諸葛亮 — 任せきれなかった人

すべてを託された男は、誰にも任せきれなかった。三国志の丞相の、人間くさい一生

呼びつけることは、できません

「この人は、こちらから会いに行くことはできます。でも、呼びつけて来させることはできません」

ある将軍に会わせたい男がいると話したのは、その男の友人、徐庶じょしょでした。将軍が「一緒いっしょに連れて来てくれ」と言うと、徐庶はそう答えたのです。

呼びつけられない、というその男は役職も何もない若者でした。畑を自分で耕して暮らしていました。

諸葛亮しょかつりょう。字あざなを孔明こうめいといいます。字は本名とは別に使う呼び名です。のちに『三国志さんごくし』の物語の軍師として広く知られるようになる人でした。

今から千八百年ほど前の中国。四百年あまり続いた漢の国が乱れ、各地で武将たちが争っていた時代です。

亮りょうは早くに父を亡くし、叔父おじに連れられて南の荊州けいしゅうへ移りました。その叔父もやがて亡くなります。

それから亮は自分で畑を耕しました。好きだったのは、『梁父吟りょうほぎん』という古い歌をうたうこと。身長は八尺。背の高い男でした。

そして、いつも自分を管仲かんちゅうや楽毅がっきになぞらえていました。

管仲は、斉せいという国を諸侯しょこうのかしらに押おし上げた、昔の名宰相さいしょう。楽毅は、燕えんという国の軍を率いて大国を追いつめた、昔の名将です。

周りの人は誰だれもそれを認めませんでした。

畑を耕している無名の若者です。認めろというほうが無理だったのかもしれません。

認めたのは、友人の二人だけでした。崔州平さいしゅうへいと、徐庶。本当にそうだ、と二人は思っていました。

若いころの亮について、のちの書物『魏略ぎりゃく』にはこんな話が伝えられています。

友人たちが書物の細かいところまで読みこもうと励はげむあいだ、亮ひとりは大きな筋だけをつかんでいました。朝に晩にゆったりと膝ひざを抱かかえ、声を長くのばして吟ぎんじていました。

ある日、亮は三人の友人に言ったそうです。

「君たち三人は、役人になれば、州の長官か、郡の太守たいしゅまで行けるだろう」

じゃあ君はどこまで行くのか、と三人が聞くと、亮は笑うだけで何も言いませんでした。

嫁よめ選びも変わっていました。土地の名士だった黄承彦こうしょうげんが亮にこう持ちかけたといいます。

「君が嫁を探していると聞いた。私には、器量のよくない娘むすめがいる。髪かみは黄色っぽく、色は黒い。だが、才は君に釣つり合う」

亮が承知すると黄承彦はすぐ娘を車に乗せて送ってきました。

土地の人はこれを笑い話にして、ことわざまで作ったそうです。孔明の嫁選びをまねするな、承彦しょうげんの醜みにくい娘をもらうことになるぞ。

その亮のもとへ将軍が自分から訪ねてくることになります。

将軍の名は、劉備りゅうび。漢の皇帝こうていの一族の血を引くといい、荊州の新野しんやという町に兵を置いていた人です。

呼びつけることはできない、と言われた劉備は自分で出向きました。

全部で三度足を運んでようやく会えた、と陳寿ちんじゅという歴史家の書いた『三国志』にはあります。207年ごろ亮は二十代の終わりでした。

のちの物語では雪の中を訪ね、昼寝ひるねをしている亮が目を覚ますまで、劉備が待ったことになっています。陳寿の『三国志』に書かれているのは、「全部で三度行って、ようやく会えた」という一句だけです。

劉備は人払ひとばらいをして尋たずねました。自分は知恵ちえも策も浅く、つまずき続けて今日まで来た。それでも、志はまだ捨てていない。どうすればいいか。

亮の答えは、こうでした。

「曹操そうそうはいま、百万の兵を抱え、皇帝を手の中に置いて、諸侯に命令しています。これとは、本当に争うことはできません」

東の孫権そんけんとは手を結ぶ。そのあいだに荊州と西の益州えきしゅうを取る。劉備は「よし」と答えました。

それから二人は日に日に親しくなります。古くから劉備に従ってきた関羽かんうと張飛ちょうひは面白くありませんでした。劉備は二人をなだめました。

「私に孔明がいるのは、魚に水があるようなものだ。諸君は、もうこれ以上言わないでほしい」

誰にも認められなかった若者が、主君の「水」になりました。

やがて荊州の主が死にます。跡あとを継ついだ息子の劉琮りゅうそうは攻せめてきた曹操に戦わずに降伏こうふくの使いを送りました。

劉備の軍が襄陽じょうようのそばを通ったとき亮は言いました。いま劉琮を攻めれば、荊州が手に入ります。

劉備の答えは、短いものでした。

「私には、忍しのびない」

曹操の軍は追ってきます。長坂ちょうはんで追いつかれ、徐庶の母が捕とらえられました。

徐庶は自分の胸を指して劉備に別れを告げました。

「もともと将軍と、王となり覇者はしゃとなる大業を図ろうとしたのは、この胸のうちがあったからです。いま老母を失って、胸のうちが乱れてしまいました。もうお役に立てません。ここでお別れさせてください」

徐庶は曹操のもとへ去っていきました。

亮を信じた二人のうちの一人で、亮を劉備に推した人でした。

残った亮にはすぐに大きな仕事が待っていました。東の孫権を説き伏せることです。

君が、自ら取ってよい

「事は急を要します。ご命令をいただいて、孫将軍に救いを求めに行かせてください」

曹操そうそうに追われて夏口かこうまで逃にげたとき亮りょうは劉備りゅうびにそう言いました。208年のことです。

孫権そんけんは柴桑さいそうで兵を構えたまま、どちらが勝つか様子を見ていました。

助けを頼たのみに来たはずの亮はまず相手を突つき放します。

「呉ごと越えつの軍勢で、曹操と張り合えるなら、早く手を切るのがいい。できないなら、なぜ兵をおさめ、よろいを束ねて、北を向いて曹操に仕えないのですか」

北を向くのは、家来になる礼です。亮は続けました。

「表では従う顔をして、内心ではまだ迷っておられる。急な時に決められなければ、災いは、すぐにやって来ます」

それなら劉備はなぜ曹操に仕えないのか。孫権が聞き返すと亮は答えました。劉備は皇室の血を引く英雄えいゆうです。どうして人の下につけましょう。

孫権は顔色を変えて言いました。

「私は、呉の全土と十万の兵を持ちながら、人の言いなりになることはできない。私の心は決まった」

頼みに来た男が相手を怒おこらせて、決めさせたのです。

そのあと曹操は赤壁せきへきで敗れ、北へ引き揚あげました。

のちの物語では亮が祭壇さいだんを築いて東南の風を呼び、曹操の船を焼かせたことになっています。けれど陳寿ちんじゅの『三国志さんごくし』の亮の伝が赤壁について書いているのは、「曹公そうこうは赤壁で敗れ、軍を率いて鄴ぎょうに帰った」という一句だけです。

戦いのあと亮が任された仕事は、三つの郡の税を整えて、軍の費用をまかなうことでした。

やがて劉備は西の益州えきしゅうへ攻せめ入ります。その都の成都せいとが落ちてからも、劉備が戦いに出ているあいだ亮はいつも成都に残り、食糧しょくりょうと兵を絶やしませんでした。

天下の大きな計画を語った男は表に立たない役を引き受け続けていました。

そのころこんなことがありました。

劉備が見物の途中とちゅうで広都こうとという県にふいに立ち寄りました。県の長だった蒋琬しょうえんは仕事をほったらかしにして、しかも酔よっていました。

劉備は大いに怒り、罪に問うて殺そうとします。止めたのは、亮でした。

「蒋琬は、国を支える器で、一つの県を治めるだけの才ではありません。彼かれの政治は、民を安らかにすることを第一にして、見栄えを整えることを先にしません。どうか、もう一度よくお調べください」

劉備はもとから亮を敬っていたので、罪にはせず官をやめさせるだけにしました。

けれど、亮が止めなかった死もあります。

劉封りゅうほうは跡継あとつぎのいなかった劉備が自分の子として育てた男でした。戦いに敗れて成都へ戻もどると、関羽かんうを救わなかったことなどを劉備に責められます。

亮は劉封が強く荒々あらあらしい人で、代替だいがわりのあとでは抑おさえきれなくなると考えました。そして、この機会に除くよう劉備に勧すすめたのです。

劉封は死を命じられ、自ら命を絶ちました。

泣いたのは、劉備でした。

情で動く主君の横で冷たいほうの答えを出すのは、亮でした。

221年、劉備は皇帝こうていの位につきます。ためらう劉備を説き伏ふせたのも、亮でした。劉備は亮を丞相じょうしょうにしました。丞相は、皇帝のもとで政治のすべてを取りしきる、いちばん上の役です。

その劉備が東の呉へ攻め込んで、敗れます。亮は嘆なげきました。

「法正ほうせいが生きていたら、陛下を抑えて、東へ行かせなかっただろう。たとえ行ったとしても、こんなに危うくはならなかったはずだ」

法正は、劉備に知恵ちえを貸してきた臣で、すでに亡くなっていました。

223年の春。劉備は永安えいあんで重い病の床とこにありました。成都から亮が呼ばれます。

劉備は亮に言いました。

「君の才は、曹丕そうひの十倍だ。必ず国を安らかにし、最後には大事を成しとげるだろう」

曹丕は、北の魏ぎの国で自ら皇帝の位についていた男です。

「もし跡継ぎが、助けるに足る者なら、助けてやってくれ。もし才がないなら、君が自ら取ってよい」

自ら取る。国を、です。

亮は泣きながら答えました。

「臣は、手足となって力を尽つくし、まごころの節を守り、死ぬまで、それを続けます」

劉備は跡継ぎの劉禅りゅうぜんにも言い残しました。お前は丞相とともに事に当たり、父に仕えるように仕えよ。

その年の旧暦きゅうれき4月、劉備は永安で亡くなりました。六十三歳さいでした。

跡継ぎの劉禅が位につくと、この国では大きなことも小さなことも、すべて亮が決めることになりました。

亡くなる前の劉備は、亮にもう一人の男のことを言い残していました。

「馬謖ばしょくは、言うことが実際を上回る。大きく用いてはならない。君は、よく見極めよ」

亮はそうは思いませんでした。

一日じゅう、汗あせを流して

亮りょうが自分で役所の帳簿ちょうぼを調べていたときのことです。

丞相じょうしょうの書記役だった楊顒ようぎょうがまっすぐ入ってきて、こう諫いさめたと伝えられます。

「政治には、あるべき形があります。上の者と下の者が、互たがいの仕事を侵おかしてはいけません。家にたとえさせてください」

ある家の主が耕すのは下男に、炊事すいじは下女に任せていた。朝を告げるのは鶏にわとりに、どろぼうに吠ほえるのは犬に、重い荷は牛に、遠い道は馬に。家の仕事は滞とどこおらず、主はゆったりと枕まくらを高くして食べて飲んでいればよかった。

ところがある日、主はその全部を自分でやろうとした。誰だれにも任せず、体を疲つかれさせ、細かい仕事に追われて身も心もくたびれ果て、結局何ひとつできなかった。

「その知恵ちえが、下男や下女や、鶏や犬に及およばないからでしょうか。違ちがいます。家の主としてのやり方を、失っているのです」

楊顒は昔の宰相さいしょうたちの例を挙げてからこう結びました。

「いま、あなたは自ら帳簿を調べ、一日じゅう汗あせを流しておられる。お疲れになりませんか」

亮は楊顒に謝ったそうです。

南の諸郡が背いたときも亮は自分で行こうとしました。

王連おうれんという臣が何度も止めます。

「ここは不毛の地、疫病えきびょうの土地です。一国の望みを背負うお方が、危険を冒おかして行くべきではありません」

亮が自分で行こうとしたのは、ほかの将軍たちの才が自分に及ばないと考えたからでした。

王連の言葉があまりに熱心だったので、亮は出発を長く延ばしました。やがて王連が亡くなります。225年、亮は自ら南へ向かいました。

出発のとき数十里の道を見送ってきた男がいたと伝えられます。馬謖ばしょくです。劉備りゅうびが死の床とこで名を挙げたあの男でした。良い策をもう一度聞かせてほしい、と頼たのむ亮に馬謖は答えました。

「用兵の道は、心を攻せめるのが上で、城を攻めるのは下。心で戦うのが上で、兵で戦うのは下です。どうか、彼かれらの心を服させてください」

亮はこの策を用い、南の人々を服させたといいます。

馬謖は亮が気に入っていた男でした。呼んで話しはじめると、昼から夜まで続きました。

笑える話も残っています。のちに学者として知られる譙周しょうしゅうが、はじめて亮に会ったとき、そばの者たちがみな笑ってしまいました。会のあと、役人が笑った者を取り調べたいと願い出ると、亮は言ったそうです。

「私でさえ、こらえられなかったのだ。まして、そばの者がこらえられるものか」

丞相になってから亮は役人たちにこんな通達を出しています。

「もし徐元直じょげんちょくの十分の一、董幼宰とうようさいの熱心さを慕したって、国に忠を尽つくす者がいれば、亮の過ちは少なくなるだろう」

通達は続けます。昔は崔州平さいしゅうへいがたびたび自分の良し悪しを聞かせてくれた。のちには徐元直がよく教えさとしてくれた。自分は生まれつき愚おろかで、全部を聞き入れることはできなかったが、言いにくいことを言ってくれた人たちとは最後まで仲良くやれた。

徐元直は、徐庶じょしょのことです。若いころの亮を信じた、あの二人の名前がここにありました。

227年、亮は北の魏ぎを討つために漢中かんちゅうへ向かいます。出発の前、若い皇帝こうていに一通の文を差し出しました。のちに『出師表すいしのひょう』と呼ばれる文です。

その中で亮は自分のことをこう書いています。

「臣は、もとは無位無官の身で、南陽なんようで自ら畑を耕し、乱れた世で、ただ命をつなぐことだけを願い、諸侯しょこうに名を知られることなど求めていませんでした」

自分を管仲かんちゅうになぞらえていた若者が、です。

そして、亡くなった劉備を「先帝せんてい」と呼んでこう続けます。

「先帝は、臣を卑いやしい者とはせず、もったいなくも自ら身を屈くっして、三度も草ぶきの家に臣を訪ね、今の世のことをお尋たずねになりました。これに心を打たれ、先帝のために走り回ることを、お約束したのです」

文は続きます。

「先帝は、臣が慎つつしみ深いことをご存じで、亡くなる前に、臣に大事をお託たくしになりました。それから、朝も夜も憂うれえ嘆なげいております。託されたことが果たせず、先帝のご明察を傷つけるのではないかと」

託されたことを果たせなければ、亮を選んだ先帝の目が間違まちがっていたことになります。亮が全部を自分で抱かかえこんだのは、そのためだったのかもしれません。

文はこう結ばれています。

「臣は受けた恩に、感激をおさえきれません。いま遠く離はなれるにあたり、この表を前にして涙なみだがあふれ、何を言っているのかも分かりません」

人を見る目

228年の春。亮りょうは北の祁山きざんへ兵を出しました。

始まりは、うまくいきました。軍の隊列は整い、賞罰しょうばつは厳しく、命令ははっきりしていました。魏ぎに従っていた三つの郡が魏に背いて亮につきました。魏の西の守りの要、関中かんちゅうが震ふるえ上がります。

北へ兵を出していたころ亮は魏に去った昔の友人の噂うわさを聞いたと伝えられます。徐庶じょしょと、もう一人の学友が、魏ではあまり用いられていないとのことです。亮は嘆なげいたそうです。

「魏には、よほど人材が多いのか。どうしてあの二人が用いられないのか」

魏の皇帝こうていは長安ちょうあんまで出てきて、名将の張郃ちょうこうに亮を防がせました。

誰だれを先頭に立てるか。

軍には魏延ぎえんたち、古くからの将軍がいました。意見を述べた者はみな彼かれらを先鋒せんぽうにするべきだと言いました。

亮はみんなの意見に背いて馬謖ばしょくを選びました。大軍を任せて前に置いたのです。

先帝せんていが「大きく用いてはならない」と言い残した、あの馬謖でした。

馬謖と張郃は街亭がいていでぶつかります。

馬謖は亮の指図に背き、動きを誤って張郃に大敗しました。兵たちは散り散りになりました。

進むよりどころを失った亮は兵を漢中かんちゅうへ引き返します。

「泣いて馬謖を斬きる」という言葉で、この話はのちに広く知られるようになります。けれど馬謖の最期は記録によって書き方が違ちがいます。

亮の伝は、「謖しょくを処刑しょけいして、皆みなに謝した」と書いています。馬謖の伝は、「謖は獄ごくに下され、そこで死んだ。亮は彼のために涙なみだを流した」と書いています。馬謖は三十九歳さい。亮より九つ年下でした。馬謖と親しかった向朗しょうろうの伝には、馬謖が逃にげ、それを知りながら届け出なかった向朗を亮が恨うらんで官から退けた、とまであります。

馬謖は死ぬ前に亮へ手紙を残したと伝えられます。

「明公は、私を子のように見てくださいました。私は、明公を父のように見てまいりました」

手紙は、罪を犯した父を罰ばっし、その子を取り立てた昔の聖王の話を引いて、こう結ばれていました。

「どうか、この生涯しょうがいの交わりを、ここで損なわないでください。そうであれば、私は死んでも、あの世で恨みはしません」

そのとき、十万の兵が馬謖のために涙を流したといいます。亮は自ら祭りに臨み、残された子を馬謖が生きていたころと同じように扱あつかったそうです。

しばらくして漢中に蒋琬しょうえんがやって来ました。かつて酔よって仕事を放り出し、劉備りゅうびに殺されかけたところを亮に救われた男です。

蒋琬は言ったと伝えられます。

「天下がまだ定まらないのに、知恵ちえのある者を殺すのは、惜おしくはありませんか」

亮は涙を流して答えました。

「孫武そんぶが天下で勝ちを収められたのは、法をはっきりと用いたからだ。天下は分かれ、戦いは始まったばかりだ。ここでまた法を捨てたら、どうやって賊ぞくを討つのか」

孫武は、兵法で知られる昔の将軍です。

かつて法から救われた男が法で人を死なせたことを惜しみ、救った男が泣きながら法を語っていました。

亮は皇帝に文を差し出します。

「街亭で命令に背かれた失敗も、箕谷きこくで備えを怠おこたった過ちも、責めはすべて、任せ方を誤った臣にあります。臣は人を見る目がなく、事を思いはかるにも暗いところが多い。どうか自ら位を三つ下げて、その罪を正させてください」

臣は、人を見る目がない。

若いころ、自分を名宰相さいしょうになぞらえていた男が自分の手でそう書いたのです。

兵を増やして出直すよう勧すすめる者には、こう答えたと伝えられます。

「大軍は、祁山にも箕谷にも、敵より多くいた。それで敵を破れず、敵に破られたのだから、病は兵の少なさにあるのではない。一人にあるのだ」

「今より後、国のことを思う者は、ただ熱心に、私の欠点を責めてほしい」

亮の位は丞相じょうしょうから右将軍に下がりました。

ただ、記録はこう続きます。丞相の仕事を代わりに行い、取りしきるものは、それまでと同じでした。

位は三つ下がりました。抱かかえている仕事は、一つも減りませんでした。

その次は

231年、亮りょうはふたたび祁山きざんを囲みました。

後ろから兵糧ひょうろうを運ぶ役は、李平りへい。劉備りゅうびが死ぬとき亮とともに後のことを託たくされた、もう一人の臣です。

長雨が続き、兵糧が届かなくなりました。李平は使いを送り、亮に引き返すよう伝えます。亮はそれに従って兵を退きました。

ところが李平は軍が退いたと聞くと、驚おどろいたふりをして言いました。

「兵糧は十分にあるのに、どうして帰ってくるのか」

自分の不手際の責めを逃のがれ、亮が進まなかったせいにしようとしたのです。

亮は李平が前後に書いてよこした手紙をすべて出して見せました。言っていることの食い違ちがいは明らかでした。李平は言葉に詰つまり、罪を認めてわびました。

李平は位を奪うばわれ、ただの民に落とされます。

そのあと亮は李平の息子に手紙を書きました。

「私は、君たち父子と力を合わせて、漢の王室を助けようとしてきた。これは神々も聞いていることで、人が知っているだけのことではない」

手紙は父をなぐさめてやってほしいと頼たのみ、心を入れかえれば、また元に戻もどれる道もあると書いていました。そして、こう結ばれていました。

「この手紙を前に、長く嘆なげき、ただ涙なみだを流すばかりだ」

罰ばっしたのは、亮でした。泣いたのも、亮でした。

亮が罰した臣はほかにもいます。廖立りょうりつは自分の才は亮の次だと思い、まわりの臣たちや先帝せんていまで悪く言っていました。亮は皇帝こうていに申し出て廖立の位を奪い、遠い汶山ぶんざんの地へ移しました。

陣じんの中には別の悩なやみもありました。

猛将もうしょうの魏延ぎえんは出陣しゅつじんのたびに一万の兵を預けてほしいと願いました。亮とは別の道を進んで、先で落ち合いたい。亮は許しませんでした。魏延は亮を臆病おくびょう者だと言い、自分の才が使いきられないことを嘆いていました。

その魏延と仕事のよくできる楊儀ようぎはひどく仲が悪かったのです。亮は楊儀の才を惜おしみ、魏延の勇ましさを頼りにしていました。二人の不和をいつも恨うらめしく思いながら、どちらかを捨てるのは忍しのびなかった、と陳寿ちんじゅは書いています。

234年の春。亮は最後の出陣をします。五丈原ごじょうげんに陣を張り、渭水いすいの南で魏ぎの司馬懿しばいと向かい合いました。

兵糧が続かず、志が果たせないことを亮はいつも心配していました。そこで兵を分けて畑を耕させました。耕す兵は渭水のほとりに住む人々のあいだにまじりましたが、人々は落ち着いて暮らし、兵が勝手なふるまいをすることはありませんでした。

若いころ畑を耕していた男は最後の陣でも畑を耕させていました。

この出陣のとき亮は呉ごの国に仕えていた兄に手紙を書いています。

「瞻せんは、もう八歳さいになった。賢かしこくて、かわいい。ただ、早くできあがりすぎるのが気がかりで、大きな器にならないのではないかと心配している」

子のなかった亮に、のちに生まれた息子でした。

向かい合う司馬懿のもとへ亮の使者が来たことがありました。司馬懿が尋たずねたのは、戦のことではありませんでした。亮の寝ね起きと食事、そして仕事がどれほど忙いそがしいかだった、と伝えられます。

使者は答えました。

「諸葛公しょかつこうは、朝早く起きて、夜遅おそくに寝られます。二十以上の罰は、すべてご自分で裁かれます。召めし上がる量は、数升しょうにもなりません」

司馬懿は言いました。

「亮は、もうすぐ死ぬだろう」

病が重くなると成都せいとの皇帝は李福りふくという臣を見舞みまいに送りました。国の先のことを相談させるためです。

李福は話を聞いて別れましたが、数日たって急に馬を返して戻ってきたといいます。亮は言いました。

「君が戻ってきたわけは、分かっている。君が聞きたいことの答えは、公琰こうえんがよい」

公琰とは、蒋琬しょうえんのこと。酔よって殺されかけたところを昔、亮が救った男です。

李福はさらに尋ねました。蒋琬の後は誰だれが任に当たれるのか。

「文偉ぶんいが継つげるだろう」

文偉は、費禕ひいの呼び名です。

李福はその次を尋ねました。

亮は答えませんでした。

その年の旧暦きゅうれき8月、亮は病のため陣の中で亡くなりました。五十四歳でした。

のちの物語では亮は七つの星の灯をともして命を延ばそうと祈いのり、その祈りが破れて命が尽つきたことになっています。陳寿の『三国志さんごくし』は、「その年の八月、亮は病み、軍中で亡くなった」とだけ書いています。

遺言は、短いものでした。漢中かんちゅうの定軍山ていぐんざんに葬ほうむること。山をそのまま墓にし、塚つかは棺ひつぎが入るだけでいい。ふだんの服を着せ、器物は入れるな。

成都に、桑くわが八百株と、やせた田が十五頃けい。家族が食べていくには、それで足りる。自分が死ぬとき、ほかに余分な財産は残さない。前に皇帝にそう書き送っていたとおりでした。

軍が引き揚あげたあと司馬懿は亮の陣の跡あとを見て回り、言いました。

「天下の奇才きさいだ」

引き揚げる途中とちゅうで魏延と楊儀が争いはじめます。互たがいに相手を「謀反むほんだ」と皇帝に訴うったえ、一日のうちに急ぎの知らせが次々に届きました。魏延は敗れて逃げ、首を斬きられました。

亮がどちらも捨てられなかった二人でした。

李平は亮の死を聞くと病みついて死にました。亮なら、いつか自分を元に戻してくれる。あとの人には、それはできない。李平はずっとそう望み、そう考えていたからだ、と陳寿は説明しています。

汶山で妻子とともに畑を耕していた廖立は、亮の死を聞くと、涙を流して嘆きました。

「私は、ついに左衽さじんの者として終わるのだ」

左衽は、着物の襟えりを左前に合わせる、都から遠い異民族の着方のこと。都へ戻る日は、もう来ない。そう思ったのかもしれません。

罰した相手が泣いていました。

各地の人々は亮の廟びょうを建てたいと願い出ました。けれど朝廷ちょうていは決まりに合わないとして許しませんでした。

人々は季節がめぐるたびに、公には認められないまま道ばたで亮を祭ったと伝えられます。

「この人は、こちらから会いに行くことはできます。でも、呼びつけて来させることはできません」

三度訪ねてきた人のためにその若者はそれから二十数年走り続けました。

道ばたで亮を祭った人たちも、誰かに呼びつけられて来たわけではありませんでした。