坂本龍馬 — 死ねない、と書いた人

姉への手紙では、いつも威張って、いつも笑わせた。幕末の浪人の、短くて騒がしい一生

エヘン、エヘン

「さてもさても、人間の一生は、がてんのいかないのが、もとよりのこと。運の悪い者は、風呂ふろから出ようとして、きんたまをつめ割って死ぬこともある」

手紙は、こう続きます。

「それにくらべて私などは、運が強く、どれほど死ぬような場所へ出ても死ねず、自分で死のうと思っても、また生きなければならないことになり」

そして、いちばん書きたかったことが来る。

「今では、日本第一の人物、勝麟太郎かつりんたろう殿どのという人の弟子になり」

だから、四十歳さいになるころまでは、家には帰らないつもりだ。兄さんに相談したら、このごろは大いに機嫌きげんがよくなって、許しが出た。国のため、天下のために、力を尽つくしている。どうか喜んでください。手紙は、そう結ばれています。

その下に、一行だけ、書き足しがありました。

「お付き合いの人にも、ごく心安い人には、こっそりお見せください」

自慢じまんの手紙を、こっそり、見せてほしい。

書いたのは、坂本龍馬さかもとりょうま、二十七歳。受け取ったのは、土佐とさ(今の高知県こうちけん)の家にいる、姉の乙女おとめです。

龍馬りょうまは、その一年ほど前に、藩はんを抜ぬけ出していました。

話は、少し前に戻もどります。

龍馬は、高知こうちの城下の郷士の家に、次男として生まれました。

子どものころの話は、のちの伝記にいくつか残っています。十歳を過ぎても寝小便ねしょうべんが治らず、近所の人に「洟垂はなたれ」と呼ばれた。塾じゅくに通っても学問が進まず、からかわれては泣いて帰った。ただ、そう書いた伝記の著者自身が、本当かどうかは確かめようがない、と断っています。

のちに龍馬は、人にこう話したとも伝えられます。

「僕ぼくは幼いころに学問をやめて、今になって、それを悔くやんでいる」

1862年。二十六歳の龍馬は、武市半平太たけちはんぺいたの同志でした。土佐の侍さむらいたちを率いて、国のために動こうとしていた人です。よその国の様子を見てきた龍馬は、高知に帰ると武市に報告し、藩はどう動くのかと尋たずねた。武市は大きくため息をついて、答えたといいます。

「今なお、尽力じんりょく中だ」

龍馬は、ひどく失望したそうです。

それから一か月とたたないうちに、龍馬は藩を抜け出します。脱藩だっぱんです。藩は、殿様とのさまが治める一つの国のようなもの。その外へ許しなく出ていけば、罪になりました。

その年の旧暦きゅうれき10月、龍馬は江戸えどで、ある男の家を訪ねます。幕府の役人、勝麟太郎。のちの勝海舟かつかいしゅうです。

勝は、外国と付き合って国を開くべきだと、しきりに説いていた。評判どおりの悪人なのか。会って議論を確かめ、場合によっては、その場で斬きる。龍馬はそう考えて、仲間の千葉重太郎ちばじゅうたろうを連れていった、と伝えられています。

勝は、すぐにそれと悟さとったといいます。

「お二人のおいでが、私を刺さすためなら……いや、お隠かくしになっても、殺気が眉まゆのあたりに出ています。お相手をするのを断りはしません。まず、私の胸いっぱいの議論を聞いてください。そのあとで、立ち合いましょう」

勝は、ヨーロッパの軍隊の移り変わりから話しはじめ、海軍の力には大名の力ではとても太刀打ちできないことを、とうとうと説いた。龍馬は酔よったように感じ入り、今から先生の指導を受けて日本の海軍を起こす、と誓ちかったと伝えられます。

斬りに行った相手の、弟子になってしまったのです。

勝は、龍馬の罪を許してもらう段取りまでつけました。

翌1863年、勝は伊豆いずの下田しもだの港で、土佐の前の殿様、山内容堂やまうちようどうに偶然ぐうぜん出会います。勝は容堂に、こう話したと伝えられます。

「私の門人に、坂本龍馬という者がおります。……近ごろは航海術にたいへん熱心で、西洋の事情もほぼ飲み込こんでおり、面白い奴やつでございます。国を抜けた罪をお許しくだされば、ひとかどのお役に立ちましょう」

容堂は大いに興に乗って、許そうと言った。けれど、酔ったうえでのお言葉は、お忘れになるかもしれない。勝が証拠しょうこに一筆を求めると、容堂は紙に瓢箪ひょうたんの形を描えがき、その中に詩の句を書き入れたといいます。

その年の4月、龍馬の脱藩の罪は許されました。冒頭ぼうとうの手紙は、それからひと月たらずのちに書かれたものです。

さらに二か月ほどして、龍馬はまた姉に書いた。勝という大先生の門人になり、

「ことのほか、かわいがられまして、まず、客分のようなものになりました」

客分とは、身内ではなく、お客として大事にされる立場のことです。

兵庫ひょうごに、海軍を教える大きな所をこしらえる。四、五百人も、あちこちから弟子が集まる。自分もそこで学び、船の稽古けいこもする。そう書き並べて、こう結んでいます。

「少しエヘンという顔をして、ひそかにおります」

「なお、エヘン、エヘン」

追伸ついしんは、今度はこうでした。このことは、親しい間柄の人にも、少しも言わないでほしい。見込みの違ちがう人もいるから、姉さんひとりで聞いておいてください。

見せてほしいのか、見せないでほしいのか。

その次の手紙には、頭に断り書きがついています。この手紙は大事なことばかりだから、べちゃべちゃしゃべる人には、決して見せてはいけない。

中身は、たしかに大きな話でした。外国と通じている悪い役人たちを、同志と力を合わせて討ち、

「日本を今一度せんたくいたし申候もうしそうろう」

日本を、もう一度、洗濯せんたくする。

同じ手紙で、龍馬はすぐに、自分を小さくしてみせます。

「こう申しても、けっして、けっして、つけあがりはしません」

「泥どろの中のすずめ貝のように、いつも土を鼻の先につけ、砂を頭にかぶっております」

そして、こうも書いた。私が長く生きるものと思うのは、むだなことだ。けれど人並みに、むやみに死にはしない。自分が死ぬ日は、天下の大変の日だ。

死ぬような場所へ、龍馬はこのあと、何度も出ていくことになります。

風呂あがりの夜

1864年、龍馬りょうまは、薩摩さつまの西郷吉之助さいごうきちのすけに初めて会いました。のちの西郷隆盛さいごうたかもりです。先生がたびたびほめる人だから、自分も会ってくる。紹介しょうかいの手紙を書いてほしい。龍馬にそう頼たのまれて、すぐに書いてやったと、勝かつはのちに語っています。

会って戻ってきた龍馬は、勝にこう言ったそうです。

「なるほど、西郷さいごうというやつは、分からないやつだ。少し叩たたけば少し響ひびき、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」

龍馬も、なかなか人を見る目のあるやつだよ、と勝は付け加えています。

その年の旧暦きゅうれき11月、勝は幕府に江戸えどへ呼び戻もどされ、神戸こうべの海軍の学校は閉じられました。行き場をなくした龍馬たちを、勝は薩摩の小松帯刀こまつたてわきに預けていきます。

それからの龍馬は、薩摩と長州ちょうしゅうのあいだを行き来しました。仲の悪かった二つの藩はんを、和解させようとしていたのです。

下関しものせきにいたときのことです。久しく会っていなかった仲間が、別の用事で、ひょっこり龍馬の宿に来た。同じ土佐とさから藩を抜ぬけてきた、池内蔵太いけくらたです。

二人は手を打って、天の引き合わせだ、奇妙きみょうだ奇妙だ、と笑い合った。龍馬は、池の家族への手紙に、そう書いています。

池は、自慢じまんをした。八、九度も戦場に出たが、傷ひとつ負っていない。敵まで三、四十間(六十メートルほど)に迫せまり、弾たまが飛んでくると、たいていの者は地面に伏ふせる。けれど、これほど近ければ、伏せても弾のほうが速い。むだなことだと言って、自分は立ったまま指図をするのだ、と。

龍馬は、同じ手紙にこうも書いた。

「蔵は、ふだんは、やかましく、憎にくまれ口ばかり言って憎まれていますが、戦になると、人がよくなったようで、皆みながかわいがるそうで、大笑いいたしました」

そして二人は、約束をしました。

「これからは、もう、つまらない戦は起こすまい、つまらないことで死ぬまいと、たがいに固く約束いたしました」

同じ日付で、龍馬は姉にも長い手紙を書いています。一人の女の人のことでした。

京都の医者の家の娘むすめ。父が亡くなり、残された家族は家の物を売りながら暮らしていた。妹が悪者にだまされて大坂おおさかへ売られると、その娘は自分の着物を売ってお金を作り、刃物はものを懐ふところに大坂へ乗り込こんだ。悪者二人に掛かけ合い、胸ぐらをつかんで殴なぐりつけ、妹を返さないならこれまでだと迫って、取り戻してきた。

「この女は、まことにおもしろい女で、月琴げっきんを弾きます」

「名は龍りょうと申し、私に似ております」

のちに龍馬の妻になる、お龍です。

年が明けた1866年。京都で、長州の木戸孝允きどたかよしと、薩摩の西郷たちが、手を結ぶ約束を交わします。話がなかなか進まずにいた夜、龍馬が西郷に強く迫った、と伝えられています。

その四日後の夜のことでした。

場所は、京都の南、伏見ふしみの船宿、寺田屋てらだや。夜中の三時ごろです。龍馬は、連れの三吉慎蔵みよししんぞうと話しながら、風呂ふろから上がったところでした。もう寝ねようとしていた。二人がいたのは、二階です。

階下を、忍しのび足で歩く音がする。六尺(一・八メートルほど)の棒の、からからと鳴る音も聞こえた。

そこへ、台所のほうから、お龍が駆かけてきた。のちに龍馬が兄たちへの手紙に書いたところでは、お龍はこう告げました。

「ご用心なさいませ。思いがけず、敵が襲おそってきました。槍やりを持った人数が、はしごの段を登ってきました」

はかまは、次の間に置いてあって、着る間もない。龍馬は刀を差し、六連発のピストルを取った。長州の高杉晋作たかすぎしんさくから贈おくられたものです。三吉みよしは、はかまをつけ、槍を構えました。

お龍にふすまを外させてみると、もう十人ばかりが、槍を持って並んでいた。

にらみ合いのなかで、龍馬のほうから言った。

「どうして、薩摩の侍さむらいに、無礼をするのか」

龍馬は、薩摩の侍ではありません。相手は口々に「上意だ」とののしって、押おし寄せてきた。上意とは、上からの、つまり幕府の命令だ、という意味です。

龍馬は撃うった。一人が退く。次の一人も退いた。

障子の陰かげから、別の一人が脇差わきざしで斬きりつけてきた。右の親指の付け根をそがれ、左の親指の節を割られ、左の人差し指の骨の節を切られた。

弾を込め直そうとしたが、切られた指が思うように動かない。弾を入れる筒つつ(弾倉だんそう)を、取り落としてしまった。探しても、引き乱された布団と、敵の投げ込んだ火鉢ひばちの灰に紛まぎれて、見つからない。

龍馬は銃じゅうを捨てた。三吉にそう告げると、三吉は言った。

「それなら、なおさら、敵の中に斬り込んで戦おう」

龍馬は答えた。

「このあいだに、引き取りましょう」

三吉も槍を投げ捨て、二人は裏のはしごを降りた。裏の家の雨戸を打ち破って中へ入ると、家の人は寝ぼけて逃にげたらしく、夜具が敷しいたままになっていた。気の毒ながら、と龍馬は書いています。建具を外しても、丈夫じょうぶな家で、なかなか破れない。二人で刀で切り破り、足で踏ふみ破って、ようやく後ろの町へ出た。

五町(五百メートルあまり)ほど走った。病み上がりで、息が切れる。風呂上がりのままの着物が、足にもつれる。男は、すねより下まで垂れる着物を着るものではない。このとき、そう思ったと、手紙にわざわざ書き添そえてあります。

横町に入り、水門から這はいこんで、材木の上に上がって横になった。

「折あしく、犬が吠ほえて、実に困り入りました」

三吉が薩摩の屋敷やしきへ走り、屋敷の人たちと迎むかえに来た。お龍も、その夜のうちに、屋敷へ急を知らせていました。

傷は浅かったが、動脈にかかっていたらしい。次の日も血が止まらず、三日ほどは、便所に立つたびに目がまわった。

知らせを聞いた西郷は、自分でピストルに弾を込めて飛び出そうとし、周りに押しとどめられた。かわりに、吉井幸助よしいこうすけが馬に乗り、六十人ほどの侍を連れて迎えに来た。

幕府のあわて者に出会ったのは、思いがけない幸いだった。小松や西郷はそう言い合って、大笑いしたと、龍馬は書いています。

指は、少し不自由になった。それでも、これは「一生の晴れ」だ、と龍馬は兄たちへの手紙に書いた。

姉への手紙には、こうあります。

「この龍女りょうじょがいたからこそ、龍馬の命は助かった」

傷を治すため、龍馬はお龍を連れて、薩摩へ向かいます。1866年4月、大坂を出た薩摩の船には、西郷や小松、三吉と並んで、つまらないことで死ぬまいと約束した、あの池内蔵太も乗っていました。

池は、途中とちゅうの長崎ながさきで、船を降りていきました。