北里柴三郎 — 言うことを聞かない人

医者を見下していた青年が、世界の細菌学の先頭に立った。人の言うことを聞かない「雷」の一生

医者と坊主ぼうず

「医者と坊主ぼうずは、手足のそなわった一人前の人間のやる仕事ではない」

「生まれてこのかた、志は天下国家にある。ひたすら武を練り、文を学んで、今日まで来た。いまさら長袖ながそでの仲間になる気など、これっぽっちもない」

医学所に入ってはどうか。父にそうすすめられたころの青年は、こういう意気込いきごみだったと伝えられます。

長袖とは、長い袖そでの着物を着て、刀を差さない人たちのこと。医者や坊ぼうさんを指す言葉でした。父の話を聞いて、彼は途方とほうに暮れ、長いため息をついたといいます。

北里柴三郎きたさとしばさぶろう。肥後ひご(今の熊本県くまもとけん)の山あい、小国郷おぐにごうで、村々をまとめる総庄屋そうじょうやの家に生まれた長男です。

子どものころから、とにかく負けず嫌いでした。相手がだれでも、その性分を出して少しも遠慮えんりょしなかった、と伝記は書いています。

8歳からは、母の考えで、親戚しんせきの家に預けられて育ちます。伯母おばの家では毎日ていねいに縁側えんがわを掃除そうじしたので、縁側は美しく光るようになった。のちに彼の名が知られると、その家は縁側を大切に残したそうです。

母の実家がある豊後ぶんごの森もり(今の大分県おおいたけん)に預けられたときは、よその藩はんの子だからと、武芸を習わせてもらえなかった。彼は叔父おじに向かって、こう憎にくまれ口をきいたと伝えられます。

「森藩もりはんのような小さな藩の武芸など、習わなくていい。熊本くまもとに帰れば、五十四万石の武芸がある」

叔父を怒おこらせて、彼は小国おぐにの家に戻もどりました。戻るとすぐ、熊本で学ばせてほしいと父に願い出る。許されると、正月を家で迎むかえるのも待たず、夜明けに村を出た。阿蘇あその噴煙ふんえんを左に見て峠とうげを越こえ、十五里(およそ60キロ)の山道を一日で歩き通して、夕方には熊本に着いたといいます。

熊本の塾じゅくでも、本より剣けんでした。稽古けいこ道具を肩かたにかついで道場へ通い、先生に眉まゆをひそめられた。夜中まで仲間と世の中のことを論じ、いずれは軍人になるつもりでいました。

ところが、その道はふさがれます。藩の秀才しゅうさいを集める大阪の兵学校に応じようとすると、両親も親戚も、こぞって止めた。長男が軍人になってどうする。家の田畑を荒あらすつもりか。

人の忠告などめったに聞かない彼も、このときばかりは形勢が悪いとさとり、軍人の夢を胸にしまったといいます。医学所の話が出たのは、そのあとでした。

さんざん考えて、彼は一つの方便を思いつきます。新しい世の中の学問は、オランダの学問から始まった。医学所に入ったからといって、医者にならなければならない理由はどこにもない。オランダ語を学びながら、じっくり機会をうかがえばいい。伝記によれば、彼はそう考えて入学を決めたのです。

1871年、柴三郎しばさぶろうは熊本にできた医学所に入りました。教えていたのは、オランダ人の医師マンスフェルトです。

マンスフェルトは、この生徒に目をかけます。毎夕、自分の住まいに招いて、オランダ語だけでなく地理まで教えた。そこまで教わったのは、生徒の中で柴三郎ひとりだったといいます。

あるとき、先生は尋たずねたそうです。

「君は本当に、医者になるつもりで勉強しているのか」

信頼しんらいしている先生でした。柴三郎は正直に打ち明けます。両親や親戚に反対されて、しかたなく医者のふりをしている。ここへ来たのは語学のためで、ゆくゆくは軍人か政治家になるつもりだ、と。

マンスフェルトは、こう答えたと伝えられます。

「人の志は、曲げられない。けれど、今日一日も、むだに過ごしてはいけない。医学だって、決して役に立たない学問ではない」

ある日の、体の組織を調べる実習でのことです。顕微鏡けんびきょうの下で大きく見える組織のひとかけらを見つめているうちに、柴三郎は、なぜか異様な興奮をおぼえたそうです。

医学もまた、学ぶに足る。

このとき初めて、そう感じたものらしい、と伝記は書いています。それからの彼は、いっそう勉強に打ちこむようになりました。

1874年、任期を終えたマンスフェルトが、熊本を去ることになります。別れぎわに、先生は言ったそうです。

「ぜひ東京に出て、大学に入りなさい。東京の大学を終えたら、ヨーロッパに来なさい。そのときは、君のために力を貸すのを惜おしまないだろう」

先生を見送ると、柴三郎はすぐに、東京へ出ると決めました。

家に、学資を送る余裕よゆうはありません。両親は、見てのとおりの財産だから学資は送れない、体ひとつもらったつもりで勉強しろ、と言い渡したといいます。母は、もっときびしかった。

「学問が成るまでは、お前ひとりはいないものと思っている。家のことは、少しも考えるな」

その年の9月、21歳の柴三郎は東京に着きました。

東京の彼のもとには、ときおり、母が手織りした季節ごとの着物の包みが届きました。

その包みの中に、ときどき、小遣こづかいが封ふうじてありました。

命令ではなく

東京医学校の寄宿舎は、乱暴者だらけでした。

まかないの飯に文句をつけて騒さわぐ。そろって授業を休む。夜中に窓から鍋焼なべやきうどんを呼び、籠かごを下ろして受け取ったまま、代金を払はらわない。そんな悪さは数えきれなかった、と伝記は書きます。柴三郎しばさぶろうも、その「乱暴仲間」の一人に数えられていました。

やがて彼は、学生の集まり「同盟社」をつくって、その主将になります。男は弁が立たなければならない、と毎週土曜に演説会を開き、政治や外交や軍事を論じた。

シュルツという外国人の教授が、講義の要点を印刷して配っておき、まだ講義していないところを試験に出したことがあります。柴三郎は先に立って、同級生と誓ちかい合いました。講義の終わっていないところを聞かれたら、だれも答えない。

試験が始まると、約束どおり、だれも答えません。最後になって、何人かが約束を破りました。

たくらみに気づいたシュルツは、ひどく怒おこって言い放ったといいます。

「だれそれのほかは、医者になれる見込みこみがない。今日かぎり、大学を去るがよかろう」

そして授業を放り出して出ていった。学生たちは足を踏ふみ鳴らし、手をたたいて囃はやし立てたそうです。

(医者になれる見込みがない、か。こっちはもともと、医者になる気などないのに)

騒ぎは、学長が間に入って、どうにか収まりました。

勉強より同盟社のことで走り回っていたのに、成績は真ん中より下にはならなかった。自分で学資をかせぎながら、郷里から弟を呼び寄せて、その学費まで出していたといいます。

1883年、東京大学医学部を卒業します。入学したとき130人あまりいた同級生は、20人あまりになっていました。柴三郎は30歳でした。

同級生の多くは、月給200円ほどの地方の病院長として、喜んで散っていきました。柴三郎には、その気持ちが分からなかった。大学で習ったくらいの知識と経験で、あらゆる病気を診みて治せるものだろうか。そう疑った、と伝記は書いています。

本当に行きたいのは、ドイツでした。けれど、自分で食べていかなければならない身で、当てはありません。

選んだのは、国の衛生を受け持つ、内務省の衛生局です。医学で国を治す仕事。これこそ自分の志に近い、と膝ひざを打ったといいます。

待遇たいぐうを聞いて、彼はおさまりませんでした。卒業したての医学士は、決まりで「判任はんにん待遇の雇やとい」という低い身分、月給70円。同じ年に病院長から引き抜ぬかれた後藤新平ごとうしんぺいは、一つ上の扱あつかいで80円でした。

柴三郎は局長の長與専斎ながよせんさいに、こう申し立てたと伝えられます。

「私はご存じのとおり最高学府を卒業した者で、後藤ごとうらとは教養がちがいますから、その下に立つことはできません」

長與ながよに言い聞かされると、彼は答えました。

「それなら、規程に従いましょう」

給料が不満だったわけではない、と伝記は書きます。200円の病院長を断った身です。ただ、この若いのは扱いやすくないぞ、と、はじめに示しておきたかったのだ、と。

後藤とは、それから役所でにらみ合いが続いたようです。学のない田舎いなか医者が上にいるのはけしからん。横文字を振ふり回すだけの若造め。おたがいに、そう見下していたらしい、と伝記はいいます。

1884年、上役二人の東北・北海道の視察に、柴三郎はお供として三か月あまりついていきました。二人とも医学は素人しろうとで、役人風を吹かせての大名旅行だったそうです。

秋田でのこと。秋田の新聞で筆をふるっていた犬養毅いぬかいつよしが宿を訪ね、衛生の講演会を開くから、ぜひお二人に話してほしい、と申し入れました。

断るわけにはいかない。けれど二人には、衛生の話などできない。そこで次の間に控ひかえていた柴三郎を呼び、明日は代わりに講演してくれたまえ、と半ば命令するように頼たのんだのです。

柴三郎は、その場で断ったと伝えられます。

「自分はただの随行員ずいこういんで、内務省の本官ではありません。公の席でお二人に代わって演説するのは、越権えっけんというものです」

二人が困り果て、ひたすら頼みこんできたところで、彼は念を押おしました。

「命令ではなく、懇願こんがんなさるのですな」

そして、一つ条件を出して引き受けた。

翌日、講演のあとに、講師をねぎらう宴会えんかいが開かれました。正面の上座に招かれたのは、柴三郎。犬養いぬかいたちは彼を手厚くもてなし、末席の上役二人を、まるでいないかのように扱った。

それが、柴三郎の出した条件でした。

役所での本当の楽しみは、別のところにありました。衛生局の試験所で緒方正規おがたまさのりの助手になり、ツァイスの顕微鏡けんびきょうが3台並ぶ部屋で、細菌学さいきんがくを学びはじめました。役所の雑用から逃のがれて、ようやく学者らしい暮らしに入ったのです。

1885年、ドイツへの留学の話が舞まいこみます。もともと別の一人に決まりかけていたところへ、省内に北里きたさとがいるではないか、という声が上がった。予算が許さないと言い張る役人を、上の人たちが押し切って、二人を送ることになりました。

その年の11月、柴三郎はフランスの汽船で横浜よこはまを出ます。生まれつき船に弱く、40日の船旅のあいだ、船の遅おそさをこぼしてばかりいたそうです。

1886年1月、ベルリン。着いた翌日、医者になる見込みがないと言われた男は、細菌学の第一人者、ローベルト・コッホの前に立ちました。

その日の北里について、コッホはのちに、こう言っていたそうです。

「私はそのとき、北里がドイツ語をよく話すのに驚おどろいただけだった」