紫式部 — 一の字も書かない人
男の子でないのは運がない、と父に嘆かれた娘が、宮中では「一」の字も書かないふりをして、とても長い物語を書いた。本名も生没年もわからない人の、隠しながら書いた一生
男の子でないのが
「残念だ。この子が男の子でないとは、運がない」
父は、いつもそう嘆いていた。書き残したのは、嘆かれた娘本人です。
家では、きょうだいの惟規が、漢文の書物を読み習っていました。兄とも弟ともいわれる、男の子です。
娘は、そのそばで聞いていた。
惟規は、読み取るのが遅い。習ったところを忘れてしまうこともある。そこを、横で聞いていただけの娘のほうが、不思議なくらい早く覚えてしまうのでした。
父の藤原為時は、漢詩で名の知られた学者です。学問に打ちこんできた人でした。だからこそ、口から出た嘆きだったのかもしれません。
この娘の本当の名前は、わかっていません。生まれた年も、はっきりしない。
のちに人々は、彼女を紫式部と呼ぶようになります。
そして、大人になったその人は、こう書くことになる。
「一という字さえ、書きもしません。とても不器用で、あきれたものです」
漢字の中で、いちばんやさしい一文字です。それさえ書かなくなった人が、とても長い物語を書くことになります。
996年。父の為時は、地方の国を治める国司に任じられます。ただ、決まったのは、位の低い淡路の国でした。
為時は、嘆きの文書に漢詩の句を添えて、差し出したと伝えられます。
「冬の夜、苦しんで学び、紅の涙が手ぬぐいにあふれた。任官の発表のあった春の朝、目の前には青い空」
この句が天皇の心を動かし、行き先は大きな国、越前に改められた。漢字で書いた一句が、父の行き先を変えた。のちの説話集は、そう伝えています。
娘は、その父について越前へ下ります。都を離れて暮らしたのは、生涯でこのときだけだったといわれます。
別れを惜しむ友だちも、いました。二人とも姉妹を亡くし、手紙の宛名に「姉君」「中の君」と書き合う仲です。
別れぎわに、彼女は歌を送っています。
「北へ行く雁の翼に、ことづけてね。雲の上に書くように、便りを絶やさずに」
越前へは、山を越えていきます。塩津山の山道は、草木がひどく茂っていた。身分の低い男たちが、みすぼらしいなりで、こぼし合っています。
「やっぱり、つらい道だなあ」
その一言を、彼女はのちに、自分の歌集に書きとめています。
越前では、雪が深く積もった。
暦に「初雪」と書いてある日、近くの日野岳が、雪に深くうずもれて見えました。彼女の思いは、都の小塩山へ飛んでいます。今日は、あそこの松にも、雪が降りまがっているだろうか、と。
ある日、人々が、うんざりするほど降り積もった雪をかきのけて、山のように盛り上げました。そして、その上に登って、彼女を呼びます。ほら、出てきてごらんなさい、と。
彼女の返事は、歌でした。
「これが、ふるさとへ帰る道の、かえる山だったら。気も晴れるかと、出ていって見もしましょうに」
雪の山には、出ていかなかったのかもしれません。
やがて彼女は、父を越前に残して、都へ戻ります。
帰りの道で、かえる山を越えたときのことです。呼坂という所の、ひどく険しい崖の道でした。輿をかつぐ者たちも、運びあぐねている。恐ろしい、と彼女は思った。
そこへ、木の葉の中から、猿がたくさん出てきました。
彼女は、その猿たちに歌いかけます。
「猿よ、おまえたちも、遠くの人と声をかわしておくれ。私が越えあぐねている、この呼坂で」
恐ろしい崖の道でも、歌は出てくるのでした。
都に戻った彼女のもとへ、やがて、しきりに手紙をよこす男が現れます。
紅の涙
「紅の涙と言われると、いっそういやになります。移り気な心の色に見えますから」
男から届いた手紙の上に、朱の赤い色が、ぽつぽつと散らしてありました。添えてあった言葉は、涙の色を、というものです。
その手紙に、彼女はそう返しました。
送り主の名を、歌集は書いていません。のちの研究者は、この人を藤原宣孝と見ています。
宣孝は、彼女の父と同じ一族の人です。年は、ずっと上でした。すでに何人もの女性のもとに通い、子どももいた。
派手なふるまいの話も、残っています。
御嶽という山へお参りするときは、身分の高い人でも、わざと粗末な身なりで行くのがならわしだった。ところが宣孝は、そんなことはつまらない、と言ったそうです。きれいな着物で参って、何が悪い。御嶽の神さまも、まさか粗末な格好で来いとはおっしゃるまい、と。
そして、濃い紫に山吹色の、派手な装いで、息子と二人、山道を参っていった。行き帰りの人々は、こんな姿の人は見たことがない、とあきれました。
ところが同じ年のうちに、宣孝は筑前の国司に任じられる。やっぱり言ったとおりだった、と評判になりました。
この話を書き残したのは、清少納言です。『枕草子』の中にあります。
そういう男が、彼女に言い寄ってきた。
「ふた心はない」
彼は、いつもそう言い続けていた。ところが同じころ、近江の国司の娘にも言い寄っている、という話が聞こえてきます。
うるさくなった彼女は、歌で返しました。湖で仲間を呼ぶ千鳥よ、どうせなら、あちこちの港で、声を絶やさずに鳴いていなさい、と。
あるときは、こんなこともありました。
自分が送った手紙を、男がほかの人に見せた、と聞いたのです。
彼女は、手紙ではなく、口伝えで言ってやりました。これまでの手紙を全部集めて返してこないなら、もう返事は書きません。
男は、全部返す、と言って、ひどく恨みごとを言ってきた。旧暦の正月の十日ごろのことだった、と、歌集の前書きにあります。
やりとりは、なおも続きます。男はとうとう腹を立てて、書いてよこしました。
「もう、何も申しません」
彼女は、笑って返事の歌を書いた、と前書きにはあります。
年上の男を相手に、一歩も引かない。
二人が結婚したのは、999年ごろと考えられています。やがて、娘の賢子が生まれた。
そして1001年、旧暦の四月。宣孝は、亡くなります。結婚して、二、三年しかたっていませんでした。
そのころの歌が、歌集に残っています。
世のはかなさを嘆いていたころ、陸奥の名所を描いた絵を見た。そのうちの一枚は、塩竈の浦でした。海の水を煮つめて、塩を焼く浦です。
「あの人が煙になった夕方から、塩竈の浦という名が、親しく思えるのです」
歌の中に、夫という言葉はありません。それでも、亡くなった夫を思った歌だと、読まれてきました。
のちに彼女は、自分の部屋の大きな厨子のことを書いています。二つ並んだ棚の片方には、古い歌や物語の本が、虫の巣になっている。もう片方には、書物をわざわざ積み重ねておいた人が、いなくなってから、手を触れる人もいない。
書物を積み重ねておいたその人も、夫のことだと考えられています。
宮仕えに出る前の年月を、彼女は日記の中で、こう振り返っています。
何年も、することもなく、ぼんやりと外を眺めて夜を明かし、日を暮らした。花の色も鳥の声も、春と秋に移っていく空も、月の光も、霜や雪も。それを見ても、ああ、その季節が来たのだな、と思うだけ。これからどうなるのだろう、という心細さは、晴らしようがなかった。
それでも、たわいない物語をめぐって、気の合う人とは、しみじみと手紙を書きかわした。そうやって、退屈をなぐさめていた。
自分が、世の中で数に入る人間だとは思っていなかった、とも書いています。
『源氏物語』を書き始めたのがいつなのかは、わかっていません。
石山寺には、こんな話が伝えられています。新しい物語を頼まれた彼女が、寺に七日こもった。ちょうど十五夜の晩、湖に映る月を見て、物語の一場面を思いついた、と。寺の古い絵巻に、その姿が描かれています。
その絵巻では、物語を頼んだのは、彼女がのちに仕える中宮です。けれど、彼女自身の言葉で残っているのは、ぼんやり空を眺め、気の合う人と物語をめぐる手紙をかわした年月のほうでした。
1006年か、その次の年。旧暦の十二月二十九日の夜に、彼女は初めて宮中に上がります。
仕える先は、道長の娘で、一条天皇の中宮となっていた彰子でした。
初めて宮中を見たときの歌も、歌集にあります。
「わが身のつらさは、心の中についてきて、今、この宮中で、思い乱れている」
宮中で身分の高い人に仕える女性たちを、女房と呼びます。
その女房たちは、新しく来るこの人のことを、会う前から憎んでいました。