岩倉具視 — 居場所のなかった人
悪者と呼ばれて山里に追われ、あばら家からも出ていけと言われた公家が、刺客に酒を注ぎ、最後は自分の死期をたずねて笑うまで
天地は広いのに
「天地は広いというのに、それでもまだ、私たちを入れておく場所はないのか」
借りていたあばら家から、出ていってくれと言われた日。一人の男が、そう嘆いたと伝えられています。
家は、京都の北の山里、岩倉村にありました。六畳と四畳半と三畳の、三間きり。軒は破れ、柱は傾き、長いあいだ人が住んでいなかった。狐や狸のすみかのような家だったといいます。
そこからさえ、追い出されようとしている。
男は、ほんの少し前まで、天皇のそば近くに仕える公家でした。
岩倉具視。37歳。
なぜ、こんなところにいるのか。話は、一年ほど前にさかのぼります。
1861年の暮れ。具視は、江戸城で幕府の老中たちと向き合っていました。
皇女の和宮を、将軍のもとへ嫁がせる。朝廷と幕府が手を結ぶ、そのしるしの結婚でした。具視は、この話を進めた一人です。
ところが江戸では、幕府が天皇を位から降ろそうとしている、という噂が流れていた。具視はそれを問いただし、老中たちに詫びさせた。それでも、引き下がりませんでした。
「老中は、時がたてば替わる。あとあとの証しにはならない。将軍ご自身の筆で、誓いの書を出していただきたい」
具視は、そう求めたといいます。将軍が自分の筆で誓いを書いた例など、幕府が始まって以来、一度もない。断られかけても、聞き入れなかった。
数日後、幕府は折れました。
京都でその誓いの書を開いた天皇は、筆の運びが弱々しく、字の形もそろっていないのを見て、若い将軍が自分で書いたのはひと目でわかる、と笑ったそうです。
けれど、同じ京都で、この働きはまったく逆に見られていました。
外国を打ち払え、幕府の言いなりになるな。そう叫ぶ尊王攘夷の志士たちから見れば、皇女を幕府に嫁がせ、将軍と取り引きをする公家は、幕府の手先です。
1862年、十三人の公家が連名で、具視たちを幕府と通じた者だと訴え出ました。文面には、その不忠ははっきりしている、とまで書かれていた。名を連ねた中には、三条実美という公家もいました。
具視は、官を辞し、頭を丸めるよう言い渡されます。
その夜、昔のことが次々に胸に浮かんで、一晩じゅう眠れなかったといいます。
身を寄せた寺にも、悪口は届きました。ひそかに集まって悪だくみをしている。のろいをかけている。毒を盛る。門を閉じて、人に会いもしないのに、なぜここまで憎まれるのか。伝記は、具視がひとりでそう思いつめ、僧になって世を逃れようと決めた、と書いています。
具視は、僧の靖翁に、髪を剃ってくれるよう頼みました。靖翁は思いとどまらせようとしましたが、具視は引かなかった。
旧暦9月15日の明け方。仏頂国師の龕(仏像などを納める厨子)の前に座った具視の髪を、靖翁が剃りました。
そのとき具視は、胸の内でこう語った、とのちの伝記は書いています。
「私は九月十五日に生まれた。その同じ日に、いま僧の姿になる。前世からの因縁ではないか」
37歳の誕生日でした。
翌日、具視は笠をかぶり、草鞋をはいて、旅の僧に化けて寺を出た、と伝記は続けます。人目を避けて遠回りし、靖翁の庵のある村に入ろうとしたところで、向こうから正親町三条実愛が来るのに出くわしました。かつて、とりわけ親しく付き合っていた公家です。
具視はあわてて、芋畑のあいだに身を隠したそうです。実愛は、気づかずに通り過ぎていきました。
二日後、靖翁と下男が出かけたので、具視は自分で飯を炊きました。釜の上のほうはおかゆのようにどろどろ、底は真っ黒に焦げていた。夕方に帰った靖翁は、それを食べて大笑いしたといいます。具視が自分で炊事をした、初めのことでした。
次に身を寄せた西芳寺では、茶の炭を小さなのこぎりで切りました。長さは、茶の師匠のやり方どおり。ところが炭の粉が飛び散って、ひげも眉も真っ黒になった。住職は、その顔を見てからかったそうです。
手足を鍛えようと、破れ笠をかぶり、肥桶をかついで、長い柄杓で畑にまいたこともありました。見ていた下男は大笑いして、こう言ったそうです。
「案山子が、風に揺れているみたいだ」
具視は大きく息をついて、こう言ったと伝えられます。
「ごく卑しいことでも、ひまがあれば習っておくがいい。飯炊きや肥まきは、気のきかない下男や下女でもできる。それなのに、身分のある者が慣れていないと、やはり人に笑われる。まして、これより大きなことなら、なおさらだ」
寺も、長くはいられませんでした。初めに身を寄せた霊源寺の住職は、朝廷も世間も具視をひどく憎んでいるのを見て、災いが自分に降りかかるのを恐れたのだと伝えられます。別の用にかこつけて、寺を出てほしい、と頼んできた。
そうして移ったのが、岩倉村の、あの家です。移って二日後には、冷たい風が吹きすさび、雪が一寸(約3センチ)あまり積もりました。
移って九日後。家の持ち主の藤屋藤五郎が、だしぬけにやって来ました。この家に急な用ができた。どうか、よそへ移ってもらえないか。
冒頭の嘆きは、このときのものです。
これを聞いたのが、実相院という寺の坊官でした。寺の用をとりしきる役の人です。坊官は、具視が困りはてているのを気の毒に思い、藤五郎をていねいに説き伏せて、話を取り下げさせました。
具視とは、まだ面識のない人でした。
具視は、その情けの厚さを喜び、歌を詠んで礼を述べたといいます。
使う者は、年とった下男が一人だけ。下男が出かけると、具視は自分で水を運び、柴を運んで、台所に立ったといいます。
ここから五年。具視は、この村を出られません。
草むらで鳴く虫
岩倉村での暮らしは、二年、三年と続きました。
京都の町なかに住むことは、朝廷から禁じられていました。訪ねてくる者もほとんどいない。
1865年。具視は、一つの意見書を書き上げます。題は、『叢裡鳴蟲』。草むらの中で鳴く虫、という意味です。
訪ねてきた薩摩の井上石見に、これを見せ、小松帯刀と大久保一蔵の意見を聞いてほしいと頼みました。二人とも、以前からの知り合いです。のちの大久保利通です。
書き出しで、具視は自分のことをこう書いています。
「重い咎めを受けて、洛北の山村に引きこもり、着物を夏物と冬物に替えることも、もう四度になった。その間に付き合うのは、農夫や木樵だけ。世の中のことを聞いても、町のうわさ話にすぎない。このように推し量って書けば、事実を取り違えたところも多いだろう。読む人は、どうか許してほしい」
続けて書いた続編には、こうあります。
「朝廷の公家たちは、みな私を仇のように見て、便り一つよこす者もない。ふしぎなのは、正親町三条と大原の二人だ。とりわけ親しく、胸を開いて国のことを語り合ったこともあったのに、今は鳥の足あとさえ絶えてしまった」
芋畑に隠れて、やりすごした、あの人です。
「私には学問がない。文章も下手だ」と、具視は書きました。世間にもれたら、罪を重ねることになる。それはわかっている。それでも、心が動いて、やめられない。どうか、ほかにはもらさないでほしい。もし取るところがあれば、生きているうちの本望だ。
それから一年あまりたった、旧暦12月の半ば。天皇が疱瘡にかかった、という知らせが届きます。具視は、日も夜も、天地の神々に回復を祈りました。
旧暦12月26日。父の具慶から手紙が届きます。前の晩、天皇が亡くなった、と。
具視は、声をあげて泣いた。そばに仕える者たちも、袖をぬらしたといいます。
伝記は、このとき具視がひとり考えたことを書いています。和宮のことで朝廷からも世間からも怒りを買い、悪者の名を着せられて、引きこもってもう五年。一日も天皇のご恩を忘れず、もう一度そのお顔を拝むことだけを考えてきた。その望みも、もうかなわない。世の中のことは捨てて、仏の道に入り、亡き天皇のために祈ろう。
二度目の、世を捨てる決心でした。
具視は、その思いを手紙に書いて、仲間の公家の中御門経之に送ります。経之は、強く諫める返事をよこしました。
その返事の中に、具視自身の言葉が書き返されていました。前に経之が、意見が採り上げられなければ身を引く、と言ったとき、具視はこう戒めたというのです。
「それは、漢土(中国)の人のすることだ。この国では、決してしてはならない。是非にかかわらず、一生、臣としての務めを尽くせ」
自分がかつて人を戒めた言葉で、具視は、引き止められたのでした。
年が明けた旧暦2月。玉松操という学者が、具視の家に来るようになります。引き合わせた者は、この人はきっとあなたの片腕になります、と言ったそうです。
1867年の旧暦11月、坂本龍馬と中岡慎太郎が、京都で斬られました。知らせを持ち帰った香川敬三は、袖をぬらしていた。具視は言ったといいます。
「ああ、どんな化け物が、私の片腕を奪ったのか」
そして、声をあげて泣いた。
旧暦12月8日の夜。具視の家には、志士たちが集まっていました。翌朝、朝廷の政治を一気に改める。その手はずでした。
真夜中、正親町三条から、急ぎの手紙が届きます。尾張藩の兵が、約束の刻限より早く動いてしまった。たくらみが、もれたかもしれない。
二年あまり前、鳥の足あとさえ絶えた、と書いた相手からの知らせでした。
志士たちはいきり立ちました。会津と桑名の兵が、きっと囲みに来る。斬り込んで、戦って死ぬまでだ。みな刀をなでて、そのときを待った。
具視は、侍女に酒を運ばせて志士たちにふるまい、こう言ったと伝えられます。
「成るか成らぬかは天が決める。生きるか死ぬかは運命だ。天地に恥じない心で、天地に恥じないことをはかるのだ。たとえ事が成らずに死んでも、天下にも後の世にも、恥じることなどあるものか」
笑いながら話しおえると、具視は杯を投げ出して、横になった。
たちまち、雷のようないびきが聞こえてきました。
志士たちは、その肝の太さに驚いたといいます。
会津と桑名の兵が来るのか、来ないのか。夜明け前の屋敷で、それはまだ、だれにもわからなかった。
刺客に酒を
しばらくして、尾張藩の使いが詫びに来ました。刻限を取りちがえて、兵を進めてしまった、と。朝廷には、殿様が帰り道で襲われるといううわさがあったので、若い者が守りに駆けつけただけだ、と言いつくろった。朝廷も、それ以上は怪しまなかったといいます。
目を覚まして起き上がった具視に、そばに控えていた一人が、それを伝えました。そして、たずねた。大事が今にもつぶれそうなときに、急に眠ってしまわれたのは、どういうお考えだったのですか。
具視は笑って、こう答えたといいます。
「はかりごとが尽き、知恵がきわまったときは、少し眠る。そうすれば心がすっきりして、また良い考えが浮かぶものだ」
旧暦12月9日の朝。朝廷の使いが来て、宣旨を手渡しました。
「思し召しにより、蟄居を許す。ただちに髪をもとに戻し、朝廷に出るように」
具視は衣冠を着け、新しい政治の文案を入れた箱を一つたずさえて、五年ぶりに御所へ上がります。守りにつくはずの兵は、まだ来ていない。息子の具定を走らせて、薩摩の兵を急がせた。門を出たところで、具定は、兵を率いてやって来る西郷吉之助に出会ったといいます。
その日、王政復古の大号令が出されました。
けれど、具視を憎む人が消えたわけではありません。
年が明けた旧暦正月3日の夜。鳥羽・伏見で、旧幕府の兵との戦いが始まりました。
公家の烏丸光徳は、前から、こう言っていました。岩倉は今になっても、まだ幕府の味方をする心を持っている。この戦いが知らされると、烏丸は怒って、懐に刀を隠して立ち上がった。わびの一言もなければ、刺し殺すまでだ。止める者の言うことも聞かず、具視の休む部屋へ入っていきました。
砲声が宮中まで響き、戸や障子が震えていた。その中で具視は、机にもたれて、うたた寝をしていたといいます。顔色ひとつ変わっていない。
その姿を見て、烏丸の気持ちはくじけました。具視の肩をゆすり、うそを告げた。官軍は負けた。賊軍が京都に攻め込んでくる。どうするのか。
「こうなることは、前からわかっていた。死んで国に殉じるだけだ。あなた方は、あとの始末を考えておかれよ」
烏丸は、それ以上何も言わずに出ていった。そして、具視が落ち着きはらって動じないのに心服した、と人に語ったと伝えられます。
味方の中にも、離れていく人がいました。
新しい政府が、外国と条約を結ぶことを国じゅうに知らせたとき、玉松操は具視を問いつめました。具視は答えた。世界のありさまは、もう昔とはちがう。外国と約束を結ぶのは、やむをえないのだ。
玉松は長いため息をついて、言ったといいます。
「奸雄に売られた」
片腕になる、と引き合わされた人でした。
旧暦4月22日。具視の耳に、知らせが入ります。落合直亮という浪士が、仲間五、六人と、道で具視を襲おうとしている。
具視は家の者を落合のもとへやり、今夜、屋敷へ来るように、と伝えさせたと伝えられます。
夜、落合は仲間の一人と、二人でやって来た。具視は人を遠ざけ、二人を近くに呼んだ。
「お二人を招いたのは、ほかでもない。この国の男どうしとして、付き合いたいからだ。お二人は、それを望まないか」
具視はそう切り出したそうです。
二人は、黙って答えなかった。
具視は続けた。私を殺そうとしているのも、国のために害を除こうという誠からだろう。私のすることが本当に国の害になるなら、この席で、お二人の刃を受けよう。死ぬのは、決して恐れない。
そして、こうも言ったといいます。
「私は政府の中心の役についている。それでも、思うようにならないことが、十のうち八つ九つだ」
朝廷には、兵も金もない。大きな藩の力を借りるしかない。力を借りれば、その言い分も聞かなければならない。どうか今は、こらえて、時を待ってほしい。
話しおえると、具視は酒を運ばせ、自分で銚子を取って、二人の杯に注いだ。二人は感激して、礼を述べました。
具視は、二人の雨露をしのぐ宿として、昔の仮住まいだった実相院を貸し、暮らしの費用も贈ると約束したと伝えられます。
1870年の旧暦正月。東京の屋敷に、具視は、苦しかったころの仲間たちを招いて、小さな宴を開きました。そのとき書いた詩の序に、こうあります。
「私はもともと学問もなく、見識もない。王政復古の大業に、何の功があっただろう」
諸君の知恵を借り、諸君のはかりごとに従って、ただまごころで務めただけだ、と。そして、仲間の名前を、一人ずつ書き並べていきました。香川に会えたのは、松尾と藤井のおかげ。坂本と中岡に会えたのは、大橋のおかげ。その梯子がなければ、今日の自分はなかった、と。
序は、こう願っています。
「ただ願うのは、私と諸君とが、おまえ、おれと呼び合う仲のまま、いつまでも昔のようでいることだ」
直垂のスピーチ
1871年12月23日。具視は、横浜から船で旅立ちました。
特命全権大使。アメリカとヨーロッパの国々を回る、政府の使節団の長です。副使には、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らが並びました。具視は、46歳になっていました。
太平洋の上で、五日目。日本では、天皇が新しい米を神に供える新嘗祭の日でした。
天皇の万歳を祝おうと、船の客みなにシャンパンがふるまわれた。具視は、直垂という昔ながらの日本の礼装を着て、西洋人の客たちに向かって、今日がどういう日かを話して、ともに祝ってほしいと述べました。日本に駐在するアメリカの公使デ・ロングが、それを英語に通訳した。客たちは立ち上がって、杯をあげたといいます。
記録係の久米邦武は、使節の旅でスピーチをしたのは、この日が初めてだった、と書きとめています。
サンフランシスコに着いた翌日の夜、旅館の前に楽隊が来て、数万の市民が通りを埋めました。具視は旅館の上の階から、礼の言葉を述べた。
その数日後、具視は体調をくずします。何日か、副使たちが代わりに見物や昼食会に出かけていきました。
1872年、旧暦2月3日。ワシントンの国務省で、使節団は国務長官と向き合い、条約を改める話にまで踏み込みました。ところが、木戸の日記によれば、天皇から預かってきた国書には、交渉をまかされたことを示す言葉が、十分に書かれていなかった。
大久保と伊藤が、その許しを取りに、急いで日本へ引き返すことになります。
木戸は日記に、深い悔いを書きました。外国の事情にくわしい者の言うままに、あわてて従ってしまった。実に、われわれの罪だ。
「向こうが欲しがるものはすべて与え、こちらが欲しいものは、まだ一つも得られない」
この日の日記に、具視の名は出てきません。
その年の日付で、岩倉家の留守宅を気づかう公家の大原重実から、手紙が来ています。具視の写真を見た、という。
「洋服姿のお写真を拝見したところ、肉を召し上がるせいでしょうか、ずいぶんお太りになったようで、お元気なのはお国のためにもめでたいことです。散髪も、もっともです。私も、このごろ散髪にしました」
髷を落とした具視の姿を、日本の友は、そう受けとめたのでした。
1873年2月13日。パリで、一通の電報が届きます。父の具慶が亡くなった。
具視は、深く嘆き悲しみました。翌日、すぐに喪を切り上げて務めに戻れ、という電報が届いた。旅は、続きます。
ベルリンから、具視は太政大臣の三条実美に書きました。
「老父も、ついに養生がかなわず亡くなったという知らせを受けた。海外の旅の途中で、思いもしなかったことで、驚いている」
あの十三人の弾劾に名を連ねた三条が、このときの政府の第一の人でした。
ベルリンには、三条から、木戸と大久保を日本へ呼び戻すという命令も届いていました。木戸はなお各国を回りたいと言い、大久保はすぐに帰ると言う。具視は三条に打ち明けています。
「どうか二人の進退が同じになるようにと思うが、私の力では行き届かず、何とも残念だ」
この手紙は、ほかの人には見せないでほしい、と書き添えて。
5月、ローマから、具視はまた三条に書きました。
「使節には、条約改定の談判はないので、少しも差し支えはない。ご安心を」
一年あまり前のワシントンで、条約を改める話にまで及んでいたことは、木戸の日記にあります。そのあいだに何があって、こう書いたのか。具視は、この手紙には何も書いていません。
1873年9月13日。具視は、横浜に帰り着きました。
六日後、パリにいる鮫島尚信に宛てて、こう書いています。
「二年もの長いあいだに、次々に改められたことが、のみこめず、ただ当惑している」
木戸は病気で出てこない。大久保は湯治に出かけていて、まだ会えていない。
9月18日。父を弔うために五十日の休みがほしい、と具視は願い出ました。三条は、国の大事なときに五十日も休めば、内にも外にも疑いを生む、と止めた。
結局、許されたのは七日間でした。
七日のあいだ、具視は毎日、父の墓へ通ったといいます。
目の黒いうちは
帰国からひと月。政府は、真っ二つに割れていました。
西郷隆盛を使節として朝鮮へ送るかどうか。意見は二つに分かれ、具視は、送ることに反対でした。
1873年10月17日。具視は、三条に手紙を書いています。
「まったく、私の話し方が粗忽で、思いを通しきれなかったのだと、深く恐れ入っております。この上は、覚悟を決めて身を引くほかありません」
同じ日、参議の大隈重信にも書いた。
「私は、職を退くことに決めて、三条公と別れました」
ところが、その三条が、病に倒れます。太政大臣の務めは、具視が代わって行うことになりました。
10月22日。西郷たちが、具視の屋敷へ押しかけてきました。使節を送ると決めて、すぐに命令を出せ、と迫る。具視は、両方の意見をそのまま天皇に申し上げて、ご判断を仰ぐ、と答えた。
議論は、やまなかった。一緒に来ていた桐野利秋は、腕をまくり、何度も刀をなでたといいます。
具視は、みなの言い分を押しのけて、こう言いきったと伝えられます。
「私の目の黒いうちは、あなた方のしたいようには、させない」
西郷は言った。閣下のお考えは、もう決まっている。われわれには、どうしようもない。
一同は席を立ちました。帰りぎわ、西郷はふり返って、こう言ったと伝えられます。
「右大臣は、よく踏ん張った」
西郷たちは、政府を去っていきました。
翌1874年1月14日の夜。御所からの帰り道、具視の馬車が、赤坂の喰違というところにさしかかったときです。
ここからの様子は、のちの伝記がくわしく書いています。道ばたに、七、八人の男がいた。一人二人が前に出て、馬のくつわを取ろうとする。御者がとがめると、男たちはいきなり刀を抜いた。馬車の右の轅によじのぼって斬りつける者がいる。後ろから、幌を切り裂く者がいる。
具視は、すでに御者と一緒に、御者台に身をかがめていました。左の轅から飛び降りて逃げた。眉間にかすり傷、左の腰にも傷を負った。腰に差していた短刀の鞘が刃を受けとめて、傷は深くなかったといいます。
追ってきた刀は、外れた。具視は、どぶの中に転げ落ち、茨の茂みに身を隠したそうです。
男が一人、左手に提灯、右手に抜き身を下げて、探しまわっている。具視は、縞の襟が目立つのを恐れて、黒い羽織の襟を返して覆い、帽子のつばを下げて顔を隠した。
そのとき、御所の門の前で、人の騒ぐ声がした。男たちは、あわてて逃げていったと伝えられます。
具視は崖をよじのぼって、どぶから出た。駆けつけた宮内省の者が、血で着物が汚れているのを見て驚き、具視を背負って運んだ。屋敷では、何も知らなかった。御者もいない空の馬車が、車の音だけ立てて帰ってきて、初めて騒ぎになったといいます。
五日後、具視は、叔母の洗子に手紙を書きました。ふだんから具視を子のように思い、具視も母のように慕っていた人です。
「命にかかわるようなことでは決してございませんので、必ずご安心ください」
そして、こう続けています。
「もとより、私心は少しもなく、ただ国のためと思うほかはございませんので、天地に恥じるところは少しもございません」
六年前の旧暦12月8日の夜、志士たちに言った言葉と、ほとんど同じでした。
けれど、その三か月後。具視は三条に託した辞職願に、こう書いています。
「人にそしられるのは、もう一日や二日のことではない。多くの人の憎しみを積み重ねた果てに、とうとうここまで来た」
具視は、そのまま右大臣の席にとどまります。
1877年5月26日。木戸孝允が、病で亡くなりました。具視は三条への手紙に書いている。
「実に、片腕を断たれた心地です」
十年近く前、坂本龍馬が斬られたときと、同じ言葉でした。
翌1878年5月14日。大久保利通が、東京で斬られて死にます。
斬った者たちは、なぜ斬ったかを書いた斬奸状を差し出していました。そこには、木戸の死は、天がその大姦を憎んで、まず一人に罰を下したのだ、とある。
そして、こう続いていました。
「残る姦徒、岩倉具視以下の者どもも、……近いうちに斬り滅ぼされるのを免れないだろう」
百年
晩年の具視は、東京から北へ延びる鉄道を造る会社を起こそうと、人を集めていました。使節の旅で、国を栄えさせるもとは鉄道にある、と見きわめてきたのだと、仲間の手紙は書いています。
やがて、その相談の場が、具視の屋敷の中の小さな建物に移されました。仲間の一人は歌に詠んで、そこを鉄道の産屋と呼んだ。
その日、話し合いがすむと、具視は言いました。工事を始める段取りが、ずいぶん進んだ。一杯あげて、この先の成功を祝おう。
家の者に運ばせた肴は、塩引きの鮭や豆腐。具視は笑って、こう言ったといいます。
「事を始める苦しさに耐えようと思うなら、ぜいたくを固く戒めなければならない。いま、この濁り酒を酌み、この干し魚を食べて、いつまでも倹約を忘れるな」
みな喜んで語り合い、杯を交わした。具視は会の費用として、三百円を出しました。
1883年6月10日。57歳の具視は、京都の嵐山にいました。仲間たちと屋形船を浮かべ、保津川をさかのぼって、つつじの花を見た。船には、のちにこの人の伝記をまとめることになる多田好問も乗っていました。
船の中で、具視は言った。幕府のころは、枯れた桜や楓のかわりに、役所が若い苗を植え足していた。維新のあとは、枯れるにまかせている。惜しいことだ。広く志のある人から金を集めて苗を植えれば、昔の景色に戻せるのではないか。
みな賛成し、その場で一つの会ができました。苗一本の値は、五銭。具視も、乗っていた者たちも、それぞれ金を出したといいます。
二日後。京都で、具視は胸の激しい痛みに襲われます。食べ物が、のどを通らなくなった。
いったん持ち直した日、具視は、ついてきた者たちに酒をふるまい、いつものように談笑したといいます。みな、少しほっとした。
けれど、東京へ帰る船の上で、病は重くなりました。
7月5日。天皇が、具視の病床を見舞いに来ます。
7月10日、具視は辞表を出しました。天皇は、右大臣の進退は天下の安危にかかわる、と使いに伝えさせて、それを返した。
12日には、皇后が見舞いに来ました。病室には薬の道具が散らかっている。具視は、皇后はお気になさらないだろうが、お供の女官たちは嫌がるだろう、と案じ、女官は部屋の外に留めていただくよう申し上げてくれ、と香川敬三に頼みました。
香川が部屋を出ようとしたとき、具視は急いで呼び戻して、こう言ったと伝えられます。
「皇后が女官を退けて、ひとりで男の病室にお入りになる。その例が、私の見舞いから始まって、のちのちの先例になったら、悪いならわしを作った私の罪は大きい。さっきの願いは、取りやめにしてくれ」
部屋を出ていく皇后の後ろ姿に、具視は手を合わせたと伝えられます。
18日、具視はもう一度、辞表を出します。
7月19日。宣旨が届きました。
「右大臣岩倉具視、願いにより本官を免ず。ただし、前右大臣と称すべし。座次(席の順)は、もとのとおりとする」
具視は、晴れ晴れとした顔になり、病を忘れたかのようだったといいます。
その日、天皇はこう言ったと伝えられます。
「朕みずから、前右大臣と別れをしよう」
お供の支度がととのう前に、天皇の車は宮門を出た。知らせを聞いた具視は、涙を流したそうです。
伝記によれば、病室に入った天皇に、具視は頭をもたげて、もう体が思うように動かず、礼をつくすことができません、と言い、手を合わせた。前右大臣、ぐあいはどうか、と天皇がたずねる。
「臣は、陛下の万歳をお祈りするばかりです」
そう答えたといいます。
二人は向き合ったまま、ほかに言葉はなかった。そばの者たちは、みな、ひそかに襟をぬらしたといいます。
その夜、具視は、息子の具綱と具経を枕もとに呼んで、こう言い残したと伝えられます。
「生きて国の役にも立てなかったのに、死んで人をわずらわせてはならない。葬式は質素にせよ。墓は、亡き父のものを越えてはならない」
医者の伊東方成が診察に来たとき、具視はこうたずねたそうです。
「私の臨終は、いつだ」
医者は恐れ入って、答えられなかった。そばにいた香川が、代わりに答えました。
「公は、まだ百年は生きられます」
具視は、それを笑ったといいます。
翌7月20日の朝、7時45分。岩倉具視は、57歳で亡くなりました。
二十年あまり前、山里のあばら家で、天地は広いのに自分を入れる場所はないのかと嘆いた人でした。
職を退いても、席は、もとのまま。亡くなる前の日に届いた宣旨には、そう書かれていました。