夏目漱石 — いやに澄ましている人
笊の中で泣いた赤ん坊は、澄ました顔の大人になった。家族に癇癪をぶつけ、三十分死に、それでも書いた人の、不器用な一生
笊の中
「私はその道具屋の我楽多といっしょに、小さい笊の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に曝されていたのである」
赤ん坊のころの話です。本人が覚えているはずはありません。大人になってから人に聞いたことを、四十代も終わりに近づいたころ、彼は新聞の連載にそう書きました。
生まれて間もなく、彼はよその家に預けられました。古道具を売り買いして暮らす、貧しい夫婦だったらしい。赤ん坊は、売り物のがらくたと同じ笊に入れられて、毎晩、夜店に並んでいたのです。
ある晩、用事のついでにそこを通りかかった姉が、その子を見つけました。かわいそうだとでも思ったのだろう、と本人は書いています。姉は赤ん坊を懐に入れて、家へ連れて帰りました。
その夜、赤ん坊はどうしても寝つかず、一晩じゅう泣き続けたそうです。
姉は、そのことで、父にひどく叱られました。
両親が年をとってからできた、末っ子でした。こんな年で身ごもるのは恥ずかしい。母がそう言ったとかいう話が、大人になってからも、ときどき繰り返されていたといいます。
生まれた日は、庚申の日でした。この日に生まれた子は大泥棒になる。それを避けるには、名前に「金」の字を入れるといい。そんな言い伝えがあって付けられた名が、金之助だった、と弟子の小宮豊隆の伝記にあります。
夏目金之助。のちに漱石と名乗るこの子は、1867年、江戸の牛込に生まれました。
いつ里から引き取られたのか、本人も知りません。けれど、生まれた家に長くはいられなかった。じきに彼は、別の家へ養子に出されます。本人の記憶では、四つの年でした。
八つか九つのころ、養子先の家にもめごとが起きて、彼は浅草から牛込の生家へ戻されました。
ただ、彼はそこが、自分の生まれた家だとは知りませんでした。本当の父と母を、それまでどおり、おじいさん、おばあさんだと思っていたのです。
そう呼ばれる二人のほうも、急に呼び方を改めさせるのは変だと思ったのか、澄ました顔をしていた、と彼は書いています。
それでも、牛込に移ったとき、彼はなぜか、とても嬉しかった。その嬉しさは、誰の目にもつくほど、はっきり外に出ていたそうです。
ある夜のことです。
ひとりで座敷に寝ていると、まくらもとで、誰かが小さな声で、しきりに自分の名を呼んでいる。あたりは真っ暗で、誰がそこにかがんでいるのか分かりません。じっと聞いているうちに、家で働く女の人、下女の声だと気がつきました。
下女は、耳打ちするように言いました。
「あなたがおじいさん、おばあさんだと思っていらっしゃる方は、本当はあなたのお父さんとお母さんなのですよ」
さっき、お二人が話していらした。おおかたそのせいで、あんなにこっちの家が好きなんだろう、妙なものだな、と。だから、そっと教えてあげるんです。誰にも話しちゃいけませんよ。下女はそう続けた、と彼は書き残しています。
少年は、「誰にも言わないよ」とだけ答えました。
心の中では、とても嬉しかった。けれどそれは、本当のことを教えてもらえたからではない。下女が自分に親切にしてくれた。ただ、それが嬉しかったのだ、と彼は記しています。
その人の名前も顔も、彼はすっかり忘れてしまいました。覚えているのは、その人の親切だけでした。
生まれた家に戻っても、彼は、よその末っ子のように可愛がられはしませんでした。自分の性質が素直でなかったせいもある。長く親から離れていたせいもある。とくに父には、むしろ苛酷に扱われた覚えがある、と本人は振り返っています。
いたずらで強情な子どもでした。母にも、甘やかされはしなかった。それでも、家じゅうでいちばん自分を可愛がってくれたのは母だった。その思いだけは、記憶の中にいつも残っている、と。
ある日、彼は二階でひとり昼寝をして、おかしな夢にうなされました。
いつ、どこでしたことかは分からない。けれど自分は、人のお金をたくさん使ってしまった。子どもの自分には、とても返せない。
苦しくなって、彼は大きな声で、下にいる母を呼びました。
母はすぐに、二階へ上がってきてくれた。話を聞くと、微笑みながら、こう言ったそうです。
「心配しないでもいいよ。お母さんがいくらでもお金を出してあげるから」
彼は、とても嬉しかった。安心して、またすやすやと眠ってしまいました。
全部が夢だったのか。半分だけは本当だったのか。それを書いたときも、彼はまだ決めかねていました。ただ、自分は本当に大声で母を呼び、母は本当に上がってきてくれた、としか思えない、とも書いています。
母の名は、千枝といいました。
彼が十三か十四のとき、母は亡くなりました。
自分から落第する
英語は、大嫌いでした。
少年のころの彼が好きだったのは、漢学です。昔の中国の書物、漢籍を、ずいぶんたくさん読みました。英語のほうは、手に取るのもいやだった。
兄に少し習ったこともあります。けれど、教える兄は癇癪持ち、教わる弟は大嫌い。読本の二冊目で終わってしまった、と本人はのちに話しています。
ところが、大学に進むための学校、大学予備門に入るには、英語が要りました。
彼は、好きな漢籍を一冊残らず売り払って、英語に打ち込みます。1884年の夏、17歳で、予備門に入りました。
入ってしまうと、今度は少しも勉強しませんでした。
怠けるのが大好きで、遊んでいるのを偉いことのように思っていた、と本人は振り返っています。教室では、先生のそばのストーブに、仲間と薪をどっさりくべる。ストーブが真っ赤になると、漢学の先生のまじめな顔まで、熱で真っ赤になる。それを見て、くすくす笑って喜んでいたそうです。
ある年、腹膜炎にかかって、学年の試験を受けられませんでした。追試験を願い出ても、係の人は取り合ってくれません。
そこで彼は、考えました。
追試験を受けさせてもらえないのは、第一に、自分に信用がないからだ。信用がなければ、世の中に出ても何もできない。
「信用を得るには、どうしても勉強する必要がある」
友だちは、追試験を受けろと、しきりにすすめました。彼はそれを聞かずに、自分から落第して、同じ学年をもう一度やり直すことにしたのです。
この落第は、自分にとって、とてもよく効く薬になった。のちに彼は、そう言っています。
学年が進み、専門を選ぶときが来ました。彼が選んだのは、建築でした。
理由は、こうです。
「自分は元来変人だから」
このままでは、世の中に受け入れてもらえない。けれど、人の暮らしにどうしても要る仕事をしていれば、変人のままでも、向こうから頼みに来る。食いはぐれることはない。そう考えたのだ、と談話にあります。
ところが、同級生の米山保三郎に言われます。いまの日本で建築をやっても、後の世まで残るような大きな仕事はできない。それより文学をやれ。
なるほど、と思った彼は、考え直して、英文学に決めました。
あれほど嫌いだった、英語の文学です。
そのころ、彼を振り回す友だちができました。正岡子規です。
子規は、人を子分のように扱う男でした。俳句を作れと頭から言いつけ、題まで勝手に決めてしまう。それでも彼は、文句を言いながら作った。
「つまり僕の方が人が善かったのだな」
のちの談話で、彼はそう話しています。
大学を出たときの自分を、彼は「これでも学士かと思うような馬鹿」だったと言います。点数がよかったので、人はけっこう信用してくれた。けれど、自分で自分を見ると、ひどく気の毒だった。
そのくせ、世間に対しては、たいへん気位が高かった、とも言っています。
先生にならないか、という話が来ました。紹介された嘉納治五郎は、高い理想を語ります。とても私にはできません、と彼は断りました。
すると嘉納が、うまいことを言いました。
「あなたが辞退するのを見て、ますます頼みたくなった」
本人の記憶では、嘉納はそう言ったのです。
断りきれない性分の彼は、引き受けてしまいました。それが私の人生のスタートだった、と彼は振り返っています。
1895年、彼は松山の中学校の先生になります。
その下宿に、子規が転がり込んできました。
ここにいるのだ、と言って、彼が承知もしないうちに、ひとりで決めてしまったのです。子規は肺病だから、うつるといけない、と止める人もいた。彼も少し気味が悪かった。けれど、断らずに置きました。
毎日のように松山の俳句仲間が集まり、自分の時間はなくなった。子規は昼になると、相談もなく蒲焼を取り寄せて、ぴちゃぴちゃと音をさせて食べました。
東京へ帰るとき、子規は、こう言ったそうです。
「君、払ってくれたまえ」
そして、澄まして帰っていった。そのうえ、十円ばかり借りていった。
僕もこれには驚いた。のちの談話で、彼はそうこぼしています。
1896年、熊本の学校に移り、鏡子と結婚しました。
1900年、33歳の彼は、イギリスへ留学することになりました。
横浜の港まで、熊本での教え子、寺田寅彦が見送りに来ていました。寺田は、そのときの様子を書き残しています。
同じ船で行く二人の仲間は、帽子を振って、見送りの人たちに景気よく挨拶していた。先生だけは、ひとり少し離れた船べりにもたれて、身動きもせず、じっと波止場を見下ろしていた。
船が動き出すと同時に、奥さんが顔にハンカチを当てたのを、寺田は見ました。
「秋風の一人を吹くや海の上」
秋の風が、ひとりの自分に吹きつける。海の上で。そんな句が、残っています。
二年あまりのち、帰ってきた夫を見て、妻は、人が変わってしまったと思うことになります。
嚢の中
「あたかも嚢の中に詰められて出る事のできない人のような気持がするのです」
大学を出てから抱えていた気持ちを、彼はのちに講演で、そう語っています。ロンドンへ渡っても、その気持ちは変わりませんでした。
袋を突き破る錐が一本あれば、どこかに穴をあけてみせる。そう思って、いらいらしながら探した。けれど、そんな錐は、ロンドンじゅう探して歩いても、見つかりそうになかった、と。
英文学を学びに来たのに、西洋の詩を読んでも、何も感じない。それを無理に嬉しがるのは、ありもしない羽を生やして飛んでいる人のようだ。お金がないのに、あるような顔をして歩いている人のようだ。そう思えてならなかった、とも話しています。
お金も、足りませんでした。子規への手紙に、こうあります。
「為替が来なくっては本も買えん、少々閉口するな、そのうち来るだろうから心配する事も入るまい」
日本の家族とは、手紙でつながっていました。
あるとき、妻から、妻と長女の筆子が写った写真が届きます。彼は返事に書きました。久しぶりに写真でお顔を拝んだが、相変わらずお二人とも滑稽な顔をしているのには感心した。少し恥ずかしいような気もしたが、ストーブの上に飾っておいた。
掃除に来た下宿のおばあさんとその妹が、かわいらしいお嬢さんと奥さんだと、しきりにほめた。そこで彼は、日本ではこんなのはみんなお多福の部類に入れてしまう、美しいのはもっとたくさんいるのさ、と言ってやった。お多福とは、器量のよくない女の人をからかう言葉です。
「筆の顔などは、なかなかひょうきんなものだね」
手紙は、そう続いています。悪口を言わなければ、愛する者を愛すると言いきれない人だった。弟子の森田草平は、この手紙について、そう書いています。
1902年9月の初め。ロンドンの下宿を、詩人の土井晩翠が訪ねました。
晩翠は、その様子に驚きます。ひどい神経衰弱だった、と晩翠は書いている。心がひどく疲れて、ふつうに暮らせなくなる状態を、当時はそう呼びました。
心配だから、そばについていてやってほしい。晩翠は、下宿のおばあさんにそう頼まれた。本人からも、こう言われた、と晩翠はいいます。
「君が居てくれると嬉しい」
晩翠は9月9日から、同じ下宿に移り住みました。
同じ1902年、日本では、正岡子規が亡くなっています。
12月、彼はロンドンを離れます。翌1903年の1月、東京に着きました。
新橋の駅には、寺田寅彦が迎えに来ていました。横浜で船を見送った、あの教え子です。
汽車から降りた先生は、小さな娘のあごに手をやって上を向かせ、じっと見つめていた。やがて手を放して、不思議な微笑を浮かべた、と寺田は書いています。
その三日か四日あとのことを、妻の鏡子が、のちに語っています。
彼と長女が、火鉢をはさんで座っていた。火鉢のふちに、五厘の銅貨が一枚、載っている。それを見たとたん、彼は急に機嫌を悪くして、いきなり長女をなぐりました。
長女は、泣き出しました。
わけを聞いて、鏡子は知ります。ロンドンにいたころ、物ごいに銅貨を一枚恵んだことがあった。下宿に戻ると、同じような銅貨が、便所の窓に置いてあった。下宿のおばあさんが自分のあとをつけて探偵している、と彼は思い込んでいた。火鉢の銅貨も、それと同じ当てつけだと思ったのです。
その年の夏、彼の癇癪は、さらにひどくなりました。留学に出る前の夫とは、まるで別の人のように怒る。鏡子はのちに、そう振り返っています。彼は妻に、実家へ帰れと言うようになりました。
7月、鏡子は子どもたちを連れて、実家に戻ります。
医者に診てもらうと、この病気は落ち着くことはあっても、いずれまたぶり返すものだ、と鏡子は聞かされたそうです。
鏡子はそれを、夫の病気として受けとめることにしたといいます。
9月、夏目の兄がとりなして、鏡子は家に戻りました。夫婦のどちらも神経が参っているのだ、という意味のことを、彼は兄に答えたそうです。
戻ってすぐ、彼は友人への手紙に、妻のことをこう書いています。また帰ってきたが、大きなおなかを抱えて、起き伏しも不自由だ。どんな美人でも、身ごもった姿はあまり美しいものではない。ましてうちの妻においてはね、と。
けれど、それで収まりはしませんでした。10月の末に三女が生まれると、家の空気はまた険しくなり、翌年の春ごろまで続きます。三つになる次女がよく泣くのを、彼はひどく気にして、夜中でもつらく当たった、と鏡子の話にあります。
やがて彼は、俳句仲間の高浜虚子から、何か書いてくれないかと頼まれます。
書いたのは、一匹の猫が、人間たちを眺めてしゃべる話でした。
これはいけません
「これはいけません」
原稿を読んだ高浜虚子は、そう言ったそうです。
どこがいけないのか、と聞くと、いろいろある。何を言われたのかは、もうすっかり忘れた。とにかく、もっともだと思って書き直した。のちに本人は、そう話しています。
虚子とは、もともと縁がありました。ロンドンの下宿で困りはてた様子を、彼が手紙に書いて送ると、正岡子規はそれを、仲間の俳句の雑誌『ホトトギス』に載せた。日本に帰ったとき、子規はもういなかった。その『ホトトギス』を編集していたのが、虚子です。
書き直した原稿を、今度は虚子が大いにほめて、1905年1月の『ホトトギス』の巻頭に載せました。一匹の猫が、人間たちを眺めてしゃべる話。『吾輩は猫である』です。
本人は、一回きりのつもりでした。ところが虚子が、面白いから続きを書け、と言う。書いているうちに、どんどん長くなっていきました。
37歳。大学で英文学を教えていた人の、遅い書き始めでした。
猫の話は、身のまわりで起きることを、次々に材料にしていきます。
その年の大みそか、彼は弟子の鈴木三重吉に、手紙を出しました。今日は大みそかだが、いたって平穏。借金取りも来ない。こたつで小説を読んでいる。
裏の学校の寄宿舎の生徒たちが、夜になると、近所迷惑なほど騒ぐ。抗議でも来れば、また材料ができて面白い、と思っている。
「喧嘩でもないと猫の材料が払底でいかん」
払底は、品切れのこと。けんかでもないと、猫に書くことがなくなって困る、というのです。
翌年2月の手紙には、こうあります。ある新聞に、猫を書いてから細君と仲が悪くなった、と書かれた。細君とは、妻のことです。
「昔はこんな事が気にかかって、いちいち正誤しないと心持ちがわるかった。今ではかえって面白い心持ちがする」
そのうち、漱石は昨日死んだそうだ、などと書かれるだろう、とも。
1906年10月、彼は面会日を決めました。木曜日の午後三時から。客が多すぎて、うんざりしたからです。
ところが、その木曜日の集まりのことを、虚子にはこう書き送りました。
「小生元来のん気屋にて大勢寄って勝手な熱を吹いてるのを聞くのが大好物です」
人に会うのにうんざりした人が、人の集まりが大好物だという。この集まりは、木曜会と呼ばれるようになりました。
同じ月、三重吉の手紙に、彼を手本にするようなことが書いてあったらしい。返事は、こうです。
「僕の教訓なんて、とんでもない事だ。僕は人の教訓になるような行いはしておらん」
自分のやっていることの三分の二は、方便のようなもので、人から見れば正気とは思えないだろう。そう続けています。
1907年、彼は大学をやめて、朝日新聞に入りました。新聞に小説を書くのが、仕事になったのです。
大学の先生が新聞屋になるなんて、と世間は驚いた。彼は「入社の辞」に、こう書いています。
「新聞が商売である如く大学も商売である」
大学での講義がまずかったのは、いつも犬が吠えてうるさかったからで、半分はその犬のせいだ、とも。
同じ1907年、研究の本『文学論』が出ました。ところが、誤字と誤植だらけでした。彼は友人への手紙に書いています。
「出来れば印刷した千部を庭へ積んで火をつけて焚いてしまいたい」
そこへ、寺田寅彦がやって来ました。横浜で船を見送った、あの教え子です。科学の論文は、ていねいな正誤表がついているほど値打ちがある、と寺田が言った。それで癇癪が少しおさまった、と伝えられています。
それから三年後、彼は三十分のあいだ、死ぬことになります。
子供などに会いたくはありません
1910年8月。43歳の彼は、胃を悪くして、伊豆の修善寺の宿で寝ていました。
縁側を通るほかの湯治客に、姿を見られるのがいやでした。だから、蒸し暑い日でも障子を閉め切っていた。お膳に並んだ皿を見ると、どこからともなく反感がわいて、箸を取る気になれなかった、と本人は書いています。
やがて、吐くようになりました。吐くものは、だんだん色を変えていきます。しまいには、黒ずんだ濃い汁を、金盥になみなみと吐いた。
何が出たのか、と彼は医者に聞きました。医者はつまらなそうな顔で、これは血だ、と答えた。
けれど彼の目には、その黒いものが、血とは思えませんでした。
また吐いた。今度は少し赤みがあって、なまぐさいにおいが鼻をついた。彼は胸を押さえながら、自分で、血だ、血だ、と言いました。
8月24日。
その日は、東京から杉本という医者が、診察に来ることになっていました。結果は、それほど悪くない、というもの。付き添いの者は喜んで、すぐに東京へ、よいという電報を打ちました。
その日の夕方から夜にかけてのことです。急に、胸が苦しくなりました。
そばには、妻の鏡子が座っていた。親切に、床のわきについていてくれたのです。彼はその妻に、暑苦しくていけないから、もう少しそっちへどいてくれ、と言いつけました。
邪慳に命令した、と自分で記しています。邪慳とは、思いやりがなく、つっけんどんなことです。
次に目を開けたとき、彼は右を向いて、金盥の中に、べっとりと、大量の血を吐いていました。
不思議なことに、さっきまでの苦しさは、どこかへ消えていた。何より先に、まあよかった、と思ったそうです。
胸に大きな針を刺され、食塩水を注射される。枕もとの人たちが、ざわざわと動いている。
そのあと、二人の医者が、目を閉じている彼をはさんで、ドイツ語で話を始めました。意識がないものと、思い込んでいたのです。
「弱い」
「ええ」
「駄目だろう」
「ええ」
「子供に会わしたらどうだろう」
「そう」
彼は、急に心細くなりました。どう考えても、死にたくなかった。それに、苦しさはすっかり取れて、楽な気持ちでいたのです。
自分が死ぬか生きるかを、そばで平気で話している。それをじっと聞かされるのが、だんだん苦痛になってきた。しまいには少し腹が立った、と彼は書いています。
向こうがその気なら、こっちにも考えがある。
彼は、閉じていた目を急に開けました。そして、できるだけ大きな声で、はっきりと言った。
「私は子供などに会いたくはありません」
杉本は、何も気にとめない様子で、そうですか、と軽く答えただけでした。それから、食べかけの食事を済ませてくる、と部屋を出ていった。
残った森成医師と、付き添いの雪鳥が、彼の左右の手を一つずつ握っていました。三人とも黙ったまま、夜が明けました。
死のうとしているまぎわにも、人間はまだこれだけの駆け引きができるものか。体が回復に向かったころ、彼はその夜の反抗心を思い出しては、ほほえんでいたそうです。
ただ、本当のことを、彼はまだ知りませんでした。
それを知ったのは、ずいぶんあとのことです。妻がそのころつけていた日記を読んでいて、自分が気を失っていたと書いてあるのに気づいた。妻に聞くと、こう言われました。
「そうじゃありません、あの時三十分ばかりは死んでいらしったのです」
自分では、寝返りを打とうとした次の瞬間に、金盥の血を見た、としか思っていなかった。そのあいだの三十分は、彼の記憶の中の、どこにもありませんでした。
10月11日、彼は東京へ帰ることを許されます。
修善寺も雨、東京も雨でした。汽車を降りると、すぐに釣台という、人を寝かせて運ぶ台に横たえられ、雨よけの桐油をかけられて、病院へ運ばれた。汽車の中で森成医師が、枕もとの袋の口に、大きな野菊の枝をさしてくれていた。降りるときの混雑で、折れてしまっただろう、と彼は思い返しています。
病院で休んでいると、看護婦が二通の電報を持ってきました。
一通は、満州にいる古い友人、中村是公から。「無事御帰京を祝す」。
もう一通も、一字も違わない同じ文面でした。差出人は、「ステト」。
誰だろう。打った局が名古屋だと分かって、ようやく気がつきました。妻の妹の時子と、その夫の鈴木禎次。二人の名の頭文字を組み合わせたものだったのです。
彼は二通の電報を折り重ねて、決めました。あしたの朝、妻が来たら、まずこの話をしよう。
いやに澄ましているな
修善寺から帰ってからも、体は、すっかりよくはなりませんでした。
もうご病気はすっかり治りましたか。人にそう聞かれると、彼は、ええまあ、どうかこうか生きています、と答えていた。ある日、知り合いのT君に、それは治ったとは言えませんね、もとの病気の継続なんでしょう、と言われます。
それからは、こう答えることにしました。
「病気はまだ継続中です」
怒りっぽさも、続いていました。
1914年10月。妻の妹の夫、鈴木禎次の父親の葬式がありました。修善寺から帰った夜、「ステト」の電報をくれた、あの妹夫婦の家です。その日のことは、鏡子の話として、弟子の森田草平が書き残しています。
どうせ漱石は来ないだろう、と思われていた。ところが、彼は来た。馬車の席が用意されていなかったので、彼は人力車、妻の鏡子は馬車で、葬式のお供をすることになりました。
彼は怒りました。式の場にも姿を見せず、葬式が済んで鏡子が鈴木の家に戻っていると、電話で呼び戻して、さんざん怒ったといいます。
弟子の小宮豊隆は、怒ったのも無理はない、と見ました。森田は、ふだんの先生は車の席など気にしない人だから、病気の発作のようなものだったのではないか、と疑っています。
家族にとって、それがどういうことだったのか。長女の筆子は大人になってから、森田にこう話したそうです。父に優しくしてもらった記憶はない。覚えているのは、きつく当たられたことだった。そのころの出来事も、いくつも例に挙げたといいます。
1915年の1月から2月にかけて、彼は朝日新聞に『硝子戸の中』という連載を書きました。書斎のガラス戸の内側から見える、身のまわりの小さな出来事の話です。
その中に、写真の話があります。
雑誌の男が、写真を撮らせてほしいと言ってきた。笑わなくてはいけないのか、と聞くと、そんなことはないという。それなら当たり前の顔で、と念を押して、約束をしました。
ところが撮る直前になって、男は、ていねいな調子で言ったのです。
「お約束ではございますが、少しどうか笑っていただけますまいか」
彼は取り合いませんでした。庭で撮るときも、男は同じ言葉を繰り返した。彼は、ますます笑う気になれなかった。
四日ほどして、写真が届きました。
写真の彼は、注文どおり、笑っていました。
どう見ても、あとから手を入れて、笑わせたものとしか思えない。家に来る四、五人に見せても、みんな同じ見立てでした。
生まれてから今まで、人の前で、笑いたくもないのに笑ってみせたことが何度もある。その偽りが、いま、この写真屋に仕返しされたのかもしれない、と彼は書いています。
同じ連載に、古い友だちのOが訪ねてきた話もあります。
高等学校のころの友人で、今は樺太で中学校の校長をしている。取り次ぎから名刺を受け取ると、彼はいつものとおり、客より先に座敷へ行って、席に着いていた。
廊下を伝って入り口まで来たOは、座布団の上にきちんと座っている彼を見るなり、言いました。
「いやに澄ましているな」
言い終わるか終わらないうちに、「うん」という返事が、彼の口から滑り出ていました。
自分の悪口を自分で認めるような返事が、どうしてあんなに自然に、するすると喉を越したのだろう。そのとき、透きとおったような、いい心持ちがした、と彼は書いています。
おじいさん、おばあさんと呼ばれながら、澄ました顔をしていた両親がいた。その家の末っ子は、四十代も半ばを過ぎていました。
その日、Oと一緒に出かけた電車の中で、Oはポケットから、ハンカチの包みを出して見せました。中身は、さっき彼の家で出した栗饅頭。いつの間に包んだのか。あの栗饅頭を取ってきたのか、と聞くと、Oは、そうかもしれない、と答えました。
笊の中の赤ん坊の話も、名前も顔も忘れた下女の話も、二階で母を呼んだ夢の話も、この同じ連載に書かれています。
1916年11月22日。彼は、また胃を悪くして、床につきました。
その日、彼は痛みをこらえて、書斎の絨毯の上にうつぶせになっていた。鏡子が来て、床に入るようすすめると、こう答えたと伝えられます。
「今、辞世の句を考えていたところだ」
辞世の句とは、死ぬ前に残す句のこと。それきり彼は床について、辞世のことは誰にも話さなかったといいます。
12月9日は、土曜日でした。
前の晩、医者は、もう望みはないと告げていた、と小宮の伝記にあります。子どもたちはいったん学校へ出されたが、容態が悪くなり、それぞれに迎えが出されます。
近くの小学校に通っていた四女の愛子が帰ってきて、病室に入るなり、わっと泣き出しました。鏡子がそれをたしなめると、彼は目を閉じたまま、こう言ったそうです。
「いいよいいよ、泣いてもいいよ」
制服を着た長男の純一が、ばたんと音を立てて枕もとに座ると、彼はぱっと目を開けて、にやっと笑ったといいます。
寺田寅彦は、自分も同じ胃の病気で寝ていたのに、知らせを聞いて見舞いに来ました。けれど、病室に押し入るわけにもいかない。子ども部屋の壁にしょんぼりもたれていたが、胃の具合が悪くなり、とうとう顔を見ないまま、四時ごろ帰っていったそうです。
鏡子は、写真を撮っておきたい、と言い出したといいます。死にかけた病人の写真を撮ると、持ち直すことがある。そう信じる人たちがいたのです。写真屋が呼ばれ、写真が撮られました。
午後6時45分。医者が、臨終を告げました。49歳でした。
その一生のそばには、いつも誰かがいました。
夜店の笊から、赤ん坊を懐に入れて帰った姉。暗い座敷で、そっと耳打ちしてくれた下女。ロンドンの下宿に移ってきてくれた晩翠。気を失った夫のことを日記に書きとめ、最期の日には、持ち直すようにと写真を撮らせた妻。顔も見られないまま、子ども部屋の壁にもたれていた寺田。
姉の懐に入れられて家に着いたその夜、赤ん坊は、一晩じゅう泣き続けたそうです。
姉は、そのことで、父に叱られました。