宮本武蔵 — 世に逢あわなかった名人

六十回あまりの勝負に一度も負けず、最後の手紙に「無念」と書いた剣の名人の、強がりで不器用な一生

鰐口わにぐちの綱つな

「三十を過ぎて振ふり返ってみると、兵法を極めたから勝ったのではなかった」

六十歳の男が、自分の書いた本の初めに、そう書いています。

十三歳から二十八、九歳まで、六十回あまり勝負をして、一度も負けなかった。そう書いたすぐあとで、彼かれは勝てた理由を自分で探しはじめるのです。生まれつき、この道の才があったからか。天の理から外れなかったからか。それとも、相手の流派のほうが足りなかったからか。

へりくだっているのか、自慢じまんしているのか。読んでいるほうが、分からなくなります。

書いたのは、宮本武蔵みやもとむさし。本の名は『五輪書ごりんのしょ』といいます。

生まれた年も、生まれた土地も、資料によって違ちがう人です。ただ、父とうまくいかなかったことは、のちの聞き書きに残っています。

幼い武蔵は、兵法者だった父のやり方を見下して、いつもけなしていた。怒おこった父が小刀を投げつけると、武蔵は顔をそむけてよけ、小刀は後ろの柱に突つき立った。父の腹立ちはおさまらず、九歳の武蔵は家を出て、播磨はりまで僧そうになっていた母方の叔父おじの庵いおりへ移った、と伝えられます。

最初の勝ちは、その四年後、十三歳のときでした。

同じ聞き書きによれば、播磨の浜辺はまべに、新当流しんとうりゅうの有馬喜兵衛ありまきへえという兵法者がやって来ました。囲いを組み、金で飾かざった高札こうさつを立てる。望む者があれば、試合をいたす。

手習いの帰りにそれを見た少年は、筆で高札に墨すみを塗ぬりつけた。そして、どこそこに住む宮本辨之助べんのすけが明日試合をする、と書きつけて、庵へ帰ったといいます。辨之助は、武蔵の子どものころの名です。

夕方、喜兵衛きへえの使いが来ました。お望みどおり、明日試合をいたそう。

驚おどろいたのは、叔父の僧でした。子どものいたずらですから、どうか許してほしい。喜兵衛の宿まで出向いて、そう詫わびた。

喜兵衛の答えは、こうだったそうです。高札に墨を塗られたままでは、こちらの面目が立たない。明日、大勢の前で、子どものいたずらだと言ってくれれば、それでいい。

翌日、叔父が連れていこうとすると、少年は、よけいな骨折りをなさるものだ、と言った。そして脇差わきざしを一本さし、縁えんの下の薪まきの中から、六、七尺(二メートルほど)の棒を引き出して、杖つえにして歩いていったと伝えられます。

囲いのまわりには、山のように人が集まっていた。叔父が喜兵衛に、子どものことですから、と詫びている、その最中でした。

少年は囲いの戸を押おし開けて、声をかけたといいます。

「喜兵衛とは、そなたか。さあ、試合をしよう」

走りかかって、棒で打ちつける。喜兵衛も刀を抜ぬいて斬きりつけた。しばらく打ち合ったあと、少年は棒を捨てて相手のふところにもぐり込こみ、組みついて頭の上まで持ち上げ、逆さまに投げ落とした。そして棒で、十四、五回打った。喜兵衛は、その場で死んだと伝えられます。

このとき少年は、こう思ったとも書かれています。命を捨てて踏ふみ込んで打てば、勝てない敵はいない。

武蔵自身は、この日のことを『五輪書』に一行しか書いていません。有馬喜兵衛という兵法者に、打ち勝った。それだけです。

十六歳で、但馬たじまの秋山という力の強い兵法者に勝った。二十一歳で京へのぼり、天下の兵法者に会って何度も勝負したが、勝たなかったことは一度もない。『五輪書』は、そう続けます。

京で相手にしたのは、吉岡よしおかという名高い兵法の家でした。のちの伝記によれば、跡取あととりの清十郎せいじゅうろうは真剣しんけん、武蔵は木刀で立ち合い、一撃いちげきで倒たおした。清十郎は息を吹ふき返したものの、面目が立たないと思ったのか、兵法を捨て、髪かみをそってしまったといいます。弟の伝七郎でんしちろうも、その後の勝負で命を落としたとされます。

残った門弟たちは、清十郎の子、又七郎またしちろうを立てて、数十人で武蔵を討とうとした、と伝記は続けます。場所は、京のはずれ、一乗寺いちじょうじの下り松さがりまつ。

それを聞いた武蔵の門人たちは、一緒いっしょに行かせてほしいと言った。武蔵は断ったと伝えられます。大勢を連れて戦えば、徒党を組んだことになる。それは、お上が固く禁じていることだ。

これまでは、約束に遅おくれて行って勝ってきた。今度は、先に行く。

まだ鶏にわとりが鳴くころ、武蔵はひとりで出かけていったそうです。

途中とちゅうに、八幡はちまんの社やしろがありました。

神前には、鰐口わにぐちが下がっている。お参りする人が綱つなを振って打ち鳴らす、平たい鈴すずのようなものです。

伝えによれば、武蔵は、その綱をつかんだ。鳴らそうとした、そのときでした。

舟ふねは、お断りします

鰐口わにぐちは、鳴りませんでした。

ふと、思い出したのだと伝えられます。自分は、神仏を尊びはしても、神仏を頼たよりにはしない。いつもそう誓ちかってきたではないか。

それなのに、いざ命がかかったら、すがろうとした。

なんと情けない心だ。社やしろの前を下りると、恥はずかしさがこみ上げ、汗あせがかかとまで流れた、といいます。

下り松さがりまつで待っていると、又七郎またしちろうの一行がやって来た。武蔵は大声で呼びかけたと伝えられます。

「やあ、又七郎。待ちかねたぞ」

そのまま大勢の中へ斬きり込こみ、袖そでに矢を一本受けただけで、相手を切り崩くずして引き上げたそうです。

勝ったのは、宮本武蔵みやもとむさしでした。

けれど、のちに彼かれが人に話したこととして伝わっているのは、勝った話ではありません。

「いざというときに、心を変えずにいるのは難しい。あぶなく、神に頼むところだった」

そう語ったと伝えられます。一度も負けなかった男の言葉として残ったのは、自分の負けかけた心のほうでした。

それから八年。1612年、武蔵は二十九歳になっていました。

次の相手は、巌流がんりゅうと名のる佐々木小次郎ささきこじろう。九州の小倉こくらで、殿様とのさまの細川ほそかわ家に召めし抱かかえられていたと伝わる、名の知れた剣けんの使い手でした。

伝記によれば、武蔵は小倉に来て、細川家の家老、長岡佐渡ながおかさどを頼りました。佐渡さどは、武蔵の父に剣を習った人です。佐渡が殿様の忠興ただおきにかけ合って、小次郎こじろうとの立ち合いが許された。場所は、海に浮うかぶ小さな島、船島ふなしま。のちの巌流島がんりゅうじまです。

ところが、試合の前の晩、武蔵の姿が消えます。

町じゅうを探しても見つからない。小次郎の腕前うでまえを聞いて、怖こわくなって逃にげたのだろう。人々はそう言い合った、と伝えられます。

武蔵がいたのは、海をはさんだ下関しものせきの、問屋といやの家でした。そこから佐渡に、一通の手紙を届けています。

明日は、あなた様の舟ふねで島へ渡わたしてくださるとのこと。お心づかい、ありがたく存じます。

けれども、今回、小次郎と私とは、敵どうしです。小次郎は忠興様の舟で、私はあなた様の舟で渡されるというのは、ご主人に対していかがなものかと存じます。そう書いたうえで、こう念を押おしている。

「御舟おふねのことは、幾重いくえにもお断り申し上げます」

明日の朝は、こちらの舟で渡ります。少しも差しつかえはありません。

逃げたと噂うわさされていたその晩、武蔵は、舟の筋道について、ていねいな断りの手紙を書いていたのです。

翌朝、日が高くなっても、武蔵は起きなかったと伝えられます。

宿の主人が気をもんで時刻を告げても、動かない。小倉から使いが来ると、まもなく参る、とだけ返したといいます。

それからようやく起きて手を洗い、飯を食べると、主人に頼んで舟の櫓ろをもらい、それを削けずって大きな木刀にした。その最中に、早く渡るようにと、二度目の使いが来たそうです。

島では、小次郎が待ちくたびれていました。のちの伝記によれば、小次郎は刀を抜ぬくと、鞘さやを水の中へ投げ捨てた。武蔵は笑って言ったといいます。

「小次郎、負けたぞ。勝つ者が、どうして鞘を捨てるものか」

怒おこった小次郎が、真っ向から打ちかかる。武蔵の木刀が、小次郎の頭をとらえた。小次郎の切っ先は、武蔵の鉢巻はちまきの結び目をかすめたのか、手拭てぬぐいは二つに分かれて落ちた、と伝えられます。

倒たおれた小次郎のそばで、武蔵は木刀を捨て、手を相手の口と鼻にあてて、顔を寄せた。息があるかどうかを、しばらく確かめていたそうです。それから、遠くの検使けんし(見届け役)に一礼し、舟に飛び乗って、下関へ帰っていった。

小次郎の命は、戻もどりませんでした。

のちに、それをそしる人たちがいた。勝負がついたのに、とどめも刺ささず、さっさと逃げ帰った、と。武蔵は笑って、こう答えたと伝えられます。

「あの男と私が争ったのは、ただ剣の腕うでを比べることだけだ。どうして恨うらみ憎にくんで、勝ったあとに刺し殺すことがあろうか」

そして、こう続けた。あの男が生き返っていれば、それは幸いだった。不幸にも、私の手で死んだ。まことに惜おしい。

六十回あまりの勝負は、二十八、九歳までのことだ、と『五輪書ごりんのしょ』は書いています。

一度も負けなかった男は、そのあと、どこかの家に仕えたのか。

二十八年後、五十七歳の武蔵は、ある殿様の役人にあてて、こう書くことになります。

「私はこれまで、奉公人ほうこうにんとして仕えた先は、一つの家中もございません」