菅原道真 — ひとりが下手な人
山の中で、帰ってしまった友の名を呼んだ。のちに学問の神さまになる人の、さびしがりの一生
長谷雄は、どこにいる
「長谷雄は、どこにいる。長谷雄は、どこにいる」
山の中で、一人の男が声を張り上げ、何度もそう呼びました。呼ぶのを、やめなかった。その旅の記録に、そう書かれています。
898年、旧暦の10月。宇多上皇が、吉野の山へ旅をしたときのことです。男は、そのお供をしていました。
山の景色は見どころが多く、人も馬も、だんだん疲れてくる。男は、素性という僧ともう一人と、三頭の馬を連ねて進んでいた。素性が、ふと尋ねます。
「今夜は、どこに泊まることになるのでしょう」
男は、その場で詩にして答えた。
「この先、どこに泊まるのかは決まっていない。白い雲と、赤く色づいた木。そこが、旅人の家だ」
詩を作る人たちは、こういうとき、相手の句に次の句をつないで楽しみます。けれど、山は深く、続きをつなげる人がいなかった。
そこで男は、友の名を呼びはじめたのです。その友を求めたのだろう、と記録は書き添えています。
ただ、同じ記録の少し前に、こうも書いてある。紀長谷雄は、馬に右足を踏まれてけがをし、旅を続けられずに都へ帰った。
呼ばれた友は、もう山にいませんでした。
男の名は、菅原道真。数えで54歳。朝廷で、大臣のすぐ下の位にいた学者です。
のちに天満宮の神さまとして、たくさんの受験生に手を合わせられることになる人です。けれどこの日の道真は、帰ってしまった友の名を、山の中で叫んでいた。
話を、四十年あまり前に戻します。
道真の家は、学問の家でした。わが家は武将の家ではない。学問を、代々の田畑として耕してきた家だ。のちに本人が、詩にそう書いています。
11歳のとき、父は息子を試しました。島田という先生に頼んで、題を出させたのです。月の夜に、梅の花を見る。
そのとき初めて作った詩を、道真は、自分の詩集のいちばん初めに置いています。
「月の光は、晴れた日の雪のよう。梅の花は、かがやく星に似ている。いとしいのは、金の鏡のような月がめぐっていくこと。庭には、玉のような花ぶさが香っている」
父に試されて、11歳の子が、月と梅と雪と星を並べてみせた。これが、道真の詩の始まりでした。
母も、息子に期待をかけていました。大人の仲間入りをする日、母はこんな歌を詠んだと伝えられます。月の桂の枝を折るほどに、わが家の学問の風を吹かせてほしい。月の桂を折る、とは、試験に受かることのたとえでした。
道真は、国の試験に次々と受かっていきます。26歳で受けたいちばん難しい試験の試験官は、都良香という学者だったといいます。
この良香の家で、こんなことがあったと、のちの書物は伝えています。
良香の弟子たちが、弓の練習をしていた。そこへ、道真がたまたま来た。良香は思った。この人は家にこもって、机に肘をついてばかりいる。弓の持ち方も知るまい。そこで、すだれの陰に隠れて、ためしに射させてみたのです。
道真は、しかたなさそうに弓矢を取り、的に向けて放った。矢は、一本も外れなかったといいます。
877年、33歳で、道真は文章博士になりました。国の大学で、詩や歴史の文章を教える先生です。祖父も父も務めた、家の役目でした。
たくさんの人が、競うようにお祝いを言いに来た。
その中で、ただ一人、驚いた人がいた。道真は、のちにそう詩に書いています。父の是善でした。
なぜ驚くのか。詩の中で、父はこう答えます。
「お前が、ひとりになってしまうのが、悲しいのだ」
「博士という役は、低いものではない。もらう禄も、軽くはない」
祝う声に囲まれた息子のそばで、父だけが、その先を心配していました。
母は、息子が28歳のときに、急な病で亡くなったと伝えられます。父も、それから十年足らずで亡くなりました。
父の言葉から、二十一年。
吉野の山の中で、句をつなぐ相手のいなくなった息子は、帰ってしまった友の名を、呼び続けていました。
明日の朝の景色は
886年、旧暦の正月。42歳の道真に、思いがけない命令が下りました。
文章博士の役を外され、讃岐の国の国司、つまり地方の長官として、都を出ることになったのです。讃岐は、今の香川県です。
出発の前の宴のことが、こう伝えられています。
朝廷でいちばん力を持っていた藤原基経が、杯を持って、道真の前に立った。そして、詩の一句を口ずさんだ。
「明日の朝の景色は、誰のものになるのだろう」
さあ、声高く詠んでみせよ、という誘いでした。
都を離れる人に、都の明日の景色を問う一句です。
11歳から詩を作ってきた人が、このときは、ひと声も出せなかった。涙を流してむせび泣き、家に帰ってからも、一晩じゅう眠れなかったといいます。
(明日の朝の景色は、もう、わたしのものではない)
そばにいた藤原佐世が、深くなぐさめたそうです。
讃岐に着いたのは、旧暦の4月7日。道真は、役所のまわりを見て回りました。
役所の少し北に、蓮の池があった。近くに住む長老が、こう言ったと、道真は書いています。
「この蓮は、元慶のころまでは、葉ばかりで花がありませんでした。仁和になってから、花も葉も、そろって開くのです」
仁和は、道真が讃岐に来た、その時代の年号です。あなたの時代になって花が咲いた、と言われたようなものでした。
道真は役人たちに命じて、池の蓮を何百、何千本と摘ませた。それを国じゅうの28の寺に分け、香油も添えて供えさせました。
ところが、のちの年のこと。雨が降らず、池の底が乾いて、蓮の根が死んでしまいます。
道真は、そのことを文章にして、こう書いた。仏の力が足りなかったのではない。人の心が、信じなかったからだ。
讃岐で道真は、寒さをいちばん早く感じるのはどんな人か、と問いかける詩を、十首続けて作っています。答えは一首ごとに違う。逃げて、また村に戻ってきた人。妻に先立たれた年寄り。幼くして親をなくした子。魚を釣って暮らす人。
讃岐での4年目、50歳近くなって、「苦しい日は長い」と題した長い詩も書いています。そこには、こんな二行がある。
「政はきびしく、人は寄りつかない。役所の門は閉ざされ、役人も集まらない」
一方、のちに北野の社がまとめた伝記は、讃岐の人々は道真を深く慕い、神のように敬った、と書いています。
都からは、手紙が届きます。子どもが病気だという。遠い国の役人になった身が、まず悲しい、と道真は詩に書きました。
同じ詩の終わりには、こうもあります。山の近くに住んで、きこりに似てきたのが、恥ずかしい。
讃岐にいるあいだに、都では大きなもめごとが起きていました。天皇の出した文書に使われた一つの言葉を、基経が気に入らず、政治の仕事をしなくなったのです。文書を書いた橘広相という学者を罰しよう、という話にまでなりました。
このとき道真は、讃岐から基経に手紙を書いたと伝えられます。広相を罰すれば、朝廷にとって恐ろしいことになるだけではない。やがて、藤原の家にも災いを招くだろう。
広相への罰は、取りやめになったといいます。
送別の宴で、基経の前でひと声も出せなかった人が、遠い讃岐から、その基経に手紙で意見をしていたのです。
890年、4年の任期を終えて、道真は都へ戻りました。
翌891年、宇多天皇が、道真を蔵人頭に任じます。天皇のそばで、宮中の仕事をとりまとめる大事な役です。
道真は、すぐに辞めさせてほしいと願い出ました。地方帰りの身が、こんな役に就いてはいけない。足の悪い亀が仙人の手すりに触れ、腐ったねずみが宮中を汚すようなものだ。辞退の文に、本人がそう書いています。
天皇は、許しませんでした。それどころか、役目をさらに重ねたのです。
ここから十年足らずで、道真は右大臣にまで上ります。
そして、そのわずか二年後に、すべてを失うことになるのです。
白楽天の本は、もう開かない
都に戻った道真を、宇多天皇は手放しませんでした。
のちの書物に、こんな話があります。生き物を殺すことを禁じるお触れを出してから、一年ほどたったころ、天皇が自分で鷹狩りに出ようとした。道真は、止めたといいます。
「今年の鳥や獣に、何の過ちがあって、急に狩りをなさるのですか」
天皇はもっともだと思い、狩りをやめたそうです。
皇太子だった少年にも、道真は試されています。唐の国には、一日に百首の詩を作る人がいるという。お前は、ひとときのうちに十首を作れるか。そう言って、皇太子は十の題を出した。道真自身が、そう書き残しています。
道真は、二刻、今でいえば一時間ほどで、十首を作り終えて差し出したそうです。皇太子は喜び、翌年には、二十の題を出してきたといいます。
897年、天皇は13歳の息子に位を譲りました。あの皇太子、醍醐天皇です。譲るときに書き残した心得に、宇多は、道真には何度も諫められた、だから順番を飛ばして引き立てたのだ、と書いたと伝えられます。
若い天皇を助ける役に選ばれたのは、二人。道真と、藤原時平でした。
899年、時平は左大臣に、道真は右大臣になります。時平は29歳。道真は、50代なかばでした。
道真は、すぐに辞めさせてほしいと願い出ました。許されず、二度目も、三度目も許されなかった。どうしても朝廷の列に並べというのなら、炭火の上にうずくまって、焼け死ぬのを待つようなものだ。そう書いたと伝えられます。
翌年の正月には、天皇と上皇が道真だけを呼び、これからは政治をお前ひとりで取り仕切れ、と持ちかけたといいます。道真は、それも断ったと伝えられています。
蔵人頭のときも、右大臣のときも、辞めさせてほしいと書いた人でした。
その年の旧暦8月、道真は、三代の家の詩文集を醍醐天皇に差し出しました。祖父の6巻、父の10巻、自分の12巻。あわせて28巻です。
天皇は、それを読んで詩を返してきた。終わりの二行は、こうです。
「菅原の家には、白楽天にまさるものがある。これからは、白楽天の本の箱に、ほこりが積もるのにまかせよう」
白楽天は、唐の国の大詩人です。天皇は、詩に注まで書き添えていました。ふだんいちばん好きだった白楽天の詩集70巻のことだ。菅原の家の詩があるから、もう開かない。
数えで16歳の天皇の、まっすぐなほめ言葉でした。
翌月の旧暦9月10日。宮中の宴で、道真は「秋思」、秋の思い、という題で詩を作ります。
「大臣になってから、楽しいと思ったことが、いくつあっただろう。今夜は、何に触れても、ひとりでに悲しい」
「君はお若く、わたしはだんだん老いていく。いただいた恩には果てがなく、お返しは、まだ追いつかない」
天皇は感じ入って、着ていた衣を脱ぎ、道真に与えたといいます。
同じ詩は、こう結ばれています。この思いを、何でなぐさめればいいのか分からない。酒を飲み、琴を聴き、また詩を詠むだけだ。
一か月後の旧暦10月11日。道真のもとに、一通の手紙が届きました。差し出したのは、学者の三善清行です。
あなたは、学者から大臣の座にまで上った。昔の吉備真備のほかに、並ぶ人はいない。けれど来年は、世の中が大きく変わる巡り合わせの年に当たる。手紙は、そう書いたうえで、こう続きます。
「どうか、止まるべきところを知り、栄えの程を見きわめて、山や霞の中で風流を楽しんでください。のちの人が仰ぎ見るのも、また美しいではありませんか」
手紙の終わりは、こうでした。くれぐれも。わたしのつまらない言葉を、軽く見ないでください。
道真は、その言葉を受け入れなかったと伝えられます。右大臣の座に、とどまりました。
恩には果てがなく、お返しはまだ追いつかない。そう詠んでから、一か月あまりのことでした。
十日後、清行は、来年が辛酉の年であることについて、天皇にも意見を出しています。
年が明ければ、その辛酉の年でした。
父と子が、五つの場所に
901年、旧暦の正月25日。
宮中の門という門が、兵に固められました。醍醐天皇が表の御殿に出て、命令を下します。
右大臣の菅原道真を、大宰権帥に任じる。
大宰府は、九州を治める役所です。そこの役人の一人として、都を出ていけ、という命令でした。罪があって、と記録は書いています。
道真の子どもたちも、それぞれ遠い国へ移されました。
知らせを聞いて、宇多上皇が内裏へ駆けつけます。けれど、門を守る兵は、上皇を通さなかった。
上皇は門の前に草を敷いて座り、北を向いたまま、一日じゅう動かなかった、と記録にあります。別の記録は、上皇は夜通し帰らなかったと書いている。門の兵たちは、上皇の前でも、腰かけから下りなかったそうです。
政治を譲ったあとは、口を出してはならないと決まっております。上皇は、そう言われて聞き入れてもらえなかったと、のちの歴史書は伝えています。
門の前の守りの陣には、紀長谷雄が控えていました。吉野の山で、道真が名を呼び続けた、あの友です。
長谷雄が門の前で何を思っていたのかは、分かっていません。
道真は、詩にこう書いています。
「父と子が、一度に、五つの場所に引き離された。口は、ものを言うことができない。目の中は、血だ」
長男は土佐へ、次男は駿河へ。ほかの息子たちも、飛騨へ、播磨へ。そして父は、九州へ。五つの場所とは、そういうことだったと伝えられます。
妻は、都に残りました。連れていけたのは、幼い男の子と女の子だけ。小さい子ならかまわないだろう、と朝廷が許したと、のちの物語は書いています。
左遷が決まったころ、道真は宇多上皇に歌を送ったと伝えられます。
「流されていくわたしは、水に浮かぶごみになってしまうとしても、どうか、あなたが柵になって、せき止めてください」
旧暦2月のはじめ、道真は都を出ました。摂津の国まで、兵が10人、見送りについてきました。そこで、命令を伝える役の藤原真興が、馬から下りて、道真の前で涙をこぼした。宮中の記録に、そう残っています。
罪人として送り出す側の役人が、泣いたのです。
道真が都を出て間もなく、朝廷はあちこちの神社に使いを出し、菅原道真を遠くへ移したことを、神々に告げています。次の日には、昔の天皇たちの墓にも、同じことを告げました。
旅の途中、河内の道明寺には、道真のおばがいました。道真はここに立ち寄り、一晩じゅう語り合ったと伝えられます。
夜明けを告げる鶏が鳴いて、別れの時が来た。道真は、こう詠んだそうです。
「鶏が鳴くから、別れを急がなければならない。鶏の声の聞こえない里の夜明けが、あればいいのに」
大宰府に着いても、道真は町の中に入らなかった。町の外の寺に住んだといいます。
そして、門を出ませんでした。そのころの詩に、こうあります。
「都府楼は、瓦の色が少し見えるだけ。観音寺は、鐘の音を聞くだけ」
都府楼は大宰府の役所の建物、観音寺はそのそばの寺です。どちらも、すぐ近くにある。それでも、見るだけ、聞くだけでした。
「胸の中では、ひとひらの雲を追って、ここを去りたいと思う。外で出会うものといえば、満月だけ」
「この地では、体を縛るものは何もない。それなのに、どうして一歩でも、門を出て歩けるだろうか」
この秋は、わたしひとりの秋
その年の旧暦7月10日。九州の宇佐の神社へ使いに出ていた藤原清貫が都に戻り、天皇に報告しました。
清貫は、大宰府の道真の様子も見てきていた。宮中の記録に、そのときの言葉が残っています。
帥、つまり道真は、ひどく追いつめられた様子だった。前の日に話したことからすると、もう罪を認めているようにも見える。そう言って、清貫は道真の言葉を伝えました。
「自分から企てたことは、何もない。ただ、善朝臣の誘いを、逃れることができなかった」
善朝臣は、道真と同じ日に出雲へ移された、源善という人のことと考えられます。何に誘われたというのか。それは、はっきりしていません。
旧暦9月10日の夜。道真は一年前の宴を思い出して、詩を作りました。
「去年の今夜は、清涼殿で天皇のおそばにいた。秋の思いの詩を詠んで、ひとり、はらわたがちぎれる思いだった。いただいた衣は、今ここにある。毎日それを捧げ持って、残った香りを拝んでいる」
道真を大宰府へ送る命令を出したのも、同じ天皇でした。
五日後の15日の夜にも、詩を作っています。
「黄ばんでしぼんだ顔に、霜のような白い髪。そのうえ、千里あまりも遠くへ投げ出された。昔は、栄えた身分の冠のひもに縛られていた。今は、荒れ野につながれた囚人だ」
「月の光は、鏡のようなのに、罪を明らかにしてはくれない。風は、刀のようなのに、悲しみを断ち切ってはくれない」
「見るもの、聞くもの、みな痛ましい。この秋は、わたしひとりの秋だ」
誘いを逃れられなかった、という言葉と、罪を明らかにしてはくれない、という詩。同じ年に、二つの言葉が残りました。
都にいたころの秋の詩では、なぐさめは、酒と、琴と、詩でした。
唐の詩人の白楽天には、琴と酒と詩を、三人の友と呼んだ詩があります。それを読んで、道真は、自分の三人の友を数えている。
「酒もない。琴もない。では、何があれば足りるのか。紫の燕のひなと、黄色い雀の子だ」
昔の三人の友は、一生の楽しみ。今の三人の友は、一生の悲しみ。詩には、そう書かれています。
うれしいことも、少しはありました。
通訳の李彦環という人が、竹の縄を張った腰かけを贈ってくれたのです。唐の品でした。
お金を一銭も使わずに、唐の物が手に入った。道真は、そう詩に書いています。商人が別れぎわに置いていった品だろう、とも。
右大臣だった人が、もらった腰かけ一つのことを、ちゃんと一首の詩にしていました。
都からの手紙で、友の死を知らされることもありました。かつて、ともに天皇のそば近くで働いた藤原滋実。陸奥の国の長官として赴いた先で、亡くなったのです。
道真は、長い詩を作って、その死を悼みました。葬儀に出ることはできない。詩の終わりに、こう書いています。
「つたない言葉、四百字で、あなたをしのぶ言葉に代える」
連れてきた幼い二人のことも、詩に書いています。
「男の子と女の子は、いっしょについてきて、いっしょに話ができる。昼はいつも目の前にいて、夜も同じところで眠る」
「暗くなれば、灯りがある。寒くなれば、綿がある」
(灯りがある。綿がある。だから、だいじょうぶだ)
その男の子は、大宰府で、幼いまま亡くなります。
雪は、梅の花のよう
年が明けて、902年、旧暦の元日。
道真の正月の膳には、青菜が並びました。机には、白い梅の花。観音さまに手を合わせ、屠蘇の杯は手に取らなかった、と詩にあります。
そのころ、都の家から手紙が届きます。
家の西の門の木は、人に移されて持っていかれた、とある。手紙には、包みが添えてあった。紙に包んだ生姜には「薬」と書いてある。竹のかごの昆布には「精進のための品」と書いてある。
妻や子どもたちの、飢えや寒さのことは、ひと言も書いていない。だから、かえって心配がつのる、と道真は詩に書きました。
流された人に、ぜいたくな物は送れない。だから、薬と書き、精進と書いたのかもしれません。
雨の夜には、こんな詩も作っています。屋根が漏る。棚の着物は湿り、箱の中の手紙は傷んでいく。台所の子は、かまどの火が絶えたと訴える。足の病と、肌のかゆみもある。
胸がつかえて、起きて茶を一杯飲んだ。それでも、消えない。焼いた石で胃のあたりを温めてみたが、効かない。無理に酒を半杯かたむけて、仏の名を念じた。
元日には手に取らなかった杯でした。
ある秋の夜の詩に、道真は書いています。
「寝床で、寝返りばかり打っている。夜はふけた。壁を背にした小さな灯りでは、夢も見られない。早く来た雁の声も、寒そうな虫の声も、いつもと同じに聞こえる」
「ただ、子どもが本を読む声だけが、ない」
詩には、注が添えてあります。この子どもとは、幼い男の子のこと。近ごろ、亡くなった。
暗くなれば灯りがある、と書いた人の灯りは、今は、壁を背にした小さな灯りでした。
その年の旧暦9月の終わりの日。道真は、こんな詩を作っています。
「今日は、延喜2年の9月の最後の日。わたしは、58回目の秋を迎えた。何を思って、庭のまんなかに立っているのか。残った黄色い菊の花と、白い髪の頭と」
体は、弱っていきました。最後のころの詩に、こうあります。
「病は、老いを追いかけてやって来た。悲しみは、流された住まいについて来た。この盗人たちからは、逃げる場所がない。観音さまを、一度念じる」
大宰府で書いた詩を集めた『菅家後集』。その終わりに置かれているのは、春の雪の詩です。
「町いっぱいに、外まであふれる、いくつもの梅の花。それでも、まだ年の初めの景色だ」
降る雪を、梅の花に見立てたのです。
「雁の足にくっついたのを見ると、手紙を結んできたのかと思う。からすの頭に白く点々とつくのを見ると、家に帰ることを思う」
昔の中国には、からすの頭が白くなったら国へ帰してやる、と言われた人質の話があります。雪が、からすの頭を白くした。それで、帰ることを思ったのでしょうか。
11歳の最初の詩では、月の光を雪にたとえ、梅の花を星にたとえた。最後の詩では、雪を梅の花にたとえています。
道真は、大宰府で書いた詩を自分で集め、封をして、都の紀長谷雄のもとへ送ったと伝えられます。
903年、旧暦2月25日。道真は、大宰府で亡くなりました。数えで59歳でした。
二年後、都から付いてきた弟子の味酒安行が、葬られた地に社を建てて祭ったといいます。
死んで20年後の923年、朝廷は道真を右大臣に戻し、位を贈ります。大宰府へ送ったときの命令書は、捨てさせました。
やがて、都に落ちた雷を道真の怨みと結びつける話が広まり、道真は天神として祭られていきます。家を出るとき、庭の梅に「東風が吹いたら、香りを送っておくれ」と歌いかけた話や、その梅が大宰府まで飛んでいった話も、のちの時代の書物に現れるものです。本人の詩集には、出てきません。
門の前に、一日じゅう座っていた宇多上皇。馬を下りて泣いた、見送りの役人。生姜に「薬」と書いて包んだ、都の家族。腰かけを贈ってくれた通訳。亡くなったあとに社を建てた弟子。
吉野の山で、句をつなぐ相手がいなくて、道真は友の名を呼び続けました。
長谷雄は、どこにいる。
その長谷雄のもとに、大宰府の詩は、ひと束になって届いたといいます。
長谷雄はそれを見て、天を仰いでため息をついたと伝えられます。