夏目漱石 — いやに澄すましている人

笊の中で泣いた赤ん坊は、澄ました顔の大人になった。家族に癇癪をぶつけ、三十分死に、それでも書いた人の、不器用な一生

笊ざるの中

「私はその道具屋の我楽多がらくたといっしょに、小さい笊ざるの中に入れられて、毎晩四谷よつやの大通りの夜店に曝さらされていたのである」

赤ん坊ぼうのころの話です。本人が覚えているはずはありません。大人になってから人に聞いたことを、四十代も終わりに近づいたころ、彼は新聞の連載れんさいにそう書きました。

生まれて間もなく、彼はよその家に預けられました。古道具を売り買いして暮らす、貧しい夫婦だったらしい。赤ん坊は、売り物のがらくたと同じ笊に入れられて、毎晩、夜店に並んでいたのです。

ある晩、用事のついでにそこを通りかかった姉が、その子を見つけました。かわいそうだとでも思ったのだろう、と本人は書いています。姉は赤ん坊を懐ふところに入れて、家へ連れて帰りました。

その夜、赤ん坊はどうしても寝ねつかず、一晩じゅう泣き続けたそうです。

姉は、そのことで、父にひどく叱しかられました。

両親が年をとってからできた、末っ子でした。こんな年で身ごもるのは恥はずかしい。母がそう言ったとかいう話が、大人になってからも、ときどき繰くり返されていたといいます。

生まれた日は、庚申こうしんの日でした。この日に生まれた子は大泥棒おおどろぼうになる。それを避さけるには、名前に「金」の字を入れるといい。そんな言い伝えがあって付けられた名が、金之助きんのすけだった、と弟子の小宮豊隆こみやとよたかの伝記にあります。

夏目金之助。のちに漱石そうせきと名乗るこの子は、1867年、江戸えどの牛込うしごめに生まれました。

いつ里から引き取られたのか、本人も知りません。けれど、生まれた家に長くはいられなかった。じきに彼は、別の家へ養子に出されます。本人の記憶きおくでは、四つの年でした。

八つか九つのころ、養子先の家にもめごとが起きて、彼は浅草から牛込の生家へ戻もどされました。

ただ、彼はそこが、自分の生まれた家だとは知りませんでした。本当の父と母を、それまでどおり、おじいさん、おばあさんだと思っていたのです。

そう呼ばれる二人のほうも、急に呼び方を改めさせるのは変だと思ったのか、澄すました顔をしていた、と彼は書いています。

それでも、牛込に移ったとき、彼はなぜか、とても嬉うれしかった。その嬉しさは、誰だれの目にもつくほど、はっきり外に出ていたそうです。

ある夜のことです。

ひとりで座敷ざしきに寝ていると、まくらもとで、誰かが小さな声で、しきりに自分の名を呼んでいる。あたりは真っ暗で、誰がそこにかがんでいるのか分かりません。じっと聞いているうちに、家で働く女の人、下女の声だと気がつきました。

下女は、耳打ちするように言いました。

「あなたがおじいさん、おばあさんだと思っていらっしゃる方は、本当はあなたのお父さんとお母さんなのですよ」

さっき、お二人が話していらした。おおかたそのせいで、あんなにこっちの家が好きなんだろう、妙みょうなものだな、と。だから、そっと教えてあげるんです。誰にも話しちゃいけませんよ。下女はそう続けた、と彼は書き残しています。

少年は、「誰にも言わないよ」とだけ答えました。

心の中では、とても嬉しかった。けれどそれは、本当のことを教えてもらえたからではない。下女が自分に親切にしてくれた。ただ、それが嬉しかったのだ、と彼は記しています。

その人の名前も顔も、彼はすっかり忘れてしまいました。覚えているのは、その人の親切だけでした。

生まれた家に戻っても、彼は、よその末っ子のように可愛がられはしませんでした。自分の性質が素直でなかったせいもある。長く親から離はなれていたせいもある。とくに父には、むしろ苛酷かこくに扱あつかわれた覚えがある、と本人は振ふり返っています。

いたずらで強情な子どもでした。母にも、甘あまやかされはしなかった。それでも、家じゅうでいちばん自分を可愛がってくれたのは母だった。その思いだけは、記憶の中にいつも残っている、と。

ある日、彼は二階でひとり昼寝をして、おかしな夢にうなされました。

いつ、どこでしたことかは分からない。けれど自分は、人のお金をたくさん使ってしまった。子どもの自分には、とても返せない。

苦しくなって、彼は大きな声で、下にいる母を呼びました。

母はすぐに、二階へ上がってきてくれた。話を聞くと、微笑ほほえみながら、こう言ったそうです。

「心配しないでもいいよ。お母さんがいくらでもお金を出してあげるから」

彼は、とても嬉しかった。安心して、またすやすやと眠ねむってしまいました。

全部が夢だったのか。半分だけは本当だったのか。それを書いたときも、彼はまだ決めかねていました。ただ、自分は本当に大声で母を呼び、母は本当に上がってきてくれた、としか思えない、とも書いています。

母の名は、千枝ちえといいました。

彼が十三か十四のとき、母は亡くなりました。

自分から落第する

英語は、大嫌だいきらいでした。

少年のころの彼が好きだったのは、漢学です。昔の中国の書物、漢籍かんせきを、ずいぶんたくさん読みました。英語のほうは、手に取るのもいやだった。

兄に少し習ったこともあります。けれど、教える兄は癇癪かんしゃく持ち、教わる弟は大嫌い。読本の二冊目で終わってしまった、と本人はのちに話しています。

ところが、大学に進むための学校、大学予備門に入るには、英語が要りました。

彼は、好きな漢籍を一冊残らず売り払はらって、英語に打ち込こみます。1884年の夏、17歳さいで、予備門に入りました。

入ってしまうと、今度は少しも勉強しませんでした。

怠なまけるのが大好きで、遊んでいるのを偉えらいことのように思っていた、と本人は振ふり返っています。教室では、先生のそばのストーブに、仲間と薪まきをどっさりくべる。ストーブが真っ赤になると、漢学の先生のまじめな顔まで、熱で真っ赤になる。それを見て、くすくす笑って喜んでいたそうです。

ある年、腹膜炎ふくまくえんにかかって、学年の試験を受けられませんでした。追試験を願い出ても、係の人は取り合ってくれません。

そこで彼は、考えました。

追試験を受けさせてもらえないのは、第一に、自分に信用がないからだ。信用がなければ、世の中に出ても何もできない。

「信用を得るには、どうしても勉強する必要がある」

友だちは、追試験を受けろと、しきりにすすめました。彼はそれを聞かずに、自分から落第して、同じ学年をもう一度やり直すことにしたのです。

この落第は、自分にとって、とてもよく効く薬になった。のちに彼は、そう言っています。

学年が進み、専門を選ぶときが来ました。彼が選んだのは、建築でした。

理由は、こうです。

「自分は元来変人だから」

このままでは、世の中に受け入れてもらえない。けれど、人の暮らしにどうしても要る仕事をしていれば、変人のままでも、向こうから頼たのみに来る。食いはぐれることはない。そう考えたのだ、と談話にあります。

ところが、同級生の米山保三郎よねやまやすさぶろうに言われます。いまの日本で建築をやっても、後の世まで残るような大きな仕事はできない。それより文学をやれ。

なるほど、と思った彼は、考え直して、英文学に決めました。

あれほど嫌きらいだった、英語の文学です。

そのころ、彼を振り回す友だちができました。正岡子規まさおかしきです。

子規は、人を子分のように扱あつかう男でした。俳句を作れと頭から言いつけ、題まで勝手に決めてしまう。それでも彼は、文句を言いながら作った。

「つまり僕ぼくの方が人が善かったのだな」

のちの談話で、彼はそう話しています。

大学を出たときの自分を、彼は「これでも学士かと思うような馬鹿」だったと言います。点数がよかったので、人はけっこう信用してくれた。けれど、自分で自分を見ると、ひどく気の毒だった。

そのくせ、世間に対しては、たいへん気位が高かった、とも言っています。

先生にならないか、という話が来ました。紹介しょうかいされた嘉納治五郎かのうじごろうは、高い理想を語ります。とても私にはできません、と彼は断りました。

すると嘉納かのうが、うまいことを言いました。

「あなたが辞退するのを見て、ますます頼みたくなった」

本人の記憶きおくでは、嘉納はそう言ったのです。

断りきれない性分の彼は、引き受けてしまいました。それが私の人生のスタートだった、と彼は振り返っています。

1895年、彼は松山の中学校の先生になります。

その下宿に、子規しきが転がり込んできました。

ここにいるのだ、と言って、彼が承知もしないうちに、ひとりで決めてしまったのです。子規は肺病だから、うつるといけない、と止める人もいた。彼も少し気味が悪かった。けれど、断らずに置きました。

毎日のように松山の俳句仲間が集まり、自分の時間はなくなった。子規は昼になると、相談もなく蒲焼かばやきを取り寄せて、ぴちゃぴちゃと音をさせて食べました。

東京へ帰るとき、子規は、こう言ったそうです。

「君、払ってくれたまえ」

そして、澄すまして帰っていった。そのうえ、十円ばかり借りていった。

僕もこれには驚おどろいた。のちの談話で、彼はそうこぼしています。

1896年、熊本くまもとの学校に移り、鏡子きょうこと結婚けっこんしました。

1900年、33歳の彼は、イギリスへ留学することになりました。

横浜よこはまの港まで、熊本での教え子、寺田寅彦てらだとらひこが見送りに来ていました。寺田は、そのときの様子を書き残しています。

同じ船で行く二人の仲間は、帽子ぼうしを振って、見送りの人たちに景気よく挨拶あいさつしていた。先生だけは、ひとり少し離はなれた船べりにもたれて、身動きもせず、じっと波止場はとばを見下ろしていた。

船が動き出すと同時に、奥おくさんが顔にハンカチを当てたのを、寺田は見ました。

「秋風の一人を吹ふくや海の上」

秋の風が、ひとりの自分に吹きつける。海の上で。そんな句が、残っています。

二年あまりのち、帰ってきた夫を見て、妻は、人が変わってしまったと思うことになります。

嚢ふくろの中

「あたかも嚢ふくろの中に詰つめられて出る事のできない人のような気持がするのです」

大学を出てから抱かかえていた気持ちを、彼はのちに講演で、そう語っています。ロンドンへ渡わたっても、その気持ちは変わりませんでした。

袋ふくろを突つき破る錐きりが一本あれば、どこかに穴をあけてみせる。そう思って、いらいらしながら探した。けれど、そんな錐は、ロンドンじゅう探して歩いても、見つかりそうになかった、と。

英文学を学びに来たのに、西洋の詩を読んでも、何も感じない。それを無理に嬉うれしがるのは、ありもしない羽を生やして飛んでいる人のようだ。お金がないのに、あるような顔をして歩いている人のようだ。そう思えてならなかった、とも話しています。

お金も、足りませんでした。子規への手紙に、こうあります。

「為替かわせが来なくっては本も買えん、少々閉口するな、そのうち来るだろうから心配する事も入るまい」

日本の家族とは、手紙でつながっていました。

あるとき、妻から、妻と長女の筆子ふでこが写った写真が届きます。彼は返事に書きました。久しぶりに写真でお顔を拝んだが、相変わらずお二人とも滑稽こっけいな顔をしているのには感心した。少し恥はずかしいような気もしたが、ストーブの上に飾かざっておいた。

掃除そうじに来た下宿のおばあさんとその妹が、かわいらしいお嬢じょうさんと奥おくさんだと、しきりにほめた。そこで彼は、日本ではこんなのはみんなお多福の部類に入れてしまう、美しいのはもっとたくさんいるのさ、と言ってやった。お多福とは、器量のよくない女の人をからかう言葉です。

「筆の顔などは、なかなかひょうきんなものだね」

手紙は、そう続いています。悪口を言わなければ、愛する者を愛すると言いきれない人だった。弟子の森田草平もりたそうへいは、この手紙について、そう書いています。

1902年9月の初め。ロンドンの下宿を、詩人の土井晩翠どいばんすいが訪ねました。

晩翠は、その様子に驚おどろきます。ひどい神経衰弱しんけいすいじゃくだった、と晩翠ばんすいは書いている。心がひどく疲つかれて、ふつうに暮らせなくなる状態を、当時はそう呼びました。

心配だから、そばについていてやってほしい。晩翠は、下宿のおばあさんにそう頼たのまれた。本人からも、こう言われた、と晩翠はいいます。

「君が居てくれると嬉しい」

晩翠は9月9日から、同じ下宿に移り住みました。

同じ1902年、日本では、正岡子規まさおかしきが亡くなっています。

12月、彼はロンドンを離はなれます。翌1903年の1月、東京に着きました。

新橋の駅には、寺田寅彦てらだとらひこが迎むかえに来ていました。横浜よこはまで船を見送った、あの教え子です。

汽車から降りた先生は、小さな娘むすめのあごに手をやって上を向かせ、じっと見つめていた。やがて手を放して、不思議な微笑びしょうを浮うかべた、と寺田は書いています。

その三日か四日あとのことを、妻の鏡子きょうこが、のちに語っています。

彼と長女が、火鉢ひばちをはさんで座っていた。火鉢のふちに、五厘りんの銅貨が一枚、載のっている。それを見たとたん、彼は急に機嫌きげんを悪くして、いきなり長女をなぐりました。

長女は、泣き出しました。

わけを聞いて、鏡子は知ります。ロンドンにいたころ、物ごいに銅貨を一枚恵めぐんだことがあった。下宿に戻もどると、同じような銅貨が、便所の窓に置いてあった。下宿のおばあさんが自分のあとをつけて探偵たんていしている、と彼は思い込こんでいた。火鉢の銅貨も、それと同じ当てつけだと思ったのです。

その年の夏、彼の癇癪かんしゃくは、さらにひどくなりました。留学に出る前の夫とは、まるで別の人のように怒おこる。鏡子はのちに、そう振ふり返っています。彼は妻に、実家へ帰れと言うようになりました。

7月、鏡子は子どもたちを連れて、実家に戻ります。

医者に診みてもらうと、この病気は落ち着くことはあっても、いずれまたぶり返すものだ、と鏡子は聞かされたそうです。

鏡子はそれを、夫の病気として受けとめることにしたといいます。

9月、夏目の兄がとりなして、鏡子は家に戻りました。夫婦のどちらも神経が参っているのだ、という意味のことを、彼は兄に答えたそうです。

戻ってすぐ、彼は友人への手紙に、妻のことをこう書いています。また帰ってきたが、大きなおなかを抱えて、起き伏ふしも不自由だ。どんな美人でも、身ごもった姿はあまり美しいものではない。ましてうちの妻においてはね、と。

けれど、それで収まりはしませんでした。10月の末に三女が生まれると、家の空気はまた険しくなり、翌年の春ごろまで続きます。三つになる次女がよく泣くのを、彼はひどく気にして、夜中でもつらく当たった、と鏡子の話にあります。

やがて彼は、俳句仲間の高浜虚子たかはまきょしから、何か書いてくれないかと頼まれます。

書いたのは、一匹いっぴきの猫ねこが、人間たちを眺ながめてしゃべる話でした。

これはいけません

「これはいけません」

原稿げんこうを読んだ高浜虚子たかはまきょしは、そう言ったそうです。

どこがいけないのか、と聞くと、いろいろある。何を言われたのかは、もうすっかり忘れた。とにかく、もっともだと思って書き直した。のちに本人は、そう話しています。

虚子きょしとは、もともと縁えんがありました。ロンドンの下宿で困りはてた様子を、彼が手紙に書いて送ると、正岡子規まさおかしきはそれを、仲間の俳句の雑誌『ホトトギス』に載のせた。日本に帰ったとき、子規しきはもういなかった。その『ホトトギス』を編集していたのが、虚子です。

書き直した原稿を、今度は虚子が大いにほめて、1905年1月の『ホトトギス』の巻頭に載せました。一匹いっぴきの猫ねこが、人間たちを眺ながめてしゃべる話。『吾輩わがはいは猫である』です。

本人は、一回きりのつもりでした。ところが虚子が、面白いから続きを書け、と言う。書いているうちに、どんどん長くなっていきました。

37歳さい。大学で英文学を教えていた人の、遅おそい書き始めでした。

猫の話は、身のまわりで起きることを、次々に材料にしていきます。

その年の大みそか、彼は弟子の鈴木三重吉すずきみえきちに、手紙を出しました。今日は大みそかだが、いたって平穏へいおん。借金取りも来ない。こたつで小説を読んでいる。

裏の学校の寄宿舎の生徒たちが、夜になると、近所迷惑めいわくなほど騒さわぐ。抗議こうぎでも来れば、また材料ができて面白い、と思っている。

「喧嘩けんかでもないと猫の材料が払底ふっていでいかん」

払底は、品切れのこと。けんかでもないと、猫に書くことがなくなって困る、というのです。

翌年2月の手紙には、こうあります。ある新聞に、猫を書いてから細君と仲が悪くなった、と書かれた。細君とは、妻のことです。

「昔はこんな事が気にかかって、いちいち正誤しないと心持ちがわるかった。今ではかえって面白い心持ちがする」

そのうち、漱石そうせきは昨日死んだそうだ、などと書かれるだろう、とも。

1906年10月、彼は面会日を決めました。木曜日の午後三時から。客が多すぎて、うんざりしたからです。

ところが、その木曜日の集まりのことを、虚子にはこう書き送りました。

「小生元来のん気屋にて大勢寄って勝手な熱を吹ふいてるのを聞くのが大好物です」

人に会うのにうんざりした人が、人の集まりが大好物だという。この集まりは、木曜会と呼ばれるようになりました。

同じ月、三重吉みえきちの手紙に、彼を手本にするようなことが書いてあったらしい。返事は、こうです。

「僕ぼくの教訓なんて、とんでもない事だ。僕は人の教訓になるような行いはしておらん」

自分のやっていることの三分の二は、方便のようなもので、人から見れば正気とは思えないだろう。そう続けています。

1907年、彼は大学をやめて、朝日新聞に入りました。新聞に小説を書くのが、仕事になったのです。

大学の先生が新聞屋になるなんて、と世間は驚おどろいた。彼は「入社の辞」に、こう書いています。

「新聞が商売である如ごとく大学も商売である」

大学での講義がまずかったのは、いつも犬が吠ほえてうるさかったからで、半分はその犬のせいだ、とも。

同じ1907年、研究の本『文学論』が出ました。ところが、誤字と誤植だらけでした。彼は友人への手紙に書いています。

「出来れば印刷した千部を庭へ積んで火をつけて焚たいてしまいたい」

そこへ、寺田寅彦てらだとらひこがやって来ました。横浜よこはまで船を見送った、あの教え子です。科学の論文は、ていねいな正誤表がついているほど値打ちがある、と寺田が言った。それで癇癪かんしゃくが少しおさまった、と伝えられています。

それから三年後、彼は三十分のあいだ、死ぬことになります。

子供などに会いたくはありません

1910年8月。43歳さいの彼は、胃を悪くして、伊豆いずの修善寺しゅぜんじの宿で寝ねていました。

縁側えんがわを通るほかの湯治客に、姿を見られるのがいやでした。だから、蒸し暑い日でも障子を閉め切っていた。お膳ぜんに並んだ皿を見ると、どこからともなく反感がわいて、箸はしを取る気になれなかった、と本人は書いています。

やがて、吐はくようになりました。吐くものは、だんだん色を変えていきます。しまいには、黒ずんだ濃こい汁しるを、金盥かなだらいになみなみと吐いた。

何が出たのか、と彼は医者に聞きました。医者はつまらなそうな顔で、これは血だ、と答えた。

けれど彼の目には、その黒いものが、血とは思えませんでした。

また吐いた。今度は少し赤みがあって、なまぐさいにおいが鼻をついた。彼は胸を押おさえながら、自分で、血だ、血だ、と言いました。

8月24日。

その日は、東京から杉本すぎもとという医者が、診察しんさつに来ることになっていました。結果は、それほど悪くない、というもの。付き添そいの者は喜んで、すぐに東京へ、よいという電報を打ちました。

その日の夕方から夜にかけてのことです。急に、胸が苦しくなりました。

そばには、妻の鏡子きょうこが座っていた。親切に、床とこのわきについていてくれたのです。彼はその妻に、暑苦しくていけないから、もう少しそっちへどいてくれ、と言いつけました。

邪慳じゃけんに命令した、と自分で記しています。邪慳とは、思いやりがなく、つっけんどんなことです。

次に目を開けたとき、彼は右を向いて、金盥の中に、べっとりと、大量の血を吐いていました。

不思議なことに、さっきまでの苦しさは、どこかへ消えていた。何より先に、まあよかった、と思ったそうです。

胸に大きな針を刺さされ、食塩水を注射される。枕まくらもとの人たちが、ざわざわと動いている。

そのあと、二人の医者が、目を閉じている彼をはさんで、ドイツ語で話を始めました。意識がないものと、思い込こんでいたのです。

「弱い」

「ええ」

「駄目だめだろう」

「ええ」

「子供に会わしたらどうだろう」

「そう」

彼は、急に心細くなりました。どう考えても、死にたくなかった。それに、苦しさはすっかり取れて、楽な気持ちでいたのです。

自分が死ぬか生きるかを、そばで平気で話している。それをじっと聞かされるのが、だんだん苦痛になってきた。しまいには少し腹が立った、と彼は書いています。

向こうがその気なら、こっちにも考えがある。

彼は、閉じていた目を急に開けました。そして、できるだけ大きな声で、はっきりと言った。

「私は子供などに会いたくはありません」

杉本は、何も気にとめない様子で、そうですか、と軽く答えただけでした。それから、食べかけの食事を済ませてくる、と部屋を出ていった。

残った森成もりなり医師と、付き添いの雪鳥せっちょうが、彼の左右の手を一つずつ握にぎっていました。三人とも黙だまったまま、夜が明けました。

死のうとしているまぎわにも、人間はまだこれだけの駆かけ引きができるものか。体が回復に向かったころ、彼はその夜の反抗はんこう心を思い出しては、ほほえんでいたそうです。

ただ、本当のことを、彼はまだ知りませんでした。

それを知ったのは、ずいぶんあとのことです。妻がそのころつけていた日記を読んでいて、自分が気を失っていたと書いてあるのに気づいた。妻に聞くと、こう言われました。

「そうじゃありません、あの時三十分ばかりは死んでいらしったのです」

自分では、寝返りを打とうとした次の瞬間しゅんかんに、金盥の血を見た、としか思っていなかった。そのあいだの三十分は、彼の記憶きおくの中の、どこにもありませんでした。

10月11日、彼は東京へ帰ることを許されます。

修善寺も雨、東京も雨でした。汽車を降りると、すぐに釣台つりだいという、人を寝かせて運ぶ台に横たえられ、雨よけの桐油とうゆをかけられて、病院へ運ばれた。汽車の中で森成医師が、枕もとの袋ふくろの口に、大きな野菊のぎくの枝をさしてくれていた。降りるときの混雑で、折れてしまっただろう、と彼は思い返しています。

病院で休んでいると、看護婦が二通の電報を持ってきました。

一通は、満州にいる古い友人、中村是公なかむらぜこうから。「無事御ご帰京を祝す」。

もう一通も、一字も違ちがわない同じ文面でした。差出人は、「ステト」。

誰だれだろう。打った局が名古屋だと分かって、ようやく気がつきました。妻の妹の時子と、その夫の鈴木禎次すずきていじ。二人の名の頭文字を組み合わせたものだったのです。

彼は二通の電報を折り重ねて、決めました。あしたの朝、妻が来たら、まずこの話をしよう。

いやに澄すましているな

修善寺しゅぜんじから帰ってからも、体は、すっかりよくはなりませんでした。

もうご病気はすっかり治りましたか。人にそう聞かれると、彼は、ええまあ、どうかこうか生きています、と答えていた。ある日、知り合いのT君に、それは治ったとは言えませんね、もとの病気の継続けいぞくなんでしょう、と言われます。

それからは、こう答えることにしました。

「病気はまだ継続中です」

怒おこりっぽさも、続いていました。

1914年10月。妻の妹の夫、鈴木禎次すずきていじの父親の葬式そうしきがありました。修善寺から帰った夜、「ステト」の電報をくれた、あの妹夫婦の家です。その日のことは、鏡子きょうこの話として、弟子の森田草平もりたそうへいが書き残しています。

どうせ漱石そうせきは来ないだろう、と思われていた。ところが、彼は来た。馬車の席が用意されていなかったので、彼は人力車、妻の鏡子は馬車で、葬式のお供をすることになりました。

彼は怒りました。式の場にも姿を見せず、葬式が済んで鏡子が鈴木すずきの家に戻もどっていると、電話で呼び戻して、さんざん怒ったといいます。

弟子の小宮豊隆こみやとよたかは、怒ったのも無理はない、と見ました。森田は、ふだんの先生は車の席など気にしない人だから、病気の発作のようなものだったのではないか、と疑っています。

家族にとって、それがどういうことだったのか。長女の筆子ふでこは大人になってから、森田にこう話したそうです。父に優しくしてもらった記憶きおくはない。覚えているのは、きつく当たられたことだった。そのころの出来事も、いくつも例に挙げたといいます。

1915年の1月から2月にかけて、彼は朝日新聞に『硝子戸がらすどの中』という連載れんさいを書きました。書斎しょさいのガラス戸の内側から見える、身のまわりの小さな出来事の話です。

その中に、写真の話があります。

雑誌の男が、写真を撮とらせてほしいと言ってきた。笑わなくてはいけないのか、と聞くと、そんなことはないという。それなら当たり前の顔で、と念を押おして、約束をしました。

ところが撮る直前になって、男は、ていねいな調子で言ったのです。

「お約束ではございますが、少しどうか笑っていただけますまいか」

彼は取り合いませんでした。庭で撮るときも、男は同じ言葉を繰くり返した。彼は、ますます笑う気になれなかった。

四日ほどして、写真が届きました。

写真の彼は、注文どおり、笑っていました。

どう見ても、あとから手を入れて、笑わせたものとしか思えない。家に来る四、五人に見せても、みんな同じ見立てでした。

生まれてから今まで、人の前で、笑いたくもないのに笑ってみせたことが何度もある。その偽いつわりが、いま、この写真屋に仕返しされたのかもしれない、と彼は書いています。

同じ連載に、古い友だちのOが訪ねてきた話もあります。

高等学校のころの友人で、今は樺太からふとで中学校の校長をしている。取り次ぎから名刺めいしを受け取ると、彼はいつものとおり、客より先に座敷ざしきへ行って、席に着いていた。

廊下ろうかを伝って入り口まで来たOは、座布団の上にきちんと座っている彼を見るなり、言いました。

「いやに澄すましているな」

言い終わるか終わらないうちに、「うん」という返事が、彼の口から滑すべり出ていました。

自分の悪口を自分で認めるような返事が、どうしてあんなに自然に、するすると喉のどを越こしたのだろう。そのとき、透すきとおったような、いい心持ちがした、と彼は書いています。

おじいさん、おばあさんと呼ばれながら、澄ました顔をしていた両親がいた。その家の末っ子は、四十代も半ばを過ぎていました。

その日、Oと一緒いっしょに出かけた電車の中で、Oはポケットから、ハンカチの包みを出して見せました。中身は、さっき彼の家で出した栗饅頭くりまんじゅう。いつの間に包んだのか。あの栗饅頭を取ってきたのか、と聞くと、Oは、そうかもしれない、と答えました。

笊ざるの中の赤ん坊ぼうの話も、名前も顔も忘れた下女の話も、二階で母を呼んだ夢の話も、この同じ連載に書かれています。

1916年11月22日。彼は、また胃を悪くして、床とこにつきました。

その日、彼は痛みをこらえて、書斎の絨毯じゅうたんの上にうつぶせになっていた。鏡子が来て、床に入るようすすめると、こう答えたと伝えられます。

「今、辞世の句を考えていたところだ」

辞世の句とは、死ぬ前に残す句のこと。それきり彼は床について、辞世のことは誰だれにも話さなかったといいます。

12月9日は、土曜日でした。

前の晩、医者は、もう望みはないと告げていた、と小宮の伝記にあります。子どもたちはいったん学校へ出されたが、容態が悪くなり、それぞれに迎むかえが出されます。

近くの小学校に通っていた四女の愛子あいこが帰ってきて、病室に入るなり、わっと泣き出しました。鏡子がそれをたしなめると、彼は目を閉じたまま、こう言ったそうです。

「いいよいいよ、泣いてもいいよ」

制服を着た長男の純一じゅんいちが、ばたんと音を立てて枕まくらもとに座ると、彼はぱっと目を開けて、にやっと笑ったといいます。

寺田寅彦てらだとらひこは、自分も同じ胃の病気で寝ねていたのに、知らせを聞いて見舞みまいに来ました。けれど、病室に押し入るわけにもいかない。子ども部屋の壁かべにしょんぼりもたれていたが、胃の具合が悪くなり、とうとう顔を見ないまま、四時ごろ帰っていったそうです。

鏡子は、写真を撮っておきたい、と言い出したといいます。死にかけた病人の写真を撮ると、持ち直すことがある。そう信じる人たちがいたのです。写真屋が呼ばれ、写真が撮られました。

午後6時45分。医者が、臨終を告げました。49歳さいでした。

その一生のそばには、いつも誰かがいました。

夜店の笊から、赤ん坊を懐ふところに入れて帰った姉。暗い座敷で、そっと耳打ちしてくれた下女。ロンドンの下宿に移ってきてくれた晩翠ばんすい。気を失った夫のことを日記に書きとめ、最期の日には、持ち直すようにと写真を撮らせた妻。顔も見られないまま、子ども部屋の壁にもたれていた寺田。

姉の懐に入れられて家に着いたその夜、赤ん坊は、一晩じゅう泣き続けたそうです。

姉は、そのことで、父に叱しかられました。