石川啄木 — 正直な嘘つき
結婚式に現れず、友に借りては暮らし、家族を待たせた。「あの頃はよく嘘を言ひき」と自分で書いた歌人の、飾らない26年
花婿のいない結婚式
「あの頃はよく嘘を言ひき。 平気にてよく嘘を言ひき。 汗が出づるかな。」
二十代の半ばになった男が、昔の自分を思い出してよんだ短歌です。
あの頃とは、いつのことか。どんな嘘だったのか。歌は何も説明しません。ただ、思い出すと汗が出る、とだけ言っている。
歌の主は、石川啄木。本名を石川一といいます。
1886年、岩手の寺の息子として生まれ、渋民村という村で育ちました。姉が二人に妹が一人。男の子は、彼ひとりでした。
頭はよかった。けれど盛岡の中学で上の学年に進むころには、詩と恋のほうに気持ちが向いてしまう。授業を抜け出したことは、本人がのちに歌にしています。
「教室の窓より遁げて ただ一人 かの城址に寝に行きしかな」
試験では二度、不正をした。16歳で中学をやめ、書くことで食べていくつもりで東京へ出ます。仕事は見つからず、迎えに来た父に連れられて村へ帰りました。それでも、詩だけは認められていく。雑誌『明星』に詩が載り、「啄木」と名のるようになり、1905年5月、19歳で最初の詩集『あこがれ』を出しました。
天才少年詩人。そう呼ばれた時期です。
ずっとあとになって、本人は、そのころの詩の作り方を打ち明けています。
ちょっとした空き地に、一丈(3メートルほど)の木が立っていて、日が当たっている。それを見て何かを感じても、そのままでは書けなかった。空き地を広い野原にし、木を大木にし、日を朝日か夕日にする。見ていた自分を、詩人にし、旅人にする。そうしなければ、自分でも満足できなかった、と。
詩集が出る少し前、故郷の寺では、父が住職の座を失っていました。前の年の暮れのことで、宗派に納めるお金を滞納したためです。春には、一家は寺を出て盛岡へ移ります。
同じころ、結婚の話がまとまっていた。相手は堀合節子。中学のころから付き合ってきた人です。5月12日、節子は石川家の籍に入りました。本人は、まだ東京にいた。
盛岡では、帰ってくる啄木のために、結婚式の用意がされていました。式は5月30日の予定でした。
5月、啄木は詩集を手に、東京を発ちました。ところが、途中の仙台で降りたまま、10日ほど動かなかった。
式の日になっても、帰ってこない。
結婚式は、花婿のいないまま行われました。
なぜ戻らなかったのかは、はっきり分かっていません。
このころ、中学時代からの仲間たちの会は、啄木に絶交を言い渡しています。お金のことで、不義理が重なっていたといいます。
それでも節子は、この結婚をやめませんでした。
6月4日、啄木はようやく盛岡に帰ってきました。父と母と妹、そして妻。一家の暮らしが、19歳の肩に乗りました。
そのときのことを、本人はのちにこう書いています。
「何の財産なき一家の糊口の責任というものが一時に私の上に落ちてきた」
そして、そこから先の自分を、ひと言で呼んでいる。
「責任に対する極度の卑怯者」
北へ、北へ
1906年の春、啄木は妻と母を連れて、渋民村に戻りました。母校の小学校で、代用教員の職を得ます。教員の資格を持たない、臨時の先生です。
教え子の一人は、夜ごと先生の家に押しかけ、日曜には朝から話をせがんだと、のちに振り返っています。本人は友人への手紙に、こう書きました。「小生は蓋し日本一の代用教員ならむ」。そして、「この小さき自負を公言するをゆるせ」と添えている。
年の暮れには、長女の京子が生まれました。
その一方で、啄木は、父を元の寺に戻そうと動いていました。けれど、うまくいかない。暮らしは苦しくなるばかりでした。1907年の冬の終わり、父は家族に黙って、夜のうちに家を出ていきました。
啄木も、村を出ると決めます。
ところが、そのまま静かには去らなかった。4月、校長への反感から、高等科の子どもたちにストライキをさせたのです。まもなく、彼は免職になりました。
「石をもて追はるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし」
石を投げられて追われるように、故郷を出た。のちにそう歌った旅立ちのきっかけの一つは、自分で起こした騒ぎでした。
5月、啄木は海を渡り、北海道の函館に着きます。そこには、彼の詩を読んでいた若い文学仲間がいました。その一人が、宮崎郁雨です。家は味噌や醤油を造る店で、啄木と同じ年ごろ。このあと郁雨は、お金でも気持ちの面でも、啄木を支えることになります。
小学校の代用教員の口を得て、夏には岩手から妻と娘と母を呼び寄せ、新聞社でも働き始めた。そして8月25日、函館の町を大火が焼きます。勤めていた小学校も、新聞社も燃えました。
4年後、病院のベッドから、啄木は郁雨に手紙を書いています。函館の日々を、こう振り返った。
「予は函館にゐる間、心ゆくばかり函館を愛しまた愛された。」
函館を去ったのは「火事といふ全く偶然の出來事の爲」だった、とも。
ここから、北海道を渡り歩く日々が始まります。
9月、札幌。のちに童謡の詩人として知られる野口雨情が、この月に初めて啄木に会ったときのことを書き残しています。
朝早く、下宿の女中に起こされた。客が来ている。着古した浴衣に、色のさめた夏羽織。頭は短い丸刈り。女中は、どこかの寺の坊さんだと思ったそうです。
雨情が顔を洗って戻ってくると、男は雨情の巻きたばこを吸っていた。
「実は昨日の夕方から煙草がなくて困りました」
売っていないのか、と雨情が聞く。売ってはいるが、買う金がなくて買えなかった。啄木はそう答えて、大きな声で笑ったと、雨情は書いています。こういうとき、啄木はいつも大声で笑ったそうです。
札幌の新聞社には、2週間もいなかった。9月の終わりには、小樽にできる新しい新聞社へ移ります。小樽には、家族も先に移ってきていました。
その新聞社で、啄木は社内でもめ、殴られます。函館で啄木が勤めた新聞社の経営者だった斎藤大硯も、このころ小樽にいて、この日の啄木のことを書き残しています。大硯の前に現れた啄木は、笑っていた。腹を抱えるほどの大笑いです。その頭には、大きなこぶが二つもできていたといいます。
12月、啄木はその新聞社を辞め、職のないまま小樽で正月を迎えました。
大硯の書くところでは、啄木の借家は、畳の入っていない部屋まである家でした。それでも、訪ねてくる客には、番茶をそのつど焙じて出していたらしい。年始の挨拶に着ていく紋付の羽織にいたっては、二人で一枚しかなかった。どちらかが挨拶回りを済ませるたびに、もう一人のところへ届けて回したそうです。
1908年1月、啄木は家族を小樽に残して、東の釧路の新聞社へ向かいました。
そこで、ある年配の人が、彼を人に紹介した。「新体詩人です」。好意からの紹介でした。けれど啄木は、そのときほど人の好意から侮蔑を感じたことはなかった、と書いている。
4月、啄木は釧路を船で離れ、函館へ戻りました。そこには、郁雨がいました。
東京へ出て、小説を書きたい。啄木がそう打ち明けると、郁雨は、残る家族を引き受けてくれました。自分の家が持つ貸家に、妻と娘と母を住まわせることにしたのです。啄木は郁雨から十五円を受け取って小樽へ行き、一家四人で汽車に乗って、函館へ戻ってきました。
1908年4月の終わり、啄木はひとりで函館を発ち、船で東京へ向かいます。
小説が売れるようになったら、すぐに家族を東京へ呼ぶ。啄木は、そのつもりでした。