伊藤博文 — 武士であるから、二本さす
公使館に火をつけた若者が、初代の総理大臣になり、隣の国の青年に撃たれるまで。二つの国で正反対に呼ばれる人の一生
鋸と二本の棒
「拙者、こうなるだろうと思ったから、この道具を用意してきた」
そう言って男が腰から抜いたのは、刀ではなく、鋸でした。
目の前には、丸太の柵。その向こうに、イギリスの公使館がある。1863年1月31日の夜ふけ、江戸の品川、御殿山でのことです。
男の仲間は、十人あまり。外国人を力で追い払え、という攘夷の考えに燃えた、長州藩の若者たちでした。今夜、この公使館に火をつけに来たのです。
ところが、柵を破る道具のことを、誰も考えていなかった。それに気づかなかったのは残念だ、と久坂玄瑞が言ったところで、男は鋸を出した。のちに本人が、そう語っています。
鋸は、前もって買っておいたものでした。一同が酒を飲みながら夜ふけを待っていた品川の遊郭、土蔵相模。その入口の天水桶に、こっそり隠しておいたのです。
男の名は、伊藤。のちに伊藤博文と名乗り、日本で最初の内閣総理大臣になる人です。このとき、21歳でした。
伊藤は、武士の家に生まれた人ではありません。
幼いころ、利助と呼ばれていた彼は、木や竹の棒を二本、帯にはさんで、肩をいからせて歩くのが好きでした。武士は、刀を二本、腰に差して歩くものです。なぜ二本なのか、と聞かれると、利助はこう答えたといいます。
「武士であるから、二本さす」
周防の束荷という村で、村の役を務めていた父の十蔵は、お金のことにうとかった。借金で首が回らなくなり、一度は本家が払ってくれたが、二度目は断られて、一人で萩の町へ出ていったと伝えられます。母と利助は、母の実家に身を寄せました。
萩に移っても、暮らしは楽ではなかった。10歳になるかならないかのころ、寺に預けられて、紙を頭の下に敷いて眠った。朝起きると、その紙の上を虱が這っていたことがあると、本人がのちに話しています。
やがて利助は、武家の屋敷で、小さな召使いとして働くようになります。
ある晩、屋敷の人がみな祭りか何かの見物に出かけ、利助ひとりが留守番に残されました。気にかかった父が、そっと様子を見に来た。玄関わきの小部屋にしょんぼり座っていた利助は、父の顔を見るなり、泣き出したそうです。
父は、ひどく叱りつけた。
「留守の大役を言いつけられながら、男が泣くとは何事だ」
そして、そのまま帰っていったと伝えられます。
その子が、やがて藩のいちばん下の兵の組に入り、吉田松陰の塾にも学んだ。そして今夜は、鋸を腰に差して、ここにいるのです。
柵の根もとを挽いて、一同は中へ入りました。すると、番人がとがめた。伊藤の話では、こんなやりとりだったそうです。
「吾々は天下の志士だ。お国のため、妖気を払いに来た」
「何をするのだ」
「焼き打ちするのだ」
「それはならぬ。許さぬ」
なかなか責任を重んじる番人である。伊藤はのちに、そう評しています。高杉晋作が刀を抜き、刃のない背の側で打つ峰打ちで、番人を追い払いました。
次は、火です。
火薬を入れた炭団を用意する役は、仲間の井上聞多が引き受けていた。よりによって、そそっかしい井上が。伊藤は、はじめから心配していたそうです。
焼き打ちの前、井上は袖から炭団を出して見せていました。身につけていては危ない、と伊藤が注意すると、井上はそれを、なじみの遊女、お里の部屋の、額縁の裏に隠した。
「炭団を出せ」
「しまった。お里の部屋の額の裏へ隠したきり、出してくるのを忘れた」
心配が、そのまま当たったのです。一同は戸や障子を積み上げて火をつけ、引き上げました。
次の晩。伊藤と井上の二人で土蔵相模へ出かけて額縁の裏を探ると、炭団がない。ゆうべ、いたずらで隠したが、誰か見つけたろうか。そう尋ねると、お里は言ったと、伊藤は語っています。
「本当に乱暴ないたずらをなさること。いただいて、一つ火鉢にくべましょう」
お里が火箸で炭団をはさむ。井上はあわてて、その手を押さえた。
「何を馬鹿する」
「炭団を火鉢に入れるのに、何が馬鹿です」
お里は、平気なものでした。
「あなたも天下の志士だなどと威張りながら、あまりといえばお気が小さい。命がけの大事をなさるのに、肝心の道具をお忘れなさるようでは、行く末が案じられてなりません」
二人は、この遊女の度胸と知恵に、すっかり感心したといいます。
焼き打ちの夜、仲間の一人は、御殿山のふもとで、遊女からの恋文を落としていました。手紙の主の遊女は役人に呼び出されたが、そんな手紙は覚えがない、と言い通した。罰を受けた者は、一人も出なかったそうです。
それから、九日後。
伊藤は山尾庸三と二人で、塙次郎という国学者を斬りました。
昔、天皇が位を追われた例を調べていると言われた人です。
子ども扱い
「金は持ってこない。たった三百両ずつ、もらってきただけだ。金は、君がどうにかしてくれると思って来たのだ」
横浜の伊藤のもとへ、京都からやって来た井上聞多は、そう言ったと伊藤は語っています。一緒にイギリスへ行こう、というのでした。あの炭団を忘れた井上です。
伊藤は、藩の命令で、武器を買いに横浜へ来ていました。武器は手に入らず、預かった金が残っていた。
同じ1863年、藩は伊藤に、特別の計らいとして、一代かぎり名字を名乗ることを許し、武士に準じる身分で召し抱えていました。やっと手にした身分です。
けれど幕府は、許しなく国を出ることを禁じていた。命令を受けて来ている伊藤が行けば、藩を捨てて逃げることになります。
伊藤は、行くと決めました。事情を書いた手紙を藩に送り、横浜の商人から、留学のための大金を借りた。父には、前もって相談しなかったことを、手紙で詫びています。
船に乗るため、水夫の着る古着の洋服を買い、靴を買った。ところが靴は、片方に両足が入るほど大きい。頭は、まだ髷を結ったままです。洋服に靴をはいたその姿は「実に妙であった」と、伊藤は振り返っています。
夜中、イギリスの商館の庭のすみで待つうちに、五人とも、髷を落とした散切り頭になっていたそうです。
ところが、商館のイギリス人ガールが、幕府が禁じている者を連れていくことは請け合えない、と言い出した。五人は、こう言い返したと伊藤は語っています。
「もう頭は斬髪になり、こういう姿になっているから、ここで連れて行かれずに外へ出れば、きっと狙われるに違いない。それなら腹を切る。どうせ縛られて殺されるなら、むしろここで腹を切る」
ガールは驚いて、少し待て、と奥へ入っていった。五人は、連れていってもらえることになりました。
夜の二時ごろ。波止場へ向かう途中、役人のいる運上所の前を通らなければならない。日本人に分からないように私が英語で話すから、お前たちも大きな声で何か話せ、と言われた。
五人は教えられたとおり、何だか訳の分からないことを大声で言いながら、運上所の前を通り過ぎたそうです。
船では、蒸気釜のそばに入れられ、出港まで、そこにかがんでいた。上海までは大嵐で、ろくに物も食べられない。上海から乗りかえた船で出た食べ物は、パンと、洋食の食べ残しでした。
イギリスの人たちは、五人を、子どものように扱いました。
伊藤は、のちにこう語っています。
「日本では子どもどころではない。大騒ぎをやっていた者が、向こうでは、まったく小児のように取り扱われることになった」
公使館に火をつけた若者が、船の上では、パンの食べ残しをもらう子どもでした。
ロンドンの下宿でのことです。
新聞を読んでいた家の者が、伊藤に、お前は日本のどこの者だ、と聞いた。長州だと答えると、こう言われた。下関で外国の船を砲撃したのは、お前のところだろう。
新聞には、イギリスの議会で、長州を攻めるべきだという議論まで出ていました。
このまま放っておけば、取り返しのつかないことになる。伊藤は、そう考えたと語っています。
「長州などが攘夷を無謀にしようというのは、もってのほかだ」
「たとえ我々がここで学問して業が成っても、自分の生まれた国が亡びては、何のためになるか」
そのころのことを、伊藤は、のちにこう振り返っています。
「思えば昨非今是で、そのときからわずか一年前には、自分で攘夷決行の端を開こうとして、まず御殿山の外国公使館を焼き打ちしたのである」
昨日までの自分はまちがいで、今日の自分が正しい。昨非今是とは、そういう意味です。
伊藤と井上は、日本へ帰ると決めました。残る三人には、自分たちの志を継いで学業を遂げるように言い、固く約束して別れた。1864年、二人は帰国します。
その翌年の、1865年1月12日の夜。雪が降っていました。
藩の政府を相手に、高杉晋作が兵を挙げようとしていた。その高杉から、使いが来ます。今夜、兵を挙げるから、ぜひ帰ってこい。
伊藤はこのとき、力士隊という、相撲取りを集めた隊を率いていました。高杉に従うと決め、隊に兵糧の用意を言いつけた。
夜中、伊藤は高杉たちと連れ立って、長州に身を寄せていた公家の三条実美が泊まる寺へ、別れのあいさつに行きました。応対に出た、家老のような人が言ったそうです。
「三条さんは眠っておいでだから、お起こし申そう。その間に、酒を一杯飲ませよう」
出てきたのは、重箱のすみに残っていた、煮豆の食べ残しでした。
隊に戻ると、知らせが待っていた。
「大変です。御堀さんが銃も何もみな取り上げて、門の外へ一人でも出るやつは斬るということですから、お帰りになっては大変でございます」
伊藤は、答えました。
「そうか。しかし、おれだけは行く」
雪の積もる夜の中へ、伊藤は出ていきました。
物が不思議に安かった
人を殺すのは悪い、ということで、空鉄砲を撃った。
夜が明けきらないうちに、馬関(今の下関)の奉行所を取りに行ったときのことを、伊藤はそう語っています。弾の入っていない鉄砲の音に、役人たちはみな、裏の垣根を越えて逃げてしまった。
二年前に国学者を斬った男が、そう語っているのです。
それからしばらく、伊藤は馬関で暮らしました。
妻の梅子と、小さな借家住まい。召使いは男が一人、女が一人です。梅子は自分で掃除も炊事もした。暮らしにかかるお金は、ひと月に五両ほど。米は、山口にいる井上聞多が、ときどき一俵ずつ送ってくれたと伝えられます。
このころ伊藤は、母に、わずかなお金を送っています。手紙には、こうある。
「金一両あまり、少々ではございますが、お小遣いになさってくださいますよう、お送り申し上げます」
ある時、伊藤は馬関で客をもてなしたあと、熱を出し、大病になりました。梅子は身重で、看病ができない。一時、よそに預けられた。
山口から駆けつけて看病したのは、井上でした。
まるで今の看護婦がするようなことまでしてくれた。伊藤は年をとってからも、その親切を忘れず、家の者に話していたそうです。
やがて娘の貞子が生まれ、梅子は子守を女中にまかせて、自分は家事に追われた。風呂まで焚いたといいます。
ある日、伊藤は、外国で親しくなった西洋人がしばらく一緒に住む、とふれこんで、一人の男を家に連れて帰りました。
イギリスから戻った遠藤謹助。ロンドンに残った、あの三人の一人です。
梅子と遠藤は、言葉のないまま、あいさつを交わした。あとで梅子は、真面目な顔で伊藤に言ったそうです。
「鼻の低い異人ですね」
二人は、大笑いになったと伝えられます。
のちに、夫婦が差し向かいで寝酒を飲むとき、馬関のわび住まいを思い出しては、たびたびこう語り合ったといいます。
「あのころは、物が不思議に安かった」
明治の世になると、伊藤は新しい政府に加わり、神戸や東京で働くようになります。東京の家には、いつも居候がいた。昔なじみと一緒に住み、毎日顔を合わせているのが好きだったのです。
見かけによらず、いつも人なつかしく思う性質だった、と娘婿の末松謙澄は書いています。
1869年、伊藤のもとに知らせが届きました。神戸で、娘が亡くなった。
長女の貞子は元気で、体も丈夫な子でした。妹の生子のほうは、とても体が弱かった。
知らせを受けた伊藤は、こう言ったという話が残っています。
「死んだのは、生子であろう」
亡くなったのは、元気だった姉の貞子のほうでした。
それから、二十年あまり。
伊藤は日本で最初の内閣総理大臣になり、二度目に総理を務めていた1892年11月、事故にあいます。乗っていた人力車が、ある皇族の妃の馬車とぶつかったのです。車輪に顔をこすられ、額に深い傷を負い、上の前歯を六、七本折りました。
議会を休みにしようという話も出たが、自分ひとりのけがのために休んでは政府の威信にかかわると、伊藤は承知しなかったといいます。総理大臣の代わりを務めたのは、井上馨。あの井上聞多です。
けがが治りかけた、その年の暮れ。伊藤のもとに、使いの者が、恭しく手紙を添えた荷物を届けたと、娘婿の末松は書いています。
五重の蒔絵の重箱は「五か国の名産」という触れこみで、中身は薩摩芋や、萩の餅のようなものを並べた、判じものだったそうです。「寒中用のかい巻き」という柳行李には、新しい薪が、座布団のようなものにくるまれていたといいます。
伊藤は、あははと笑い、すぐに返事を書いたと伝えられます。
「歳暮の贈り物、お心づかいのほど、まことにありがたく存じます。残らず見積もっても、代金は二十五銭くらいのものと存じますので、こちらからも、それ相応のお返しをいたします」
差出人は、次女の生子。
二十三年前、死んだのはこの子だろうと、父が言ったという、あの娘でした。
俺が命じたと言ったら
「君たちがそういうなら、俺が朝鮮に行こう」
1905年、ロシアとの戦争が終わった年。公使の林権助と外務大臣の小村寿太郎が、天皇の使いとして韓国へ行ってほしいと頼みに来たとき、伊藤はそう答えたと、林は書き残しています。
伊藤が韓国に来たとき、港から都まで、役人も民も、こぞって歓迎した。韓国の新聞『皇城新聞』は、そう書いています。人々はこう語り合っていた、というのです。
「侯は日ごろから、東洋の三つの国が並び立って安らかであるよう、自ら引き受けて力を尽くしてきた人だ。今日の来韓は、きっと我が国の独立を固く根づかせる方策を勧めてくれるだろう」
出されたのは、五か条の条約の案でした。韓国が外国とどうつきあうかは、日本の外務省が取りしきる。韓国の都には、日本の統監を一人置く。
1905年11月17日。その日のことを、日本の公使だった林は、のちにこう書いています。
林の回想では、林は朝から、韓国の大臣たちを日本の公使館に集めていた。日本軍の長谷川大将に頼んで、大臣が途中で抜け出さないよう見張ってもらった。理由は、護衛。国の印を預かる役人にも、見張りをつけた。
皇帝は、病気だと言って出てこない。話はまとまらず、日が暮れかかったころ、韓国側の首席の大臣が、席を蹴って、皇帝のいる部屋のほうへ出ていった。途中で、誤って皇帝の妃の部屋に入りこみ、気を失って倒れてしまった。
条約の文句を直すには、本当なら日本の枢密院の承知が要る。その暇はない、と林が言うと、伊藤は言ったそうです。
「俺が命じたと言ったら、それですむ」
伊藤は韓国側の言い分を聞いて、こういう文句にしたらいいじゃないか、と言った。韓国側は、ようやく納得したと、林は書いています。条約には、韓国の外部大臣と、日本の公使、林権助の名が記されました。
同じ日のことを、韓国の宮廷の記録『高宗実録』は、条約の条文と、参政大臣の韓圭卨を役目から外すという、皇帝の命令などの記事で記し、話し合いの場のいきさつは書いていません。免官の理由は、こう書かれている。
「宮中のすぐそばで、ふるまいが当を得なかった」
翌日から、韓国の大臣や家臣が、次々に皇帝へ意見書を出しました。
夜中に宮中であわただしく会議を開き、人に知られるのを恐れていた、と書いた者がいる。伝え聞いたこととして、日本の公使が政府に来て、ありとあらゆる脅しをかけ、参政大臣は別の場所に留め置かれて、何も知らされなかった、と書いた者もいる。伊藤の名を挙げた意見書もあった。
「伊藤博文が求めた五か条は、すなわち、国のすべてを奪い取る手だてである」
皇帝は、条約を取り消してほしいと願い出た老臣に、こう答えています。
「先日のことは、まことにあわただしかった。ゆったりと穏やかなやり方が、どうしてなかったことがあろうか」
『皇城新聞』の社説は、伊藤侯のもともとの考えは、どこにあったのか、と問いました。いちばん激しい言葉は、条約を通した韓国の大臣たちに向けられた。そして結びの近くで、こう書いています。
「人の奴隷となった我ら二千万の同胞よ。生きているのか、死んだのか」
伊藤自身は、韓国について、こう語ったと、のちに小説家の久米正雄が書いた伝記は伝えています。
「日本は韓国を合併する必要はない。合併は、はなはだ厄介である。韓国は自治しなければならない。しかも、日本の指導と監督がなかったならば、健全な自治を遂げることはできない」
1907年。日本側の記録によれば、韓国の皇帝は、オランダのハーグで開かれた国際会議に、ひそかに使いを送りました。日本側の年譜は、これを、日本の覇絆(つなぎとめる綱)から抜け出そうとして、と書いている。久米の伝記は、知らせを受けた伊藤が激怒したと書きます。
その年の7月、皇帝は、国の大事を皇太子に任せるという詔を出しました。日本側の記録はこれを譲位と書き、韓国の大臣たちが徹夜で皇帝に退位を願い出た、としています。
『高宗実録』のこの年の記録には、ハーグの名も、使いのことも出てきません。残されているのは、皇帝の詔の言葉です。
「精力には限りがあって、わずらわしい政務に応じがたい。病が続いて、長く養生をさまたげてきた」
久米の伝記によれば、新しい皇帝の即位の翌日、伊藤は祝いのために宮中へ行こうとして、危ないと周りに止められました。伊藤は、こう言ったといいます。
「今日の参内は、普通の参内とは違う。我輩は宗主権国を代表して、保護国の新しい君主を承認するために参内するのだ」
「よし。俺はどうしても行く」
雪の夜に、おれだけは行く、と言ってから、四十二年がたっていました。
乞食になっても
「これは、娘が送ってくれたのだ」
1909年の初め、韓国の都、京城。伊藤は親しい人たちを呼び集め、そう言って、寝酒のつまみに筍を少しずつ分けて食べたと伝えられます。
送ってきたのは、娘の生子でした。まだ四、五寸(12〜15センチ)にも足りない筍が、五、六本。あの、判じものの贈り物で父を笑わせた次女です。筍は、伊藤の好物でした。
伊藤は統監として、まだ韓国にいました。このころの皇帝の詔は、伊藤を「朕の太子太師」と呼んでいます。韓国の皇太子の先生、という意味の役目です。前の年には、その皇太子、李垠を連れて、日本の関西をめぐる旅もしていました。
1月25日、伊藤は妻の梅子に手紙を書いています。一週間ほど前から少し風邪気味で、おなかの具合もよくない。熱は高くても三十七度八分で、もう熱はない。あさっては、皇帝陛下と同じ車で北へ行く。
「小山も随行するので、ご心配には及びません」
小山善は、伊藤に付いていた医師です。
5月、東京で、井上馨が大病から持ち直した祝いの会が開かれました。お里の部屋に炭団を忘れた、あの井上です。
伊藤は頼まれて、祝いの言葉を述べた。話が、井上がほとんど望みを絶たれたときのことに及ぶと、伊藤は急に涙を流し、そのあとが続かなくなった。客たちもみな、もらい泣きしたと伝えられます。
6月、伊藤は統監を辞めました。
7月4日の夕方。韓国の皇室に別れのあいさつをするため、伊藤は軍艦で下関を出ました。
甲板に出て景色を眺めていた伊藤は、彦島が見えてくると、島を指さし、秘書の古谷久綱たちに語りだした、と古谷は書き残しています。
四十五年前、長州が外国の艦隊に敗れたあと、高杉晋作と自分とでイギリスの旗艦に乗りこみ、講和の談判をした。そのとき相手は、条件の一つとして、この島を租借したいと持ち出した。期限をつけて土地を借り、自分の国のように使うことです。自分たちは強く反対して、それを条件から削らせた。
そう話してから、伊藤はこう続けたといいます。
「当時、自分は、租借が我が国の権利に及ぼす影響がどれほどのものか、十分に知っていたわけではない。何となく国家のために不利だ、という考えから、ひたすら反対したのだ」
「この彦島は、ちょうど今日の香港と同じで、馬関は九龍と変わらないことになっていたかもしれない。そう思うと、まことに寒心に堪えない」
軍艦は、韓国へ向かっていました。
9月29日、伊藤は知人の家で話している最中に、脳貧血を起こしました。引きとめられても、世間に誤ったうわさを立てさせてはいけない、と言って、その夜のうちに自分の家へ帰ったそうです。
その一週間ほどのちの、10月5日の夜。
翌月4日にイギリスへ留学に発つ次男の文吉が、大磯の家に呼ばれました。梅子も同じ席にいた。伊藤は長い時間をかけて、息子に言い聞かせたといいます。そのときの話は新聞に載り、こう伝えられています。
「人には、それぞれ持って生まれた天分がある。俺はお前に、何でも俺の志を継げと、無理は言わない。持って生まれた天分ならば、たとえお前が乞食になっても、俺は決して悲しまない。金持ちになっても、決して喜びもしない」
「何か一つでも成し遂げようとすれば、命がけのことは始終あるものだ。俺が今まで生きているのは、自分でも不思議と思うほどだ」
「他力はいかん。自力でやれ」
それから九日後、伊藤は大磯を発ちました。満洲を見て回る旅です。供は、医師の小山や秘書の古谷ら、十人足らずでした。
26日までにハルビンに着かなければならない急用がある、と言って、伊藤は旅を急いだといいます。出発にあたって作った漢詩は、こう始まっています。
「秋の晩、家を辞して、遠い旅路に上る」
10月26日の朝。ハルビンに着く前の列車の中で、伊藤はいつものように、ふだん片時も手放さない葉巻に火をつけ、しばらく香りを楽しんでいたと、伝記は書いています。
午前9時、特別列車は、ハルビンの駅に着きました。
二つの名
爆竹のような音がした。
随行していた医師の小山は、のちにそう述べたと、日本の裁判所の判決文に記されています。
その少し前、伊藤は出迎えたロシアの大蔵大臣と、列車の中で二十五分ほど話していました。それからプラットホームに出て、並んだロシアの兵の前を通り、外国の代表たちと握手を交わして、引き返したところでした。
撃ったのは、安重根という、韓国の青年です。
安はのちに、獄中で書いた自伝に、このときのことを書いている。先頭を行く白いひげの老人を見て、あれが年老いた盗人の伊藤だろうと思い、拳銃で四発を撃った。さらに後ろの日本人たちに向けて三発を撃ち、大きな声で、大韓万歳を三度叫んだ、と。
判決は、七発のうち三発が伊藤に当たり、ほかの三人にも一発ずつ当たったとしています。
列車の中に運ばれた伊藤は、手当てを受けながら言った、と久米正雄の伝記は伝えています。
「だいぶ弾が入っているようだ。誰がやったのだ」
満鉄の中村総裁が答えた。
「朝鮮人だそうです」
そう聞くと、伊藤は「馬鹿」と言った。別の本は、このときの言葉を「馬鹿な奴」と書いています。
小山がブランデーを勧めると、伊藤は、うんとうなずき、自分で頭を持ち上げて飲みほした。五分ほどして、もう一杯と勧められると、また頭を上げて、がぶがぶと飲んだ。それが、この世での最後の動きだったといいます。
秘書の古谷が東京の首相に打った電報は、こう始まっています。
「伊藤公十時絶命」
68歳でした。
東京にいた韓国の皇太子、李垠の御殿に知らせが入ったのは、その日のうちです。お付きの者が、伊藤が殺されたことを告げると、李垠は椅子から飛び上がり、早口の韓国の言葉で、誰だ、誰だ、と繰り返した。それから日本語で言った、と伝えられています。
「誰が爺を殺したのか」
「韓国人でございます」
「なに。我が国の人だって」
その目には、涙さえ浮かんでいたといいます。
韓国の宮廷は、伊藤に「文忠」という諡を贈り、三日のあいだ、朝廷の政務と市を止めさせました。日本の天皇にあてた皇帝の手紙には、こうあります。
「朕もまた、一人の師であり友である人を失った」
同じころ、取り調べの検察官に伊藤を撃った理由を問われた安は、十五の罪を挙げた、と自伝に書いています。皇帝を位から退かせた罪。条約を力ずくで結ばせた罪。東洋の平和を壊した罪。
11月4日、東京の日比谷で国葬が行われました。
この日は、次男の文吉が、イギリスへ発つはずの日でした。乞食になっても悲しまない、と父に言われた息子です。文吉は出発を延ばし、父の代わりを務めたといいます。
同じ日、韓国の都でも、皇族や役人、人々が集まって、伊藤を悼む会を開いた。この日の皇帝の詔は、撃った者たちを「朕の国家と社稷を害する者」と呼びました。
満洲への旅にも、伊藤は、いつも鞄に入れて持ち歩いていた小さな仏像を持っていっていました。遺品となって戻ってきたその鞄には、娘の生子が小さな冊子にした『軽井沢百首』が、一冊、入っていたそうです。
翌年の2月、旅順の法廷で、安はこう述べました。日本語の記録に、そう残っています。
「伊藤その者は、英雄と言いますが、奸雄であります」
「義兵中将の資格で殺したのである。決して刺客となってやったのではない」
日本の裁判所は、安の決意は私憤によるものではない、と認めました。そのうえで、深く計画し、厳しい警護を破ったとして、死刑を言い渡しています。
一人の人が、韓国の宮廷からは「文忠」と名を贈られ、撃った青年からは「奸雄」と呼ばれた。
六十年あまり前。幼い利助は、木や竹の棒を二本、帯にはさんで、肩をいからせて歩いていました。
なぜ二本なのか、と聞かれると、こう答えたといいます。
「武士であるから、二本さす」