渋沢栄一 — あいにく、まだ機会に出会いません

代官に見下されて震えた百姓の子は、突っ走るたびに、誰かに止められた

百姓ひゃくしょうはやめたい

「いえ、それは決してございません。なるほど、殺そうと思ったことは、たびたびございました。けれども、あいにく、まだ殺す機会に出会いません」

1864年の旧暦きゅうれき2月、京都。二人の若者が、口をそろえてそう答えた。のちに、そのうちの一人が語っています。

尋たずねたのは、一橋ひとつばし家に仕える平岡円四郎ひらおかえんしろうでした。一橋家は、将軍の一族にあたる家です。

「まさか、人を殺して、人の物を取ったことなどはあるまいな。もしあったなら、あったと言ってくれ」

答えた一人の名は、渋沢栄一しぶさわえいいち。二十三歳。いまの一万円札に描えがかれている人です。

もう一人は、同じ渋沢しぶさわの姓せいをもつ喜作きさく。二人とも、武士ではありません。武蔵国むさしのくにの血洗島ちあらいじまという村の、農家の息子でした。

その二人が、なぜ人殺しの疑いをかけられていたのか。話は、八年前にさかのぼります。

血洗島の渋沢家しぶさわけは、藍玉あいだまをつくって売る家でした。藍玉は、布を青く染める染料です。父は、どんな小さなことでも四角四面にやる、厳しい人だったと、栄一えいいちは語っています。商いはうまくいき、家は村で二番目の物持ちと言われるほどになっていました。

村を治める殿とのさまは、岡部おかべに陣屋じんやという役所を置く、小さな大名です。姫ひめの嫁入よめいりだ、若殿わかとののお披露目ひろめだと何かあるたびに、村の金持ちに御用金ごようきんを言いつけました。借りるといっても、返ってこないお金です。

栄一が数えで十七歳のとき、渋沢家にも五百両の御用金が言いつけられました。父の代わりに、栄一が近くの村の二人と連れ立って、陣屋へ出かけます。

陣屋では、階段を上がると格子があり、その中に畳たたみが敷しいてあった。年下の栄一は、ほかの二人より下の席に座った。本人は、晩年までそう覚えていました。

二人は、どちらも家の主人です。その場で、御用金を引き受けました。

栄一は、父から用件を聞いてくるようにとしか言われていない。だから、こう答えました。

「金高はかしこまりました。ですが、ひとまず父に申し伝えまして、あらためてお受けに参ります」

代官だいかんは、人を見下すような男だったといいます。からかい半分に年を聞き、さらにこう言いました。

「父に申し伝えるなどと、そんな分からないことはない」

すぐに承知したと返事をしろ、と迫せまられた。栄一は、引きませんでした。いまここでお受けすることはできません、と繰くり返した。

「貴様は、つまらない男だ」

さんざん叱しかられ、あざけられて、栄一は陣屋を出ました。

「あの時ばかりは、悔くやしさのあまり私は震ふるえました」

八十を過ぎてからの談話でも、彼かれはそう話しています。親がいなかったら、殴なぐり飛ばして家を飛び出していたかもしれない、とも。

帰り道、栄一は考えました。賢かしこい者が敬われ、愚おろかな者が見下されるのは、当たり前の道理のはずだ。なのに、知恵ちえがあるとも思えない代官が、人を見下している。役人の家に生まれた者が、代々その座についているからではないか。そう考えたと、本人はのちに振り返っています。

「これは何としても百姓ひゃくしょうはやめたい。あまりにばかばかしい話だ」

代官所からの帰り道に、自分に問い、自分で答えた言葉で、今でもよく覚えている。三十年ほどのちの思い出話で、彼はそう語りました。

家に帰って話すと、父は言いました。

「泣く子と地頭じとうだ。仕方がないから、受けてくるがいい」

泣く子と地頭には勝てない。役人には逆らえない、ということわざです。次の日、栄一はお金を持って陣屋へ行った、と覚えています。

藍あいの商いは、それからも続きました。

藍の葉を買い集めに、年に四回は信州しんしゅうや上州じょうしゅう、秩父ちちぶを回る。ある年、栄一は、藍をつくった人たちを招いて、相撲すもうの番付のような表をこしらえました。藍のよしあしで席の順を決め、いちばんよい藍をつくった人を、いちばん上の席に座らせて、もてなしたのです。

1863年。二十三歳の栄一は、刀を買い集めていました。

いとこの尾高惇忠おだかじゅんちゅう、喜作と三人で練った計画は、こうです。まず高崎たかさきの城を乗っ取って、兵を整える。それから──。

「一挙に横浜よこはまを焼き討ちして、外国人と見たら、片っ端かたっぱしから斬きり殺してしまう」

そういう作戦だった、と本人が述べています。外国人を追い払え、という攘夷じょういの考えで、頭がいっぱいでした。集めた仲間は、六十九人ほど。刀のほかに、服の下に着る着込きごみや提灯、竹やりまでそろえた。

その費用の百五、六十両は、藍の商いの勘定かんじょうの中から出しました。父に隠かくして、です。

旧暦9月、後のちの月見の晩。栄一は惇忠じゅんちゅうと喜作を家に招き、父と同じ席で世間話を始めました。ねらいは、父に勘当かんどうしてもらうこと。親子の縁えんを切ってもらうことでした。

いきなり、勘当してくださいとは言えません。天下はいずれ乱れる、百姓だからといって安心してはいられない、と話を広げていく。父は、さえぎりました。百姓に生まれたのだから、どこまでもその本分を守るがよい。

論語ろんごにはこうある、孟子もうしにはああある。言い合ううちに、夜が明けてしまいました。

明るくなると、父はもう、何も言いませんでした。

「よろしい。おまえはわしの子ではないから、勝手にするがいい」

そして、こう続けたと、栄一は語っています。

「わしは麦をつくって、百姓で世を送る。たとえ政府が無理を言おうと、役人が無法なことをしようと、かまわずに従うつもりだ」

その声は、二十年以上たっても耳の底に残っていて、話すたびに涙なみだが出る。四十代の栄一は、そう話しています。

計画の中身を、栄一は父に話していませんでした。

刀や着込みを買ったお金が、父の商いの勘定から出ていたことも。

刺さし違ちがえても

決行は、旧暦きゅうれき11月と決めてありました。

その前の旧暦10月の末、尾高長七郎おだかちょうしちろうが京都から帰ってきます。惇忠じゅんちゅうの弟で、栄一えいいちの妻、千代ちよの兄。剣術けんじゅつの師匠ししょうをしている男でした。

その二年近く前、追われる身になりかけた長七郎ちょうしちろうを、夜中に走って引き止めたのは、栄一です。幕府の重い役の者が江戸城えどじょうの坂下門さかしたもんの外で襲おそわれた事件に、長七郎も関わった疑いがかかった。それと知らずに江戸えどへ向かったと聞き、栄一は夜十時ごろに家を飛び出して、四里(16キロ)ほど先の熊谷くまがやの宿しゅくまで追いかけたのです。

今度は、長七郎が栄一を止める番でした。

旧暦10月の末の夜。手計村てばかむらの惇忠の家の二階に、五人が集まりました。

長七郎は言いました。この計画は、大間違まちがいだ。七十人や百人の寄せ集めでは、城は取れても、横浜よこはままでは行けない。すぐに幕府や近くの藩はんの兵に討ち滅ほろぼされる。

「つまり、ただの百姓一揆ひゃくしょういっきと同じに見なされてしまうだろう」

栄一は、言い返しました。たとえ負けても、それを見た天下の志士が、あちこちで立ち上がる。自分たちは、その血祭りになればいい。

夜通しの議論になりました。

「長七郎は自分を殺しても止めると言い、自分は長七郎を刺さしてもやると言う」

殺すなら殺せ、刺し違ちがえて死ぬ。そこまで二人は血眼ちまなこになって言い合った、と栄一は語っています。

それでも長七郎は、引きませんでした。

栄一は一歩退いて、考え直します。ただの一揆きと見なされて、首を切られて終わるなら、あとに続く者もいない。子どもの遊びのようなものだったと言われ、犬死にになるかもしれない。

計画は、取りやめになりました。

「実に、長七郎が自分たち大勢の命を救ってくれたと言ってもよい」

のちに、栄一はそう語っています。

旧暦11月、栄一と喜作きさくは、伊勢いせ参りに行くと言って村を出ました。父からもらった旅費は、百両。ところが江戸で遊ぶうちに、吉原よしわらにも行き、むだなことにも使って、たちまち二十四、五両がなくなった。吉原は、江戸でいちばん大きな遊びの町です。これも、本人の思い出話にあることでした。

京都に着いたのは、旧暦11月の末です。

年が明けた1864年の旧暦2月。江戸から、長七郎の手紙が届きました。

牢ろうの中から書いた手紙でした。長七郎は、何かの行き違いで捕とらえられた。しかも懐ふところに、京都の二人が出した手紙を入れたままだったという。京都へ来い、幕府はかならず潰つぶれる。そう書いた手紙です。

二人は顔を見合わせたきり、しばらく、ひと言も出なかった。いっそ計画どおりにやっていれば、縄なわをかけられる恥はじは見ずにすんだ。そんな愚痴ぐちまで出て、腹を切るほかないというところまで思い詰つめた、と栄一は語っています。

喜作は、明日すぐ江戸へ帰ると言って息巻いきまいた。栄一は考えた。八百万石はっぴゃくまんごくの幕府を相手に、二人で息巻いても仕方がない。こうしてはどうか。いや、それは危ない。それならこうか。いや、それもいけない。

「今この席で話すと一つの笑い話だけれども、そのときの苦心というものは、身にしみて」

城を乗っ取ろうと言っていたときの勢いとは、雲泥うんでいの違いだった。そう振ふり返る夜を、二人は考えあぐねたまま、明かしました。

翌朝、平岡ひらおかから呼び出しの手紙が来ます。

別の部屋に通され、江戸で何を計画したのか、包まずに話せと言われた。幕府から、二人のことで問い合わせが来ているという。二人は、幕府を倒たおすべきだと手紙に書いたことを認めました。そして、あの問いと、あの答えです。

平岡の返事は、短いものでした。

「それなら、それでよい」

そのうえで、平岡は思いがけないことを勧すすめます。志を曲げて、一橋家ひとつばしけの家来になってはどうか。

幕府を倒すために村を出た二人が、将軍の一族に仕える。宿に戻もどると、喜作は反対しました。今さら仕えれば、食うに困って節を曲げたと言われる。栄一は言い返しました。首をくくって死んでも、世の中のためには少しもならない。

二人は、仕えることに決めます。ただし、ただでは頭を下げませんでした。その前に一度、主君に会わせてほしい。そうでなければ、この奉公ほうこうはお断りする。

「どうも、困った強情を言ったものだ」

平岡はそうこぼした、と栄一は語っています。

会う前に、主君の一橋慶喜ひとつばしよしのぶに、遠くからでも顔を見てもらわなければならない。慶喜よしのぶが馬で出かける日、その供ともに走ってついて行け、と言われました。栄一は、そのころから太っていて、背も低かった。それでも下加茂しもがものあたりから山鼻やまばなまで、1キロあまりを、必死で走り通したといいます。

こうして二人は、一橋家の家来になりました。

それから、何か月もたたないうちのことです。

栄一は平岡の命令で、大坂おおさかにいる薩摩藩さつまはんの折田要蔵おりたようぞうのもとに、弟子入りします。本当は、様子を探るための役目でした。京都へ戻る前の晩、同じ薩摩藩の河村かわむらと三島みしまが、送別の酒宴しゅえんを開いてくれた。

夜十一時ごろ、宿に帰ると、折田おりたの部屋は、杯さかずきや皿が粉々こなごなに割れていました。三島が先に帰って、暴れていったのです。

折田は、顔じゅうに怒いかりを浮うかべていた。おまえも送別の席で、三島と一緒いっしょになって、わしの悪口を言ったのだろう。おまえも三島の仲間と見なす。

栄一は、怒りました。酒にも酔よっていた。

「三島をここへ連れてきて、刺し殺してしまいます」

そう言い捨てると、刀をつかんで、隣となりの家へ駆かけつけた。三島は、二階で寝ねているという。

栄一は、二階へ駆け上がりました。

女房にょうぼうのありがたさ

寝間ねまに飛び込こもうとした、そのとき。栄一えいいちを抱だきとめた男がいました。河村かわむらです。

「まず待て。何をするのだ」

三島みしまに恨うらみがある、連れていって斬きり殺すのだ。そう言って押おし合ううちに、折田おりたから、ともかく一度戻もどってくれと使いが来た。河村は、少しも手を放しません。

そのあいだ、三島は酔よって寝ねていて、この騒さわぎにまったく気づかなかった。栄一は、そう語っています。

宿に戻ると、折田は、さっきまでの怒いかりが嘘うそのように謝りました。あれは自分の失言だった。三島がそんなことを言ったわけではない。

「そんなら、よろしゅうございます」

それで、話は済みました。

京都での暮らしは、貧しいものでした。

喜作きさくと二人、八畳はちじょう二間の長屋に住む。父にもらった旅費の百両は、江戸えどでも道中でも伊勢いせ参りでも、京都の宿代でも使って、とうに尽つきていた。知り合いからの借金が、二十五両ほどある。故郷から金を取り寄せることは、死んでもしない。そう誓ちかって、月に四両一分の手当から返していきました。

飯は、自分たちで炊たいた。粥かゆになったり、硬かたすぎたりしながら覚えた。おかずは自分で買いに出る。牛肉を竹の皮に包んで買ってくるのが、いちばんのぜいたくでした。布団は三枚を借りて、その中で、二人が背中合わせに寝たといいます。

借金は、四、五か月で返し終えました。

その年の旧暦きゅうれき10月、栄一は故郷の千代ちよに、続けて手紙を書いています。

二人のあいだに生まれた長男の市太郎いちたろうは、二年あまり前、生まれて半年ほどで亡くなっていた。長女の歌子うたこが生まれて三か月もたたないうちに、栄一は村を出ていました。

月の初めの手紙には、追伸ついしんにこうあります。

「別れてからは一度も、女遊びなどもせず、まったく国のことばかり心配しております」

十二日後の手紙には、こう書いた。

「男の子がないのは、まことに残念に思います。万事、一人では不自由で、女房にょうぼうのありがたさということを、とくと分かりました」

歌子は、物心ついたときから父の顔を知らなかったと、のちに歌子の伝記は書いています。

1866年、慶喜よしのぶが長州ちょうしゅうとの戦いに出ることになり、栄一も従うよう命じられました。千代への手紙に、いくさは武士の常、それほど心にかけることでもない、と書いた。そのうえで、こう続けています。

「もし私が亡き者にでもなったなら、その後は、よくよく思案もありましょう」

手紙には、包みが添そえてありました。

「別の一包みは、あなたへの形見のつもりの懐剣かいけんですから、大切になさってください」

翌年、栄一は、慶喜の弟の徳川昭武とくがわあきたけについて、フランスへ渡わたることになります。パリで開かれる万国博覧会に、日本から出向く一行でした。

支度は、ずいぶんいいかげんだった、と本人が笑っています。貧乏びんぼうな御者ぎょしゃもはかないような靴くつを買い、ホテルの給仕が着ていたらしい燕尾服えんびふくの古着を一枚、ズボンもチョッキもなしで譲ゆずってもらった。

「今から思うと、実に可笑おかしい」

出発の二日前、千代に手紙を出しています。

「およそ三年もかかりますので、くれぐれも大切に留守をしてくださるよう、お頼たのみします」

1867年2月15日、船は横浜よこはまを出ました。

途中とちゅう、エジプトのスエズからアレキサンドリアまで、生まれて初めて汽車に乗った。一行は、ガラスというものを知らない。窓の外がすっかり透すけて見えるので、何もないと思い、一人が窓から蜜柑みかんの皮を何度も投げた。隣となりの席の西洋人が怒り、言葉が通じないまま、腕ずくの騒ぎになった。ガラスを知らなかったのだと分かって、最後は双方そうほうで笑って収まったそうです。

取り立てて話すほどのことではないけれど、と断りながら、晩年の栄一が付け加えた話です。

髷まげを切った栄一の写真が、故郷に届きます。

千代は、手紙を書きました。

「どのような御髪おぐしつきなのでしょう。手計てばかの兄に申しましたら、あれこれ言い聞かされましたが、本当に、このことばかりは気がかりでなりません」

旧暦12月、栄一はパリから書いています。留守は、四、五年になる。父と母に孝行を頼む。長いこと手紙をよこさないのは、どういうわけか。

そして、こう続けました。

「ただ私が一時の思い立ちから、長く人の道に背くような成り行きになったことは、どこまでも自分の心得違こころえちがいで、今さらどうしようもありません」

写真のことには、年が明けた旧暦2月の手紙で答えています。情けない姿になっているから改めてほしい、というのは、もっともなこと。帰るときには改める。ただ、今は公子こうしをはじめ、みな西洋に住んでいるのだから、そのまねをするのも道理なのだ、と。

四、五年と書いた留守は、そこまで続きませんでした。

1868年の旧暦11月、栄一は横浜に着きます。仕えていた徳川の幕府は、もう、なくなっていました。

八百万やおよろずの神の一柱ひとはしら

横浜よこはまに着いた幕府の家来は、飼い主をなくした犬のようなものだった、と栄一えいいちは語っています。役人に問いただされ、見るもの聞くもの、すべてが不愉快ふゆかいだった。

翌日、横浜の友人から、喜作きさくの消息を聞きました。

喜作は、榎本えのもとたち旧幕府の兵とともに、北の箱館はこだてにいる。兵と食糧しょくりょうを十分に整えてから、本土へ攻せめ込こむつもりらしい。

それでは勝てない、と栄一は考えました。寄せ集めの兵で、守りを固めて待つのは、力の足りない力士が土俵際でこらえるようなものだ。

彼かれはすぐ、箱館の喜作に手紙を書き、横浜の友人に託たくしました。

「今日の形勢では、もはやお互たがいに、生きているうちに会うことは望みがたい。この上は、潔く戦死を遂とげられよ」

心をこめて、そう書き送った、と栄一は語っています。

京都で、背中合わせに寝ねた相手でした。

東京に戻もどると、知らせが次々に入ってきます。

長七郎ちょうしちろうは、その年、牢ろうを出ていた。けれど、栄一が日本に着く前に、亡くなっていました。

殺してでも止める、と言った男です。その男に止められて生き延びた命で、栄一はパリまで行き、帰ってきたのでした。

長七郎の弟の平九郎へいくろうは、栄一の養子になっていた。外国へ行く者は、向こうで死んだときのために跡継あとつぎを決めておく決まりがあり、出発の前に、千代ちよのきょうだいである平九郎を養子にしておいたのです。

その平九郎は、兄の惇忠じゅんちゅうや喜作について戦に出て、飯能はんのうに近い黒山くろやまという所で、討ち死にしていました。

「実に、見るもの聞くもの、すべて断腸の種でないものはない、という有様だった」

海の向こうの国々を回ったといっても、何一つ学び得たこともなく、むなしく目的を失って帰ってきただけだ。幕府を倒たおそうとした自分が、滅ほろんだ幕府の家来になっている。そう振ふり返りながら、栄一はこうも語っています。それも、自分の過ちとは言いがたい。世の成り行きとあきらめるほかなかった、と。

旧暦きゅうれき12月、父が東京まで訪ねてきました。柳原やなぎわらの、昔なじみの剣術けんじゅつ道具屋、梅田うめだの家で、親子は会います。

父は、息子が無事に帰ったことを喜んでいた。けれど、落ちぶれた姿を見て、喜びの中にもどこか憂うれいを含ふくんでいたと、栄一は覚えています。

やがて、父は言葉をあらためました。

「おまえはもう、わしの子ではないから、あえて指図するには及およばない」

そう前置きして、尋たずねた。これから先、どう身を処するつもりか。

栄一は、涙なみだをのみこんで答えました。箱館の兵に加わるつもりもない。新しい政府にこびて、役人の口を求める気もない。駿河するがへ移って、前の将軍のおそばで、自分で暮らしを立てていきたい。

父は、少しばかりお金を持ってきた、と言いました。

栄一は、断りました。京都にいたころから倹約けんやくして、わずかでも蓄たくわえがある。今は困っていない、と。

翌1869年、静岡しずおかで、栄一は藩はんの勘定組頭かんじょうくみがしらを命じる辞令を渡されます。

納得がいかなかった。むっとして辞令を突つき返し、上役たちにさんざん言い立てた。ところが人を介かいして聞いてみると、慶喜よしのぶの考えがあっての辞令だったと分かる。栄一は、自分の性急さと失言を、大いに恥はじたといいます。

それでも静岡で、彼は商法会所しょうほうかいしょという仕事を始めました。肥料を買って百姓ひゃくしょうに貸し、大阪おおさかの米を安く買い込んで米屋に売る。百姓も商人も、たいへん喜んだ、と本人は語っています。

そこへ突然とつぜん、新しい政府から呼び出しが来ました。命じられたのは、租税正そぜいのかみ。国の税を扱う役所の長です。

断れば、徳川が何かたくらんでいると疑われかねない。栄一は、しぶしぶ東京へ出ました。

けれど出てみると、何から手をつけていいのか分からない。それなら、静岡の会所に戻ったほうがいい。辞めさせてもらうつもりで、栄一は大蔵省おおくらしょうの大隈重信おおくましげのぶを訪ねました。

大隈おおくまが弁べんの立つ人だということは、耳にしていた。言いくるめられはしない。思ったとおりのことを、遠慮えんりょなく言ってやる。そう構かまえて出かけた、と栄一は語っています。

ところが、話を聞き終えた大隈が持ち出したのは、思いもよらない問いでした。

「八百万やおよろずの神達、神計りに計りたまへ、という文句を知っているか」

神々が寄り集まって相談する、という祝詞のりとの一節です。知っている、と栄一は答えました。

「何から手を着けてよいか分からないのは、君ばかりではない。皆みな分からないのである」

幕府が倒れ、これからの国の形を、みなで相談している最中だ。新しい政府に呼ばれた者は、その相談に集まった神々なのだ。大隈は、そう説いたといいます。

「君もその賢かしこい人材の一人として採用されたのだ。つまり、八百万の神の一柱ひとはしらである」

辞めると言いに行った男は、辞めずに帰りました。

それから、三年半のあいだは。

むさくるしい身なりで

1873年5月、栄一えいいちは、やっぱり役所を辞めました。三十三歳でした。

大蔵省の井上馨いのうえかおると一緒いっしょの退官でした。そして、金を扱あつかう商いの道に入る。友人の玉乃世履たまのせいりは、役人をやめて商人になるとは、あきれた話だと忠告しました。

栄一は、論語ろんごを持ち出して言い返した、と自分の講話をまとめた本に書いています。

「私は論語で一生を貫つらぬいて見せる。金銭を取り扱うのが、なぜ卑いやしいのか。君のように金銭を卑しむようでは、国家は立たぬ」

数えで十七の帰り道に、百姓ひゃくしょうはやめたい、と思った若者でした。その悔くやしさを抱かかえたまま村を出た彼かれが、自分から、卑しいと言われる仕事を選んだのです。

同じ年、栄一は第一国立銀行をつくり、その総監役そうかんやくになりました。紙をつくる会社も、同じ年に始めています。

その夏、彼は人をやって、越生おごせの村に、平九郎へいくろうの首を求めさせました。翌1874年の12月には、黒山くろやまの村で亡きがらを尋たずね当て、上野の寛永寺かんえいじで供養をして、谷中やなかの墓地に葬ほうむり直しています。

1882年、千代ちよが亡くなりました。髷まげを切った写真を見て、このことばかりは気がかりでなりません、と書いた妻です。翌年、栄一は兼子かねこと再婚さいこんします。

短気と強情は、すぐには変わりませんでした。

三菱みつびしの岩崎弥太郎いわさきやたろうに誘さそわれて、二人で舟ふねを出したときのこと。芸者も十四、五人呼ばれていたその遊びの最中に、会社の組み方をめぐって大論争になった。大勢でお金を出し合ってつくるか、一人が仕切るか。決着がつかず、栄一は芸者を連れて引き上げた。弥太郎やたろうは、説得できなかったので「ひどい」と怒おこっていたと聞いた、と栄一は語っています。険悪になったのではない、互たがいの考えが違ちがっただけだ、とも。

1900年には、伊藤博文いとうひろぶみに政党へ入れと迫せまられました。

「役者と見物人は、おのずから違う。私は見物人だから、立役者にもならなければ、馬の脚あしもごめんだ」

伊藤いとうは怒り、井上いのうえが間に入って収まったそうです。

障子の開けっぱなしが、どうにも許せない子どもでした。まだ口もよく回らない二つか三つのころ、閉めずに帰る客がいると、母に抱かだかれたまま、とがめるような口ぶりで言いつけた。母はそのたびに、客の手前、きまりの悪い思いをしたそうです。

七十を過ぎても、それは直りませんでした。襖ふすまでも雨戸でも、半端はんぱに開いていると気がすまない。そのせいで孫たちによく笑われる、と七十三歳の栄一は話しています。

1930年の暮れの、寒い日。内務大臣の安達謙蔵あだちけんぞうのもとに、栄一から電話がかかってきました。会いたいという。

病気で引きこもっていることは、安達あだちも知っていた。用があるなら、こちらから伺うかがいます。そう言うと、返事はこうだったと、安達は、のちの追悼ついとうの講演で語っています。

「いや、私のほうから頼たのむ用事であるから、こちらから伺います」

まもなく、九十歳の栄一がやってきました。羽織と袴はかまは、きちんとつけていた。けれど、ひげは伸のびたまま。病をおして出てきた、痛々しい姿だったといいます。

用件は、こうでした。全国二万人の方面委員が世話をしている、頼る先のない貧しい人たちが、二十万人近くいる。その人たちを救う救護法きゅうごほうという法律は、もうできている。けれど国にお金がなく、なかなか実施じっしされない。今日、方面委員の代表が訪ねてきて、加勢してほしいと頼まれた。この人たちを飢うえ死にさせるのは、忍しのびない。

「引きこもっている最中で、こんなむさくるしい身なりをしておりますが、あえて、すぐこちらへ参った次第です」

どうか大臣として、二十万の同胞どうほうを飢えから救うために、救護法の実施に力を尽つくしてほしい。栄一は、心をこめてそう頼んだといいます。

「私は思わず頭を下げました」

安達は、そう語っています。講演は1931年12月。救護法の実施は、翌月に迫っていました。

栄一は、その講演の一か月前に亡くなっています。10月におなかの手術を受け、11月11日、九十一歳で息を引き取りました。

数えで十七の日、岡部おかべの陣屋じんやで、彼はほかの二人より下の席に座った。

「貴様は、つまらない男だ」

人を見くびった代官のからかい方に、悔しさで体が震ふるえた。殴なぐり飛ばさずに帰れたのは、親がいたからだった、と老人になってから語っています。

それからも、彼は何度も、突つっ走りかけました。

そのたびに、止める人がいた。刺さしてでもやると言う栄一に、自分を殺してでも止めると言い返した長七郎ちょうしちろう。寝間ねまに飛び込む寸前で、抱きとめた河村かわむら。辞めると言いに来た栄一に、祝詞のりとの文句を問うて思いとどまらせた大隈おおくま。

「あいにく、まだ殺す機会に出会いません」

二十三歳でそう答えた若者は、九十歳の冬、ひげを伸ばしたまま、自分のほうから大臣を訪ねていきました。

頼みごとが、あったからです。