伊藤博文 — 武士であるから、二本さす

公使館に火をつけた若者が、初代の総理大臣になり、隣の国の青年に撃たれるまで。二つの国で正反対に呼ばれる人の一生

鋸のこぎりと二本の棒

「拙者せっしゃ、こうなるだろうと思ったから、この道具を用意してきた」

そう言って男が腰こしから抜ぬいたのは、刀ではなく、鋸のこぎりでした。

目の前には、丸太の柵さく。その向こうに、イギリスの公使館こうしかんがある。1863年1月31日の夜ふけ、江戸えどの品川しながわ、御殿山ごてんやまでのことです。

男の仲間は、十人あまり。外国人を力で追い払はらえ、という攘夷じょういの考えに燃えた、長州藩ちょうしゅうはんの若者たちでした。今夜、この公使館に火をつけに来たのです。

ところが、柵を破る道具のことを、誰だれも考えていなかった。それに気づかなかったのは残念だ、と久坂玄瑞くさかげんずいが言ったところで、男は鋸を出した。のちに本人が、そう語っています。

鋸は、前もって買っておいたものでした。一同が酒を飲みながら夜ふけを待っていた品川の遊郭ゆうかく、土蔵相模どぞうさがみ。その入口の天水桶てんすいおけに、こっそり隠かくしておいたのです。

男の名は、伊藤いとう。のちに伊藤博文いとうひろぶみと名乗り、日本で最初の内閣総理大臣になる人です。このとき、21歳でした。

伊藤は、武士の家に生まれた人ではありません。

幼いころ、利助りすけと呼ばれていた彼かれは、木や竹の棒を二本、帯にはさんで、肩かたをいからせて歩くのが好きでした。武士は、刀を二本、腰に差して歩くものです。なぜ二本なのか、と聞かれると、利助はこう答えたといいます。

「武士であるから、二本さす」

周防すおうの束荷つかりという村で、村の役を務めていた父の十蔵じゅうぞうは、お金のことにうとかった。借金で首が回らなくなり、一度は本家が払ってくれたが、二度目は断られて、一人で萩はぎの町へ出ていったと伝えられます。母と利助は、母の実家に身を寄せました。

萩に移っても、暮らしは楽ではなかった。10歳になるかならないかのころ、寺に預けられて、紙を頭の下に敷しいて眠ねむった。朝起きると、その紙の上を虱しらみが這はっていたことがあると、本人がのちに話しています。

やがて利助は、武家の屋敷やしきで、小さな召使めしつかいとして働くようになります。

ある晩、屋敷の人がみな祭りか何かの見物に出かけ、利助ひとりが留守番に残されました。気にかかった父が、そっと様子を見に来た。玄関げんかんわきの小部屋にしょんぼり座っていた利助は、父の顔を見るなり、泣き出したそうです。

父は、ひどく叱しかりつけた。

「留守の大役を言いつけられながら、男が泣くとは何事だ」

そして、そのまま帰っていったと伝えられます。

その子が、やがて藩はんのいちばん下の兵の組に入り、吉田松陰よしだしょういんの塾じゅくにも学んだ。そして今夜は、鋸を腰に差して、ここにいるのです。

柵の根もとを挽ひいて、一同は中へ入りました。すると、番人がとがめた。伊藤の話では、こんなやりとりだったそうです。

「吾々われわれは天下の志士だ。お国のため、妖気ようきを払いに来た」

「何をするのだ」

「焼やき打ちするのだ」

「それはならぬ。許さぬ」

なかなか責任を重んじる番人である。伊藤はのちに、そう評しています。高杉晋作たかすぎしんさくが刀を抜き、刃はのない背の側で打つ峰打みねうちで、番人を追い払いました。

次は、火です。

火薬を入れた炭団たどんを用意する役は、仲間の井上聞多いのうえもんたが引き受けていた。よりによって、そそっかしい井上が。伊藤は、はじめから心配していたそうです。

焼き打ちの前、井上は袖そでから炭団を出して見せていました。身につけていては危ない、と伊藤が注意すると、井上はそれを、なじみの遊女、お里の部屋の、額縁がくぶちの裏に隠した。

「炭団を出せ」

「しまった。お里の部屋の額の裏へ隠したきり、出してくるのを忘れた」

心配が、そのまま当たったのです。一同は戸や障子を積み上げて火をつけ、引き上げました。

次の晩。伊藤と井上の二人で土蔵相模へ出かけて額縁の裏を探ると、炭団がない。ゆうべ、いたずらで隠したが、誰か見つけたろうか。そう尋たずねると、お里は言ったと、伊藤は語っています。

「本当に乱暴ないたずらをなさること。いただいて、一つ火鉢ひばちにくべましょう」

お里が火箸ひばしで炭団をはさむ。井上はあわてて、その手を押おさえた。

「何を馬鹿ばかする」

「炭団を火鉢に入れるのに、何が馬鹿です」

お里は、平気なものでした。

「あなたも天下の志士だなどと威張いばりながら、あまりといえばお気が小さい。命がけの大事をなさるのに、肝心かんじんの道具をお忘れなさるようでは、行く末が案じられてなりません」

二人は、この遊女の度胸と知恵ちえに、すっかり感心したといいます。

焼き打ちの夜、仲間の一人は、御殿山のふもとで、遊女からの恋文こいぶみを落としていました。手紙の主の遊女は役人に呼び出されたが、そんな手紙は覚えがない、と言い通した。罰ばつを受けた者は、一人も出なかったそうです。

それから、九日後。

伊藤は山尾庸三やまおようぞうと二人で、塙次郎はなわじろうという国学者を斬きりました。

昔、天皇が位を追われた例を調べていると言われた人です。

子ども扱あつかい

「金は持ってこない。たった三百両ずつ、もらってきただけだ。金は、君がどうにかしてくれると思って来たのだ」

横浜よこはまの伊藤いとうのもとへ、京都からやって来た井上聞多いのうえもんたは、そう言ったと伊藤は語っています。一緒いっしょにイギリスへ行こう、というのでした。あの炭団たどんを忘れた井上です。

伊藤は、藩はんの命令で、武器を買いに横浜へ来ていました。武器は手に入らず、預かった金が残っていた。

同じ1863年、藩は伊藤に、特別の計らいとして、一代かぎり名字を名乗ることを許し、武士に準じる身分で召めし抱かかえていました。やっと手にした身分です。

けれど幕府ばくふは、許しなく国を出ることを禁じていた。命令を受けて来ている伊藤が行けば、藩を捨てて逃にげることになります。

伊藤は、行くと決めました。事情を書いた手紙を藩に送り、横浜の商人から、留学のための大金を借りた。父には、前もって相談しなかったことを、手紙で詫わびています。

船に乗るため、水夫の着る古着の洋服を買い、靴くつを買った。ところが靴は、片方に両足が入るほど大きい。頭は、まだ髷まげを結ったままです。洋服に靴をはいたその姿は「実に妙みょうであった」と、伊藤は振ふり返っています。

夜中、イギリスの商館の庭のすみで待つうちに、五人とも、髷を落とした散切り頭になっていたそうです。

ところが、商館のイギリス人ガールが、幕府が禁じている者を連れていくことは請うけ合えない、と言い出した。五人は、こう言い返したと伊藤は語っています。

「もう頭は斬髪ざんぱつになり、こういう姿になっているから、ここで連れて行かれずに外へ出れば、きっと狙ねらわれるに違ちがいない。それなら腹を切る。どうせ縛しばられて殺ころされるなら、むしろここで腹を切る」

ガールは驚おどろいて、少し待て、と奥おくへ入っていった。五人は、連れていってもらえることになりました。

夜の二時ごろ。波止場へ向かう途中とちゅう、役人のいる運上所うんじょうしょの前を通らなければならない。日本人に分からないように私が英語で話すから、お前たちも大きな声で何か話せ、と言われた。

五人は教えられたとおり、何だか訳の分からないことを大声で言いながら、運上所の前を通り過ぎたそうです。

船では、蒸気釜がまのそばに入れられ、出港まで、そこにかがんでいた。上海シャンハイまでは大嵐あらしで、ろくに物も食べられない。上海から乗りかえた船で出た食べ物は、パンと、洋食の食べ残しでした。

イギリスの人たちは、五人を、子どものように扱あつかいました。

伊藤は、のちにこう語っています。

「日本では子どもどころではない。大騒さわぎをやっていた者が、向こうでは、まったく小児のように取り扱われることになった」

公使館こうしかんに火をつけた若者が、船の上では、パンの食べ残しをもらう子どもでした。

ロンドンの下宿でのことです。

新聞を読んでいた家の者が、伊藤に、お前は日本のどこの者だ、と聞いた。長州だと答えると、こう言われた。下関しものせきで外国の船を砲撃ほうげきしたのは、お前のところだろう。

新聞には、イギリスの議会で、長州を攻せめるべきだという議論まで出ていました。

このまま放っておけば、取り返しのつかないことになる。伊藤は、そう考えたと語っています。

「長州などが攘夷じょういを無謀むぼうにしようというのは、もってのほかだ」

「たとえ我々がここで学問して業が成っても、自分の生まれた国が亡びては、何のためになるか」

そのころのことを、伊藤は、のちにこう振り返っています。

「思えば昨非今是さくひこんぜで、そのときからわずか一年前には、自分で攘夷決行の端たんを開こうとして、まず御殿山ごてんやまの外国公使館を焼やき打ちしたのである」

昨日までの自分はまちがいで、今日の自分が正しい。昨非今是とは、そういう意味です。

伊藤と井上は、日本へ帰ると決めました。残る三人には、自分たちの志を継ついで学業を遂とげるように言い、固く約束して別れた。1864年、二人は帰国します。

その翌年の、1865年1月12日の夜。雪が降っていました。

藩の政府を相手に、高杉晋作たかすぎしんさくが兵を挙げようとしていた。その高杉から、使いが来ます。今夜、兵を挙げるから、ぜひ帰ってこい。

伊藤はこのとき、力士隊りきしたいという、相撲取すもうとりを集めた隊を率いていました。高杉に従うと決め、隊に兵糧ひょうろうの用意を言いつけた。

夜中、伊藤は高杉たちと連れ立って、長州に身を寄せていた公家くげの三条実美さんじょうさねとみが泊とまる寺へ、別れのあいさつに行きました。応対に出た、家老のような人が言ったそうです。

「三条さんは眠ねむっておいでだから、お起こし申そう。その間に、酒を一杯いっぱい飲ませよう」

出てきたのは、重箱のすみに残っていた、煮豆にまめの食べ残しでした。

隊に戻もどると、知らせが待っていた。

「大変です。御堀みほりさんが銃じゅうも何もみな取り上げて、門の外へ一人でも出るやつは斬きるということですから、お帰りになっては大変でございます」

伊藤は、答えました。

「そうか。しかし、おれだけは行く」

雪の積もる夜の中へ、伊藤は出ていきました。

物が不思議に安かった

人を殺ころすのは悪い、ということで、空鉄砲からでっぽうを撃うった。

夜が明けきらないうちに、馬関ばかん(今の下関しものせき)の奉行所ぶぎょうしょを取りに行ったときのことを、伊藤いとうはそう語っています。弾たまの入っていない鉄砲てっぽうの音に、役人たちはみな、裏の垣根かきねを越こえて逃にげてしまった。

二年前に国学者を斬きった男が、そう語っているのです。

それからしばらく、伊藤は馬関で暮らしました。

妻の梅子うめこと、小さな借家住まい。召使めしつかいは男が一人、女が一人です。梅子は自分で掃除そうじも炊事すいじもした。暮らしにかかるお金は、ひと月に五両ほど。米は、山口にいる井上聞多いのうえもんたが、ときどき一俵ずつ送ってくれたと伝えられます。

このころ伊藤は、母に、わずかなお金を送っています。手紙には、こうある。

「金一両あまり、少々ではございますが、お小遣こづかいになさってくださいますよう、お送り申し上げます」

ある時、伊藤は馬関で客をもてなしたあと、熱を出し、大病になりました。梅子は身重で、看病ができない。一時、よそに預けられた。

山口から駆かけつけて看病したのは、井上でした。

まるで今の看護婦がするようなことまでしてくれた。伊藤は年をとってからも、その親切を忘れず、家の者に話していたそうです。

やがて娘むすめの貞子さだこが生まれ、梅子は子守を女中にまかせて、自分は家事に追われた。風呂ふろまで焚たいたといいます。

ある日、伊藤は、外国で親しくなった西洋人がしばらく一緒いっしょに住む、とふれこんで、一人の男を家に連れて帰りました。

イギリスから戻もどった遠藤謹助えんどうきんすけ。ロンドンに残った、あの三人の一人です。

梅子と遠藤は、言葉のないまま、あいさつを交わした。あとで梅子は、真面目まじめな顔で伊藤に言ったそうです。

「鼻の低い異人ですね」

二人は、大笑いになったと伝えられます。

のちに、夫婦が差し向かいで寝酒ねざけを飲むとき、馬関のわび住まいを思い出しては、たびたびこう語り合ったといいます。

「あのころは、物が不思議に安かった」

明治めいじの世になると、伊藤は新しい政府に加わり、神戸こうべや東京で働くようになります。東京の家には、いつも居候いそうろうがいた。昔なじみと一緒に住み、毎日顔を合わせているのが好きだったのです。

見かけによらず、いつも人なつかしく思う性質だった、と娘婿むすめむこの末松謙澄すえまつけんちょうは書いています。

1869年、伊藤のもとに知らせが届きました。神戸で、娘が亡くなった。

長女の貞子は元気で、体も丈夫じょうぶな子でした。妹の生子いくこのほうは、とても体が弱かった。

知らせを受けた伊藤は、こう言ったという話が残っています。

「死んだのは、生子であろう」

亡くなったのは、元気だった姉の貞子のほうでした。

それから、二十年あまり。

伊藤は日本で最初の内閣総理大臣になり、二度目に総理を務めていた1892年11月、事故にあいます。乗っていた人力車が、ある皇族の妃きさきの馬車とぶつかったのです。車輪に顔をこすられ、額に深い傷を負い、上の前歯を六、七本折りました。

議会を休みにしようという話も出たが、自分ひとりのけがのために休んでは政府の威信いしんにかかわると、伊藤は承知しなかったといいます。総理大臣の代わりを務めたのは、井上馨かおる。あの井上聞多です。

けがが治りかけた、その年の暮れ。伊藤のもとに、使いの者が、恭うやうやしく手紙を添そえた荷物を届けたと、娘婿の末松は書いています。

五重の蒔絵まきえの重箱は「五か国の名産」という触ふれこみで、中身は薩摩芋さつまいもや、萩はぎの餅もちのようなものを並べた、判じものだったそうです。「寒中用のかい巻き」という柳行李やなぎごうりには、新しい薪まきが、座布団のようなものにくるまれていたといいます。

伊藤は、あははと笑い、すぐに返事を書いたと伝えられます。

「歳暮せいぼの贈おくり物、お心づかいのほど、まことにありがたく存じます。残らず見積もっても、代金は二十五銭くらいのものと存じますので、こちらからも、それ相応のお返しをいたします」

差出人は、次女の生子。

二十三年前、死んだのはこの子だろうと、父が言ったという、あの娘でした。

俺おれが命じたと言ったら

「君たちがそういうなら、俺おれが朝鮮ちょうせんに行こう」

1905年、ロシアとの戦争が終わった年。公使の林権助はやしごんすけと外務大臣の小村寿太郎こむらじゅたろうが、天皇の使いとして韓国かんこくへ行ってほしいと頼たのみに来たとき、伊藤いとうはそう答えたと、林は書き残しています。

伊藤が韓国に来たとき、港から都まで、役人も民も、こぞって歓迎かんげいした。韓国の新聞『皇城新聞こうじょうしんぶん』は、そう書いています。人々はこう語り合っていた、というのです。

「侯こうは日ごろから、東洋の三つの国が並び立って安らかであるよう、自ら引き受けて力を尽くしてきた人だ。今日の来韓らいかんは、きっと我が国の独立を固く根づかせる方策を勧すすめてくれるだろう」

出されたのは、五か条の条約の案でした。韓国が外国とどうつきあうかは、日本の外務省が取りしきる。韓国の都には、日本の統監とうかんを一人置く。

1905年11月17日。その日のことを、日本の公使だった林は、のちにこう書いています。

林の回想では、林は朝から、韓国の大臣たちを日本の公使館こうしかんに集めていた。日本軍の長谷川はせがわ大将に頼んで、大臣が途中とちゅうで抜ぬけ出さないよう見張ってもらった。理由は、護衛。国の印を預かる役人にも、見張りをつけた。

皇帝こうていは、病気だと言って出てこない。話はまとまらず、日が暮れかかったころ、韓国側の首席の大臣が、席を蹴けって、皇帝のいる部屋のほうへ出ていった。途中で、誤って皇帝の妃きさきの部屋に入りこみ、気を失って倒たおれてしまった。

条約の文句を直すには、本当なら日本の枢密院すうみついんの承知が要る。その暇ひまはない、と林が言うと、伊藤は言ったそうです。

「俺が命じたと言ったら、それですむ」

伊藤は韓国側の言い分を聞いて、こういう文句にしたらいいじゃないか、と言った。韓国側は、ようやく納得したと、林は書いています。条約には、韓国の外部大臣と、日本の公使、林権助の名が記されました。

同じ日のことを、韓国の宮廷きゅうていの記録『高宗実録こうそうじつろく』は、条約の条文と、参政大臣の韓圭卨ハンギュソルを役目から外すという、皇帝の命令などの記事で記し、話し合いの場のいきさつは書いていません。免官の理由は、こう書かれている。

「宮中のすぐそばで、ふるまいが当を得なかった」

翌日から、韓国の大臣や家臣が、次々に皇帝へ意見書を出しました。

夜中に宮中であわただしく会議を開き、人に知られるのを恐おそれていた、と書いた者がいる。伝え聞いたこととして、日本の公使が政府に来て、ありとあらゆる脅おどしをかけ、参政大臣は別の場所に留め置かれて、何も知らされなかった、と書いた者もいる。伊藤の名を挙げた意見書もあった。

「伊藤博文が求めた五か条は、すなわち、国のすべてを奪うばい取る手だてである」

皇帝は、条約を取り消してほしいと願い出た老臣に、こう答えています。

「先日のことは、まことにあわただしかった。ゆったりと穏おだやかなやり方が、どうしてなかったことがあろうか」

『皇城新聞』の社説は、伊藤侯のもともとの考えは、どこにあったのか、と問いました。いちばん激しい言葉は、条約を通した韓国の大臣たちに向けられた。そして結びの近くで、こう書いています。

「人の奴隷どれいとなった我ら二千万の同胞どうほうよ。生きているのか、死んだのか」

伊藤自身は、韓国について、こう語ったと、のちに小説家の久米正雄くめまさおが書いた伝記は伝えています。

「日本は韓国を合併がっぺいする必要はない。合併は、はなはだ厄介やっかいである。韓国は自治しなければならない。しかも、日本の指導と監督かんとくがなかったならば、健全な自治を遂とげることはできない」

1907年。日本側の記録によれば、韓国の皇帝は、オランダのハーグで開かれた国際会議に、ひそかに使いを送りました。日本側の年譜ねんぷは、これを、日本の覇絆ははん(つなぎとめる綱つな)から抜け出そうとして、と書いている。久米の伝記は、知らせを受けた伊藤が激怒げきどしたと書きます。

その年の7月、皇帝は、国の大事を皇太子に任せるという詔みことのりを出しました。日本側の記録はこれを譲位じょういと書き、韓国の大臣たちが徹夜てつやで皇帝に退位たいいを願い出た、としています。

『高宗実録』のこの年の記録には、ハーグの名も、使いのことも出てきません。残されているのは、皇帝の詔の言葉です。

「精力には限りがあって、わずらわしい政務に応じがたい。病が続いて、長く養生をさまたげてきた」

久米の伝記によれば、新しい皇帝の即位そくいの翌日、伊藤は祝いのために宮中へ行こうとして、危ないと周りに止められました。伊藤は、こう言ったといいます。

「今日の参内さんだいは、普通ふつうの参内とは違ちがう。我輩わがはいは宗主権国そうしゅけんこくを代表して、保護国の新しい君主を承認するために参内するのだ」

「よし。俺はどうしても行く」

雪の夜に、おれだけは行く、と言ってから、四十二年がたっていました。

乞食こじきになっても

「これは、娘むすめが送ってくれたのだ」

1909年の初め、韓国かんこくの都、京城けいじょう。伊藤いとうは親しい人たちを呼び集め、そう言って、寝酒ねざけのつまみに筍たけのこを少しずつ分けて食べたと伝えられます。

送ってきたのは、娘の生子いくこでした。まだ四、五寸(12〜15センチ)にも足りない筍が、五、六本。あの、判じものの贈おくり物で父を笑わせた次女です。筍は、伊藤の好物でした。

伊藤は統監とうかんとして、まだ韓国にいました。このころの皇帝こうていの詔みことのりは、伊藤を「朕ちんの太子太師たいしたいし」と呼んでいます。韓国の皇太子の先生、という意味の役目です。前の年には、その皇太子、李垠イウンを連れて、日本の関西をめぐる旅もしていました。

1月25日、伊藤は妻の梅子うめこに手紙を書いています。一週間ほど前から少し風邪かぜ気味で、おなかの具合もよくない。熱は高くても三十七度八分で、もう熱はない。あさっては、皇帝陛下と同じ車で北へ行く。

「小山こやまも随行ずいこうするので、ご心配には及およびません」

小山善ぜんは、伊藤に付いていた医師です。

5月、東京で、井上馨かおるが大病から持ち直した祝いの会が開かれました。お里の部屋に炭団たどんを忘れた、あの井上です。

伊藤は頼たのまれて、祝いの言葉を述べた。話が、井上がほとんど望みを絶たれたときのことに及ぶと、伊藤は急に涙なみだを流し、そのあとが続かなくなった。客たちもみな、もらい泣きしたと伝えられます。

6月、伊藤は統監を辞めました。

7月4日の夕方。韓国の皇室に別れのあいさつをするため、伊藤は軍艦ぐんかんで下関しものせきを出ました。

甲板かんぱんに出て景色を眺ながめていた伊藤は、彦島ひこしまが見えてくると、島を指さし、秘書の古谷久綱ふるやひさつなたちに語りだした、と古谷は書き残しています。

四十五年前、長州が外国の艦隊かんたいに敗れたあと、高杉晋作たかすぎしんさくと自分とでイギリスの旗艦きかんに乗りこみ、講和の談判をした。そのとき相手は、条件の一つとして、この島を租借そしゃくしたいと持ち出した。期限をつけて土地を借り、自分の国のように使うことです。自分たちは強く反対して、それを条件から削けずらせた。

そう話してから、伊藤はこう続けたといいます。

「当時、自分は、租借が我が国の権利に及ぼす影響えいきょうがどれほどのものか、十分に知っていたわけではない。何となく国家のために不利だ、という考えから、ひたすら反対したのだ」

「この彦島は、ちょうど今日の香港ホンコンと同じで、馬関ばかんは九龍クーロンと変わらないことになっていたかもしれない。そう思うと、まことに寒心に堪たえない」

軍艦は、韓国へ向かっていました。

9月29日、伊藤は知人の家で話している最中に、脳貧血を起こしました。引きとめられても、世間に誤ったうわさを立てさせてはいけない、と言って、その夜のうちに自分の家へ帰ったそうです。

その一週間ほどのちの、10月5日の夜。

翌月4日にイギリスへ留学に発つ次男の文吉ぶんきちが、大磯おおいその家に呼ばれました。梅子も同じ席にいた。伊藤は長い時間をかけて、息子に言い聞かせたといいます。そのときの話は新聞に載のり、こう伝えられています。

「人には、それぞれ持って生まれた天分がある。俺おれはお前に、何でも俺の志を継つげと、無理は言わない。持って生まれた天分ならば、たとえお前が乞食こじきになっても、俺は決して悲しまない。金持ちになっても、決して喜びもしない」

「何か一つでも成し遂とげようとすれば、命がけのことは始終あるものだ。俺が今まで生きているのは、自分でも不思議と思うほどだ」

「他力はいかん。自力でやれ」

それから九日後、伊藤は大磯を発ちました。満洲まんしゅうを見て回る旅です。供は、医師の小山や秘書の古谷ら、十人足らずでした。

26日までにハルビンに着かなければならない急用がある、と言って、伊藤は旅を急いだといいます。出発にあたって作った漢詩は、こう始まっています。

「秋の晩、家を辞して、遠い旅路に上る」

10月26日の朝。ハルビンに着く前の列車の中で、伊藤はいつものように、ふだん片時も手放さない葉巻に火をつけ、しばらく香りを楽しんでいたと、伝記は書いています。

午前9時、特別列車は、ハルビンの駅に着きました。

二つの名

爆竹ばくちくのような音がした。

随行ずいこうしていた医師の小山こやまは、のちにそう述べたと、日本の裁判所の判決文に記されています。

その少し前、伊藤いとうは出迎むかえたロシアの大蔵大臣と、列車の中で二十五分ほど話していました。それからプラットホームに出て、並んだロシアの兵の前を通り、外国の代表たちと握手あくしゅを交わして、引き返したところでした。

撃うったのは、安重根アンジュングンという、韓国かんこくの青年です。

安はのちに、獄中ごくちゅうで書いた自伝に、このときのことを書いている。先頭を行く白いひげの老人を見て、あれが年老いた盗人ぬすびとの伊藤だろうと思い、拳銃けんじゅうで四発を撃った。さらに後ろの日本人たちに向けて三発を撃ち、大きな声で、大韓だいかん万歳ばんざいを三度叫さけんだ、と。

判決は、七発のうち三発が伊藤に当たり、ほかの三人にも一発ずつ当たったとしています。

列車の中に運ばれた伊藤は、手当てを受けながら言った、と久米正雄くめまさおの伝記は伝えています。

「だいぶ弾たまが入っているようだ。誰だれがやったのだ」

満鉄まんてつの中村総裁が答えた。

「朝鮮ちょうせん人だそうです」

そう聞くと、伊藤は「馬鹿ばか」と言った。別の本は、このときの言葉を「馬鹿な奴やつ」と書いています。

小山がブランデーを勧すすめると、伊藤は、うんとうなずき、自分で頭を持ち上げて飲みほした。五分ほどして、もう一杯いっぱいと勧められると、また頭を上げて、がぶがぶと飲んだ。それが、この世での最後の動きだったといいます。

秘書の古谷ふるやが東京の首相に打った電報は、こう始まっています。

「伊藤公十時絶命」

68歳でした。

東京にいた韓国の皇太子、李垠イウンの御殿ごてんに知らせが入ったのは、その日のうちです。お付きの者が、伊藤が殺ころされたことを告げると、李垠は椅子いすから飛び上がり、早口の韓国の言葉で、誰だ、誰だ、と繰くり返した。それから日本語で言った、と伝えられています。

「誰が爺じいを殺したのか」

「韓国人でございます」

「なに。我が国の人だって」

その目には、涙なみださえ浮うかんでいたといいます。

韓国の宮廷きゅうていは、伊藤に「文忠ぶんちゅう」という諡おくりなを贈おくり、三日のあいだ、朝廷ちょうていの政務と市を止めさせました。日本の天皇にあてた皇帝こうていの手紙には、こうあります。

「朕ちんもまた、一人の師であり友である人を失った」

同じころ、取り調べの検察官に伊藤を撃った理由を問われた安は、十五の罪を挙げた、と自伝に書いています。皇帝を位から退しりぞかせた罪。条約を力ずくで結ばせた罪。東洋の平和を壊こわした罪。

11月4日、東京の日比谷ひびやで国葬こくそうが行われました。

この日は、次男の文吉ぶんきちが、イギリスへ発つはずの日でした。乞食こじきになっても悲しまない、と父に言われた息子です。文吉は出発を延ばし、父の代わりを務めたといいます。

同じ日、韓国の都でも、皇族や役人、人々が集まって、伊藤を悼いたむ会を開いた。この日の皇帝の詔みことのりは、撃った者たちを「朕の国家と社稷しゃしょくを害する者」と呼びました。

満洲まんしゅうへの旅にも、伊藤は、いつも鞄かばんに入れて持ち歩いていた小さな仏像を持っていっていました。遺品となって戻もどってきたその鞄には、娘むすめの生子いくこが小さな冊子にした『軽井沢かるいざわ百首』が、一冊、入っていたそうです。

翌年の2月、旅順りょじゅんの法廷ほうていで、安はこう述べました。日本語の記録に、そう残っています。

「伊藤その者は、英雄えいゆうと言いますが、奸雄かんゆうであります」

「義兵中将ぎへいちゅうじょうの資格で殺したのである。決して刺客しかくとなってやったのではない」

日本の裁判所は、安の決意は私憤しふんによるものではない、と認めました。そのうえで、深く計画し、厳しい警護を破ったとして、死刑しけいを言い渡わたしています。

一人の人が、韓国の宮廷からは「文忠」と名を贈られ、撃った青年からは「奸雄」と呼ばれた。

六十年あまり前。幼い利助りすけは、木や竹の棒を二本、帯にはさんで、肩かたをいからせて歩いていました。

なぜ二本なのか、と聞かれると、こう答えたといいます。

「武士であるから、二本さす」