高橋是清 — 性こりもない人
売られても、遊び呆けても、全部なくしても。自分は運がいいと思い込み続けた、懲りない財政家の一生
売られた体
「私が中国人を殺すと、どうなるでしょう」
アメリカ西海岸の町、オークランド。住み込み先の家の主人に、日本から来た十三歳ほどの少年が、そう聞きました。何十年もあとに、本人が自伝の中で語っていることです。
主人は、妙な顔をしたそうです。
「人を殺せば、お前も殺される。なぜ、そんなことを言うのか」
少年は、本気でした。
のちに大蔵大臣を何度も務め、総理大臣にもなる高橋是清。子どものころの名前は、和喜次といいました。
江戸の生まれです。生まれてすぐ、仙台藩の足軽の家、高橋家に里子に出された。育ててくれたのは、その家の祖母でした。
幼いころ、大名の行列を見物していて、道の向こうから手招きされ、思わず飛び出したことがある。転んだところへ、先ぶれの騎馬の侍が二人、疾風のように駆けてきた。少年は、馬の蹄に踏まれました。
みんなが驚いて抱き上げると、けがはない。羽織の紋の上に、馬の草鞋の型がついていただけでした。
高橋の子は運のいい子だ、幸福な子だ。その評判は、子どもの耳にも入ります。
「自分は幸福者だ、運のいい者だ」
子どものころから、そう深く思い込んでいた、と本人は語っています。
十二歳のとき、和喜次は仙台藩の留学生として、アメリカへ渡ることになりました。船に乗る前の晩、祖母は自分の手で、孫の髷を切ってくれた。祖母はもう一つ、短刀を持たせています。自伝によれば、そのとき切腹のやり方まで教えて、こう言ったそうです。
「恥をかいたら、これで切腹せよ。決して、人を害めるのではありませぬ」
サンフランシスコでは、ヴァン・リードという老人の家に、友人の鈴木と二人で預けられました。
はじめは歓迎された。けれど食事はだんだん悪くなり、学校にも行かせてもらえない。料理の手伝い、部屋の掃除、使い走り。奥さんの買い物には、大きな笊を持ってお供をする。夜になると腹が減って、向かいのパン屋で五セントの大きなパンを買い、鈴木と二人で、隠れて食べたそうです。
約束が違う以上、もう働かない。和喜次はそう言い張って、何を言いつけられても聞かなくなりました。
やがて奥さんは和喜次に見切りをつけ、オークランドの知り合いの、大きな金持ちの家へ連れていった。いい所だと答えると、老人は、あの家に住み込めば学問ができる、と言います。
老人の役所で、一枚の書付が出されました。一緒に来た仲間がのぞいたが、英語を習いはじめたばかりで、何が書いてあるのか、さっぱり分からない。それでも、望んでいた学問ができるというので、和喜次は喜び勇んで署名しました。仲間はこう言った、と自伝にあります。
「何だかお前があっちへ行ってしまう、何でも三年ということが書いてある」
和喜次は、少しも疑わなかった。それどころか、大いばりで帰って鈴木に話し、うらやましがらせたそうです。
オークランドの家の若い奥さんは、親切でした。英語の手習いを見てくれ、着る物まで作ってくれた。やがて和喜次は、牛や馬の世話をまかされ、薪を挽く仕事も受け持つようになります。
そして、あの日の朝です。
挽いた薪を割るのは、同じ家で働く中国人の料理番の受け持ちでした。
その朝、相手が薪を挽いていた。今日は洗濯の日だから、代わりに挽いてくれているのだろう。和喜次はあっさりそう考えて、その薪を割り始めます。
相手は、大変な剣幕で怒鳴りました。
「俺の仕事を、なぜするか」
和喜次も負けずに怒鳴り返す。相手も引かない。今日は洗濯の日で薪がたくさん要るのに、お前は少しも挽いていないじゃないか。
思いがけない言葉に、和喜次は「クワッとなって」、鉞を振り上げた、と自伝にあります。相手は逃げた。追いかけて投げつけた鉞は、小屋の木戸にぶつかりました。
それでも、腹の虫はおさまらない。和喜次は祖母の短刀を、そっとポケットに入れた。相手も小さな斧をポケットに入れて、用心していた。
そのとき、ふと、祖母に戒められていた二文字を思い出します。堪忍。
ここは堪忍すべきところだ。けれど祖母は、恥をかいたら腹を切れ、とも教えてくれた。腹を切るくらいなら、まず相手をやっつけなければならない。だが、やっつけたら、自分はどうなるのだろう。
自伝によれば、少年の頭の中は、そんなふうに回っていました。そして夕方、主人にあの問いをぶつけたのです。
主人は、お前も悪い、とたしなめました。牛をつなぐ場所を間違えたり、今朝は薪を挽かなかったり。すべきことをしないから悪いのだ、と。
次の日、和喜次は一日考えた。中国人を殺して自分が殺されては、つまらない。あんな者と命のやり取りをするのは、馬鹿らしい。そう思い直した、と自伝にあります。
夕方、和喜次は主人に、暇をくださいと申し出ました。あんな者と一緒にいるのは嫌です、と。
主人の答えは、こうでした。
「お前は勝手に暇を取って帰るわけにはいかぬ。お前の体は、三年間は金を出して買ってあるのだ。現にお前は友人と二人で、書付にサインまでしたではないか」
和喜次は、驚いてしまった。あのとき署名したのは、身売りの契約書だったのか。何とかして、ここを逃げ出さなければならない。そう考えた、と自伝は続けています。
一日だけ暇をください、明日サンフランシスコへ行って友だちと相談してくるから。そう言うと、主人は「生意気なッ」と、いきなり和喜次の頬を殴った。
殴られたひょうしに、思わず屁が出ました。
少しきまりが悪かったので、怒りながら、にっこりした。そばにいた奥さんが、あなた、そんな手荒なことをしてはいけません、と止めてくれた、と本人は語っています。
三年間。それが、喜び勇んで名前を書いた紙の中身でした。
近所の方々です
逃げ出す手立ては、サンフランシスコにいた日本人の仲間たちが考えてくれました。藩から呼び戻しが来たことにして、偽の手紙までこしらえ、契約を破ってもらったのです。
明治元年の暮れ(旧暦)、和喜次、のちの是清は日本に帰ってきました。
横浜で荷物を調べられると、是清の行李から、ピストルが出てきた。祖母にもらったあの短刀を、アメリカで、ある人に頼まれてピストルと取り替え、行李の底にしまい忘れていたのです。
帰ってきた是清たちを引き取ったのは、森有礼でした。危ないからと、是清の名前まで変えさせている。周りからは、橋さん、と呼ばれるようになります。
翌年、十四歳の是清は、大学南校の教官になりました。教わる側から、教える側に回ったのです。
1870年、同じ学校の下級生三人が、是清に頼みごとをしてきた。借金があって、国元へ帰れない。二百五十両がなければ立ち行かない。
是清に、そんなお金はありません。遠い親戚の商人に頼みこみ、自分が借り手になって証文を入れ、三人に渡してやりました。
三人はお礼に、是清を両国の茶屋、柏屋に招きます。
ふと気がつくと、自分だけが、周りから軽く扱われている。三人は縮緬の着物に、金ぴかの刀。自分は木綿の着物に、小倉の袴。帰りぎわ、三人の刀は芸者が袱紗で捧げて玄関まで運んだのに、是清の刀だけは、床の間に放り出されたままでした。
「あんな者共に軽蔑されるようではいかぬ」
そう考えた、と自伝にあります。
是清は古着屋に頼んで、三人と同じような着物と袴、それに、鍍金でもいいから金づくりの太刀をそろえさせた。そして元日の夕方、同じ茶屋に同じ芸者を呼んで、三人を招き返したのです。
今度は、打って変わってもてなされました。人は、着ている物と金離れで扱いを変えるものだ。それが分かった、と本人は振り返っています。
それから、遊びの仲間に入るために、三人から歌と踊りを習いはじめた。夜な夜な、下宿していたフルベッキ先生の家で、大声で歌い踊る。先生の家の料理人がそれを見て、橋さんは気が狂ったのではないか、と是清の友人に告げに行ったそうです。
是清は、もうこの家にはいられないと思い、先生に、ほかへ下宿したいと申し出ました。
先生は、多くを言わなかった、と是清は語っています。
「そのうち、また帰りたくなったら、いつでも遠慮なく戻っておいでなさい」
そう言って、黒い皮表紙の大きな聖書を取り、手ずから渡した。
「どんな場合でも、一日に一度は見るようになさい」
下宿を移ると、もう誰にも遠慮はいらない。遊びは、いよいよひどくなりました。
ある日、浅草の芝居小屋。是清は友人と二人、芸者の長襦袢を着て、桟敷でさかんに飲んでいた。幕あいに、花道をこちらへ歩いてくる一行がある。外国人が三人と、日本人が二人。外国人は、学校の教師たちでした。
是清は、その日のうちに辞表を出した。引き止めた加藤弘之に、こう答えたと自伝にあります。
「私は不行跡で、とても人を教えるなんて資格がありません」
蓄えは、またたく間に消えた。三人のために借りた金の利子も払わなければならない。是清は、書物も着物も、持っている物を一切売り払いました。フルベッキ先生にもらった聖書、一冊だけを残して。
その聖書は、一日に一度、欠かさず開いた。そのたびに、今の自分はどうもよくない、早く改めねばならぬと感じた。けれど、女の人への迷いで、遊びはどうしても止められなかった、と本人は語っています。
そのころのことです。芝に住む祖母が、ある朝、下宿を訪ねてきました。
その日は、なじみの芸者の桝吉が泊まっていた。妹分の芸者が、朝ごはんを重箱に詰めて持ってきたところでした。奥座敷で、逃げ場がない。
祖母は、二人の芸者を見て聞きました。
「こちらの方々は」
とっさに、是清は答えた。
「近所の方々です」
「ああ、そうでしたか。いろいろと孫がお世話になることでしょう。まだ年もゆかぬ未熟の者ですから、何分よろしくお頼みします」
ていねいに挨拶された二人の芸者は、いたたまれずに逃げ出してしまいました。
あとで小言をくらうと思っていた。祖母は、一向に小言を言わなかった。
「お前も、もう意見をされる年合いでもなかろうから、よく考えて、一生を過たぬようにしなさい。常に言っている通り、この祖母が朝夕神仏に祈っていることは、お前の出世することばかりです」
桝吉は、この祖母の様子に、よほど心を動かされたようでした。のちに是清を自分の家に引き取ると言い出したのも、このことがもとだったように思われる、と是清は書いています。
けれど桝吉の家では、両親に厄介者あつかいされ、三味線持ちの手伝いまでした。
男一匹、こんなことではいかぬ。自分で自分に愛想がつきて、ある日の夕方、是清は桝吉の家の前で、天を仰いで考え込んでいた、と自伝にあります。
突然、後ろから声をかける者がいました。
「君は和喜さんじゃないか。久しぶりだなあ」
子どものころの名前でした。
借金も、みな抜け申し候
声の主は、小花万司。横浜にいた子どものころの、知り合いでした。
今は何をしているのか、と聞かれて、是清はこう答えたと、自伝にあります。
「僕は何もしていない。何かしなくちゃならぬと思っている」
「そりゃちょうどよい」
小花の話はこうでした。九州の唐津藩が英語の学校を建てて、先生を探している。月給は百円、食事は向こう持ち。
是清は、引き受けました。月給を前借りして洋服を作り、借金の始末もつけた。二百五十両の残りは、証文を書き直して、毎月の月給から返すことにした。名前も、桝吉の家の名にちなんで、東太郎と変えています。
年老いた祖母のことは、桝吉が引き受けてくれた。芸者の商売をやめ、浅草に家を借りて、祖母と一緒に住むことになったのです。その暮らしは長く続かず、桝吉はやがて両親に呼び戻されてしまうのですが。
唐津の学校では、授業をすべて英語でした。けれど生徒たちには、習った英語が本当に外国人に通じるのか、確かめようがない。
あるとき、唐津の港に、外国の船が石炭を積みにやって来ました。是清は上の組の生徒を十四、五人連れて船に乗り込み、船長に事情を話して頼みます。
この人たちは、まだ一度も外国人と話したことがない。自分たちの英語が通じるのか、疑っている。突飛なことを聞くかもしれないが、英語の稽古のつもりで相手をしてほしい。
船長はこころよく引き受け、ビールまで出してもてなしてくれた。生徒たちは我も我もと、学校で習った会話を話しかける。相手が答えてくれる。自分たちの英語は本物だと分かって、一同、大変に喜んだ、と自伝は書いています。
学校は、是清の意見で、殿様が出ていったあとの城の御殿に移り、生徒も増えていきます。その中には、のちに工学博士となる辰野金吾もいました。
自分の借金を払い終えると、是清は、月給の百円はもう要らないと言い出した。自分の取り分は六十円にして、残りの四十円は、学校の費用に回したのです。
そのころ、唐津から祖母にあてた手紙が、自伝に載っています。ひらがなの多い、昔の手紙の書き方です。
「しやつきんもみなぬけ申候まゝ御安しん下され度ねんじ候」
借金も、みな抜けましたので、ご安心ください。
差出人の名は、太郎。
ただ、唐津で増えたのは、生徒だけではありませんでした。
酒です。朝は教場に出る前に冷や酒。昼に一升。夜は学校の世話役たちと酒盛り。毎日、平均三升ずつは飲んでいた、と本人は言います。
1872年の旧暦の正月、とうとう飲み続けて倒れた。医者は、こう脅しました。
「こりゃ大変だ。かねて大酒をやっちゃいかぬというのに、飲み過ぎるからだ。これは酒毒だ。君はこれで命を取られるぞ」
一週間ほどで、座敷の中くらいは歩けるようになった。病気のあとは、酒のにおいが、どうにも嫌になっていました。
久しぶりに下の部屋へ降りていくと、いつものように教員たちが飲んでいる。
「先生、一杯いかがです」
「いや、もう私はにおいから嫌になった」
すると、その中の一人が言いました。
「においが嫌になったら、鼻をつまんで飲みなさい」
鼻をつまんで飲んだら、なかなかうまい。二杯目からは、つままなくても、うまくなった。
「とうとう性こりもなく、また酒飲みになってしまった」
是清は、自伝でそう語っています。
唐津を離れたあとも、是清は落ち着きませんでした。駅逓寮という役所では上役とぶつかって辞め、相場にも手を出した。
1881年、文部省に入ろうとしたときのことです。役所の中で、浜尾新という人が反対している、と聞こえてきた。遊び歩いたり、相場をしたりした者を、教育の役所に入れるべきではない、というのです。
是清は、自分から浜尾を訪ねていきました。そして、ありのままを話した、と本人は語っています。相場に手を出したのは、三十人ばかりの書生を養う費用を得るためで、今はやめている。遊びのほうも、もう行かなくなった。
「そういうわけで、今日の高橋は昨日の高橋とは別人となっていると、ご承知願いたい」
浜尾は、ごもっとも、早く文部省に入りたまえ、と答えたそうです。
それから六年後の1887年。是清は、特許局長になっていました。役人として、上り坂の真ん中です。
その椅子を、彼は二年後に離れます。南米ペルーの、銀山のために。
丁稚小僧から
1890年3月26日。ペルーにいた是清のもとへ、技手の小池が、突然、山から下りてきました。
一大事が起こったので、内密に申し上げに参りました。小池は、そう言った。
会社が買った銀山の、坑道の中は、がらんどうだった。底の底まで掘り尽くされた、古い廃坑だったのです。
「嗚呼、万事止ぬる哉」
もう、おしまいだ。明治二十三年三月二十六日は、私にとって生涯忘れることのできない日であった、と是清は語っています。
山を調べて報告したのは、田島という男でした。かつて是清が教えた生徒です。
是清は田島を起こして、問い詰めました。最初に山を買うとき、現地をよく調べたのか。はっきり言え。
田島は、ようやく答えた。
「実はあの時は、よく調査をしませんでした」
報告書は、ペルーの鉱山学校にあった記録を英語で読み聞かされ、それをそのまま訳して送ったもの。自分で山へ行ったのではなかった。田島は泣きながら、そう打ち明けました。
何が書いてあるか分からない紙に、喜び勇んで名前を書いた少年がいました。その少年は三十五歳になり、教え子の報告をもとに買った山の、責任者になっていたのです。
日本に戻ると、次に手を出した福島の農場も、天沼の鉱山も、ことごとく失敗した。世間の悪口と笑い声は、なかなか止みません。
持ち株の払い込みが、借金として残った。住んでいた家屋敷を売り、手もとのお金を足して、ようやく後始末をつけました。引っ越し先は、もとの家のすぐ裏の、小さな借家。家賃は六、七円だったと思う、と本人は言います。
友人たちは、また役人に戻れと、あちこちの職を勧めてくれた。是清は、すべて断ります。食べるために役人になれば、上役が間違っていても、従わなければならないときが来る。それはよくない、と考えたのだと自伝にあります。
そこで、ある日、家族を一人残らず集めた。ペルーの失敗から、福島の農場、天沼の鉱山の失敗、今日の事情まで、一切を、初めて打ち明けたのです。
「この上は運を天に任せ、一家の者は一心となって、家を立て直すことに努めねばならぬ。ついては、これから田舎に引きこもって、大人も子どもも一緒になって、一生懸命に働いてみよう。しかもなお飢えるような場合になったら、皆も私と共に飢えてもらいたい」
上の息子の是賢は、聞いていました。下の是福は、十歳。
「そうなったら私は、蜆売りをして家計を助けます」
皆が涙をのんだ、と是清は語っています。妻は毛糸を編む内職をして、わずかな工賃を得ていました。
1892年4月。友人の前田正名が、知らせを持ってきます。日本銀行総裁の川田小一郎が、君に会いたがっている。
ある朝早く、是清は川田の屋敷を訪ねました。ペルーのことは、あらまし知っている、と川田は言った。
是清は、十分にお話しするには少なくとも二時間はかかる、と断ってから、そもそもの始まりから今日までを、すべて話した。そのあいだ訪ねてきた客との面会を、川田は断って聞いていたそうです。
聞き終えた川田は言いました。君はすっかり跡始末をして、ちり一つ残さないようにしてきた。かりに自分が君の立場にいても、それ以上のことはできない。そして、田舎に引っ込むのはよくない、失敗はいくらでも取り戻せる、と。
是清は答えた。私も人間だから、多少のうぬぼれはある。けれど、そのうぬぼれが一番間違っていたのだから、これからは自分の分を守って最善の努力をし、そのあとは運を天に任せることに決めた。そう話したと、自伝にあります。
しばらくして、川田は、ある鉄道会社の社長の椅子が空いた、君が座ってはどうか、と勧めてきました。
是清は、断ります。鉄道のことは何も知らない。社長として過ちなくやっていく自信がない。
「どうせ実業界にお出しくださるなら、やはり丁稚小僧から出してください」
丁稚とは、商店に住み込んで、いちばん下から働く少年のことです。
川田は、君は妙なことを言うが、まことにもっともだ、と言いました。
1892年6月1日。是清は、日本銀行の新しい建物を建てる工事の、事務主任になりました。
建築所の技術部を率いていたのは、辰野金吾。唐津の学校で、是清が英語を教えた生徒でした。
天佑
1904年4月、ロンドン。日本は、ロシアとの戦争のさなかにありました。
戦争にはお金がいる。外国で国の借金の証書、公債を売って集めるしかない。その役目を負ってロンドンに来ていたのが、日本銀行副総裁の是清です。
ある晩、友人の家の晩餐会で、是清はアメリカの銀行家と隣り合わせになりました。シフという人です。是清は、その名前を聞いたこともなかった。
シフは、日本の経済や人々の様子について、細かく質問した。是清は、できるだけていねいに答えます。
次の日、銀行家のシャンドがやって来て、思いがけないことを告げました。シフ氏が、残りの五百万ポンドの公債を引き受けて、アメリカで売りたいと言っている。
話はたちまちまとまり、イギリスとアメリカで、一度に一千万ポンドの公債を出せることになりました。
「私は、一にこれ天佑なりとして、大いに喜んだ」
天佑とは、天の助けのこと。是清は、自伝にそう書いています。馬の蹄に踏まれても、羽織に草鞋の跡がついただけだった子は、四十九歳になっていました。
そばで働いていた深井英五が、このロンドンでの是清の様子を、のちにこう語っています。
シフがアメリカへ帰る前に、あなたに会っておきたいと言っている。シャンドがそう伝えると、是清は、こちらから訪ねろという意味か、と聞き返した。まあそうだ、という返事に、是清はキッとなって、こう言い放ったといいます。
「なるほどシフ氏は偉い人で、今度の功績については自分も敬意を表し、かつ感謝しているが、自分は今、一国を代表して来ている者である。自分に会いたければ、向こうから訪ねて来ればよいじゃないか」
シフは当時、イギリスの国王の昼食に招かれるほどの人でした。深井は、実はひやりとした、と振り返っています。
ところが、まもなく、シフのほうから是清の宿を訪ねてきた、と深井は語っています。
その宿は、三流か四流のホテルで、東京でいえば馬喰町の商人宿くらいの格だったそうです。是清は、宿の格など気にも留めていませんでした。
今度は、こちらから答礼に行かなければならない。深井によれば、シフが泊まっていたのは、ロンドン第一流のホテル。各国の王族や貴族、大富豪が泊まるところでした。
帰ってくるなり、是清は言ったそうです。
「シフの宿は宮殿のようだ。我々も宿を替えねばならぬなあ」
けれど、手ごろな宿は見つからない。帰国の時期も近い。宿は、とうとうそのままになりました。
その後、是清は日本銀行の総裁になり、大蔵大臣を何度も務めます。
是清と長く一緒に仕事をした三土忠造が、こんな場面を書き残しています。1920年、貴族院の委員会でのことです。
農商務大臣と意見の違いがあり、三土たちが間に入ってまとめた案がありました。その中身を忘れたのか、是清は、もとの自分の意見を、滔々と述べてしまった。委員が聞きます。二人の大臣の説明が食い違っている。どちらを政府の意見と見ればよいのか。
是清は、自分の説明が農商務大臣の意見とぶつかるなら、ただいまの答弁は取り消す、と言った。委員長が、食い違った部分だけ取り消してはどうか、と口をはさむ。
「いや、全部を取り消す」
是清が平然と言い放つと、満場が大笑いになったといいます。
三土は、是清をこう評しました。
「自制心の点においては、あまり人にすぐれた方ではない。むしろ天真爛漫にして、情念のほとばしるままに言動するたちであった」
ただ、国のことを思うあまり、自分の威信や体面などは、顧みる暇がなかったのだろう、とも書いています。
両国の茶屋で、床の間に刀を放り出されて、軽蔑されてはいかぬと、元日に仕返しの宴を開いた若者でした。
翌1921年、是清は総理大臣にもなっています。
1936年2月26日。大蔵大臣を務めていた是清は、二・二六事件で暗殺されました。軍事費を抑えようとして、軍部と対立していたさなかでした。81歳でした。
自分は幸福者だ。そう思い込んでいたから、どんな失敗をしても、窮地に陥っても、いつかよい運が回ってくると、一心に努力した。是清は、自伝でそう振り返っています。
売られた少年のために、偽の手紙をこしらえた仲間たち。いつでも戻っておいでなさい、と聖書を渡したフルベッキ先生。芸者をやめて、年老いた祖母と暮らしてくれた桝吉。客を断って、二時間の話を聞いた川田。
そして、芸者の前で孫を叱らず、お前の出世することばかり祈っている、と言った祖母。
「私が中国人を殺すと、どうなるでしょう」。オークランドでそう聞いた少年は、祖母に戒められていた堪忍の二文字を思い出して、殺さずにすみました。その二文字は、最後まで、あまり身につかなかったのかもしれません。
話を、アメリカへ発つ前の晩に戻します。
祖母は自分の手で、十二歳の孫の髷を切りました。その髷は、不思議なことに古い手文庫の中から出てきて、今でも取ってある。晩年の是清は、そう語っています。
次の日、祖母に送られて、少年は船に乗り込みました。船の中は妙なにおいがして、祖母は、出された紅茶も飲めなかった。
けれど少年たちは、とにかく嬉しくてたまらなかったそうです。