樋口一葉 — 道ばたでいい、と言った人

学校をやめさせられ、店をたたみ、借金を断られては日記に毒づいた。かつて五千円札に描かれた小説家の、意地っぱりな24年

死ぬほど悲しかった

「私の一生は、破れに破れて、道ばたに倒たおれ伏ふす物乞ものごい。それこそが、生涯しょうがいの願いなのです」

1894年の2月。そう言ったのは、二十一歳の女性でした。相手は、その日初めて会った男です。

男は、天啓顕真術会てんけいけんしんじゅつかいという看板を出し、人の運を鑑定かんていする会の主でした。彼女かのじょは本名を名乗らず、秋月あきづきと名乗って座敷ざしきに通っています。

用件は、お金のことでした。相場というものを、やってみたい。けれど自分には、一銭いっせんのゆとりもない。そこで思いついたのが、先生のところだった。日記には、そう打ち明けた、とあります。

その日のやり取りを、彼女は自分の日記にくわしく書き残しました。三年前の春の日記の序には、もとより世の人に見せるものではない、と書いています。

女性の名は、樋口夏子ひぐちなつこ。のちに「一葉いちよう」の名で、小説を書く人です。

話は、その十年あまり前に戻もどります。

「死ぬほど悲しかったけれど、学校はやめになった」

十一歳のときのことを、夏子なつこはのちに日記にこう書いています。

やめさせたのは、母でした。女の子に長く学問をさせるのは、先々のためによくない。針仕事でも習わせ、家のことを覚えさせたほうがいい。それが母の考えだった、と本人は書いています。

父は反対しました。そうするべきではない、もう少し通わせよう、と母と言い争った。そして、娘むすめにこう聞いた、と日記にあります。

「お前は、どう思うのか」

夏子は、答えられませんでした。生まれつき気が弱くて、どちらとも、はっきり言えなかったのです。

本当は、学校が好きだったのかもしれません。

数えで七つのころから、草双紙くさぞうしという絵入りの読み物に夢中だった。手まりも羽根つきも放り出して、読みふけった。九つばかりになると、自分の一生がありふれたまま終わるのが、なげかわしくてならなかった。

「ただ雲を踏ふんで、天に届くことを願うようだった」

そのころの自分を、夏子はそう書いています。お金など、ほとんど、ちりやごみのように思えた、とも。

学校をやめてからは、家の手伝いと裁縫さいほうの稽古けいこの毎日でした。それでも、夜ごと机に向かうことはやめなかった。父も娘のために、和歌の本を買ってきた。

そして父は、もう一度、娘に学ばせると決めます。十四歳の夏、夏子は、中島歌子なかじまうたこの歌の塾じゅく「萩の舎はぎのや」に入りました。

けれど、家には不幸が続きます。いちばん上の兄と、事業に失敗した父が、相次いで亡くなりました。

十七歳の夏子は、女の身で、家の主(戸主こしゅ)になりました。母と妹の邦子くにこを支えるのに、針仕事の手間賃では、とても足りません。

父が亡くなって、二度目の春。1891年4月11日の朝、十八歳の夏子は、邦子を誘さそって、上野の山へ桜を見に行きました。

車坂くるまざかを下りるあたりで、邦子が、ふと言います。

「ここは、お父様が生きていらしたころ、花の季節になると、いつも私たちを連れて、朝に夕に歩かれたところね」

昔の春が、目の前に浮うかぶようだった。今年も咲さく山桜の陰かげで、散って帰らない人を思う。そんな歌をよみ、二人とも心細いね、などと言ううちに、袖そではすっかり涙なみだでぬれた、と夏子は書いています。

その四日後の4月15日。夏子は、知り合いの紹介しょうかいで、ある小説家を訪ねました。半井桃水なからいとうすい。新聞に小説を書いている人です。

小説を書いて、家族を食べさせたい。そのための弟子入りでした。

日記によれば、桃水とうすいは三十歳ほど。おだやかに少し笑うさまは、「三歳の子どもでも、なつきそうに思える」。

新聞の小説は、悪人や悪女の話ばかりだと、学者たちに悪く言われる。それでも書く理由を、桃水はこう言った、と日記にあります。

「私は、名誉めいよのために書いているのではない。弟や妹、父や母に、着るものと食べるものを与あたえるためだ」

それは、夏子が小説を書こうとした理由と、同じでした。

「先生と呼ばれるほどの者ではないが、相談相手になら、いつでもなろう。遠慮えんりょなく来なさい」

そう言われて、限りなくうれしく、まず涙がこぼれた、と夏子は書いています。

夕食が出ました。まだ親しくもないのにと、何度も断った。それでも、すすめられるうちに、とうとう食べ終えた。

雨がひどくなり、日も暮れてきた。帰ろうとすると、車はもう呼んである、と桃水は言いました。

一週間後、夏子は書きかけの小説を持って、もう一度訪ねます。その日の日記には、こうあります。

「一度会ってよいと思った人も、二度目にはそうでないことがある。けれどこの人は、今日はいっそう親しさが増して、世にもまれな、ありがたい人だと思った」

この人とのことで、夏子はやがて、歌の塾じゅうのうわさになります。

雪の日のしるこ

その年の秋ごろから、夏子なつこは「一葉いちよう」という名を使いはじめます。

もとになったのは、達磨だるま大師が一枚の葦あしの葉に乗って大河を下ったという言い伝えです。足のない達磨と、お金(おあし)のない自分は同じだ。本人がそうしゃれていた、と記念館は伝えています。

1892年2月4日。日記によれば、朝から空模様が悪く、雪になるだろうと、みんなが言っていました。

十時ごろ、みぞれまじりの雨が降りだす。昼には、それが本降りの雪になった。降るなら降れ、と夏子は家を出ます。桃水とうすいを訪ねる約束でした。

途中とちゅうで車を雇やとったが、風に乗った雪が吹ふき込こんでくる。傘かさで前をふさいで、ようやく平河町ひらかわちょうの桃水の家に着いたのは、十二時すぎでした。

声をかけても、返事がない。何度呼んでも同じです。留守だろうかと、上がりがまちに腰こしかけて待った。格子こうしのすきまから、風と雪が吹き込んでくる。

寒さに耐たえかねて、障子しょうじを細く開け、二畳じょうほどの部屋に上がりました。ふすま一枚向こうが、桃水の部屋です。耳を寄せると、かすかに、いびきが聞こえた。

一時を打ちました。心細くなって、何度か咳払せきばらいをする。

ようやく目を覚ました桃水は、寝ね間着姿を恥はじて、あわてて羽織をはおりました。ゆうべは誘さそわれて歌舞伎かぶきを見に行き、帰ってから今日の分の小説を書いて寝たので、寝過ごしたのだという。起こしてくれればよかったのに、遠慮えんりょがすぎますよ。そう大笑いしながら雨戸を開けると、もう二時近かった。

桃水は自分で火をおこし、湯をわかしました。手伝おうとすると、そのままにしておいてと、困った顔をされる。枕まくらもとには、芝居しばいの番付や紙入れが散らかっていた。

鍋なべを借りに行った桃水に、垣根かきねの向こうから、隣となりの若いおかみさんの声がします。

「半井なからい様、お客様で、お楽しみでございましょう。おうらやましい」

雪が降らなければ、ごちそうするつもりだった。この雪では、絵に描かいた餅もちになってしまった。そう言って桃水は、手ずから、しるこを煮にてくれました。箸はしは、餅を焼いた箸で失礼だが、と差し出された。

雪は、いよいよ降りしきる。泊とまっていきなさい、自分はよそへ泊まりに行くから、と桃水はすすめました。母にきつく言われていますから、と夏子は首を横に振ふる。桃水は大笑いして、車を呼ばせた。

帰り道は、一面の白でした。夏子は頭巾ずきんの上から肩かたかけをすっぽりかぶり、ときどき目だけを出した。いろいろな思いが胸にせまって、「雪の日」という小説を書こうと思った、と日記にあります。

その年の6月。萩の舎はぎのやは、名の通った家の娘むすめたちが和歌を学ぶ場所です。その仲間の伊東夏子いとうなつこが、四畳ほどの小さな部屋に夏子を呼び、声をひそめて聞いた、と日記にあります。

「あなたは、世間への義理が重いの。それとも、家の名が惜おしいの」

夏子と桃水の仲が、塾じゅくでうわさになっていたのです。

二日後の夜、夏子は師の中島歌子なかじまうたこに、思い切って相談しました。歌子うたこは、いぶかしげに夏子を見つめて聞いた、と日記にあります。

「その半井という人と、まだ、行く末の約束などはしていないのか」

約束など、何もない。そう答えると、歌子は言いました。半井という人は、夏子は自分の妻だと、世間に言いふらしているそうだ。人からそう聞いた、と。

夏子は、あきれ、驚おどろいた。そして、ひたすら、あの人が憎にくく、つらかった、と書いています。

6月22日。夏子は、別れを告げに桃水の家へ行きました。その日のことも、日記にくわしく書いてあります。

桃水は、また寝ていた。起こすのもためらわれて、しばらく待つ。目を覚ました桃水は、どうして起こしてくれなかったのか、と言いながら起きてきました。

夏子は、しばらくは言い出せず、うつむきがちだった。それから、うわさのことを話し、もうしばらくは会わないと告げた。

桃水は、こともなげに笑いました。

「うわさが立つのは、無理もない。何もない私たち二人のほうが、無理なのですよ」

帰ろうとすると、引きとめられた。

「今日は、お別れの日だ。またいつ、二人で粗茶そちゃをすすり合うことがあるか分からないのだから、もうしばらく」

桃水と会わなくなった、その夏。夏子の家を、思いがけない人が訪ねてきます。

渋谷三郎しぶやさぶろう。亡くなった父が、娘の結婚けっこん相手にと見込みこみ、父の死後に話が壊こわれた若者です。日記によれば、今は新潟にいがたで検事になり、ひげまで生やしていた。

夏子はひどい近眼で、その顔さえ、よく見えませんでした。自分でこしらえた近眼です。そう言って、笑った。

帰りぎわ、夏子はこう言っています。

「渋谷しぶや様が次にいらっしゃるころには、私は枝豆を売っているか、新聞を配っているか、分かりませんよ」

9月1日。母が、借りていたお金を、山崎という人の家へ返しに行きました。その山崎が、しきりにすすめたそうです。渋谷を夏子の婿むこに迎むかえてはどうか。それとも、夏子が嫁よめに行ってはどうか。母は断って帰ってきた。世の中はさまざまだ、と家じゅうで笑った、と日記にあります。

その日の日記には、こうも書いてあります。この人に頼たよれば、母を楽にさせ、妹にもよい縁えんを見つけてやれる。けれど、それと引きかえに、この人に頭を下げて従うことはするまい。

「頼る人がいなければ、道ばたに倒たおれ伏ふしてもいい」

「この心が、いつ変わるかは分からない。けれど、今日の心はこうだ」

年が明けた1893年、昼ごろから雪が降りだした日に、夏子は書きました。

「私が雪の日を好むのは、好むのではない。悲しむのだ」

火鉢ひばちをはさんで、のどかに話した。手ずから煮てくれた、あのしるこ。恋こいも、悟さとりも、あの雪の日からだった、と。

そして、その年の7月。日記に、こんな言葉が並びます。

「文学は、食べるためにするものではない。思いの走るまま、心の向くままに、筆は取るものだ」

「さあ、これからは、食べるための文学をやめて、そろばんの玉の汗あせで、商いというものを始めてみよう」

二十一歳の小説家は、駄菓子だがしを売る店を開くことにしました。

元手は、どこにもありませんでした。