野口英世 — 返しきれない人

借りて、使い果たして、また頭を下げた。世界的な細菌学者の、格好悪くて憎めない一生

小刀と作文

「いっそ自分の小刀こがたなで、この指を一本ずつ切り離したらいいんだが」

少年は友だちの前で、何度もそう言ったと伝えられています。どうにかして、物が握にぎれるようにならないか。左手の話になると、最後はいつもこの言葉でした。

そのたびに、仲のいい友だちが止めました。いけない、いけない。うまく治るかどうかは、医者でなければ分からない。

友だちには、言えた。けれど、大人に向かって書いたことは、まだ一度もなかった。

野口清作のぐちせいさく。のちに英世ひでよと名を変える少年は、福島ふくしまの猪苗代湖いなわしろこのほとり、三城潟さんじょうがたという小さな村に生まれました。

1歳半のとき、囲炉裏いろりに落ちた。左手の指は焼けただれ、一つにくっついてしまいます。親指は手首のほうへ、ほかの指は手のひらへ。手の先は、すりこぎのような形になりました。

母のシカは、自分が目を離したせいだと泣き続けた。観音かんのんさまに祈りながら、眠らずに我が子を抱いて看病かんびょうし、まぶたが腫はれて目が開かなくなったと伝えられます。

その子は、とにかく負けず嫌いに育ちました。

正月の鳥追とりおいの日。村の子どもが東と西の組に分かれ、どちらが早く起きるかを競う行事です。先に起きた組が鳥追いの歌を囃はやして、まだ寝ている相手の組を起こす。歌で起こされた組の負けでした。

清作は、東の組でした。前の晩から一睡もせず、まだ星の出ているうちに飛び出して、歌を囃しながら、相手の西の組の子どもたちを起こして回ったといいます。彼が大人になるまで、勝つのはいつも東の組でした。

勉強でも、やがて誰にも負けなくなる。高等小学校こうとうしょうがっこうでは、英語の教科書を一冊先まで読み終え、休み時間には外国の博物学はくぶつがくの本を開いていた。水が凍るとなぜ体積たいせきが増えるのかと試験で問われ、分子の並び方まで図に描いて、試験官をうならせたこともあります。

ただ、それで左手が隠れるわけではなかった。

成績がよくても、人の目はまず手に行く。からかわれ、悪口の種にされる。人前に出るとき、彼がいちばん気をつかったのは、この手を見せないこと、気づかせないことでした。

高等小学校4年の、2学期の半ば。作文の時間がありました。

書くことは、決まっていた。左手のことだ。

作文は、清作がいちばん得意な科目です。少年雑誌を借りてきては読み、文章を練っていた。クラスで彼にかなう者はいなかった。

(どうせ書くなら、誰が読んでも泣くくらいに書いてやる)

だから、手を抜かなかった。友だちの前では冗談まじりに言ってきたことを、今度は冗談にしなかった。日ごろ胸にためてきた左手への恨みを、長々と、最後まで書き連ねました。

担任の小林栄こばやしさかえ先生は、その作文を職員室しょくいんしつで読みました。

読みながら、涙が紙の上に落ちたと伝えられます。

作文はすぐに石川いしかわ校長のもとへ回されます。校長もしばらく、ひと言も出なかったといいます。ほかの先生たちが次々に手に取り、職員室の空気が変わっていく。この子の手を、手術してやれないだろうか。話は、そこまで進みました。

小林先生は、もう一歩踏み出します。

この作文を、すぐれた文章のお手本として、クラスの全員に披露ひろうしたのです。

誰にも見せまいとしてきた左手のことが、自分の書いた文章として、同級生みんなの前に差し出された。

そのあとに起きたことは、清作の予想とは違っていました。

友だちが、お金を出すと言い出したのです。

八子弥寿平やごやすへい、秋山義次あきやまよしじ。いつも小刀の話を止めてくれていた友だちが、まっさきに申し出た。やがてクラス全員が、一人10銭せんずつ出し合うことになります。足りない分は、先生たちが出した。集まったのは、10円あまりでした。

小林先生は清作に、若松わかまつの町の渡部鼎わたなべかなえという医者に診てもらうよう言いました。アメリカで学んで帰ってきた、評判の外科医です。

診察の答えは、こうでした。完全に元どおりにはならない。けれど、手術をすれば、必ず効き目はある。

清作は、喜び勇んで家に帰りました。

話を聞いた母は、その足で清作を連れて、小林先生の家へ頼みに行った。そして、遠い中田なかだの観音さまの方角へ向かって、何度も何度も手を合わせたといいます。

十数年、自分のせいだと責め続けてきた母でした。

1892年10月。15歳の清作は、若松の病院で、手術台の上にいました。

枕まくらもとには、秋山義次がいる。クラスのみんなに選ばれて、付き添いに来たのです。

渡部先生のメスが、くっついたままの指のあいだに入りました。

消えた旅費

麻酔ますいは、手の先にだけかけられていました。

渡部わたなべ先生は、焼けて一つになった指を、一本ずつ切り離していく。清作せいさくの顔は青白くなり、額に脂汗あぶらあせがにじんだ。眉のあいだに、深いしわが寄る。

それでも「痛い」とは、ひと言も言わなかったと伝えられています。

そばで見ていた秋山義次あきやまよしじのほうが、自分の手を切られているように体を固くしていた。

手術が無事に終わると、義次は病院を飛び出し、若松わかまつから三城潟さんじょうがたまで、六里(24キロ)近い山道を、ほとんど走りどおしで帰ったと伝えられます。途中で秋の日はとっぷりと暮れました。

家で観音かんのんさまに祈っていた母シカは、義次の姿を見ると駆け寄ってきた。手術は終わった、うまくいった。そう聞くと、思わず義次の手を取り、何度も礼を言った。それから外へ出ていき、しばらくして、魚の串焼くしやきを何本か手に提げて戻ってきます。それを土産に持たせ、夜道を一里あまり、義次の家まで送っていったそうです。

指は、少しずつ動くようになりました。

ただ、お金は足りなかった。入院料は一日1円20銭。みんなが10銭ずつ出し合った10円あまりでは、二週間ももたない。本当なら、あと二週間は入院していたほうがよかったのですが、お金が尽きた日に、清作は病院を出たようです。十日ほどでした。

この手術のあと、小林先生にもすすめられて、清作は医者になると決めます。

小学校を出ると、渡部先生の病院、会陽医院かいよういいんに住み込みの書生しょせいとして入りました。口ぐせは「ナポレオンは、夜3時間しか眠らなかった」。夜中にのぞくと、いつもランプの下で医学書を開いていたそうです。

1896年、清作は東京へ出ます。医者になるための国の試験、医術開業試験いじゅつかいぎょうしけんを受けるためです。

ここから、彼のもう一つの癖くせが顔を出します。

お金が手に入ると、すぐになくなるのです。

上京のために小林先生たちが用立ててくれたお金は、二か月ほどで消えた。下宿代も払えなくなり、故郷の知り合いの家を転々とする。拾ってくれたのは、歯科医学校で教えていた血脇守之助ちわきもりのすけという青年でした。清作より6歳上。自分の給料も少ないのに、院長に断られても清作を寄宿舎にこっそり泊め、やがて玄関番げんかんばんとして働かせ、学費まで工面した。

1897年、清作は試験に合格し、医者の資格を取りました。20歳でした。

医者になっても、癖は直らない。

合格して順天堂じゅんてんどうの病院に勤めはじめたころ、清作は血脇の友人に、古い洋服を譲ってもらう約束を取りつけた。それを知った血脇から、物をねだるような真似はするなと、厳しい手紙が届きます。ふだん人を責めない人でした。翻訳の仕事で徹夜した朝のこと。清作はその午前のうちに、長い謝りの手紙を書いています。

謝りの手紙から13日後。今度は故郷の親友、八子弥寿平やごやすへいに手紙を出しました。「洋服が一着ないために、人から軽く見られて困っている。50円あれば、本当に満足なのだが」。翌年の春、弥寿平が50円を送ると、清作はそれから数日のあいだ、毎晩どこかへ姿を消しました。

その年の夏、猪苗代いなわしろの小林先生の家にいたとき、借りてきた小説を読んでいて、手が止まります。坪内逍遥つぼうちしょうようの『当世書生気質とうせいしょせいかたぎ』。そこに、「野々口精作ののぐちせいさく」という医学生が出てきた。みんなに将来を期待された秀才が、遊びを覚えて、どんどん堕落だらくしていく役です。

自分の名前と、ほとんど同じ名前。しかも、やっていることまで似ている。

清作は本を閉じ、それ以上読めなかったといいます。

小林先生に相談すると、先生は新しい名前を考えてくれました。英世ひでよ。「英」は小林家に代々伝わる字で、世に秀ひいでる人になれ、という意味です。小説の人物に似ているだけでは役所は名前を変えてくれず、同じ村に別の「清作」がいたことを理由にして、ようやく戸籍こせきが変わりました。

名前は変わった。けれど、お金の癖は変わらなかった。

1899年、英世は清しんの国(今の中国)の牛荘ぎゅうそうへ、伝染病でんせんびょうのペストと戦う医療団の一員として行くことになりました。支度金に96円が出た。ところが借金取りが次々に来て、すぐに一文なし。友人たちは誰も貸してくれない。彼がお金を持つと一晩で使うことを、みんな知っていたからです。

最後に頼ったのは、また血脇でした。血脇は黙って考えたあと、結婚したばかりの妻の晴はれ着ぎなどを手放して、15円を用意したといいます。

翌1900年、英世はアメリカへ渡ろうと決めます。前の年、日本に来たアメリカの医学者、フレキスナー博士の案内と通訳をしたことがあった。そのとき、アメリカで学ぶ話が出たのです。

旅費は、婚約こんやくの条件として相手の家から渡された200円でした。

出発の数日前、英世は横浜よこはまへ出かけ、世話になった仲間を数十人も呼んで、送別の宴うたげを開きます。場所は、そのあたりでいちばんの料亭りょうてい、神風楼じんぷうろう。

翌日、勘定を払うと、お金はほとんど残っていなかった。船の切符は、まだ買っていませんでした。

血脇の家に戻った英世は、顔も上げられずに言ったと伝えられます。

「先生、とんでもないことをやってしまいました」

血脇は、しばらく口もきけなかった。今さら渡米をやめれば、婚約の家からお金だけ受け取った詐欺さぎになる。

血脇は、生まれて初めて高利貸こうりがしから300円を借りました。

今度は、お金を英世に渡さなかった。自分で一緒に行って、船の切符を買って渡したのです。三等の切符でした。

1900年12月5日。横浜の埠頭ふとうで、船の甲板かんぱんに立った英世に、血脇は彼の悪いところを一つ残らず並べてみせました。そして最後に、こう言ったと伝えられます。

「今度こそ、君が天から才能を授かった人間なのか、人の道に外れた者なのかが決まる、大事な門出だ」

船は、アメリカへ向けて港を出ました。

フレキスナー博士には、行くとは知らせていませんでした。