高橋是清 — 性こりもない人

売られても、遊び呆ほうけても、全部なくしても。自分は運がいいと思い込み続けた、懲こりない財政家の一生

売られた体

「私が中国人を殺すと、どうなるでしょう」

アメリカ西海岸の町、オークランド。住み込こみ先の家の主人に、日本から来た十三歳じゅうさんさいほどの少年が、そう聞きました。何十年もあとに、本人が自伝の中で語っていることです。

主人は、妙みょうな顔をしたそうです。

「人を殺せば、お前も殺される。なぜ、そんなことを言うのか」

少年は、本気でした。

のちに大蔵大臣を何度も務め、総理大臣にもなる高橋是清たかはしこれきよ。子どものころの名前は、和喜次わきじといいました。

江戸えどの生まれです。生まれてすぐ、仙台藩せんだいはんの足軽あしがるの家、高橋家に里子さとごに出された。育ててくれたのは、その家の祖母でした。

幼いころ、大名の行列を見物していて、道の向こうから手招きされ、思わず飛び出したことがある。転んだところへ、先ぶれの騎馬きばの侍さむらいが二人、疾風はやてのように駆かけてきた。少年は、馬の蹄ひづめに踏ふまれました。

みんなが驚おどろいて抱だき上げると、けがはない。羽織はおりの紋もんの上に、馬の草鞋わらじの型がついていただけでした。

高橋の子は運のいい子だ、幸福な子だ。その評判は、子どもの耳にも入ります。

「自分は幸福者だ、運のいい者だ」

子どものころから、そう深く思い込んでいた、と本人は語っています。

十二歳じゅうにさいのとき、和喜次は仙台藩の留学生として、アメリカへ渡わたることになりました。船に乗る前の晩、祖母は自分の手で、孫の髷まげを切ってくれた。祖母はもう一つ、短刀たんとうを持たせています。自伝によれば、そのとき切腹せっぷくのやり方まで教えて、こう言ったそうです。

「恥はじをかいたら、これで切腹せよ。決して、人を害あやめるのではありませぬ」

サンフランシスコでは、ヴァン・リードという老人の家に、友人の鈴木すずきと二人で預けられました。

はじめは歓迎かんげいされた。けれど食事はだんだん悪くなり、学校にも行かせてもらえない。料理の手伝い、部屋の掃除そうじ、使い走り。奥おくさんの買い物には、大きな笊ざるを持ってお供をする。夜になると腹が減って、向かいのパン屋で五セントの大きなパンを買い、鈴木と二人で、隠かくれて食べたそうです。

約束が違ちがう以上、もう働かない。和喜次はそう言い張って、何を言いつけられても聞かなくなりました。

やがて奥さんは和喜次に見切りをつけ、オークランドの知り合いの、大きな金持ちの家へ連れていった。いい所だと答えると、老人は、あの家に住み込めば学問ができる、と言います。

老人の役所で、一枚の書付かきつけが出されました。一緒いっしょに来た仲間がのぞいたが、英語を習いはじめたばかりで、何が書いてあるのか、さっぱり分からない。それでも、望んでいた学問ができるというので、和喜次は喜び勇んで署名しました。仲間はこう言った、と自伝にあります。

「何だかお前があっちへ行ってしまう、何でも三年ということが書いてある」

和喜次は、少しも疑わなかった。それどころか、大いばりで帰って鈴木に話し、うらやましがらせたそうです。

オークランドの家の若い奥さんは、親切でした。英語の手習いを見てくれ、着る物まで作ってくれた。やがて和喜次は、牛や馬の世話をまかされ、薪まきを挽ひく仕事も受け持つようになります。

そして、あの日の朝です。

挽いた薪を割るのは、同じ家で働く中国人の料理番の受け持ちでした。

その朝、相手が薪を挽いていた。今日は洗濯せんたくの日だから、代わりに挽いてくれているのだろう。和喜次はあっさりそう考えて、その薪を割り始めます。

相手は、大変な剣幕けんまくで怒鳴どなりました。

「俺おれの仕事を、なぜするか」

和喜次も負けずに怒鳴り返す。相手も引かない。今日は洗濯の日で薪がたくさん要るのに、お前は少しも挽いていないじゃないか。

思いがけない言葉に、和喜次は「クワッとなって」、鉞まさかりを振ふり上げた、と自伝にあります。相手は逃にげた。追いかけて投げつけた鉞は、小屋の木戸にぶつかりました。

それでも、腹の虫はおさまらない。和喜次は祖母の短刀を、そっとポケットに入れた。相手も小さな斧おのをポケットに入れて、用心していた。

そのとき、ふと、祖母に戒いましめられていた二文字を思い出します。堪忍かんにん。

ここは堪忍すべきところだ。けれど祖母は、恥をかいたら腹を切れ、とも教えてくれた。腹を切るくらいなら、まず相手をやっつけなければならない。だが、やっつけたら、自分はどうなるのだろう。

自伝によれば、少年の頭の中は、そんなふうに回っていました。そして夕方、主人にあの問いをぶつけたのです。

主人は、お前も悪い、とたしなめました。牛をつなぐ場所を間違まちがえたり、今朝は薪を挽かなかったり。すべきことをしないから悪いのだ、と。

次の日、和喜次は一日考えた。中国人を殺して自分が殺されては、つまらない。あんな者と命のやり取りをするのは、馬鹿らしい。そう思い直した、と自伝にあります。

夕方、和喜次は主人に、暇ひまをくださいと申し出ました。あんな者と一緒にいるのは嫌いやです、と。

主人の答えは、こうでした。

「お前は勝手に暇を取って帰るわけにはいかぬ。お前の体は、三年間は金を出して買ってあるのだ。現にお前は友人と二人で、書付にサインまでしたではないか」

和喜次は、驚いてしまった。あのとき署名したのは、身売りの契約書けいやくしょだったのか。何とかして、ここを逃げ出さなければならない。そう考えた、と自伝は続けています。

一日だけ暇をください、明日サンフランシスコへ行って友だちと相談してくるから。そう言うと、主人は「生意気なッ」と、いきなり和喜次の頬ほおを殴なぐった。

殴られたひょうしに、思わず屁へが出ました。

少しきまりが悪かったので、怒おこりながら、にっこりした。そばにいた奥さんが、あなた、そんな手荒てあらなことをしてはいけません、と止めてくれた、と本人は語っています。

三年間。それが、喜び勇んで名前を書いた紙の中身でした。

近所の方々です

逃にげ出す手立ては、サンフランシスコにいた日本人の仲間たちが考えてくれました。藩はんから呼び戻もどしが来たことにして、偽にせの手紙までこしらえ、契約けいやくを破ってもらったのです。

明治元年の暮れ(旧暦きゅうれき)、和喜次わきじ、のちの是清これきよは日本に帰ってきました。

横浜よこはまで荷物を調べられると、是清の行李こうりから、ピストルが出てきた。祖母にもらったあの短刀たんとうを、アメリカで、ある人に頼たのまれてピストルと取り替かえ、行李の底にしまい忘れていたのです。

帰ってきた是清たちを引き取ったのは、森有礼もりありのりでした。危ないからと、是清の名前まで変えさせている。周りからは、橋さん、と呼ばれるようになります。

翌年、十四歳じゅうよんさいの是清は、大学南校だいがくなんこうの教官になりました。教わる側から、教える側に回ったのです。

1870年、同じ学校の下級生三人が、是清に頼みごとをしてきた。借金があって、国元へ帰れない。二百五十両がなければ立ち行かない。

是清に、そんなお金はありません。遠い親戚しんせきの商人に頼みこみ、自分が借り手になって証文を入れ、三人に渡わたしてやりました。

三人はお礼に、是清を両国りょうごくの茶屋、柏屋かしわやに招きます。

ふと気がつくと、自分だけが、周りから軽く扱あつかわれている。三人は縮緬ちりめんの着物に、金ぴかの刀。自分は木綿もめんの着物に、小倉こくらの袴はかま。帰りぎわ、三人の刀は芸者が袱紗ふくさで捧ささげて玄関げんかんまで運んだのに、是清の刀だけは、床とこの間に放り出されたままでした。

「あんな者共に軽蔑けいべつされるようではいかぬ」

そう考えた、と自伝にあります。

是清は古着屋に頼んで、三人と同じような着物と袴、それに、鍍金めっきでもいいから金づくりの太刀たちをそろえさせた。そして元日の夕方、同じ茶屋に同じ芸者を呼んで、三人を招き返したのです。

今度は、打って変わってもてなされました。人は、着ている物と金離かねばなれで扱いを変えるものだ。それが分かった、と本人は振ふり返っています。

それから、遊びの仲間に入るために、三人から歌と踊おどりを習いはじめた。夜な夜な、下宿していたフルベッキ先生の家で、大声で歌い踊る。先生の家の料理人がそれを見て、橋さんは気が狂くるったのではないか、と是清の友人に告げに行ったそうです。

是清は、もうこの家にはいられないと思い、先生に、ほかへ下宿したいと申し出ました。

先生は、多くを言わなかった、と是清は語っています。

「そのうち、また帰りたくなったら、いつでも遠慮えんりょなく戻っておいでなさい」

そう言って、黒い皮表紙の大きな聖書を取り、手ずから渡した。

「どんな場合でも、一日に一度は見るようになさい」

下宿を移ると、もう誰だれにも遠慮はいらない。遊びは、いよいよひどくなりました。

ある日、浅草あさくさの芝居しばい小屋。是清は友人と二人、芸者の長襦袢ながじゅばんを着て、桟敷さじきでさかんに飲んでいた。幕あいに、花道をこちらへ歩いてくる一行がある。外国人が三人と、日本人が二人。外国人は、学校の教師たちでした。

是清は、その日のうちに辞表を出した。引き止めた加藤弘之かとうひろゆきに、こう答えたと自伝にあります。

「私は不行跡ふぎょうせきで、とても人を教えるなんて資格がありません」

蓄たくわえは、またたく間に消えた。三人のために借りた金の利子も払はらわなければならない。是清は、書物も着物も、持っている物を一切売り払いました。フルベッキ先生にもらった聖書、一冊だけを残して。

その聖書は、一日に一度、欠かさず開いた。そのたびに、今の自分はどうもよくない、早く改めねばならぬと感じた。けれど、女の人への迷いで、遊びはどうしても止められなかった、と本人は語っています。

そのころのことです。芝しばに住む祖母が、ある朝、下宿を訪ねてきました。

その日は、なじみの芸者の桝吉ますきちが泊とまっていた。妹分の芸者が、朝ごはんを重箱に詰つめて持ってきたところでした。奥座敷おくざしきで、逃げ場がない。

祖母は、二人の芸者を見て聞きました。

「こちらの方々は」

とっさに、是清は答えた。

「近所の方々です」

「ああ、そうでしたか。いろいろと孫がお世話になることでしょう。まだ年もゆかぬ未熟の者ですから、何分よろしくお頼みします」

ていねいに挨拶あいさつされた二人の芸者は、いたたまれずに逃げ出してしまいました。

あとで小言をくらうと思っていた。祖母は、一向に小言を言わなかった。

「お前も、もう意見をされる年合いでもなかろうから、よく考えて、一生を過たぬようにしなさい。常に言っている通り、この祖母が朝夕神仏に祈いのっていることは、お前の出世することばかりです」

桝吉は、この祖母の様子に、よほど心を動かされたようでした。のちに是清を自分の家に引き取ると言い出したのも、このことがもとだったように思われる、と是清は書いています。

けれど桝吉の家では、両親に厄介者やっかいものあつかいされ、三味線しゃみせん持ちの手伝いまでした。

男一匹いっぴき、こんなことではいかぬ。自分で自分に愛想あいそがつきて、ある日の夕方、是清は桝吉の家の前で、天を仰あおいで考え込こんでいた、と自伝にあります。

突然とつぜん、後ろから声をかける者がいました。

「君は和喜さんじゃないか。久しぶりだなあ」

子どものころの名前でした。

借金も、みな抜ぬけ申し候

声の主は、小花万司おばなまんじ。横浜よこはまにいた子どものころの、知り合いでした。

今は何をしているのか、と聞かれて、是清これきよはこう答えたと、自伝にあります。

「僕ぼくは何もしていない。何かしなくちゃならぬと思っている」

「そりゃちょうどよい」

小花おばなの話はこうでした。九州の唐津藩からつはんが英語の学校を建てて、先生を探している。月給は百円、食事は向こう持ち。

是清は、引き受けました。月給を前借りして洋服を作り、借金の始末もつけた。二百五十両の残りは、証文を書き直して、毎月の月給から返すことにした。名前も、桝吉ますきちの家の名にちなんで、東太郎あずまたろうと変えています。

年老いた祖母のことは、桝吉が引き受けてくれた。芸者の商売をやめ、浅草あさくさに家を借りて、祖母と一緒いっしょに住むことになったのです。その暮らしは長く続かず、桝吉はやがて両親に呼び戻もどされてしまうのですが。

唐津からつの学校では、授業をすべて英語でした。けれど生徒たちには、習った英語が本当に外国人に通じるのか、確かめようがない。

あるとき、唐津の港に、外国の船が石炭を積みにやって来ました。是清は上の組の生徒を十四、五人連れて船に乗り込こみ、船長に事情を話して頼たのみます。

この人たちは、まだ一度も外国人と話したことがない。自分たちの英語が通じるのか、疑っている。突飛とっぴなことを聞くかもしれないが、英語の稽古けいこのつもりで相手をしてほしい。

船長はこころよく引き受け、ビールまで出してもてなしてくれた。生徒たちは我も我もと、学校で習った会話を話しかける。相手が答えてくれる。自分たちの英語は本物だと分かって、一同、大変に喜んだ、と自伝は書いています。

学校は、是清の意見で、殿様とのさまが出ていったあとの城の御殿ごてんに移り、生徒も増えていきます。その中には、のちに工学博士となる辰野金吾たつのきんごもいました。

自分の借金を払はらい終えると、是清は、月給の百円はもう要らないと言い出した。自分の取り分は六十円にして、残りの四十円は、学校の費用に回したのです。

そのころ、唐津から祖母にあてた手紙が、自伝に載のっています。ひらがなの多い、昔の手紙の書き方です。

「しやつきんもみなぬけ申候まゝ御安ごあんしん下され度ねんじ候」

借金も、みな抜ぬけましたので、ご安心ください。

差出人の名は、太郎たろう。

ただ、唐津で増えたのは、生徒だけではありませんでした。

酒です。朝は教場に出る前に冷や酒。昼に一升いっしょう。夜は学校の世話役たちと酒盛り。毎日、平均三升さんじょうずつは飲んでいた、と本人は言います。

1872年の旧暦きゅうれきの正月、とうとう飲み続けて倒たおれた。医者は、こう脅おどしました。

「こりゃ大変だ。かねて大酒をやっちゃいかぬというのに、飲み過ぎるからだ。これは酒毒だ。君はこれで命を取られるぞ」

一週間ほどで、座敷ざしきの中くらいは歩けるようになった。病気のあとは、酒のにおいが、どうにも嫌いやになっていました。

久しぶりに下の部屋へ降りていくと、いつものように教員たちが飲んでいる。

「先生、一杯いっぱいいかがです」

「いや、もう私はにおいから嫌になった」

すると、その中の一人が言いました。

「においが嫌になったら、鼻をつまんで飲みなさい」

鼻をつまんで飲んだら、なかなかうまい。二杯目にはいめからは、つままなくても、うまくなった。

「とうとう性こりもなく、また酒飲みになってしまった」

是清は、自伝でそう語っています。

唐津を離はなれたあとも、是清は落ち着きませんでした。駅逓寮えきていりょうという役所では上役とぶつかって辞め、相場にも手を出した。

1881年、文部省に入ろうとしたときのことです。役所の中で、浜尾新はまおあらたという人が反対している、と聞こえてきた。遊び歩いたり、相場をしたりした者を、教育の役所に入れるべきではない、というのです。

是清は、自分から浜尾はまおを訪ねていきました。そして、ありのままを話した、と本人は語っています。相場に手を出したのは、三十人ばかりの書生を養う費用を得るためで、今はやめている。遊びのほうも、もう行かなくなった。

「そういうわけで、今日の高橋は昨日の高橋とは別人となっていると、ご承知願いたい」

浜尾は、ごもっとも、早く文部省に入りたまえ、と答えたそうです。

それから六年後の1887年。是清は、特許局長になっていました。役人として、上り坂の真ん中です。

その椅子いすを、彼かれは二年後に離れます。南米ペルーの、銀山のために。

丁稚小僧でっちこぞうから

1890年3月26日。ペルーにいた是清これきよのもとへ、技手ぎての小池こいけが、突然とつぜん、山から下りてきました。

一大事が起こったので、内密に申し上げに参りました。小池は、そう言った。

会社が買った銀山の、坑道こうどうの中は、がらんどうだった。底の底まで掘ほり尽つくされた、古い廃坑はいこうだったのです。

「嗚呼ああ、万事ばんじ止やぬる哉かな」

もう、おしまいだ。明治二十三年三月二十六日は、私にとって生涯しょうがい忘れることのできない日であった、と是清は語っています。

山を調べて報告したのは、田島たじまという男でした。かつて是清が教えた生徒です。

是清は田島を起こして、問い詰つめました。最初に山を買うとき、現地をよく調べたのか。はっきり言え。

田島は、ようやく答えた。

「実はあの時は、よく調査をしませんでした」

報告書は、ペルーの鉱山学校にあった記録を英語で読み聞かされ、それをそのまま訳して送ったもの。自分で山へ行ったのではなかった。田島は泣きながら、そう打ち明けました。

何が書いてあるか分からない紙に、喜び勇んで名前を書いた少年がいました。その少年は三十五歳さんじゅうごさいになり、教え子の報告をもとに買った山の、責任者になっていたのです。

日本に戻もどると、次に手を出した福島ふくしまの農場も、天沼あまぬまの鉱山も、ことごとく失敗した。世間の悪口と笑い声は、なかなか止みません。

持ち株の払はらい込こみが、借金として残った。住んでいた家屋敷いえやしきを売り、手もとのお金を足して、ようやく後始末をつけました。引っ越こし先は、もとの家のすぐ裏の、小さな借家。家賃は六、七円だったと思う、と本人は言います。

友人たちは、また役人に戻れと、あちこちの職を勧すすめてくれた。是清は、すべて断ります。食べるために役人になれば、上役が間違まちがっていても、従わなければならないときが来る。それはよくない、と考えたのだと自伝にあります。

そこで、ある日、家族を一人残らず集めた。ペルーの失敗から、福島の農場、天沼の鉱山の失敗、今日の事情まで、一切を、初めて打ち明けたのです。

「この上は運を天に任せ、一家の者は一心となって、家を立て直すことに努めねばならぬ。ついては、これから田舎に引きこもって、大人も子どもも一緒いっしょになって、一生懸命いっしょうけんめいに働いてみよう。しかもなお飢うえるような場合になったら、皆みなも私と共に飢えてもらいたい」

上の息子の是賢これかたは、聞いていました。下の是福これよしは、十歳じっさい。

「そうなったら私は、蜆しじみ売りをして家計を助けます」

皆が涙なみだをのんだ、と是清は語っています。妻つまは毛糸を編む内職をして、わずかな工賃を得ていました。

1892年4月。友人の前田正名まえだまさなが、知らせを持ってきます。日本銀行総裁の川田小一郎かわだこいちろうが、君に会いたがっている。

ある朝早く、是清は川田かわだの屋敷やしきを訪ねました。ペルーのことは、あらまし知っている、と川田は言った。

是清は、十分にお話しするには少なくとも二時間はかかる、と断ってから、そもそもの始まりから今日までを、すべて話した。そのあいだ訪ねてきた客との面会を、川田は断って聞いていたそうです。

聞き終えた川田は言いました。君はすっかり跡始末あとしまつをして、ちり一つ残さないようにしてきた。かりに自分が君の立場にいても、それ以上のことはできない。そして、田舎に引っ込むのはよくない、失敗はいくらでも取り戻せる、と。

是清は答えた。私も人間だから、多少のうぬぼれはある。けれど、そのうぬぼれが一番間違っていたのだから、これからは自分の分を守って最善の努力をし、そのあとは運を天に任せることに決めた。そう話したと、自伝にあります。

しばらくして、川田は、ある鉄道会社の社長の椅子いすが空いた、君が座ってはどうか、と勧めてきました。

是清は、断ります。鉄道のことは何も知らない。社長として過ちなくやっていく自信がない。

「どうせ実業界にお出しくださるなら、やはり丁稚小僧でっちこぞうから出してください」

丁稚でっちとは、商店に住み込んで、いちばん下から働く少年のことです。

川田は、君は妙みょうなことを言うが、まことにもっともだ、と言いました。

1892年6月1日。是清は、日本銀行の新しい建物を建てる工事の、事務主任になりました。

建築所の技術部を率いていたのは、辰野金吾たつのきんご。唐津からつの学校で、是清が英語を教えた生徒でした。

天佑てんゆう

1904年4月、ロンドン。日本は、ロシアとの戦争のさなかにありました。

戦争にはお金がいる。外国で国の借金の証書、公債こうさいを売って集めるしかない。その役目を負ってロンドンに来ていたのが、日本銀行副総裁の是清これきよです。

ある晩、友人の家の晩餐会ばんさんかいで、是清はアメリカの銀行家と隣り合わせとなりあわせになりました。シフという人です。是清は、その名前を聞いたこともなかった。

シフは、日本の経済や人々の様子について、細かく質問した。是清は、できるだけていねいに答えます。

次の日、銀行家のシャンドがやって来て、思いがけないことを告げました。シフ氏が、残りの五百万ポンドの公債を引き受けて、アメリカで売りたいと言っている。

話はたちまちまとまり、イギリスとアメリカで、一度に一千万ポンドの公債を出せることになりました。

「私は、一にこれ天佑てんゆうなりとして、大いに喜んだ」

天佑とは、天の助けのこと。是清は、自伝にそう書いています。馬の蹄ひづめに踏ふまれても、羽織はおりに草鞋わらじの跡あとがついただけだった子は、四十九歳よんじゅうきゅうさいになっていました。

そばで働いていた深井英五ふかいえいごが、このロンドンでの是清の様子を、のちにこう語っています。

シフがアメリカへ帰る前に、あなたに会っておきたいと言っている。シャンドがそう伝えると、是清は、こちらから訪ねろという意味か、と聞き返した。まあそうだ、という返事に、是清はキッとなって、こう言い放ったといいます。

「なるほどシフ氏は偉えらい人で、今度の功績については自分も敬意を表し、かつ感謝しているが、自分は今、一国を代表して来ている者である。自分に会いたければ、向こうから訪ねて来ればよいじゃないか」

シフは当時、イギリスの国王の昼食に招かれるほどの人でした。深井ふかいは、実はひやりとした、と振ふり返っています。

ところが、まもなく、シフのほうから是清の宿を訪ねてきた、と深井は語っています。

その宿は、三流か四流のホテルで、東京でいえば馬喰町ばくろちょうの商人宿くらいの格だったそうです。是清は、宿の格など気にも留めていませんでした。

今度は、こちらから答礼とうれいに行かなければならない。深井によれば、シフが泊とまっていたのは、ロンドン第一流のホテル。各国の王族や貴族、大富豪だいふごうが泊まるところでした。

帰ってくるなり、是清は言ったそうです。

「シフの宿は宮殿きゅうでんのようだ。我々も宿を替かえねばならぬなあ」

けれど、手ごろな宿は見つからない。帰国の時期も近い。宿は、とうとうそのままになりました。

その後、是清は日本銀行の総裁になり、大蔵大臣を何度も務めます。

是清と長く一緒いっしょに仕事をした三土忠造みつちちゅうぞうが、こんな場面を書き残しています。1920年、貴族院きぞくいんの委員会でのことです。

農商務大臣と意見の違ちがいがあり、三土たちが間に入ってまとめた案がありました。その中身を忘れたのか、是清は、もとの自分の意見を、滔々とうとうと述べてしまった。委員が聞きます。二人の大臣の説明が食い違っている。どちらを政府の意見と見ればよいのか。

是清は、自分の説明が農商務大臣の意見とぶつかるなら、ただいまの答弁は取り消す、と言った。委員長が、食い違った部分だけ取り消してはどうか、と口をはさむ。

「いや、全部を取り消す」

是清が平然と言い放つと、満場が大笑いになったといいます。

三土みつちは、是清をこう評しました。

「自制心の点においては、あまり人にすぐれた方ではない。むしろ天真爛漫てんしんらんまんにして、情念のほとばしるままに言動するたちであった」

ただ、国のことを思うあまり、自分の威信いしんや体面などは、顧かえりみる暇ひまがなかったのだろう、とも書いています。

両国の茶屋で、床とこの間に刀を放り出されて、軽蔑けいべつされてはいかぬと、元日に仕返しの宴うたげを開いた若者でした。

翌1921年、是清は総理大臣にもなっています。

1936年2月26日。大蔵大臣を務めていた是清は、二・二六事件で暗殺されました。軍事費を抑おさえようとして、軍部と対立していたさなかでした。81歳さいでした。

自分は幸福者だ。そう思い込こんでいたから、どんな失敗をしても、窮地きゅうちに陥おちいっても、いつかよい運が回ってくると、一心に努力した。是清は、自伝でそう振り返っています。

売られた少年のために、偽にせの手紙をこしらえた仲間たち。いつでも戻もどっておいでなさい、と聖書を渡わたしたフルベッキ先生。芸者をやめて、年老いた祖母と暮らしてくれた桝吉ますきち。客を断って、二時間の話を聞いた川田かわだ。

そして、芸者の前で孫を叱しからず、お前の出世することばかり祈いのっている、と言った祖母。

「私が中国人を殺すと、どうなるでしょう」。オークランドでそう聞いた少年は、祖母に戒いましめられていた堪忍かんにんの二文字を思い出して、殺さずにすみました。その二文字は、最後まで、あまり身につかなかったのかもしれません。

話を、アメリカへ発たつ前の晩に戻します。

祖母は自分の手で、十二歳じゅうにさいの孫の髷まげを切りました。その髷は、不思議なことに古い手文庫てぶんこの中から出てきて、今でも取ってある。晩年の是清は、そう語っています。

次の日、祖母に送られて、少年は船に乗り込みました。船の中は妙みょうなにおいがして、祖母は、出された紅茶も飲めなかった。

けれど少年たちは、とにかく嬉うれしくてたまらなかったそうです。