正岡子規 — 欲張りな病人
友に蒲焼の勘定を回し、弟子に断られ、寝たきりで叫んだ。それでも欲張りだった俳人
俳魔に魅入られて
「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである」
六尺は、およそ1.8メートル。布団一枚ぶんの長さです。
手を伸ばせば、畳にさわることはできる。けれど、布団の外まで足を伸ばして、体をくつろがせることはできない。1902年5月、新聞『日本』に、そう書いた男がいました。
六年のあいだ、世の中も知らずに寝ていた病人だ、と自分のことを書いています。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤。それでも生きていれば、言いたいことは言いたいものだ、とも。
話は、その十三年前に戻ります。
1889年5月の夜。東京・本郷の学生寮で、21歳の若者が、たくさんの血を吐きました。
正岡升。伊予の松山から東京へ出てきて、6年目の学生です。
このとき彼は、時鳥を題に句を作り、自分に新しい名前をつけました。子規。これも、ほととぎすのことです。ほととぎすは、口の中の赤い鳥です。
ところが、この学生は、学校に行かない人でした。
同じ年に知り合った友人の夏目漱石は、のちにこう語っています。
「正岡という男は一向学校へ出なかった男だ」
ノートを借りて写す手間もかけない。試験が近づくと漱石を呼び、ノートのあらましを話させる。いいかげんに聞いて、よしよし分かった、と丸のみにしたそうです。
大学に進んだ1891年の試験では、とちゅうで頭の具合が悪くなり、残りの試験を受けないまま松山へ帰ってしまいました。残りは、9月に受けなければなりません。
東京の住まいは書生が群がるやかましい所で、勉強にならない。そこで彼は、国もとから特別に養生費を出してもらい、大宮の公園にある万松楼という宿へ出かけます。
松林の中の、静かで涼しい宿でした。うまいものは出る。ちょうど萩の盛り。愉快で愉快でたまらない、と本人が書いています。
昼は松林を歩き回り、くたびれると宿に戻って、句ばかり考える。試験の準備には、手もつけませんでした。
この楽しさを一人じめするのは惜しい。そう思って、友人を手紙で呼びます。漱石も呼ばれました。
漱石の覚えでは、手紙は「すぐ来い」でした。行ってみると、きれいな宿の奥座敷に陣取って、威張っている。鶉か何かを焼いたのを、ごちそうしてくれたといいます。
正岡は金のある男なのだ、と漱石は思ったそうです。ところが実は、家の財産を食いつぶしていたのだと、あとで知りました。
大宮にいたのは十日ほど。試験の準備は、少しもできなかった。
「しかしこの時の試験もごまかして済んだ」
本人は、そう書いています。
その年のうちに、彼は駒込に一軒の家を借りて、一人で住みはじめました。とても静かで、勉強にはうってつけの家です。
ところが、学校の勉強はできない。俳句と小説の勉強ばかりになりました。
試験の二日ほど前になると、机のまわりの俳句の本を残らず片づけて、試験に要るノートだけを置く。散らかり放題だった机が、すっきりする。気持ちがいい。浮き浮きしてくる。
すると、俳句がのこのこと浮かんでくるのです。
ノートを一枚も読まないうちに、一句できた。句帳も紙も出していないので、ランプの笠に書きつけた。また一句。また一句。
あまりの面白さに、試験のことは放り出しました。とうとう、ランプの笠は句で埋まってしまいます。
「これほど俳魔に魅入られたらもう助かりやうはない。明治二十五年の学年試験には落第した」
1892年の試験です。落ちた理由も、本人が並べています。
歴史の講義には、少しも出なかった。出ても、ドイツ人の先生の英語が分からない。おまけに、歴史をまるで知らない。そのうえ試験には、ノートにないことが出たという。
落第もするはずさ、と彼は書きました。
「これぎり余は学校をやめてしまふた」
24歳でした。
それから九年後。寝たきりの床の上で、彼はこう書いています。
「余は今でも時々学校の夢を見る。それがいつでも試験で困しめられる夢だ」
お前を後継者と
ある年の松山。城の北の練兵場で、中学生たちがバットとボールで遊んでいると、東京帰りの書生が何人かやって来ました。
その中心にいるらしい一人が、借りたバットで、鋭いボールを飛ばしはじめる。そのボールが一度それて、見ていた中学生の前に転がってきた。
少年が拾って投げ返すと、その人は軽く「失敬」と言って受け取った、と少年はのちに書いています。その一言が、なぜか人の心を引きつける声だった、とも。
少年は、のちの俳人、高浜虚子。ボールの人が子規だと知ったのは、あとのことでした。
子規は、虚子と、仲間の河東碧梧桐を連れ歩くようになります。ある晩は、汽車があるのに「歩いて帰ろうや」と言い出し、一里半(6キロ)の夜道を歩きながら、二人に連句の作り方を教えたといいます。
1892年、大学をやめた子規は、新聞『日本』に入ることが決まりました。家族を東京に呼ぶために国へ帰るとちゅう、京都の下宿にいた虚子を、いきなりたずねます。
宿の庭石にハンカチを広げ、前の日に取ってきた紅葉を小石でたたいて、色を写す。嵐山では船にごちそうと酒を積ませ、川をさかのぼりながら、積んだものがなくなるまで、これからの望みを語り合ったそうです。
あのときほど身分不相応の贅沢をしたことはない、と子規はのちに言いました。
やがて虚子も学校をやめ、東京へ出てきます。ところが、何を書いていいか分からない。やっと見せた文章を、子規は「こりゃ文章になっておらん」と切りすてた、と虚子は書いています。
1895年。日本と清の国の戦争が続いていました。
子規は、記者として戦地へ行くと言い出します。
新聞『日本』の社長、陸羯南は、子規の体を心配して、なかなか許さなかった。子規は何度も何度も頼みこみ、とうとう新聞社が特別に送り出すことになった、と仲間の内藤鳴雪は書いています。
着いたころには、戦争はもう終わりかけていました。
そして帰りの船で、子規は血を吐きはじめます。
甲板に出られるあいだは、海に吐いた。寝たきりになってからは吐く場所がなく、みんな飲みこんでいた。のちに子規は、虚子にそう話したそうです。
1895年5月、子規は神戸の病院に入院します。社長の電報を受けて、虚子が駆けつけました。
病室には、血なまぐさいにおいが満ちていた。寝台の子規の顔は、すきとおるように青白い。指を少し動かして虚子を招き、耳を寄せると、聞きとれないほどの声でささやいたと伝えられます。
「血を吐くから物を言ってはいかんのじゃ。動いてもいかんのじゃ」
それでも、血は止まらない。虚子によれば、氷嚢で胸を冷やしつづけたのは、子規自身の考えでした。ガーゼも当てずに、じかに押しつける。とうとう凍傷を起こします。
若い医者が来て、こう言ったといいます。
「こんな馬鹿をしては凍傷を起こすのは当然だ。いくらあせったって止まる時が来なけりゃ血はとまりゃしない。出るだけ出して置けば止まる時に止まる」
やせ細った顔で、子規はめずらしく、心から満足したように笑ったそうです。
病床のいちばんの慰めは、食べ物でした。虚子の回想では、虚子と碧梧桐が毎朝交代で、山手の苺畑へ苺を摘みに行き、枕もとへ届けました。
やがて子規は、須磨の保養院へ移ります。病院を出るとちゅうでヘルメットの形の帽子を買い、ひげを伸ばしたその姿は、前とは別人のようだった、と虚子は書いています。
保養院の子規は、生き返った喜びにあふれていた、と虚子の目には見えました。須磨寺でそばを食べれば、そのよく食べることといったら、虚子がとてもかなわないほどでした。
虚子が東京へ帰る前の日の夕食。子規は特別の皿を一つ二つ注文し、改まって話しはじめました。言葉どおりではなく、およそこんな意味の話だった、と虚子は断っています。
今度の看病の恩は、長く忘れない。命は取りとめたが、この先何年生きられるかは分からない。自分には子どもがない。
「自分はお前を後継者と心に極めて居る」
子規は、そう言ったといいます。ただし、学校をやめてからのお前は落ち着きがない。碧梧桐と一緒だと、すぐだめになる。これからは別に住んで、静かに学問をしなさい。
虚子は、光栄だと感じた。同時に、身に余る重い荷物を両肩に背負わされたような、窮屈さも覚えた。きっぱり断る勇気はなく、ただぼんやりと聞きながら、うなずいていた、と書いています。
その夜、蚊帳に入ってからも、子規は興奮して、なかなか眠れそうにありませんでした。
虚子は、話もろくに耳に入らないうちに、眠ってしまいました。