人見絹枝 — 超然ちょうぜんとなんか、できなかった

負けた顔を見られるのが、いちばんこわかった。旗の下で泣き、本が売れれば喜んだ、日本の女性で初めてオリンピックのメダルを取った人の24年

たった一人の入場式

「勝てば日本の人は盛んに迎むかえてくれる。でも私は、負けることがわかっている」

「負けたとき、日本の人は、私の友は、先輩せんぱいは、後輩こうはいは、どんな顔で私を見るだろう」

十九歳(数えでは二十歳はたち)の彼女かのじょは、これがいちばんこわかった、とのちに書いています。

大阪おおさかの土地も、生まれた岡山おかやまの土地も、父と母も、姉の顔も、これが別れだと思った。死出しでの旅に出るような気持ちだった。寝ねても眠ねむれない不安な日が、一か月続いた。

人見絹枝ひとみきぬえ。1926年、大阪毎日新聞社おおさかまいにちしんぶんしゃで記事を書きながら、陸上競技の選手として走っていた人です。日本の大会では、次々に記録を出していました。

その年の8月、スウェーデンのイエテボリで、女子だけの国際大会が開かれる。日本から出る選手は、彼女ひとりでした。

ほかの国の女子選手が、どんな人たちなのか。槍やりはどう投げ、円盤えんばんはどんな形で投げるのか。何も知らなかった、と本人は振ふり返っています。

「私はまったくの無知だった」

1926年7月8日、午後8時。大阪駅おおさかえきのホームで、発車のベルがけたたましく鳴っていました。

汽車が動き出そうとしたとき、見送りの木下きのした博士が言った。その言葉を、彼女はのちに、自分の本に書き残しています。

「人見ひとみさん、もうそんな寂さびしい顔はやめてくれ。先生だって、年の若い娘むすめひとりを旅立たせるのは心配だ」

「しかし君も二十歳だ。この大任を果たして帰る日が、きっとあると思う。僕ぼくはあなたに何か餞別せんべつをしてやりたいが、これといってあげるものがない」

そのかわりに、博士は彼女のためにユニホームとパンツを作っていました。

「これは先生だと思って、向こうへ行って身に付けて、競技場で奮闘ふんとうしてくれ」

それから、もう一つある、と続けた。

「向こうに行けば、ただ一人の日本人である黒田くろだ氏にも話せず、誰だれも相手にできず、泣くに泣けないときもあるだろう」

「そのときは目を閉じて、日本の神様、誰でもいい、拝め。きっと、あなたは救われる」

黒田は、たった一人同行するマネージャーでした。

イエテボリで、大会の初日。彼女は寝坊ねぼうをしました。

となりの部屋の黒田マネージャーが、ドアから顔を出して、にこにこしながら言ったと書いています。

「ほら、起きたのか。もう窓の下の街は真昼だ。十一時過ぎだ。死んだと思っていたら、生きていたね。いくら寝るにも、きりがあるものだ」

彼女は冷たい水道の水で、力いっぱい体をこすりました。

その日の午後5時、入場式が始まります。

各国の選手が、列を作って入っていく。日本の選手は、やはり彼女ひとりでした。フランスとリトアニアの選手のあいだにはさまって、二尺(60センチ)四方ほどの小さな日章旗にっしょうきを、「捧ささげて、いや抱だいて」歩いた。

正面のスタンドの前に来ると、各国のチャンピオンたちは、元気よく手を挙げて礼をしていく。彼女は、その作法を知らなかった。一人きりでそれをする気力も、なかった。

「本当に寂しかった」

楽隊のマーチに合わせて、四百メートルのトラックを一周する。そのあいだ、抱いている旗を何度も見上げた。

「どうだ、私はたった一人きりの日本の選手だ。一人でもかまわない。元気にやろう」

もし、この三日のうちに自分が傷ついたり、卑いやしいふるまいをしたりしたら、ほかに誰がこの日の丸を守ってくれるだろう。

「死んでも生きても、この旗のために働いてみよう」

そこまで考えたとき、涙なみだが目にあふれて、頬ほおを伝っていくのが分かった、と彼女は書いています。

このときは、まだ泣くことができました。

木下博士の言った「泣くに泣けないとき」は、翌日の走幅跳はしりはばとびでやってきます。

泣くにも泣かれなかった

走幅跳はしりはばとびの会場には、七万人の観衆が入っていました。

いちばんの相手は、イギリスのガン選手。いつもは優しくおとなしい人だ、と人見ひとみは書いています。

予選の二回目、人見は5メートル33を跳とんだ。ガンは助走のピッチを上げて、5メートル43。

ここで、ちょっとした騒さわぎが起きます。

跳び終えたガンが、いつもの彼女かのじょらしくもなく、興奮して人見のそばに来た。人見の腕うでをつかんで、しきりに握手あくしゅをする。自分は5メートル60を跳んだ、一番の賞は私が取れる。そんなことを言っているらしい。

英語のあまりわからない人見には、ガンの言うことが、十分にはのみこめなかった。だいたいの意味を推し量って、こう答えたといいます。

「あなたの記録は5メートル43だ。私のは5メートル33だ……そして、一番の賞は、あなたが取れる」

自分が負けていることを、自分で相手に教えたのです。

ところがガンは、「ノウ、ノウ、5メートル60」と言って承知しない。自分の跳躍ちょうやくを、5メートル60だと思いこんでいたらしい。イギリスのマネージャーに5メートル43だと言われて、ガンはやっと納得しました。

二十分後に、決勝が始まります。

人見は、右足で踏ふみ切るのが得意だった。ところがこの日は、何度跳んでも、踏み切りが反対の左足に当たってしまう。そのあいだにガンは記録を伸のばし、喜ぶイギリスのマネージャーと選手たちを、人見は羨うらやましく眺ながめた。

「私の心は急にいらだってきた。なんと情けないことだろう」

五回目。踏み切りは、さらに合わない。心があせって、空中の動きに無理が出た。両手を上へ引き上げようとしたとき、ヤスリで研いだ鋭するどいスパイクの針が、自分の右の手のひらを、六か所も深く裂さいた。

記録は5メートル31。審判しんぱんの持つ巻尺の目盛りを、じっと見つめた。

「私はほとんど希望も力も無くなった」

人見は、脱ぬぎ捨てていたオーバーセーターを着た。その下に傷ついた手を隠かくして、黒田くろだマネージャーのそばへ戻もどりました。

残るは、最後の一回だけ。

イギリスが勝つか、日本が勝つか。七万の観衆は、静まり返って待っていた。予選で落ちた選手たちも、両方に分かれて味方してくれていた。スウェーデンやチェコ、ポーランド、ベルギーの選手が人見とマネージャーを囲んで慰なぐさめ、ガンのほうではフランスの選手がマッサージをしている。

「人見さん、しっかりやれ。あともう一回あるからな」

そう言う黒田マネージャーの顔は、ふつうの人とは思えないほど青くなり、唇くちびるはしきりにけいれんしていた。

故郷からは、手紙が二通届いていた。お前が家を出てから、母と姉は一日に二度、氏神うじがみさまにお前の勝利を祈いのっている。国のためだから、しっかりやってくれ。そういう意味の手紙でした。

新聞社の人たちには、走幅跳できっと勝て、と言われて出てきた。故郷の家族がこの成績を見たら、どんなに悲しむだろう。会社の人にも世間の人にも、どう言って詫わびればいいのか。

「お詫びだけではすむまい」

この苦しい気持ちを、人見は七万の観衆にも、百六十人近い各国の選手にも、ただ一人の黒田マネージャーにさえ、話すことができなかった。

「その瞬間しゅんかん、泣くにも泣かれなかった」

最後の助走路のスタートに立ったとき、人見は急に思い出しました。7月8日の夜、大阪駅おおさかえきのホームで、木下きのした博士が言ったことを。

人見は、静かに目を閉じた。

「どうか一度です。跳ばしてください」

夢中で祈ったとき、それまでこらえていた涙なみだが、急に両方の頬ほおを伝った。拭ふいても拭いても、止まらない。そばにいるガンに恥はずかしいほど、涙が出る。三十メートルの助走路の地面が、ぼんやりかすんでいた。

走り出した。八寸(24センチ)の踏切板ふみきりいたに、右足が強く当たった。

「しめたっ……跳べた。初めて跳べた」

5メートル50。

すぐにでも大声を出して喜びたかった。でも、まだガンの最後の一回が残っている。人見は、ガンの助走も何も見なかった。ただ、八寸の踏切板だけを見つめていた。

ガンの左足は、踏切板を五分(1.5センチ)ほど越こえていた。ファウルでした。

初めて、ガンに勝ったのです。

静まり返っていたスタンドが、いっせいに立ち上がった。スタンドを靴くつでたたく音と、割れるような拍手はくしゅが、しばらく止まなかった。「ハロー人見、人見」と呼ぶ声の中を、日章旗にっしょうきが高く揚あがっていく。

黒田マネージャーと人見は、それまでの苦しさが急にうれしさに変わって、フィールドの中で、泣けるだけ泣いた、と人見は書いています。

翌1927年の5月。イエテボリで世界一を跳んだ人が、日本の大会の短距離たんきょりの競走で、とうとう負けます。

相手は、まだ十五歳の、和歌山わかやまの少女でした。