伊達政宗 — 最後まで、強がった人

片目を恥じて隠し、秀吉の前でも、死の床でも、強がりを通した男の、隠しきれなかった一生

両眼正しく

「死んだあと像を造るなら、両目とも正しく造れ」

この人はそう言いつけていた、と、のちに藩はんがまとめた記録は書いています。後の世の人に、とやかく言われることもあるだろうから。記録は、そう理由を添そえています。

右の目が、見えなかったのです。

疱瘡ほうそう(天然痘てんねんとう)にかかったとき、その毒が目に集まって、右のほうが見えなくなった、と同じ記録にあります。彼かれはいつも、その目を恥はじていた。ともすれば、見えないほうの目を隠かくした。人がその目のことを何か口にすると、それだけで機嫌きげんが悪くなったといいます。

伊達政宗だてまさむね。1567年、米沢よねざわ(今の山形県)の城で生まれた、伊達家だてけの跡継あとつぎです。父は輝宗てるむね、母は義姫よしひめ。幼い名は、梵天丸ぼんてんまるといいました。

この少年は、与あたえられた役を、二度、断っています。

10歳の元服(大人になる儀式ぎしき)で、むかし伊達家を立て直した名高い当主と同じ「政宗まさむね」の名を与えられたとき、本人は固く断り、父に押おし切られたそうです。

二度目は、1584年、17歳のときです。父が、家を譲ゆずると言い出した。

まだ若すぎる。政宗は何度も断った。けれど、親類も古くからの家臣たちも、そろって勧すすめる。断って、断りきれずに、家を継ついだのです。

家を継いで、一年もたたないころ。政宗は、敵方の小手森城おでもりじょうを攻せめました。

追いつめられた城の者たちは、城を明け渡わたすから、味方のいる小浜おばまへ引き上げさせてほしい、と申し出た。政宗は、許さなかった。伊達だての領地へ下るなら命は助ける。小浜へは行かせない。それでも城の者たちが小浜へ行きたいと言うと、すぐに攻めよ、と命じたと記録にあります。

城は、その日のうちに落ちた。藩の記録は、男も女も八百人ほどを、一人も残さず斬きらせた、と書いています。

翌日、政宗は家臣に手紙を書いた。

「小手森おでもりを攻め落とし、二百余人を撫なで切りにした。その数も知れないほどだ。さぞ満足であろう」

撫で切りとは、一人残らず斬ることです。手紙の数と、記録の数は合わない。けれど、どちらの数だったにせよ、18歳の当主はそれを、相手が喜ぶ知らせとして書いています。

それから、ひと月あまりのちのことです。

隣となりの二本松の城主、畠山義継はたけやまよしつぐが、父の輝宗を通して降参を申し出てきました。せめて家来たちが飢うえないだけの領地を、と義継よしつぐは何度も頼たのんだが、政宗は聞き入れなかったといいます。最後は、五つの村だけを残すことで話がまとまりました。

1585年11月29日。義継は、輝宗のいる陣じんへ礼を言いに来た。そして帰りぎわ、見送りに出た父の胸をつかみ、脇差わきざしを突つきつけた。義継の従者たちが父を取り囲み、二本松のほうへ連れ去っていく。

伊達の家臣たちは、鎧よろいもつけずに後を追った。けれど、主君を人質に取られて、誰だれも手が出せない。高田原たかだはらという所まで来たとき、父が大声で叫さけんだと伝えられます。

「早く義継を撃うち殺せ。わしのことを気にかけて、家の恥を残してはならぬ」

鉄砲てっぽうが一発鳴り、それを合図に皆みなが斬りかかった。義継も、従者の五十人あまりも討うたれた。輝宗も、そこで命を落とした。数えで、42歳でした。

その日、政宗は、狩かりに出ていました。

天気よし

父が連れ去られたと聞いて、政宗まさむねは夜中に高田原たかだはらへ駆かけつけました。

義継よしつぐの亡骸なきがらを探し出させ、町の近くに磔はりつけにして、見張りをつけた、と藩はんの記録にあります。

それから一年あまりたったころ、政宗のそば近くにいた誰だれかが、毎日の出来事を書きとめていました。いまは『天正日記てんしょうにっき』と呼ばれる日記です。日付の次には、たいてい、まず天気が書いてある。

1587年の、ある日はこうです。

「天気よし。古山新助ふるやましんすけを討うたせられた。そのあとで、その母を串刺くしざしにさせられた」

なぜそうしたのかは、書いていません。

同じ年の旧暦きゅうれき4月、政宗は城の中に泉水、つまり庭の池を造らせていました。池に放す鮒ふなが届いた日の日記には、盗人ぬすっと二人を討たせて、その首が届いたことも並んでいます。

そして、翌日の日記。

「天気よし。お池に鮒を放させられた。酉とりの刻ごろ、小十郎こじゅうろうのところへお出かけになり、鮒をお釣つりになって、膾なますにさせて召めし上がった。兵法のけいこをなさり、そのあと双六すごろくをなさって、子ねの刻ごろにお帰りになった」

夕方の6時ごろから夜中の12時ごろまで、家臣の片倉景綱かたくらかげつな(小十郎)の家にいたことになります。

人を討たせた日も、家臣の家で鮒を釣った夜も、同じ「天気よし」で始まっている。日記の筆は、どちらにも同じ調子でした。

父の死から、三年半。1589年、政宗は会津あいづの蘆名あしな氏を破り、伊達だての領地は大きく広がりました。

その翌年の日記に、こういう二日があります。

1590年の旧暦4月5日。

「天気よし。(中略)御東おひがしへお出かけになった。虫気むしけでお帰りになった。すぐに治られた」

御東は、母の義姫よしひめのこと。虫気は、おなかの具合が悪いことです。

二日後。

「天気よし。卯うの刻、雨が少し降った。夕方にも、また少し降った。小原縫殿助おばらぬいのすけが館やかたへ参ったので、すぐに討たせられた」

小原縫殿助は、のちの藩の記録によれば、政宗の弟、小次郎こじろうの守り役でした。日記には、討たせられた、とだけあります。

ところが、百年あまりのちに藩がまとめた記録には、同じ二日が、まるで違ちがう話として書かれています。

母の館での食事の席。毒見をした膳番ぜんばんが、目がくらみ、血を吐はいて倒たおれた。毒だと気づいた政宗は、腹痛だと言って席を立った。母は、政宗を除いて、弟の小次郎に家を継がせようとしていた。二日後、政宗は弟を殺した。母はその夜、ひそかに城を出て、実家の山形へ移った、と記録は書きます。

話の元は、1686年に藩が集めた聞き取りでした。小次郎が亡くなった年も歳も、答えはばらばらです。

その中の、ある老人の話では、政宗は弟を呼び、金の扇おうぎを与あたえながら、そなたに恨うらみはないと言って、自分の手で斬きった。そのとき政宗も、涙なみだを流したという。

決め手にされたのは、日記でした。この二日のあと、小次郎の名は、日記に一度も出てこない。だから、このとき殺されたに違いない。記録をまとめた者は、そう考えたのです。

日記のその二日も、どちらも「天気よし」で始まっています。

同じころ、関東の小田原おだわらでは、天下をほぼ手にした豊臣秀吉とよとみひでよしが、大軍で北条ほうじょう氏の城を囲んでいました。各地の大名が、次々にあいさつに駆けつけている。

政宗は、まだ行っていなかった。

旧暦5月9日、政宗は会津を発たちます。従うのは、小十郎をはじめ百騎きほど。

供の者たちが、主君の切腹まで覚悟かくごすることになる旅でした。