中浜万次郎 — 箸で日本人になった人
日本語を忘れて帰ってきた漂流の漁師が、侍になっても船乗りのままだった一生
亀を探しに来たボート
「彼らからは、腹をすかせているということのほかは、何ひとつ分からなかった」
1841年6月27日。アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号の船長ホイットフィールドが、航海日誌にそう書いています。
その日の昼すぎ、船から小さな島が見えました。亀がいるかどうかを見るために、ボートを二艘、島へやった。島には、困りはてた人が五人いた。船長は、五人を船に連れ出させました。
亀を探しに行って、人間を見つけたのです。
五人の中でいちばん若いのは、十四歳の少年でした。
名は、万次郎。土佐(今の高知県)の中ノ浜という村の、漁師の家に生まれた子です。
話は、半年ほど前にさかのぼります。
1841年1月の末。宇佐の浦から、五人を乗せた小さな漁船が沖へ出ました。船頭は伝蔵。その弟の重助と五右衛門、それに寅右衛門。いちばん年下の万次郎は、誘われて乗ったのだと伝えられています。
小さいころから漁の船に乗っていた、とのちの伝記は書いています。十四歳のころには、もう船の上で釣った魚を針からはずす役をまかされ、大人の数に入っていたといいます。
漁の途中で、風が変わった。船は陸から離れ、東へ流されていきます。
室戸岬を見て、紀州の山々を遠くに見ながら、一週間ほど漂ったといいます。船の板を燃やして寒さをしのぎ、残りの米で粥を炊き、魚をあぶった。足りないのは、水でした。
望みは、ただ一つ。陸に上がって、腹いっぱい水を飲んでから死にたい。のちの伝記は、五人がそう思っていたと書いています。
流れ着いたのは、鳥島という、岩ばかりの小さな島でした。沖から見ると、山が鳥で覆われているように見えたといいます。
岩が切り立って、船を寄せられない。一晩、沖で過ごしました。翌日、錨の綱を引いても、五人がかりで上がらない。この上、錨に何の用があるか。伝蔵はそう言って、綱を切らせたそうです。
上陸のとき、大波で船がひっくり返りました。重助は脚を打ち、陸に上がると、気がゆるんで倒れ、気を失ったと伝えられます。
島に、人は住んでいませんでした。
五人は、一つだけある洞穴で寝ました。朝は岩の上の露をすすり、昼は食べ物を探す日々だった、と郷土史は書いています。島には信天翁が巣をかけていて、手でつかまえることができた。卵も、とって食べました。
桶で雨水を受け、飲み方には決まりを作った。死んだ鯨が流れ着いたときは、ごちそうのように喜んで食べたといいます。
暖かくなると、鳥はひなを連れて飛び去っていったそうです。食べ物は、また乏しくなる。五人は、海藻を拾って食べた。重助の脚は、治らないままでした。
島に着いてから、半年近くがたっていました。
ある日、沖に一隻の船が見えた。
「助け船だ、助け船が来た」
万次郎は躍り上がって、そう叫んだと伝えられます。万次郎たちは、そばにあった折れた帆柱を拾って、高い崖の上に登った。そして自分の着物を掲げ、船に向かって振ったといいます。
船が気づいて、ボートを下ろした。ほかの二人は、崖を回って下りていく。そのあいだに万次郎は着物を腰に巻き、崖を滑り降りて、ボートに飛び乗ったそうです。
船の上で、五人は粥をすすって飢えをしのいだといいます。言葉は、ひと言も通じない。どこの国から来たのかと聞かれても、ニッポン、ニッポンと繰り返すばかりだったと伝えられています。
船はそのまま漁を続け、数か月を海の上で過ごします。万次郎は漁を手伝い、船長にかわいがられて、「ジョン・マン」と呼ばれるようになったといいます。
ハワイのホノルルに着くと、四人は船を降り、島で暮らすことになりました。
万次郎だけが、船に残った。
船長が、元気のいいこの少年を気に入って、連れて行こうとした。万次郎も異を唱えずに乗った、と土佐の郷土史の講演は伝えています。少年のほうから、残してほしいと願ったと書く本もあります。
十四歳の少年を乗せて、船はホノルルを出ていきました。
向かう先は、言葉の通じない人たちの国でした。
どてらとハンカチ
1843年、船はアメリカ東部の港町、ニューベッドフォードに帰り着きました。
万次郎は、船長の住むフェアヘーブンの町で暮らしはじめます。
預けられたのは、桶職人アレンの家でした。娘のジェーンが、家で塾を開いていた。三十を過ぎた親切な人で、少年の身の上を気の毒がり、毎日習字を教えてくれた、とのちの伝記は書いています。
雪が深く、寒さの厳しい日には、もっぱら本を読み、字を習ったといいます。やがて数学を学び、海の上で船の位置を測る技術に打ち込んでいきました。
1846年、万次郎は捕鯨船フランクリン号の乗組員になります。19歳でした。
大西洋からインド洋へ。ある日、山のように大きな海亀が、海に浮かんでいるのが見えた。
万次郎は銛をつかんで海に飛び込んだ。亀まで泳いでいって背の甲羅に乗り、難なく綱をかけて、船のそばまで引いてきた。見ていた外国人の乗組員たちは、みな、その度胸に目を見張ったといいます。
亀を探しに来た船に拾われた少年は、自分で亀にまたがるようになっていました。
1847年、船は日本の近くの海で、鯨を追っていました。そして東北の沖で、日本の漁船の群れに出会います。
このとき万次郎は、洋服の上に、わざと昔のどてらを着た。ハンカチで鉢巻をした。そうして小舟を下ろし、漁船に近づいていった、と土佐の郷土史の講演は伝えています。
日本の漁師に、同じ日本人だと分かってもらうためだったのかもしれません。
漁船のそばで、こんなやり取りがあったといいます。
「ここは、どこだ」
「仙台の沖だ」
「土佐は、どっちだ」
「知らない」
万次郎がビスケットを一箱渡すと、相手はカツオをくれたそうです。
日本は、すぐそこにありました。けれど、船を降りることはできない。万次郎の船は、東南へ向きを変えました。
同じ年、船はハワイのホノルルに寄ります。そこには、昔の仲間がいました。
重助が病気で亡くなったこと。伝蔵たちが、一度は日本の北の浜まで行きながら、船を降りられずに戻ってきたこと。そして、万次郎の仙台沖の話。それぞれに語り合い、この世のうちに日本へ帰ることは、もう望めないのかと、男泣きに泣いたと伝えられます。
出帆の時が来て、万次郎は、また海へ出ていきました。
1849年、フランクリン号はアメリカに帰り着きます。
三年あまりの航海は、ほとんど世界をひと回りするものでした。見られなかったのは、イギリスの都とフランスの都だけ。万次郎はそれを惜しんだ、とのちの伝記は書いています。
帰るには、お金が要る。そのころアメリカでは、カリフォルニアの金山の評判が、何より高かった。万次郎は南アメリカの先を回ってサンフランシスコへ渡り、山の金鉱で働きました。
のちに本人は、手紙にこう書いています。金山には4か月いて、かかった費用のほかに、1日平均8ドルを稼いだ。そこで、帰ろうと心を決めた。大切な母に会うために。
1850年、ホノルル。帰国の話をすると、伝蔵と五右衛門はたいへん喜んだ。寅右衛門だけは、喜ばなかったといいます。
万次郎は、牧師のデーモンの力添えで、捕鯨用のボートを一隻、125ドルで買ったといいます。名前は、アドベンチャー号。冒険者、という意味です。
デーモンは、自分の出している新聞『フレンド』に、この若者のことを書いた。
「頭がよく、賢い青年で、機会をよく生かしてきた。英語をかなり正確に話し、書くことができる」
三人の計画も、記事に書かれています。琉球(今の沖縄)の近くで降ろしてもらえれば、そこから日本の船に乗れるかもしれない。
記事の終わりには、こうあります。
「捕鯨ボート、アドベンチャー号を指揮する、マン船長に成功を!」
1850年12月、三人はボートを積んだ商船でホノルルを出ました。
年が明けて、船は琉球の沖に来ます。のちの手紙に、本人はこう書いています。
「船長は、自分といっしょに残って、中国へ行ってほしいと言いました。けれど、私は断りました。母に会いたかったからです」
ひどく寒く、雪まじりの強い風が吹いていた、とも手紙にはあります。陸までは、のちの談話によれば、およそ5マイル(8キロ)。三人はボートに飛び乗り、午後4時に船を離れた。10時間こぎ続けて島の陰に錨を入れ、朝を待ちました。
朝、万次郎は、まず伝蔵を陸へ行かせた。伝蔵は、目に涙をためて戻ってきたと、万次郎はのちに語っています。生まれた国の言葉を忘れてしまっていて、土地の人と話が通じなかったのです。
万次郎も、同じでした。
「琉球の人たちのところへ上がっていきましたが、その人たちの言葉が分かりません。日本の言葉を、みんな忘れてしまったのです」
万次郎は、弾をこめた拳銃を持って上陸しました。
十年かけて帰ってきた三人は、水がほしいと、身ぶりで伝えました。