森鴎外 — 本気にされたかった人

国を笑われれば立ち上がり、恋の後始末は人にまかせた。軍医と作家、二つの顔を持った人の、本気で不器用な一生

大きな鼻の仮面

「余は外国人なり。舞踏ぶとうすること能あたわず」

私は外国人です。踊おどることはできません。

1886年3月8日の夜、ドイツの町ミュンヘン。仮面舞踏会かめんぶとうかいの会場で、白地に緑の模様の衣装を着た、黒い仮面の少女が、日本の若者を踊りに誘さそいました。若者は、そう言って断ったのです。

若者の顔にも、仮面がありました。会場に入る前に買った、大きな鼻の仮面です。

それなら、一緒いっしょに一杯いっぱいいかが。少女はそう言った。二人はテーブルにつき、酒を頼たのんで、思うぞんぶん楽しみました。

帰り道、若者は少女を、家の戸口まで送っていきます。少女は言いました。伯母おばと、ここに住んでいます。昼間は肉料理の店で、お酒を運んでいます。名前はバベット。一度、訪ねたずねてきてください。

この若者の名は、森林太郎もりりんたろう。24歳さい。日本の陸軍の軍医で、衛生学えいせいがくを学ぶためにドイツへ来て、1年半近くになります。のちに森鴎外もりおうがいという名で、小説を書くことになる人です。

この夜のことは、本人の日記に残っています。漢文まじりの、少しかたい文章で書かれた日記です。

仮面舞踏会の二日前。林太郎りんたろうは、三百人を超こえる人たちの前で、自分の国を笑い話にされていました。

場所は、ドレスデン。地学協会という会が、年に一度ひらく祝いの席でした。

演説をしたのは、ナウマンというドイツの学者です。長く日本にいて、日本から勲章くんしょうまでもらって帰ってきた人でした。それなのに、なぜかひどく不満そうな顔をしていた、と林太郎は書いています。

題は「日本」。日本の土地や暮くらし、政治、技術を語る話の中に、穏おだやかでない言葉がいくつも混じった。そして最後に、ナウマンは笑い話を一つ付け足します。

ある日本人が、汽船を一隻いっせき買った。航海を習ったばかりの日本人が、得意になって乗りこみ、海の外へ出ていった。何か月かして、故郷の岸が近づく。ところが機関士は、エンジンを動かすことは知っていたが、止め方を知らなかった。船は近くの海をうろうろしながら、エンジンがひとりでに止まるのを待ったのです。

「日本人の技術は、たいていこのとおりです。いつの日か、この弊へいを抜け出してほしいものです」

林太郎は、平気ではいられなかった。けれど、これは式の演説です。その場で言い返すことは許されない。日記には、こうあります。「余は懊悩おうのうを極めたり」。悩なやんで、悩みぬいた、というのです。

そこへ、ドイツの軍医監ぐんいかんのロートがやって来て、言いました。

「君は不満そうな顔をしている。どうしてだ。私の見るところ、ナウマンの話には、日本がこれから開けていくことを願う気持ちがある。なかなか妥当だとうな話のようだが」

ロートほどの人でさえ、日本のことをこの程度にしか知らない。ほかの人たちは、なおさらだろう。そう思うと、不満はますますふくらみ、何を飲んでも食べても味がしなかった、と林太郎は書いています。

ところが、そのあとで、思いがけない機会がめぐってきます。

答えのあいさつに立ったナウマンが、こんなことを言ったのです。私は長く東洋にいたが、仏教には染まらなかった。なぜなら、仏は「女には心がない」と言うからです。ご婦人方、私にはそんなことは信じられません。

林太郎は、これを聞いて「驚おどろき、かつ喜んだ」と書いています。

式の演説には言い返せない。けれど、酒の席の冗談じょうだんになら、言い返してもいい。彼かれはロートを通して会長に許しをもらい、立ち上がりました。

「余は仏教中の人なり。仏者として演説すべし」

私は、仏教の側の人間です。仏教徒として、お話しします。

拙つたないドイツ語で、とくにご婦人方のお耳に入れたいことがある、と前置きして、彼は続けた。ナウマン君によれば、仏教徒は、ご婦人には心がないと言うそうです。それなら、ご婦人方は、私もそう思っているとお考えでしょう。黙だまっているわけにはいきません。

そもそも、仏とは何か。目覚めた人、という意味です。お経の中には、女の人が仏になった例がたくさんある。女の人も、目覚めた人になれるのです。目覚めた人になれる者に、どうして心がないことがありましょう。

みなさん、どうか私と一緒に杯さかずきを挙げて、ご婦人の美しい心のために飲んでください。

一等軍医のエーヴェルスが、夫人とそばに来ました。妻がご婦人方の代表として、あなたの演説にお礼を申します。ほかの軍医たちも、みな演説をほめた。日記には「余の快、知るべし」とあります。どれほど胸がすっとしたか、分かってもらえるだろう。

ロートは、笑いをふくんで言いました。

「Immer verschmitzt!」

いつもながら、ずるいやつだ。

次の日、3月7日の午後。ロートは、ドレスデンを離はなれる林太郎のために、別れの宴うたげを開きました。陸軍病院の院長夫妻をはじめ、客が大勢集まった。

酒の席で、ロートは自分の作った詩を読み上げます。その途中とちゅうで、声をつまらせて泣きだし、止まらなかった。林太郎も、気づかないうちに涙なみだを流していた、と日記にあります。

別れぎわに、ロートは言いました。

「私が君を見るのは、ザクセンに来たほかの軍医たちと同じではない。君は、本当に私のよい友だ。ときどき無事を知らせて、私の心を慰なぐさめてくれ」

そして、ミュンヘンの学者ペッテンコーファーにあてた紹介状しょうかいじょうを、林太郎に託たくしました。その夜、林太郎はミュンヘンへ向かう汽車に乗ります。

国を笑い話にされ、冗談で言い返して、みなにほめられた夜。友と泣いた午後。

その次の夜が、ミュンヘンの仮面舞踏会でした。

大きな鼻の仮面をかぶって、林太郎は、踊りの誘いを、外国人だからと断った。それでいて、少女と酒を飲み、家まで送っていった。

一度、訪ねてきてください。そう言われた家を、彼は訪ねませんでした。その夜の日記は、こう続きます。

「余往ゆいて訪わずとわず。その真偽しんぎを知るに由よしなし」

私は、訪ねていかなかった。だから、あれが本当だったのかどうか、知りようがない。

そう書いたあと、日記は「宿に帰って、眠ねむりについた」と続きます。部屋は暖かく、寝床ねどこは柔やわらかかった、と。

それから2年半。ドイツから一人の女性が、彼を追って、海を渡わたってくることになります。

語学の勉強

「僕ぼくは毎日、語学の勉強に通っているよ」

様子はどうですか、と妹が尋たずねると、兄は笑って、平気な顔でそう答えた。人の心配も知らない顔だと、ほんとうに憎にくらしく思った、と妹の喜美子きみこは、のちに書いています。

1888年の秋のことです。

その年の9月8日、森林太郎もりりんたろうは4年ぶりに日本へ帰ってきました。26歳さいになっていた。

妹の喜美子は、大学の教授の小金井良精こがねいよしきよと結婚けっこんしていました。ベルリンにいた林太郎りんたろうが、電報で賛成を伝えた結婚です。

出迎でむかえの人混みを避さけて、喜美子はひと足先に千住せんじゅの家へ行き、留守番の祖母と待った。祖母は、こう言ったそうです。

「ただ久しぶりに帰ってくるのを喜ぶばかりではないのでね。篤とくの監督かんとくをしてもらいたいと思って、どんなに待ったことか」

篤とは、弟の篤次郎とくじろうのことです。家の長男には、帰ってきたら果たしてほしい役目が、もう待っていました。

やがて兄が、大勢に送られて、にぎやかに帰ってきました。祖母と母にあいさつをすませると、喜美子にこう声をかけた、と喜美子は書いています。

「やあ。お前こそ、おめでとう。よかったね。小金井こがねい君は駅へ来てくださって、ありがとう。篤は相変わらず批評家かね。潤じゅんも大きくなったね」

その晩のうちに、林太郎は父に、ある話を打ち明けていました。

喜美子がそれを知ったのは、16日あとの、9月24日の朝早くです。千住から母が来て、兄があちらで親しくなった女の人が追ってきて、築地つきじの精養軒せいようけんにいる、と告げたのです。喜美子は、目を見張って驚おどろいたと書いています。

兄が父にした説明も、喜美子は書き残しています。ただの、ふつうの関係の女性だ。自分は、そういう人を扱あつかうのが、ごく不得手だ。留学生の多い中には、面白がって、うちの暮くらしが豊かなように噂うわさして、けしかける者がいる。根が正直な人だから、それを真に受けて、日本へ行く、と言ったのだ。

その晩、千住で家族が相談し、次の日、喜美子の夫の小金井が、精養軒へ会いに出かけました。喜美子は、その女性の名を、エリスと書いています。

帰ってきた小金井は、こう話したそうです。

「なに、小柄こがらな美しい人だよ。ちっとも悪気のなさそうな。どんなにか、お金持ちの家の子のように思いつめているのだから。ずいぶん罪なことをする人もあるものだ」

それから小金井は、ひまのあるかぎり毎日、精養軒へ通ったといいます。エリスの気持ちをやわらげ、こちらの事情を、こまかく話して聞かせるためでした。

語学の勉強に通っているよ、と兄が笑ったのは、このころです。

やがて、エリスは国へ帰ることに決まりました。旅費も旅券もそろえて、小金井が持っていって渡わたしたそうです。

10月16日の午後、小金井は築地へ行き、林太郎とエリスと落ち合って、横浜よこはまへ向かいました。翌朝7時、みんなで小舟こぶねに乗って、船まで見送ったといいます。

エリスは、船べりからハンカチを振ふって別れていきました。その顔に、少しの憂うれいも見えなかったのが不思議なくらいだった、と、帰りの汽車の中で語り合ったそうです。

人の群れの中に並んで立っていた兄の胸のうちは、知らない。喜美子は、そうも書いています。

そのころ、もう一つの話が持ちこまれていました。結婚です。

話を持ってきたのは、西周にしあまねでした。林太郎が10歳で東京へ出てきたとき、家に住まわせてくれた人です。相手は、西の養子の姪めいにあたる、赤松あかまつ家の娘むすめの登志子としこでした。

喜美子は、本人の気持ちに任せておきますと答え、兄は、両親の気持ちしだいに、と言った。そう言い合っているうちに、仲人なこうどの熱心さが勝ちました。12月には話がほぼまとまり、母は、初めて嫁よめを迎むかえるのだと、うれしそうだったそうです。

エリスのことがあって間もないのに、と喜美子が案じると、夫の小金井は言ったといいます。

「あれは問題ではない。早く決めたほうがよかろう」

林太郎は、登志子と結婚しました。

そして、1890年1月。雑誌『国民之友こくみんのとも』に、林太郎の書いた小説が載のります。

題は「舞姫まいひめ」。

ベルリンに留学した日本の若者が、貧しい踊おどり子と恋こいをする。踊り子は、身ごもる。やがて若者に、国へ帰る道が開ける。それを知った彼女かのじょは、心を病んでしまう。それでも若者は、彼女を残して日本へ帰っていく。帰国の道をつけ、残される家族のことを一緒いっしょに手配したのは、若者の友人でした。

小説は、こう終わります。

「ああ、相沢謙吉あいざわけんきちがごとき良友りょうゆうは世にまた得がたかるべし。されどわが脳裡のうりに一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり」

ああ、相沢謙吉のようなよい友は、この世で二度と得られないだろう。けれど私の頭の中には、彼を憎む心が一点、今日まで残っているのだ。

小説の踊り子の名は、エリスといいました。