国に生まれておられるはずです」
「けれど、その国のありさまは、目で見ることができません。せめて絵にして、大王が生まれたありさまを見たいのです」
推古天皇は悲しんで、それを聞き入れました。三人の絵師に下絵を描かせ、采女たちに命じて、刺しゅうの帳を二張り、作らせた。
十四歳のとき、少年は白膠木を切り、急いで四天王の像を作った。勝たせてください、と髪の上にのせて。
それから三十五年。残された人たちは、彼の身の丈の仏を造り、彼が行った国を、糸で縫った。
人々は、彼を聖人と呼んだ。恵慈は、大聖と呼んだ。
橘大女郎は、ただ「私の大王」と呼んでいます。