牧野富太郎 — 惜しまなかった人
酒屋の財産も、妻の苦労も、草に注ぎ込んだ。94歳まで植物から離れなかった男の、困った一生
誠太さんには困る
「押えるだけは自由に押えて行け」
家財を差し押さえに、執達吏(裁判所の役人)が来る。そのたびに彼は一向に気にせず、胸の内でそう構えて、すぐそばの机で植物の記事を書いていた。のちに本人が、そう書いています。
牧野富太郎。東京の大学で、植物を調べていた男です。給料は、家族の食費にも足りませんでした。
けれど、もとは、お金に困ったことのない家の一人息子でした。
生まれたのは1862年5月22日(旧暦では文久2年4月24日)。土佐の佐川という山あいの町で、酒造りと小間物屋を営む、古い家でした。
物心がつく前に、父も母も病気で亡くなりました。両親の顔は、覚えていない。
「親の味というものを知らない」
後年の自伝の一行です。祖母が、酒屋を継ぐ大事な一人っ子として育てました。
ある日、番頭が、そのころはとても珍しかった時計を買ってきた。
男の子は、中が見たくてたまらない。時計をばらばらにして、納得がいくまで調べました。
「誠太さんには困る」
みんなが、そう言った、と自伝にあります。誠太郎は、彼の幼いころの名前です。
おかしなことは、ほかにもありました。酒屋の跡取りなのに、酒が生まれつき嫌いで、子どものころから飲まない。煙草も吸わなかった。
1874年、町に小学校ができると、彼も入りました。ところが二年ほどで、自分からやめてしまいます。
「嫌になった理由は今判らない」
のちの本人の言い分は、これだけです。家は酒屋だった。学問で身を立てようなどとは、少しも考えていなかった。
そのくせ、やめた小学校から先生になってくれと頼まれると、引き受けている。役名は授業生、月給は三円でした。
好きだったのは、草木です。家の裏の神社の山に登っては、植物を採ったり、眺めたりしていた。
もし父が長く生きていたら、きっと酒屋の帳場に座らされ、そこで年をとっていただろう。口を出す人がいなかったから、思うままに植物を独りで学べた。のちに本人は、そう振り返っています。
ある日、裏山で遊んでいると、親友の堀見克礼が駆けつけてきました。
「重訂啓蒙という本がきたぞ」
待っていた本です。江戸時代の学者・小野蘭山が、たくさんの植物の名前と姿を書いた本。借りた写本を書き写すのでは手間がかかりすぎて、店に取り寄せを頼んでいたのです。
彼は慌てて山を駆け下り、店へ走った。鬼の首でも取ったように喜んだ、と自伝にあります。それからは明けても暮れても、その本をひっくり返した。
山で白い花の草を見つければ、本で調べる。翌日もう一度山へ登って、本と実物を引き合わせる。そうやって、草の名前を一つずつ覚えていきました。
1881年4月。18歳の彼は、本と顕微鏡を買うために、初めて東京へ向かいます。
そのころの土佐の人にとって、東京へ行くのは外国へ行くようなものでした。盛大な送別を受けて、船に乗る。神戸の山々を見て、雪が積もっているのかと思ったら、木のない禿山だった。
東京では本屋で本を、器械屋で顕微鏡を買い、帰りは一人で伊吹山に登って植物を採った。服装は「田舎者丸出しの着物姿」だった、と本人は書いています。
郷里の佐川では、そのころ自由党がさかんで、彼も熱心な党員でした。けれど、政治で身を立てるわけではない。学問に打ち込もうと、党を抜けることに決めます。
ただ、黙って抜けたのではありません。紺屋に頼んで、化け物たちが火に焼かれて逃げていく絵の旗を作らせた。仁淀川の河原で自由党の大懇親会が開かれると、仲間十五、六人とその旗を巻いて乗り込み、弁士が熱弁をふるっている最中に、さっと旗を差し出した。そして大声で歌をうたいながら、会場を出ていった。
抜けるからには、気勢を挙げねばいかん。そう思ったのだ、と自伝にあります。
そのころ、郷里の家で、彼は一つの文章を書きました。題は「赭鞭一撻」。植物学を志す者の心得を、箇条書きにしたものです。
忍耐を要す。精密を要す。洋書を読まなければならない。図は自分で描けなければならない。植物学を修める者は、大小を問わず、植物園を一つ持たなければならない。
その中に、こんな一行があります。
「財ヲ吝ム者ハ植学者タルヲ得ズ」
本も器械も、お金がなければ手に入らない。だから、お金を惜しむ者は、植物学者にはなれない。
書いたのは、二十歳になるかならないかのころ。そのときの自分は「飽食暖衣」で、何の不自由もなかった。六十年以上たってから、本人はそう書き添えて、この一篇を一字も直さずに載せています。
教室にきてはいかん
1884年、富太郎はもう一度、東京へ出ました。今度は、学問をするためです。
下宿は飯田町。部屋はいつも、採ってきた植物と新聞紙と泥で散らかっていた。「牧野の部屋は狸の巣のようだ」とよく言われた、と本人は書いています。
彼は、どこの学校にも入りませんでした。小学校も、途中でやめたままです。
その男が通いはじめたのが、東京大学の植物学教室でした。当時は「青長屋」と呼ばれていた建物です。
教室の先生たち、矢田部良吉や松村任三は、四国の山奥からえらく植物に熱心な男が出てきたと、大いに歓迎した。教室の本も、標本も、自由に見てよい。学生でもないのに、まるで学生と同じように扱ってくれた、と本人は振り返っています。
彼は毎日のように教室へ通い、そして考えた。日本には、まだ、まとまった一冊の植物の本がない。それを、自分が作ろう。図なら、自分で描ける。けれど、印刷のやり方が分からない。そこで神田の小さな石版印刷屋に一年ほど通い、印刷の技術を習いました。
その石版屋の主人に、彼はもう一つ、頼みごとをしています。
大学へ行く道で、いつも前を通る小さな菓子屋がありました。その店の娘を、見染めていたのです。名は寿衛。十一歳年下でした。
一家は昔、大きな屋敷に住み、寿衛も娘のころは踊りや唄の稽古をしていたといいます。父が亡くなって屋敷も財産もなくし、母親が菓子屋で子どもたちを養っていました。
自伝によれば、彼は石版屋の主人に仲人を頼んで、その娘を嫁にもらいました。
「まあ恋女房という格ですネ」
のちの自伝の一文です。二人は根岸の離れ家を借りて、所帯を持ちました。
1888年11月、『日本植物志図篇』の第1集が出ます。図はすべて彼が自分で描き、石版印刷にした。お金も、全部自分で出しました。
松村は、植物学の雑誌に批評を書いて、これを褒めたたえた。
「今日ただ今、日本帝国の中で、この国の植物図志を著すべき人は、牧野富太郎氏ただ一人である」
ロシアの植物学者マキシモヴィッチも、その図を絶賛しました。
1890年5月、彼はヤナギの実を採りに、一人で東京の小岩へ出かけました。田んぼの用水池に、見たことのない形のものが浮いている。「はて、何であろうか」。すくい取って教室へ持ち帰ると、みんなが驚いた、と本人は書いています。
矢田部が本で学名を探して、世界でも珍しい、虫を食べる水草だと分かりました。ムジナモです。
同じ年、思いもよらないことが起きます。
その矢田部が、彼にこう言い渡した、と自伝にあります。
「自分もお前とは別に、日本植物志を出版しようと思うから、今後お前には教室の書物も標品も見せる事は断る」
彼は、富士見町の矢田部の家まで訪ねていった。日本には、植物を研究する人がとても少ない。その一人を締め出せば、日本の植物学の損になる。そう訴えて、こう頼み込みました。
「先輩は後進を引立てるのが義務ではないか」
矢田部は、頑として聞き入れなかった。
「自分が仕事をやる間は、お前は教室にきてはいかん」
彼は、大学の職員でも学生でもない。それ以上、言い張ることはできなかった。悄然と先生の家を辞した、と自伝にあります。
締め出された彼は、思い切ったことを考えます。ロシアへ行こう。
図を褒めてくれた、あのマキシモヴィッチのもとへ、集めた標本を全部持っていき、その仕事を助けよう。つては、ない。駿河台のニコライ会堂の教主に事情を話して頼むと、快く手紙を出してくれました。
返事が来ます。マキシモヴィッチは、彼が来ることを、とても喜んでいた。けれど手紙が着いたときには流行性感冒で寝ていて、まもなく亡くなった、という知らせでした。
もし行っていたら、自分の自叙伝も、まるで違うものになっていただろう。のちに本人は、そう書いています。
そのとき彼が作った漢詩が、残っています。
「人間万事不如意」
「天地茫茫知己無」
人の世のことは、何ひとつ思うようにならない。天も地も果てしなく広いのに、自分を分かってくれる人は、どこにもいない。
それでも、彼はやめませんでした。相手は帝国大学の教授、こちらは肩書のない一書生。横綱と褌担ぎの取組のようなものだ、と奮い立った。隔月だった『図篇』を、毎月出すことにしたのです。
その費用は、どこから出ていたのか。
暮らしの金も、本の金も、採集の旅の金も、出版の金も、すべて郷里から、どしどし取り寄せては使っていた。いつまでも続くはずはなかった、と本人も認めています。
1891年、郷里から、一度帰って家の財産を整理してくれ、と言ってきました。
彼は、土佐へ帰ります。
そして土佐で、植物とはまったく別のことに、夢中になってしまいます。