太宰治 — 寝言のふりをした人
欲しいものを、面と向かっては言えなかった。嘘をつき、人に頼り、それでも書き続けた作家の一生
まんねんひつ
「まんねんひつ、まんねんひつ」
寝床の中で、少年は目をつぶったまま、低い声で呼びかけた。寝言のふりをしていた。
隣の部屋では、父が客と話している。その父の万年筆が、欲しかった。けれど、どうしても言い出せない。ひとりであれこれ思い悩んだすえに、思いついたのが、この寝言でした。
声は、父の耳にも心にも、入らなかったらしい。のちに本人が、そう書いています。
少年の名は、津島修治。のちに太宰治と名乗る人です。1909年、青森県の金木村で、県内でも指折りの大地主の家に生まれました。
父はいつも忙しく、家にいることが少なかった。家にいても、子どもたちとは一緒にいない。少年は、この父をこわがっていた。
弟と米蔵で遊んでいると、父が入口に立ちはだかって、叱ったことがある。「坊主、出ろ、出ろ」。背中から光を受けて、父の大きな姿が真っ黒に見えた。あのときのこわさは、思い出すと今でもいやな気がする、と大人になってから振り返っている。
母は体が弱かった。少年は乳母の乳で育ち、叔母の懐で大きくなった。母とも、親しめなかった。
叔母との、こんな思い出が残っています。
三歳の夏、明治天皇が亡くなった日の夕暮れ。叔母と並んで門口に立っていると、そういうときは「お隠れになった」と言いなさい、とたしなめられた。少年は、聞き返した。
「どこへお隠れになったのだろう」
本当は、意味を知っていた。知っていて、わざとそう聞いて、叔母を笑わせた。本人の回想の中で、いちばん古い場面の一つです。
本を読むことを教えてくれたのは、女中のたけでした。二人でいろいろな本を読み合い、読む本がなくなると、たけは村の日曜学校から子どもの本を借りてきた。病気がちの少年は、寝ながらたくさん読んだ。
そのたけが、ある日、何も言わずにいなくなった。ある漁村へ嫁に行ったのです。翌年だかのお盆に遊びに来たたけは、学校の成績を聞くと、「油断大敵でせえ」と言っただけで、ほめもしなかった、と、のちに本人は書きとめている。
嘘も、しじゅうついていた。
小学二年か三年の雛祭りの日。先生には、家の人が早く帰れと言っている、と嘘をついて、授業を一時間も受けずに帰った。家では、きょうは桃の節句だから学校は休みです、と言って、雛人形を箱から出すのに、いらない手伝いをした。
作文も、でたらめでした。自分を神妙ないい子にして書けば、いつもみんなに喝采される。
先生たちに傑作だとほめられた「弟の影絵」は、少年雑誌の一等入選作を、そっくり盗んだものだった。先生はそれを毛筆で清書させ、展覧会に出した。
あとで、本好きの生徒に、それを見つけられた。
少年は、その子が死ぬことを祈った。自分で、そう書き残している。
本当のことを書いたこともある。父と母が自分をかわいがってくれない、と不平を書いたときは、先生に呼ばれて叱られた。
「もし戦争が起ったなら」という題では、こう書いた。戦争が起きたら、まず山の中へ逃げよう。逃げるついでに、先生も誘おう。先生も人間、僕も人間、戦争がこわいのは同じだろう。
本人の回想では、今度は、校長ともう一人の先生が、二人がかりで少年を調べました。人間はみんな同じものか、と聞かれて、そう思う、ともじもじしながら答えた。すると、先生は聞いた。
「君のお父さんと僕たちとは同じ人間か」
少年は困って、何とも答えなかった。
嘘を書けば、ほめられる。本当のことを書けば、叱られる。
1923年の3月、父が東京の病院で亡くなった。近くの新聞社が号外を出し、遺族の名前の中に、十三歳の少年の名前も並んだ。
「私は父の死よりも、こういうセンセイションの方に興奮を感じた」
大人になった本人は、そう書いている。次の日、棺のふたが取られると、家の人たちはみな声を立てて泣いた。少年も、その泣き声に誘われて、涙を流した。
家の主は、長兄の文治に代わりました。
この兄に、彼はこれから、何度も嘘をつくことになります。
来年は、必ず卒業します
新しい袴に、黒い靴下と、編み上げの靴。羅紗のマントを、しゃれ者らしくボタンをかけずに羽織って、修治は海のある町の中学校へ出ていきました。
銭湯へ行くときにも、学校の帽子をかぶり、袴をつけた。その姿が通りの窓ガラスに映ると、笑いながら、それに軽く会釈をしたものだ、と自分で白状している。
格好をつけるのは、得意でした。
弘前の高等学校に進むと、クラスでひとり、目立って派手な服を着ていたのは、彼でした。そのくせ、学生たちのあいだで広まっていた、金持ちを倒して世の中を作り変えようという運動にも、引きつけられた。のちに、こう書いている。
「私は賤民でなかった。ギロチンにかかる役のほうであった」
1930年の春、東京の大学に入るために出てきたときのこと。東京の地図を一枚買うのさえ恥ずかしかった。田舎者と笑われはしないかと何度もためらってから、わざと乱暴な、自分をあざけるような口調で買い、ふところに入れて下宿へ帰った。
夜、部屋を閉め切って、こっそり地図を広げた。赤、緑、黄の美しい模様。息を止めて、それに見入った、と十年後に振り返っている。
その年の11月、彼は銀座の店で働いていた女性と、一緒に死のうとした。女性は亡くなり、彼だけが生き残った。
「私の生涯の、黒点である」
東京では、運動のためにお金を出す役目を引き受けて、たびたび留置場に入れられた。あまりにおとなしいので、取り調べの刑事にこう言われた、と本人は書き残している。
「おめえみたいなブルジョアの坊ちゃんに革命なんて出来るものか。本当の革命は、おれたちがやるんだ」
1932年、彼は自分から警察に出向いて、運動から離れた。そのころ、遺書のつもりで、子どものころからの自分の悪いところを、飾らずに百枚の小説に書いた。『思い出』です。
ところが書き終えると、それだけでは、どうにも不満なのです。あれも、これも、書いておきたいことが、いっぱい出てきた。
「けれども人生は、ドラマでなかった。二幕目は誰も知らない」
1933年、彼は初めて「太宰治」の名で作品を発表しました。この春には、大学を卒業するはずだった。
卒業どころか、試験さえ受けていない。故郷の兄たちは、それを知らない。
「来年は、必ず卒業します。どうか、もう一年、おゆるし下さい」
長兄にそう泣きついては、裏切った。次の年も、そうだった、と本人は書いている。週に一度は制服を着て家を出て、大学の図書館で本を読み散らし、居眠りをし、小説の下書きを書いて、夕方に帰った。仮の祝言だけを挙げて、籍は入れないまま一緒に暮らしていた初代も、少しも疑わなかった。
「私は、悪人でない! 人を欺く事は、地獄である」
書きためた小説は、大きな紙袋に入れていった。袋には毛筆で、「晩年」と書いた。もう、これでおしまい、という意味だった。
1934年の秋の終わり、二十数編のうち十四編を選び、残りは、書き損じの原稿と一緒に庭で焼いた。その夜のことを、彼はこう書いている。
「ね、なぜ焼いたの」
「要らなくなったから」
「なぜ焼いたの」
初代は、泣いていた。
翌年の3月、また卒業の季節が来た。彼は新聞社の入社試験を受け、新聞記者になって一生平凡に暮らすのだ、と言って、同じ家に住む人たちを明るく笑わせていた。試験に受かるはずもなかった。
その月、彼はまた死のうとして、助かった。
そのあとのことを、彼は不思議な気持ちで書き残している。家に帰ると、初代が玄関で、彼の背中をそっとなでた。みんなが、よかった、よかった、といたわってくれた。田舎から駆けつけた長兄には、厳しくののしられた。
けれど、ののしられながら、その兄が懐かしくて、慕わしくて、ならなかった。
それからまもなく、激しい腹痛に襲われた。盲腸炎が悪化して、医者にも見放されかけたが、少しずつ持ち直した。
その夏。のちに『晩年』に収める小説の一つが、ある文学賞の候補になった。新人の作家に贈られる、この年に始まったばかりの賞で、賞金は五百円。
芥川賞です。