劉備 — 逃げてばかりの皇帝

負けては逃げ、妻子まで置いて逃げた。三国志の皇帝の、みっともなくて目が離せない一生

むしろ売りの大口

「お前の父は、徳が薄うすい。まねをしてはいけない」

重い病にかかった父が十七歳さいの息子にあてて書き残した言葉です。

自分を手本にするな、と息子に書く父親はそう多くはありません。

書いたのは、劉備りゅうび。中国が三つの国に分かれて争った時代に蜀しょくの国を開き、皇帝にまでなった人です。

その人がなぜこう書いたのでしょうか。話は五十年ほど前にさかのぼります。

北の涿郡たくぐんで、劉備は幼いころに父を亡くしました。母と二人、くつを売り、むしろを織って暮らしました。劉備の死から何十年かのちに陳寿ちんじゅという人がまとめた歴史書『三国志』にそう書かれています。

家の東南のすみ、垣根かきねの上に桑くわの木が高く伸のびていました。遠くから見ると、こんもりと丸く、小さな車の覆おおいのようでした。

通りかかる人はみなただの木ではないと不思議がりました。この家から身分の高い人が出る、と言う者もいました。

のちの『漢晋春秋かんしんしゅんじゅう』という本によれば、少年の劉備は親類の子どもたちとその木の下で遊んでいて、こう言ったといいます。

「おれは、きっと、この羽葆蓋うほうがいの車に乗る」

羽葆蓋は鳥の羽で飾かざった車の覆い。皇帝の車のしるしです。

叔父おじの子敬しけいが叱しかりました。

「でたらめを言うな。うちの一族を滅ほろぼすことになるぞ」

十五歳になると、母は劉備を学問に出しました。先生は同じ郡の出で、もと九江きゅうこう郡の長官だった盧植ろしょくです。

学費を出したのは、一族の劉元起りゅうげんきでした。自分の息子と同じだけをいつも出してくれました。

元起の妻は不満でした。『三国志』に夫婦のやりとりが残っています。

「別々の家なのに、どうしていつまでも、こうなんですか」

「うちの一族に、この子がいるのだ。並の人間ではない」

ところが、当の劉備は本を読むのがあまり好きではありませんでした。好きなのは、犬と馬と音楽、それにきれいな服でした。

背が高く、手を下げるとひざより下まで届きました。振ふり返ると、自分の耳が見えたとも書かれています。

口数は少なく、人にはへりくだりました。喜びも怒いかりも顔に出しませんでした。

それでいて、腕うで自慢の男たちと付き合うのが好きで、若者たちが争うようについてきました。馬を売り歩く大商人たちもこの若者をただ者ではないと見て、たっぷりと金を与あたえました。その金で劉備は仲間を集めました。

仲間の中にふるさとを逃にげ出して涿郡に来ていた関羽かんうと、地元の張飛ちょうひがいました。二人は劉備の身を守る役でした。

のちの物語では三人は桃ももの園で兄弟の誓ちかいを立てたことになっています。けれど『三国志』にその場面はありません。

書かれているのは、三人が同じ寝台しんだいで眠ねむり、兄弟のように親しかったこと。そして大勢の集まる席では二人が一日じゅう劉備のそばに立っていたことです。

184年、黄巾こうきんと呼ばれる大きな反乱が起きました。劉備は仲間を率いて討伐とうばつに加わり、手柄てがらを立てて安喜あんきという県の尉いになります。県の警察の役人です。

安喜の尉になる前の話として、別の記録『典略てんりゃく』はこんなことも伝えています。野で賊ぞくと出くわし、傷を負った劉備は死んだふりをしました。賊が去ったあと昔なじみが車に乗せて運び出してくれて、助かったというのです。

ある日、郡から督郵とくゆうがやって来ました。県の役人を見回る監察かんさつの役人です。

劉備は会いたいと申し入れました。取り次いでもらえませんでした。

すると、そのまま中へ踏ふみ込み、督郵を縛しばりあげて杖つえで二百回打ちました。

それから、役人のしるしである綬じゅ――印をさげる組みひも――をほどいて督郵の首にかけ、馬をつなぐ杭くいにくくりつけました。

喜びも怒りも顔に出さない、と書かれた人のしたことです。

『典略』はこのときのわけも書いています。手柄で役人になった者を減らせ、という命令が出ていて、劉備は自分も外されると思っていました。督郵は病気だと言って会ってくれません。劉備はそれを恨うらみ、太守の密命を受けた、と言って督郵を捕とらえ、木に縛りつけて百回あまり打ち、殺ころそうとしたのです。督郵が命乞いをしたので、放してやったそうです。

劉備は役人の身分を捨てて、逃げました。

箸はしを落とした日

「劉備りゅうびでなければ、この州を安らかに治めることはできない」

役人の身分を捨てて逃にげてから、何年かのち。重い病にかかった徐州じょしゅうの長官がそう言い残した、と『三国志』は書いています。

役人を捨てて逃げた男が大きな州をまるごと譲ゆずられようとしていたのです。

劉備は引き受けようとしませんでした。そして、こう言っています。

「袁術えんじゅつが、すぐ近くにいる。四代で五人も大臣を出した家の人だ。州は、あの人に譲ったらいい」

まわりは口々に反対しました。北海の長官、孔融こうゆうは言いました。

「袁術など、墓の中の枯かれた骨です。気にすることはありません。天が与あたえるものを取らなければ、あとで悔くやんでも取り返せませんよ」

劉備はようやく徐州を引き受けました。

けれど、その州は長くはもちませんでした。

196年。その袁術とひと月ほどにらみ合っているあいだに、呂布りょふという武将が留守の城、下邳かひを乗っ取りました。劉備の妻と子は呂布に捕とらえられました。

軍はすっかり苦しくなっていました。そこへ手を差しのべたのが、麋竺びじくという男でした。

麋竺は自分の妹を劉備の妻に差し出し、使用人二千人と金銀を出して軍を助けました。苦しかった劉備の軍はこれで持ち直した、と『三国志』は書いています。

それでも、まだ足りませんでした。のちの記録『英雄記えいゆうき』によれば、広陵こうりょうで劉備の軍は飢うえ、役人も兵も、上から下までたがいに食い合うところまで追いつめられたといいます。

劉備は使いを出して呂布に降参を申し入れました。自分の城と妻子を奪うばった、その相手にです。

呂布は劉備の妻と子を送り返してきた、と同じ本は伝えています。

二年ほどして、劉備はまた呂布に攻せめられ、今度は曹操そうそうのもとへ逃げこみました。妻と子はまた呂布に捕らえられました。

曹操は劉備を手厚くもてなしました。一緒いっしょに呂布を攻め落とし、劉備は妻子を取り戻もどします。都の許きょ(のちの許昌きょしょう)に戻ると、曹操は出かけるときは劉備を同じ車に乗せ、座るときは同じ席に座らせました。

そのころ、都ではひそかな計画が動いていました。

皇帝の親族の一人が、皇帝の衣の帯の中に隠かくされた密詔みっしょう――皇帝のひそかな命令書――を受け取ったと言い、曹操を討とうとしていたのです。劉備もその相談に加わっていました。まだ何もしてはいませんでしたが。

そんなある日。曹操が、なにげない調子で劉備に言いました。

「いま、天下の英雄といえば、君と私だけだ。袁紹えんしょうあたりは、数のうちに入らない」

劉備はちょうど食事をしていました。匙さじと箸を取り落としました。

曹操を討つ相談に加わっていた男が、その曹操から天下に二人だけの英雄だと言われたのです。

『三国志』に書かれているのは、ここまでです。のちの『華陽国志かようこくし』という本は、このときちょうど雷かみなりが鳴ったと伝えています。劉備は曹操にこう言ったというのです。

「聖人は、激しい雷や強い風には必ず顔色を変える、と言いました。もっともなことです。一つの雷の力が、ここまでとは」

さらにのちの物語はこの場面に青い梅と酒を添そえて、名場面に仕立てました。

まもなく劉備は袁術を迎むかえ撃うつ役目をもらって、許を出ます。そして徐州で長官を殺ころし、曹操にそむきました。

都の計画は建安五年(200年)の正月にもれました。計画の仲間たちは一族ごと殺されました。劉備は、もう都にいませんでした。

同じ年、曹操は自分で軍を率いて劉備を攻めに来ます。

のちの記録『魏書ぎしょ』によれば、劉備ははじめ信じなかったといいます。曹操は北で袁紹とにらみ合っている。こちらへ来られるはずがない。

見張りの騎き兵が駆かけこんできて、曹操が自分で来たと告げても、まだ信じません。数十騎だけを連れて自分の目で確かめに出ました。

曹操の軍の旗が見えました。

劉備はそのまま、兵を置いて逃げたそうです。

曹操は残された兵をすべて手に入れ、劉備の妻と子を捕らえました。

関羽かんうも生け捕りにされて、連れていかれました。

太ももの肉

曹操そうそうは捕とらえた関羽かんうを将軍に取り立てて、手厚くもてなしました。

関羽は曹操の軍で袁紹えんしょうの大将顔良がんりょうを斬きる手柄てがらを立てます。

けれど曹操は関羽の心が、ここに長くとどまる気のないことを見抜いていました。部下の張遼ちょうりょうに気持ちを聞かせると、関羽はため息をついて答えた、と『三国志』にあります。

「曹公が私を手厚くしてくださるのは、よく分かっています。けれど私は、劉将軍から深い恩を受け、ともに死のうと誓ちかいました。背くことはできません。ここには残りません。手柄を立てて曹公に報いたら、去ります」

顔良を斬ったあと、曹操は関羽が去ると知って、さらに褒美ほうびを重ねました。関羽はもらった品をすべて封ふうをして残し、別れの手紙を差し出して袁紹の軍にいる劉備りゅうびのもとへ去りました。

追おうとする部下に曹操は言いました。

「あれは、それぞれ自分の主のためにしていることだ。追うな」

兵も妻子も奪うばわれた男のところへ、関羽は戻もどってきたのです。

やがて曹操は袁紹を破り、南へ向かってきます。劉備は南の荊州けいしゅうを治める劉表りゅうひょうを頼たよりました。

劉表は自分で町の外まで出迎むかえ、いちばん上の客としてもてなし、兵を足して、新野しんやという町に置きました。けれど、荊州の腕うでの立つ者たちが日ごとに劉備のもとへ集まってきます。劉表は劉備の心を疑い、ひそかに用心するようになりました。

よその土地の、客の身です。荊州で数年が過ぎました。

ある日のことが『九州春秋きゅうしゅうしゅんじゅう』という本に伝えられています。劉表の席で劉備は厠かわやに立ちました。そこで、自分の太ももの内側に肉がついているのに気づきました。

劉備は涙なみだを流したといいます。

席に戻ると、劉表が不思議がってわけを尋たずねました。劉備は答えました。

「私は、いつも馬の鞍くらから離はなれることがなく、太ももの肉は落ちていました。いまは馬に乗らないので、肉がついてしまった。月日は駆かけるように過ぎ、老いがやって来るのに、何ひとつ成しとげていない。それが悲しいのです」

四十代。人の客になったまま、太ももに肉がついていきます。

そのころ徐庶じょしょという男が劉備に一人の人物を勧すすめました。

「諸葛孔明しょかつこうめいは、臥龍がりょうです。会ってみたいとは思われませんか」

臥龍は、まだ地に伏せている龍。世に出ていない大人物のことです。劉備は連れてきてくれ、と言いました。徐庶は答えました。

「この人は、こちらから会いに行くことはできても、呼びつけることはできません。将軍のほうから、出かけていくべきです」

劉備は出かけていきました。三度行ってようやく会えた、と『三国志』は書いています。

のちの物語では三度目に訪ねたとき孔明こうめいは昼寝をしていて、劉備は目が覚めるまで階段の下に立って待ったことになっています。けれど『三国志』にあるのは、三度行って会えた、という一行だけです。

二十年ほどのち、孔明自身がこのときのことを書いています。

「先帝は、私を身分の低い者とも思わず、自分から身を屈かがめて、三度も草ぶきの庵いおりに私を訪ね、いまの世のことを尋ねてくださった」

先帝とは、劉備のこと。孔明、名は諸葛亮しょかつりょう。そのころは自分で畑を耕して暮らす、役についたこともない人でした。

劉備はこの人と日ごとに親しくなっていきます。関羽と張飛ちょうひはおもしろくない。劉備は二人をなだめて言いました。

「私に孔明がいるのは、魚に水があるようなものだ。どうか、もう何も言わないでくれ」

二人はそれきり言わなくなりました。

建安十三年(208年)。劉表が亡くなり、跡あとを継ついだ息子の劉琮りゅうそうは曹操に降参しました。劉備は何も知りませんでした。曹操の軍がすぐ近くまで来てから、ようやく気づいたのです。

孔明は劉琮を攻せめれば荊州が手に入る、と勧めました。劉備は言いました。

「私には、できない」

南へ逃にげる劉備に、荊州の人々が次々についてきました。当陽とうように着くころには、十万人あまり。荷車は数千台。一日に十里(四キロほど)あまりしか進めませんでした。

早く江陵こうりょうへ行って城を守るべきです、と言う者がいました。人数は多くても、鎧よろいを着た兵は少ない。曹操の兵が来たら、どう防ぐのか。

劉備は答えました。

「大きなことを成しとげるには、人を根本にしなければならない。いま、人々が私を頼ってきている。どうして、見捨てて行けようか」

曹操の騎き兵五千が一日一晩で三百里(百二十キロあまり)を駆けて、追ってきていました。

置いていった子

曹操そうそうは南の江陵こうりょうにたくわえられた武器や食糧しょくりょうを、劉備りゅうびに取られることを恐おそれていました。重い荷物を捨て、軽い装備で急ぎ、劉備が通り過ぎたと聞くと、えりぬきの騎き兵五千で追いました。

当陽とうようの長坂ちょうはんでその騎兵が追いつきました。

『三国志』の書き方は短いのです。

劉備は妻と子を捨て、諸葛亮しょかつりょう・張飛ちょうひ・趙雲ちょううんら数十騎とともに逃にげました。

見捨てて行けようか、と言ったばかりの人です。

ついてきた人々と荷物はごっそり曹操の手に落ちました。

これまで二度、捕とらえられた妻子を取り戻もどしてきた人でもありました。

しんがり――逃げる軍のいちばん後ろで、追っ手を防ぐ役――を任されたのは、張飛でした。率いるのは、わずか二十騎。

張飛は川を盾にとって橋を落とし、目をむき、矛ほこを横にかまえて叫さけびました。

「おれが張益徳えきとくだ。来い。死ぬまで戦おうじゃないか」

敵は誰だれも近づこうとしませんでした。おかげで劉備は逃げのびることができました。

逃げる途と中、趙雲が北へ去った、と告げる者がいました。北は曹操の軍のいるほうです。のちの『趙雲別伝ちょううんべつでん』によれば、劉備は手にしていた手戟しゅげき――投げることもできる短い鉾ほこ――をその者に投げつけたといいます。

「子龍しりゅうは、私を捨てて逃げたりしない」

子龍は趙雲の字あざなです。妻と子を捨てて逃げてきた男がそう言ったのです。

しばらくして趙雲がやって来た、と同じ本は書いています。

『三国志』の本文にはこうあります。趙雲は幼い子を自分の身に抱だき、その母の甘夫人かんふじんを守って二人とも助けました。

その子は名を禅ぜんといいました。前の年に生まれたばかりの赤ん坊。のちに父の跡あとを継つぐ子です。

この戦いのあと、劉備のもとを去った人もいました。徐庶じょしょです。

曹操の軍に母を捕らえられたのです。徐庶は劉備に別れを告げ、自分の胸を指して言いました。

「将軍とともに大きな仕事をしようと思ったのは、この胸の中の心があったからです。いま、年老いた母を失い、この胸の中は乱れてしまいました。もう、お役に立てません。ここでお別れします」

徐庶は、曹操のもとへ行きました。

逃げのびた劉備に、当陽で一人の男が会いに来ています。長江ちょうこうの下流をおさえる孫権そんけんの使い、魯粛ろしゅくです。『江表伝こうひょうでん』という本が二人のやりとりを伝えています。

「豫州よしゅうどのは、これからどちらへ行かれるおつもりか」

豫州は劉備が以前に任じられた豫州の長官の位からとった呼び名です。

「蒼梧そうごの長官の呉巨ごきょとは昔なじみなので、そこを頼たよろうと思う」

蒼梧はずっと南の、はずれの郡です。

魯粛は言いました。呉巨はふつうの男で、遠いはずれの郡にいる。いずれ誰かに飲みこまれるだろう。それより、孫権と手を結びなさい。

劉備は大いに喜んだそうです。

妻と子を捨てて逃げた、その当陽でのことでした。

魯粛のすすめで孫権と手を結んだ劉備は、川沿いの樊口はんこうまで進んで孫権の軍を待ちました。

その間のことを、『江表伝』はこう書いています。曹操の軍が川を下ってくると聞いて、劉備は恐れました。毎日、見張りを川べりに出して、孫権の軍が来るのを待ちました。

見張りが周瑜しゅうゆの船を見つけて駆かけ戻ってきました。劉備は聞きました。「どうして、青州せいしゅうや徐州じょしゅうの兵ではないと分かるのか」。曹操の側の兵のことです。見張りは答えました。「船で分かります」

劉備は小舟こぶね一そうで周瑜に会いに行き、尋たずねました。「戦える兵は、何人ですか」。「三万です」。「少ないのが残念だ」。周瑜は言いました。「これで十分です。豫州どのは、私が破るのを見ていてください」

それでも劉備は周瑜が必ず勝つとは思えませんでした。わざと後ろに下がり、関羽かんう・張飛と二千の兵だけで周瑜から離はなれていました。

のちの歴史家孫盛そんせいはこの話は呉ごの手柄てがらを飾かざったものだと疑っています。けれど『江表伝』は、このときの劉備をこう書いています。

勝てば進み、負ければ引く。そのための用意だった、と。

信義の人

その年の冬、劉備りゅうびは孫権そんけんの軍と力を合わせ、赤壁せきへきで曹操そうそうの大軍を破り、その船を焼きました。

荊州けいしゅうの南を手に入れた劉備に、孫権は自分の妹を嫁とつがせます。

この妹がなかなかの人でした。頭の回転が速く、気性は激しく、兄たちに似ていました。そばに仕える百人あまりの侍女じじょはみな自分で刀を持って立っていました。

劉備は妻の部屋に入るたびに、心の中がいつもひやりとしたと『三国志』は書いています。

そのころ、孫権から誘さそいが来ました。一緒いっしょに西の益州えきしゅう――蜀しょくの地――を取らないか。

『三国志』の本文によれば、劉備は家臣の殷観いんかんの策にしたがいました。表向きは賛成しておき、新しく手に入れた郡がまだ落ち着かないので動けない、と答える。孫権は計画をとりやめました。

のちの『献帝春秋けんていしゅんじゅう』はもっと強い話を伝えています。劉備は自分で蜀を取るつもりで、孫権の水軍が通るのを許さず、水軍を率いてきた孫瑜そんゆにこう言ったというのです。

「あなたが蜀を取るというなら、私は髪かみを振ふり乱して山に入る。天下に対して、信義を失うようなことはしない」

世を捨てて山にこもる、という意味です。

211年、その益州の長官、劉璋りゅうしょうから使いが来ました。劉備と同じ劉氏りゅうしの一族です。北の漢中かんちゅうの敵を討ってほしい、という頼たのみでした。

劉備は荊州を諸葛亮しょかつりょうと関羽かんうに任せ、数万の兵を連れて益州へ入りました。涪ふうの町で、劉璋が自分で出迎むかえ、二人は会って大いに喜び合いました。

このとき、軍師の龐統ほうとうが進言しました。この会の席で劉璋を捕とらえてしまえば、戦わずに州が手に入る。

劉備は答えました。「はじめて人の国に入ったばかりで、恩も信用も、まだ行き渡っていない。それはできない」

涪では盛大な宴うたげが開かれました。その席のことが『三国志』に残っています。

酒を楽しみながら、劉備は龐統に言いました。「今日の会は、楽しいと言っていいな」

龐統は答えました。「人の国を討っておいて、それを喜ぶのは、仁のある人の戦いではありません」

劉備は酔よっていました。怒おこって言いました。

「周の武王は、殷いんの紂王ちゅうおうを討ったとき、軍の前で歌い、後ろで舞まわせたという。あれは仁のある人ではないのか。お前の言うことは間違まちがっている。さっさと出ていけ」

昔の聖王が悪い王を討った話です。龐統はためらいながら下がっていきました。

劉備はすぐに悔くやみました。呼び戻もどさせました。

龐統はもとの席に戻りました。謝りもしません。何事もなかったように食べたり飲んだりしています。

劉備が聞きました。「さっきの言い合いは、どっちが間違っていた」

龐統は答えました。「殿とのも私も、どちらもです」

劉備は大笑いし、宴は、もとのように楽しく続きました。

翌年、劉璋とのあいだは決裂します。劉備は劉璋の将を無礼だと責めて斬きり、兵を劉璋に向けました。

劉備が蜀を攻せめはじめたころ、曹操のもとの役人の中にはこう言う者もいたと、のちの『傅子ふし』は伝えています。

「劉備は、うまくいくまい。戦が下手で、戦うたびに負け、逃にげるのに忙いそがしい男だ。どうして人の国が取れるものか」

別の者はこう言ったそうです。「劉備は心が広く、度量がある。人に、命がけで働かせることができる」

雒らくの城を囲んでいたとき、龐統は流れ矢に当たって亡くなりました。三十六歳さいでした。劉備は龐統の話になるたびに、涙なみだを流しました。

建安十九年(214年)の夏、劉璋は降参し、劉備は益州を手に入れます。髪を振り乱して山に入る、と言ったと伝えられてから、数年後のことでした。

劉備には、簡雍かんようという古なじみがいました。劉備の前でも足を投げ出し、ものにもたれて、気ままにふるまう男です。

日照りの年に酒造りが禁じられたことがありました。役人が家々を調べ、酒を造る道具が見つかっただけの者まで同じ罰ばつにしようという話になりました。

劉備と出歩いていた簡雍が道を行く男女を見て言いました。「あの二人は、みだらなことをしようとしています。なぜ縛しばらないのですか」

「どうして分かる」

「そのための道具を持っています。酒を造ろうとしている者と同じです」

劉備は大笑いして、道具を持っていただけの者を許しました。

やがて劉備は、北の漢中で曹操の軍と争います。そのときのことがこう伝えられています。

形勢が悪く、引くべきときに劉備は怒って引こうとしませんでした。誰だれも止められません。矢が雨のように降ってきます。そこへ法正ほうせいが進み出て劉備の前に立ちました。

「孝直こうちょく、矢をよけろ」

孝直は、法正の字あざなです。

「殿が自分で矢と石を浴びておられるのです。私のような者なら、なおさらです」

「孝直、私とお前とで、いっしょに引こう」

逃げてばかりいた男が、このときは引こうとしなかったのです。

漢中の戦いは劉備の勝ちに終わりました。法正の作戦だと聞いた曹操はこう言ったと『三国志』にあります。「やはり玄徳げんとくに、こんな作戦が立てられるはずがない。誰かに教えられたのだ」。玄徳は、劉備の字です。

同じ年の冬、荊州を守っていた関羽が孫権の軍に背後を突つかれました。

関羽は臨沮りんしょという土地で斬られました。

まねをしてはいけない

関羽かんうが敗れたのは、味方の裏切りのためでもありました。関羽とともに荊州けいしゅうを守っていた麋芳びほうが孫権そんけんに降ったのです。麋芳はあの麋竺びじくの弟でした。

麋竺は自分で自分を縛しばって劉備りゅうびの前に出て罰ばつを願いました。劉備は兄弟の罪は互たがいに及およばない、となぐさめ、それまでと同じように手厚く遇ぐうしました。

麋竺は恥はじと憤いきどおりから病にかかり、一年あまりで亡くなりました。

同じころ、法正ほうせいも亡くなります。四十五歳さいでした。劉備は何日も泣き続けました。

221年の夏四月、劉備は成都せいとで皇帝の位につきます。天の神々に告げる文にはこうありました。

「私は徳が薄うすく、皇帝の位を汚けがすのではないかと恐おそれる」

こうした場で使う決まったへりくだりの言葉です。書いたのも、家臣だったのかもしれません。

その年の六月、張飛ちょうひが部下に殺ころされました。

劉備はふだんから張飛をいましめていました。『三国志』によればこう言っていました。

「お前は、罰したり殺したりが度を越こしている。そのうえ毎日、兵を鞭むちで打ちながら、その者たちをそばに置いている。それは、禍わざわいを招くやり方だ」

張飛は改めませんでした。

張飛の陣じんの都督ととくから知らせが届きました。都督から知らせが来た、と聞いただけで劉備は言いました。

「ああ。飛が、死んだ」

秋七月、劉備は関羽を討った孫権を攻せめるため、自ら軍を率いて東へ向かいます。孫権が手紙で和睦わぼくを求めてきても、激しく怒おこって許しませんでした。

趙雲ちょううんは止めた、とのちの『趙雲別伝ちょううんべつでん』は伝えています。「国の賊ぞくは曹操そうそうであって、孫権ではありません」。劉備は聞きませんでした。

矢の雨の中に立って止めた、と伝えられる法正はもういませんでした。

章武二年(222年)夏六月、呉ごの将陸遜りくそんが劉備の軍を大いに破りました。将軍の馮習ふうしゅうや張南ちょうなんらが戦死し、馬良ばりょうも殺されました。

劉備は散り散りになった兵を集め、船を捨て、歩いて魚復ぎょふくの町まで逃にげ戻もどりました。そして、魚復の名を永安えいあんと改めました。永く安らか、という意味です。

諸葛亮しょかつりょうはこう嘆なげいたといいます。「法孝直こうちょくが生きていれば、主上を止めて、東へは行かせなかっただろう。行ったとしても、こんな危うい目にはあわなかったはずだ」

その年の冬、孫権から、また和睦の使いが来ました。

劉備は今度は許しました。

章武三年(223年)春二月、成都から諸葛亮がやって来ます。劉備の病は重くなっていました。

劉備は諸葛亮にあとのことを頼たのみました。『三国志』にはこう書かれています。

「君の才は、曹丕そうひの十倍ある。きっと国を安らかにし、大きな仕事を成しとげるだろう。跡あと継つぎが助けるに足る者なら、助けてやってくれ。もし才がないなら、君が自分で取れ」

曹丕は曹操の息子。魏ぎの皇帝です。諸葛亮は涙なみだを流して答えました。

「私は手足となって力を尽つくし、まごころを尽くし、死ぬまで続けます」

息子の劉禅りゅうぜんには遺詔いしょうを残しました。皇帝が亡くなる前に残す言葉のことで、『諸葛亮集しょかつりょうしゅう』という本に収められて伝わっています。

「はじめは、ただの下痢げりだった。それが、ほかの病もまじって、もう自分では助かりそうにない」

「人は五十で死んでも、若死にとは言わない。私はもう、六十を過ぎた。何を恨うらむことがあろう。自分のことは、もう嘆かない。ただ、お前たち兄弟のことが気にかかる」

「悪いことは、小さいからといって、してはいけない。よいことは、小さいからといって、しないでいてはいけない」

亡くなる間際、劉備は息子の魯王ろおうを呼んで言いました。

「私が死んだら、お前たち兄弟は、丞相じょうしょうを父と思って仕えなさい。お前は、丞相と一緒いっしょに仕事をすればよい」

丞相は皇帝を助けるいちばん上の大臣。諸葛亮のことです。

夏四月、劉備は永安宮えいあんきゅうで亡くなりました。数えで六十三歳でした。

あの遺詔には続きがあります。

「人を従わせることができるのは、賢かしこさと徳だけだ。お前の父は、徳が薄い。まねをしてはいけない」

受け取った劉禅は、十七歳。長坂ちょうはんで父が捨てて逃げた赤ん坊です。抱だいて連れ出したのは、趙雲でした。

劉備もまた父を早くに亡くした子でした。学費を出してくれたのは、一族の劉元起りゅうげんき。この子は並の人間ではない、と言って。

逃げるたびに、置いていかれた人がいました。逃げる背中に、ついていった人もいました。

妹と財産を差し出した麋竺。もらった品に封ふうをして、戻ってきた関羽。橋を落として川を盾にし、敵をにらみつけた張飛。矢の雨の中に立ったと伝えられる法正。幼い劉禅を抱いて逃げのびた趙雲。

遺詔は最後に本の話をしています。『漢書かんじょ』と『礼記らいき』を読みなさい。丞相がお前のために写してくれた本は届かないうちに、途と中でなくなってしまった。自分でもう一度さがして、学びなさい。

本を読むのがあまり好きではなかった人の、最後の手紙です。