渋沢栄一 — あいにく、まだ機会に出会いません
代官に見下されて震えた百姓の子は、突っ走るたびに、誰かに止められた
百姓はやめたい
「いえ、それは決してございません。なるほど、殺そうと思ったことは、たびたびございました。けれども、あいにく、まだ殺す機会に出会いません」
1864年の旧暦2月、京都。二人の若者が、口をそろえてそう答えた。のちに、そのうちの一人が語っています。
尋ねたのは、一橋家に仕える平岡円四郎でした。一橋家は、将軍の一族にあたる家です。
「まさか、人を殺して、人の物を取ったことなどはあるまいな。もしあったなら、あったと言ってくれ」
答えた一人の名は、渋沢栄一。二十三歳。いまの一万円札に描かれている人です。
もう一人は、同じ渋沢の姓をもつ喜作。二人とも、武士ではありません。武蔵国の血洗島という村の、農家の息子でした。
その二人が、なぜ人殺しの疑いをかけられていたのか。話は、八年前にさかのぼります。
血洗島の渋沢家は、藍玉をつくって売る家でした。藍玉は、布を青く染める染料です。父は、どんな小さなことでも四角四面にやる、厳しい人だったと、栄一は語っています。商いはうまくいき、家は村で二番目の物持ちと言われるほどになっていました。
村を治める殿さまは、岡部に陣屋という役所を置く、小さな大名です。姫の嫁入りだ、若殿のお披露目だと何かあるたびに、村の金持ちに御用金を言いつけました。借りるといっても、返ってこないお金です。
栄一が数えで十七歳のとき、渋沢家にも五百両の御用金が言いつけられました。父の代わりに、栄一が近くの村の二人と連れ立って、陣屋へ出かけます。
陣屋では、階段を上がると格子があり、その中に畳が敷いてあった。年下の栄一は、ほかの二人より下の席に座った。本人は、晩年までそう覚えていました。
二人は、どちらも家の主人です。その場で、御用金を引き受けました。
栄一は、父から用件を聞いてくるようにとしか言われていない。だから、こう答えました。
「金高はかしこまりました。ですが、ひとまず父に申し伝えまして、あらためてお受けに参ります」
代官は、人を見下すような男だったといいます。からかい半分に年を聞き、さらにこう言いました。
「父に申し伝えるなどと、そんな分からないことはない」
すぐに承知したと返事をしろ、と迫られた。栄一は、引きませんでした。いまここでお受けすることはできません、と繰り返した。
「貴様は、つまらない男だ」
さんざん叱られ、あざけられて、栄一は陣屋を出ました。
「あの時ばかりは、悔しさのあまり私は震えました」
八十を過ぎてからの談話でも、彼はそう話しています。親がいなかったら、殴り飛ばして家を飛び出していたかもしれない、とも。
帰り道、栄一は考えました。賢い者が敬われ、愚かな者が見下されるのは、当たり前の道理のはずだ。なのに、知恵があるとも思えない代官が、人を見下している。役人の家に生まれた者が、代々その座についているからではないか。そう考えたと、本人はのちに振り返っています。
「これは何としても百姓はやめたい。あまりにばかばかしい話だ」
代官所からの帰り道に、自分に問い、自分で答えた言葉で、今でもよく覚えている。三十年ほどのちの思い出話で、彼はそう語りました。
家に帰って話すと、父は言いました。
「泣く子と地頭だ。仕方がないから、受けてくるがいい」
泣く子と地頭には勝てない。役人には逆らえない、ということわざです。次の日、栄一はお金を持って陣屋へ行った、と覚えています。
藍の商いは、それからも続きました。
藍の葉を買い集めに、年に四回は信州や上州、秩父を回る。ある年、栄一は、藍をつくった人たちを招いて、相撲の番付のような表をこしらえました。藍のよしあしで席の順を決め、いちばんよい藍をつくった人を、いちばん上の席に座らせて、もてなしたのです。
1863年。二十三歳の栄一は、刀を買い集めていました。
いとこの尾高惇忠、喜作と三人で練った計画は、こうです。まず高崎の城を乗っ取って、兵を整える。それから──。
「一挙に横浜を焼き討ちして、外国人と見たら、片っ端から斬り殺してしまう」
そういう作戦だった、と本人が述べています。外国人を追い払え、という攘夷の考えで、頭がいっぱいでした。集めた仲間は、六十九人ほど。刀のほかに、服の下に着る着込みや提灯、竹やりまでそろえた。
その費用の百五、六十両は、藍の商いの勘定の中から出しました。父に隠して、です。
旧暦9月、後の月見の晩。栄一は惇忠と喜作を家に招き、父と同じ席で世間話を始めました。ねらいは、父に勘当してもらうこと。親子の縁を切ってもらうことでした。
いきなり、勘当してくださいとは言えません。天下はいずれ乱れる、百姓だからといって安心してはいられない、と話を広げていく。父は、さえぎりました。百姓に生まれたのだから、どこまでもその本分を守るがよい。
論語にはこうある、孟子にはああある。言い合ううちに、夜が明けてしまいました。
明るくなると、父はもう、何も言いませんでした。
「よろしい。おまえはわしの子ではないから、勝手にするがいい」
そして、こう続けたと、栄一は語っています。
「わしは麦をつくって、百姓で世を送る。たとえ政府が無理を言おうと、役人が無法なことをしようと、かまわずに従うつもりだ」
その声は、二十年以上たっても耳の底に残っていて、話すたびに涙が出る。四十代の栄一は、そう話しています。
計画の中身を、栄一は父に話していませんでした。
刀や着込みを買ったお金が、父の商いの勘定から出ていたことも。
刺し違えても
決行は、旧暦11月と決めてありました。
その前の旧暦10月の末、尾高長七郎が京都から帰ってきます。惇忠の弟で、栄一の妻、千代の兄。剣術の師匠をしている男でした。
その二年近く前、追われる身になりかけた長七郎を、夜中に走って引き止めたのは、栄一です。幕府の重い役の者が江戸城の坂下門の外で襲われた事件に、長七郎も関わった疑いがかかった。それと知らずに江戸へ向かったと聞き、栄一は夜十時ごろに家を飛び出して、四里(16キロ)ほど先の熊谷の宿まで追いかけたのです。
今度は、長七郎が栄一を止める番でした。
旧暦10月の末の夜。手計村の惇忠の家の二階に、五人が集まりました。
長七郎は言いました。この計画は、大間違いだ。七十人や百人の寄せ集めでは、城は取れても、横浜までは行けない。すぐに幕府や近くの藩の兵に討ち滅ぼされる。
「つまり、ただの百姓一揆と同じに見なされてしまうだろう」
栄一は、言い返しました。たとえ負けても、それを見た天下の志士が、あちこちで立ち上がる。自分たちは、その血祭りになればいい。
夜通しの議論になりました。
「長七郎は自分を殺しても止めると言い、自分は長七郎を刺してもやると言う」
殺すなら殺せ、刺し違えて死ぬ。そこまで二人は血眼になって言い合った、と栄一は語っています。
それでも長七郎は、引きませんでした。
栄一は一歩退いて、考え直します。ただの一揆と見なされて、首を切られて終わるなら、あとに続く者もいない。子どもの遊びのようなものだったと言われ、犬死にになるかもしれない。
計画は、取りやめになりました。
「実に、長七郎が自分たち大勢の命を救ってくれたと言ってもよい」
のちに、栄一はそう語っています。
旧暦11月、栄一と喜作は、伊勢参りに行くと言って村を出ました。父からもらった旅費は、百両。ところが江戸で遊ぶうちに、吉原にも行き、むだなことにも使って、たちまち二十四、五両がなくなった。吉原は、江戸でいちばん大きな遊びの町です。これも、本人の思い出話にあることでした。
京都に着いたのは、旧暦11月の末です。
年が明けた1864年の旧暦2月。江戸から、長七郎の手紙が届きました。
牢の中から書いた手紙でした。長七郎は、何かの行き違いで捕らえられた。しかも懐に、京都の二人が出した手紙を入れたままだったという。京都へ来い、幕府はかならず潰れる。そう書いた手紙です。
二人は顔を見合わせたきり、しばらく、ひと言も出なかった。いっそ計画どおりにやっていれば、縄をかけられる恥は見ずにすんだ。そんな愚痴まで出て、腹を切るほかないというところまで思い詰めた、と栄一は語っています。
喜作は、明日すぐ江戸へ帰ると言って息巻いた。栄一は考えた。八百万石の幕府を相手に、二人で息巻いても仕方がない。こうしてはどうか。いや、それは危ない。それならこうか。いや、それもいけない。
「今この席で話すと一つの笑い話だけれども、そのときの苦心というものは、身にしみて」
城を乗っ取ろうと言っていたときの勢いとは、雲泥の違いだった。そう振り返る夜を、二人は考えあぐねたまま、明かしました。
翌朝、平岡から呼び出しの手紙が来ます。
別の部屋に通され、江戸で何を計画したのか、包まずに話せと言われた。幕府から、二人のことで問い合わせが来ているという。二人は、幕府を倒すべきだと手紙に書いたことを認めました。そして、あの問いと、あの答えです。
平岡の返事は、短いものでした。
「それなら、それでよい」
そのうえで、平岡は思いがけないことを勧めます。志を曲げて、一橋家の家来になってはどうか。
幕府を倒すために村を出た二人が、将軍の一族に仕える。宿に戻ると、喜作は反対しました。今さら仕えれば、食うに困って節を曲げたと言われる。栄一は言い返しました。首をくくって死んでも、世の中のためには少しもならない。
二人は、仕えることに決めます。ただし、ただでは頭を下げませんでした。その前に一度、主君に会わせてほしい。そうでなければ、この奉公はお断りする。
「どうも、困った強情を言ったものだ」
平岡はそうこぼした、と栄一は語っています。
会う前に、主君の一橋慶喜に、遠くからでも顔を見てもらわなければならない。慶喜が馬で出かける日、その供に走ってついて行け、と言われました。栄一は、そのころから太っていて、背も低かった。それでも下加茂のあたりから山鼻まで、1キロあまりを、必死で走り通したといいます。
こうして二人は、一橋家の家来になりました。
それから、何か月もたたないうちのことです。
栄一は平岡の命令で、大坂にいる薩摩藩の折田要蔵のもとに、弟子入りします。本当は、様子を探るための役目でした。京都へ戻る前の晩、同じ薩摩藩の河村と三島が、送別の酒宴を開いてくれた。
夜十一時ごろ、宿に帰ると、折田の部屋は、杯や皿が粉々に割れていました。三島が先に帰って、暴れていったのです。
折田は、顔じゅうに怒りを浮かべていた。おまえも送別の席で、三島と一緒になって、わしの悪口を言ったのだろう。おまえも三島の仲間と見なす。
栄一は、怒りました。酒にも酔っていた。
「三島をここへ連れてきて、刺し殺してしまいます」
そう言い捨てると、刀をつかんで、隣の家へ駆けつけた。三島は、二階で寝ているという。
栄一は、二階へ駆け上がりました。
女房のありがたさ
寝間に飛び込もうとした、そのとき。栄一を抱きとめた男がいました。河村です。
「まず待て。何をするのだ」
三島に恨みがある、連れていって斬り殺すのだ。そう言って押し合ううちに、折田から、ともかく一度戻ってくれと使いが来た。河村は、少しも手を放しません。
そのあいだ、三島は酔って寝ていて、この騒ぎにまったく気づかなかった。栄一は、そう語っています。
宿に戻ると、折田は、さっきまでの怒りが嘘のように謝りました。あれは自分の失言だった。三島がそんなことを言ったわけではない。
「そんなら、よろしゅうございます」
それで、話は済みました。
京都での暮らしは、貧しいものでした。
喜作と二人、八畳二間の長屋に住む。父にもらった旅費の百両は、江戸でも道中でも伊勢参りでも、京都の宿代でも使って、とうに尽きていた。知り合いからの借金が、二十五両ほどある。故郷から金を取り寄せることは、死んでもしない。そう誓って、月に四両一分の手当から返していきました。
飯は、自分たちで炊いた。粥になったり、硬すぎたりしながら覚えた。おかずは自分で買いに出る。牛肉を竹の皮に包んで買ってくるのが、いちばんのぜいたくでした。布団は三枚を借りて、その中で、二人が背中合わせに寝たといいます。
借金は、四、五か月で返し終えました。
その年の旧暦10月、栄一は故郷の千代に、続けて手紙を書いています。
二人のあいだに生まれた長男の市太郎は、二年あまり前、生まれて半年ほどで亡くなっていた。長女の歌子が生まれて三か月もたたないうちに、栄一は村を出ていました。
月の初めの手紙には、追伸にこうあります。
「別れてからは一度も、女遊びなどもせず、まったく国のことばかり心配しております」
十二日後の手紙には、こう書いた。
「男の子がないのは、まことに残念に思います。万事、一人では不自由で、女房のありがたさということを、とくと分かりました」
歌子は、物心ついたときから父の顔を知らなかったと、のちに歌子の伝記は書いています。
1866年、慶喜が長州との戦いに出ることになり、栄一も従うよう命じられました。千代への手紙に、いくさは武士の常、それほど心にかけることでもない、と書いた。そのうえで、こう続けています。
「もし私が亡き者にでもなったなら、その後は、よくよく思案もありましょう」
手紙には、包みが添えてありました。
「別の一包みは、あなたへの形見のつもりの懐剣ですから、大切になさってください」
翌年、栄一は、慶喜の弟の徳川昭武について、フランスへ渡ることになります。パリで開かれる万国博覧会に、日本から出向く一行でした。
支度は、ずいぶんいいかげんだった、と本人が笑っています。貧乏な御者もはかないような靴を買い、ホテルの給仕が着ていたらしい燕尾服の古着を一枚、ズボンもチョッキもなしで譲ってもらった。
「今から思うと、実に可笑しい」
出発の二日前、千代に手紙を出しています。
「およそ三年もかかりますので、くれぐれも大切に留守をしてくださるよう、お頼みします」
1867年2月15日、船は横浜を出ました。
途中、エジプトのスエズからアレキサンドリアまで、生まれて初めて汽車に乗った。一行は、ガラスというものを知らない。窓の外がすっかり透けて見えるので、何もないと思い、一人が窓から蜜柑の皮を何度も投げた。隣の席の西洋人が怒り、言葉が通じないまま、腕ずくの騒ぎになった。ガラスを知らなかったのだと分かって、最後は双方で笑って収まったそうです。
取り立てて話すほどのことではないけれど、と断りながら、晩年の栄一が付け加えた話です。
髷を切った栄一の写真が、故郷に届きます。
千代は、手紙を書きました。
「どのような御髪つきなのでしょう。手計の兄に申しましたら、あれこれ言い聞かされましたが、本当に、このことばかりは気がかりでなりません」
旧暦12月、栄一はパリから書いています。留守は、四、五年になる。父と母に孝行を頼む。長いこと手紙をよこさないのは、どういうわけか。
そして、こう続けました。
「ただ私が一時の思い立ちから、長く人の道に背くような成り行きになったことは、どこまでも自分の心得違いで、今さらどうしようもありません」
写真のことには、年が明けた旧暦2月の手紙で答えています。情けない姿になっているから改めてほしい、というのは、もっともなこと。帰るときには改める。ただ、今は公子をはじめ、みな西洋に住んでいるのだから、そのまねをするのも道理なのだ、と。
四、五年と書いた留守は、そこまで続きませんでした。
1868年の旧暦11月、栄一は横浜に着きます。仕えていた徳川の幕府は、もう、なくなっていました。
八百万の神の一柱
横浜に着いた幕府の家来は、飼い主をなくした犬のようなものだった、と栄一は語っています。役人に問いただされ、見るもの聞くもの、すべてが不愉快だった。
翌日、横浜の友人から、喜作の消息を聞きました。
喜作は、榎本たち旧幕府の兵とともに、北の箱館にいる。兵と食糧を十分に整えてから、本土へ攻め込むつもりらしい。
それでは勝てない、と栄一は考えました。寄せ集めの兵で、守りを固めて待つのは、力の足りない力士が土俵際でこらえるようなものだ。
彼はすぐ、箱館の喜作に手紙を書き、横浜の友人に託しました。
「今日の形勢では、もはやお互いに、生きているうちに会うことは望みがたい。この上は、潔く戦死を遂げられよ」
心をこめて、そう書き送った、と栄一は語っています。
京都で、背中合わせに寝た相手でした。
東京に戻ると、知らせが次々に入ってきます。
長七郎は、その年、牢を出ていた。けれど、栄一が日本に着く前に、亡くなっていました。
殺してでも止める、と言った男です。その男に止められて生き延びた命で、栄一はパリまで行き、帰ってきたのでした。
長七郎の弟の平九郎は、栄一の養子になっていた。外国へ行く者は、向こうで死んだときのために跡継ぎを決めておく決まりがあり、出発の前に、千代のきょうだいである平九郎を養子にしておいたのです。
その平九郎は、兄の惇忠や喜作について戦に出て、飯能に近い黒山という所で、討ち死にしていました。
「実に、見るもの聞くもの、すべて断腸の種でないものはない、という有様だった」
海の向こうの国々を回ったといっても、何一つ学び得たこともなく、むなしく目的を失って帰ってきただけだ。幕府を倒そうとした自分が、滅んだ幕府の家来になっている。そう振り返りながら、栄一はこうも語っています。それも、自分の過ちとは言いがたい。世の成り行きとあきらめるほかなかった、と。
旧暦12月、父が東京まで訪ねてきました。柳原の、昔なじみの剣術道具屋、梅田の家で、親子は会います。
父は、息子が無事に帰ったことを喜んでいた。けれど、落ちぶれた姿を見て、喜びの中にもどこか憂いを含んでいたと、栄一は覚えています。
やがて、父は言葉をあらためました。
「おまえはもう、わしの子ではないから、あえて指図するには及ばない」
そう前置きして、尋ねた。これから先、どう身を処するつもりか。
栄一は、涙をのみこんで答えました。箱館の兵に加わるつもりもない。新しい政府にこびて、役人の口を求める気もない。駿河へ移って、前の将軍のおそばで、自分で暮らしを立てていきたい。
父は、少しばかりお金を持ってきた、と言いました。
栄一は、断りました。京都にいたころから倹約して、わずかでも蓄えがある。今は困っていない、と。
翌1869年、静岡で、栄一は藩の勘定組頭を命じる辞令を渡されます。
納得がいかなかった。むっとして辞令を突き返し、上役たちにさんざん言い立てた。ところが人を介して聞いてみると、慶喜の考えがあっての辞令だったと分かる。栄一は、自分の性急さと失言を、大いに恥じたといいます。
それでも静岡で、彼は商法会所という仕事を始めました。肥料を買って百姓に貸し、大阪の米を安く買い込んで米屋に売る。百姓も商人も、たいへん喜んだ、と本人は語っています。
そこへ突然、新しい政府から呼び出しが来ました。命じられたのは、租税正。国の税を扱う役所の長です。
断れば、徳川が何かたくらんでいると疑われかねない。栄一は、しぶしぶ東京へ出ました。
けれど出てみると、何から手をつけていいのか分からない。それなら、静岡の会所に戻ったほうがいい。辞めさせてもらうつもりで、栄一は大蔵省の大隈重信を訪ねました。
大隈が弁の立つ人だということは、耳にしていた。言いくるめられはしない。思ったとおりのことを、遠慮なく言ってやる。そう構えて出かけた、と栄一は語っています。
ところが、話を聞き終えた大隈が持ち出したのは、思いもよらない問いでした。
「八百万の神達、神計りに計りたまへ、という文句を知っているか」
神々が寄り集まって相談する、という祝詞の一節です。知っている、と栄一は答えました。
「何から手を着けてよいか分からないのは、君ばかりではない。皆分からないのである」
幕府が倒れ、これからの国の形を、みなで相談している最中だ。新しい政府に呼ばれた者は、その相談に集まった神々なのだ。大隈は、そう説いたといいます。
「君もその賢い人材の一人として採用されたのだ。つまり、八百万の神の一柱である」
辞めると言いに行った男は、辞めずに帰りました。
それから、三年半のあいだは。
むさくるしい身なりで
1873年5月、栄一は、やっぱり役所を辞めました。三十三歳でした。
大蔵省の井上馨と一緒の退官でした。そして、金を扱う商いの道に入る。友人の玉乃世履は、役人をやめて商人になるとは、あきれた話だと忠告しました。
栄一は、論語を持ち出して言い返した、と自分の講話をまとめた本に書いています。
「私は論語で一生を貫いて見せる。金銭を取り扱うのが、なぜ卑しいのか。君のように金銭を卑しむようでは、国家は立たぬ」
数えで十七の帰り道に、百姓はやめたい、と思った若者でした。その悔しさを抱えたまま村を出た彼が、自分から、卑しいと言われる仕事を選んだのです。
同じ年、栄一は第一国立銀行をつくり、その総監役になりました。紙をつくる会社も、同じ年に始めています。
その夏、彼は人をやって、越生の村に、平九郎の首を求めさせました。翌1874年の12月には、黒山の村で亡きがらを尋ね当て、上野の寛永寺で供養をして、谷中の墓地に葬り直しています。
1882年、千代が亡くなりました。髷を切った写真を見て、このことばかりは気がかりでなりません、と書いた妻です。翌年、栄一は兼子と再婚します。
短気と強情は、すぐには変わりませんでした。
三菱の岩崎弥太郎に誘われて、二人で舟を出したときのこと。芸者も十四、五人呼ばれていたその遊びの最中に、会社の組み方をめぐって大論争になった。大勢でお金を出し合ってつくるか、一人が仕切るか。決着がつかず、栄一は芸者を連れて引き上げた。弥太郎は、説得できなかったので「ひどい」と怒っていたと聞いた、と栄一は語っています。険悪になったのではない、互いの考えが違っただけだ、とも。
1900年には、伊藤博文に政党へ入れと迫られました。
「役者と見物人は、おのずから違う。私は見物人だから、立役者にもならなければ、馬の脚もごめんだ」
伊藤は怒り、井上が間に入って収まったそうです。
障子の開けっぱなしが、どうにも許せない子どもでした。まだ口もよく回らない二つか三つのころ、閉めずに帰る客がいると、母に抱かれたまま、とがめるような口ぶりで言いつけた。母はそのたびに、客の手前、きまりの悪い思いをしたそうです。
七十を過ぎても、それは直りませんでした。襖でも雨戸でも、半端に開いていると気がすまない。そのせいで孫たちによく笑われる、と七十三歳の栄一は話しています。
1930年の暮れの、寒い日。内務大臣の安達謙蔵のもとに、栄一から電話がかかってきました。会いたいという。
病気で引きこもっていることは、安達も知っていた。用があるなら、こちらから伺います。そう言うと、返事はこうだったと、安達は、のちの追悼の講演で語っています。
「いや、私のほうから頼む用事であるから、こちらから伺います」
まもなく、九十歳の栄一がやってきました。羽織と袴は、きちんとつけていた。けれど、ひげは伸びたまま。病をおして出てきた、痛々しい姿だったといいます。
用件は、こうでした。全国二万人の方面委員が世話をしている、頼る先のない貧しい人たちが、二十万人近くいる。その人たちを救う救護法という法律は、もうできている。けれど国にお金がなく、なかなか実施されない。今日、方面委員の代表が訪ねてきて、加勢してほしいと頼まれた。この人たちを飢え死にさせるのは、忍びない。
「引きこもっている最中で、こんなむさくるしい身なりをしておりますが、あえて、すぐこちらへ参った次第です」
どうか大臣として、二十万の同胞を飢えから救うために、救護法の実施に力を尽くしてほしい。栄一は、心をこめてそう頼んだといいます。
「私は思わず頭を下げました」
安達は、そう語っています。講演は1931年12月。救護法の実施は、翌月に迫っていました。
栄一は、その講演の一か月前に亡くなっています。10月におなかの手術を受け、11月11日、九十一歳で息を引き取りました。
数えで十七の日、岡部の陣屋で、彼はほかの二人より下の席に座った。
「貴様は、つまらない男だ」
人を見くびった代官のからかい方に、悔しさで体が震えた。殴り飛ばさずに帰れたのは、親がいたからだった、と老人になってから語っています。
それからも、彼は何度も、突っ走りかけました。
そのたびに、止める人がいた。刺してでもやると言う栄一に、自分を殺してでも止めると言い返した長七郎。寝間に飛び込む寸前で、抱きとめた河村。辞めると言いに来た栄一に、祝詞の文句を問うて思いとどまらせた大隈。
「あいにく、まだ殺す機会に出会いません」
二十三歳でそう答えた若者は、九十歳の冬、ひげを伸ばしたまま、自分のほうから大臣を訪ねていきました。
頼みごとが、あったからです。