高村智恵子 — 見せられない人

描いた絵を、夫になる人にもなかなか見せなかった。東京には空が無いと嘆いた画家の、不器用でひたむきな一生

絵を持ってこない人

「東京には空が無い」

智恵子ちえこはよくそう言って嘆なげいた、と夫の高村光太郎たかむらこうたろうは書いている。

光太郎はこのことを、短い詩にもしました。詩の中の光太郎は、驚おどろいて空を見る。桜の若葉のあいだにあるのは、昔からなじんだ、きれいな空だ。

けれど智恵子は、遠くを見ながら言う。阿多多羅山あだたらやまの山の上に、毎日出ている青い空。あれが、ほんとの空なのだ、と。

光太郎は東京で生まれ、東京で育った人です。彼女かのじょの訴うったえを、自分の体では感じとれなかった。いつかはこの町の自然になじむだろう、と思っていた。

なじまなかった。ほんとの空を求める気持ちは、死ぬまで変わらなかった、と光太郎は振ふり返っている。

画家になろうとした人でした。それなのに、夫になる人にさえ、描かいた絵をなかなか見せなかった。

口数も少なかった。

長沼ながぬま智恵子は、福島の二本松にほんまつに近い村の、酒蔵の長女でした。1903年、16歳さいで、東京の日本女子大学校に入ります。

寮りょうで同じ部屋だった友人が、のちに思い出を書き残しています。寮には、自転車が一台だけあった。時間を決めて、みんなで乗る練習をする。誰だれがいちばん先に乗れるようになるか。いちばんは、智恵子だったそうです。禁じられていた間食も、隠かくれもせず、堂々と食べていたといいます。その友人が学校をやめる日には、涙なみだを流して見送ったという。

絵に出会ったのも、この学校です。

籍せきは家政学部。けれど、自分で選べる洋画の授業に、熱心に出ていた。学生たちの劇の舞台ぶたいの背景を描く役は、いつも智恵子が引き受けた。夜おそくまで講堂の地下で描いていた姿を、覚えている人もいました。

故郷の両親は、娘むすめが画家になることに反対していました。それを変えたのは、智恵子がそのころ描いた祖父の肖像画しょうぞうがだったといいます。出来ばえに故郷の人たちが驚き、両親もとうとう許した。のちにその油絵を見た光太郎は、素朴そぼくな中に渋しぶい調和のある、色の美しい絵だったと書いています。

卒業しても、智恵子は故郷へ帰らなかった。東京に残って、油絵を学び続けます。

1910年の11月、群馬の赤城山あかぎさんにこもっていた智恵子は、女子大の校長に絵葉書を出しています。

木々は葉を落として、骨がむき出しになった。牛は里に帰り、山は眠ねむり、風だけがひとりで暴れている。そんな冬の山でも、少しばかり「スタデー」はしております、と。

勉強を、英語でスタデー。校長先生にあてて、少しだけ得意そうに書いているようにも読めます。

1911年、智恵子は平塚ひらつからいてうに頼たのまれて、女性の手による新しい雑誌『青鞜せいとう』の、創刊号の表紙を描きます。けれど、表紙の絵は大勢の目にふれても、本人が仲間の集まりに顔を出すことは、多くなかったようです。

その年の暮れ、智恵子は女子大の先輩せんぱい、柳八重やなぎやえに連れられて、ある彫刻ちょうこく家のアトリエを訪ねます。

高村光太郎。フランス帰りの、28歳でした。

そのころの光太郎は、すさんだ暮らしをしていました。北海道へ移り住もうとして、すぐに失敗する。自分でもどうなるか分からない日々だった、とのちに本人が回想している。

智恵子は、ときどきアトリエに来るようになった。

ひどく優雅ゆうがで、無口。話すと、語尾ごびが消えてしまう。光太郎の作品を見て、お茶を飲み、フランスの絵の話を聞いて、帰っていく。それがいつものことでした。

光太郎の目についたのは、着物の着こなしのうまさと、きゃしゃな姿くらいだった。

彼女は、自分の描いた絵を、決して持ってこなかったのです。どんな絵を描いているのか、光太郎はまるで知らなかった。

卒業してから数年のあいだに描いた絵を、智恵子はのちに、すべて捨ててしまいます。

光太郎の目にふれたのは、わずかな下描きだけでした。

山の上の友達

1912年1月21日、日曜日。東京・大森の料理屋で、青鞜社せいとうしゃの新年会が開かれました。智恵子ちえこも、その席にいた。

会は、夜中の二時ごろまで続いた。そのにぎやかな一日を、翌月の『青鞜せいとう』が記事にしています。

記事によれば、長沼ながぬまさんは、ほかの三人と一緒いっしょに、いつまでも席を立たなかった。誰だれかが自分と同じ考えを話すと、かすかに息をはずませて、こう受けたという。

「ええ、ええ、そうです、そうです、それです」

記事は彼女かのじょを「朦朧体もうろうたいの長沼氏」と呼んでいます。朦朧体とは、輪郭りんかくをぼかして描かく絵の呼び名。ぼんやりした人、というからかいだったのでしょう。うなだれて、夢の中にいるような話しぶりだったと、記事は書いています。

生まれてこのかた、青空を見たことがないような人だった、とも。

余興が始まると、「三味線がなければ」などと難題を持ち出すのも、長沼さんでした。

その日の昼、皆みなで写真を撮とったときには、仲間の一人が智恵子をつかまえて、真顔でこう聞いていたそうです。

「どうすれば美人らしく見えるでしょう」

記事の書き手の記憶きおくに残ったのは、仲間のコートを打掛うちかけのようにひっかけた、クラゲのような長沼さんの姿でした。

長沼さんとは話がしにくい。それが当時の女友達の、本当の意見のようだった、と光太郎こうたろうはのちに書いています。高い塗ぬり下駄げたをはいて、着物の裾すそを長く引きずるように歩く姿を、よく見かけたという人もいました。

この年は、展覧会に油絵を出したり、友人と二人展を開いてうちわ絵を並べたりもしています。人前に、絵を出すことはあったのです。

それでも光太郎は、まだ彼女の絵を一枚も見ていませんでした。

その年、光太郎の新しいアトリエができあがります。父が建ててくれたもので、光太郎は一人でそこに移った。智恵子は、お祝いに、グロキシニアの大きな鉢はちを持って訪ねてきました。

明治天皇が亡くなった、すぐあとのことです。光太郎は千葉の犬吠埼いぬぼうさきへ、写生に出かけた。

そこで、また智恵子に会います。彼女は妹と親友と一緒に、別の宿に来ていた。やがて光太郎の宿に移ってきて、二人は一緒に散歩をし、食事をし、写生をした。

宿の女中が一人、二人の散歩に必ずついてきたそうです。様子が変に見えたのか、心中でもしかねないと見たらしい。

光太郎は、知らなかった。あとになって智恵子が語ったところでは、もしこのとき光太郎が何か無理なことを言い出したら、彼女はその場で死ぬつもりだったという。

そうとは知らない光太郎の目に映ったのは、浜はまに生える浜防風はまぼうふうという草を見つけて喜ぶ智恵子でした。まったく子どもだった、と光太郎の回想にある。

やがて、智恵子から熱のこもった手紙が届くようになりました。

光太郎は迷った。この気持ちは一時のものではないか、と何度も自分を疑った。智恵子にも、警告した。自分のこれからの暮らしは苦しい。そこに彼女を巻きこむのが、忍しのびなかったのです。

美術家仲間や女の人たちのあいだでは、二人について、たちの悪いうわさが飛んだ。二人とも、家族にずいぶん困らされた。それでも光太郎によれば、悪い声が周りに満ちるほど、二人はますます強く結ばれていった。

1913年9月、智恵子は、信州の上高地かみこうちで絵を描いていた光太郎を訪ねます。

光太郎は、けわしい峠とうげを越こえて迎むかえに行った。智恵子は絵の道具を持ち、荷物は案内の人に任せて、身軽に山道を登ってきた。山の人たちも、その足の強さに驚おどろいていた。

それから毎日、光太郎は二人分の絵の道具を肩かたにかけて、写生に歩きまわった。

智恵子の描いた絵を、光太郎はこのとき初めて見ています。

かなり主観的な自然の見方で、一種の特色がある。大成すれば面白いだろう、と思った、と彼かれは書いている。

この山で光太郎が描いた自画像の一枚を、智恵子は、ずっとのちに病気で寝ていたころにも見ていたという。

同じ宿には、山に登りに来ていたイギリス人のウェストン夫妻ふさいもいた。ウェストンは光太郎に、あの人は妹さんですか、奥おくさんですか、とたずねた。

「友達です」

光太郎がそう答えると、ウェストンは苦笑していた、と光太郎は書いています。

東京の新聞は「山上の恋こい」と書きたてた。それでも翌1914年、光太郎の両親は二人の結婚けっこんを許した。光太郎は家の土地も建物も、すべて弟の夫婦のものと決めて、アトリエで智恵子と暮らしはじめた。まったく裸はだかのままの家庭だった、と彼は書いている。

年が明けて、智恵子は、二人を引き合わせた柳八重やなぎやえに礼状を書いています。お祝いと、わざわざ訪ねてくれたことへのお礼。その中に、こんな一行がある。

「あのバタは新しくて、ほんとにバタらしいにおいです」

署名は「智恵ちえ」。もらったバターの匂においを、そのまま書いて送っている。

結婚したころのことです。光太郎には、彼女が年をとった姿が、どうしても思い浮うかばなかった。それで、冗談じょうだんまじりに言った。

「あなたでもお婆ばあさんになるかしら」

智恵子は、何の気なしにこう答えた、と光太郎は覚えている。

「私年とらないうちに死ぬわ」

二人は、勉強の部屋を別にしました。智恵子の部屋は、二階にありました。

そこで描く絵を、彼女はやがて、どこにも出さなくなります。