空海 — 言葉で勝ちすぎた人
自分の分身を「顔は土鍋」と書いた若者が、言葉で海を越え、言葉で友を失い、誰でも学べる学校を開いた。弘法大師の、意地っぱりな一生
銅の盆と、土鍋の顔
頭は、銅の盆のよう。顔は、素焼きの鍋かと思うほど。
長い脚は骨ばって、池のほとりに立つ鷺のよう。縮めた首は筋が浮いて、泥の中の亀のよう。
町に入れば、瓦や小石が雨のように降ってくる。渡し場を通れば、馬の糞を投げつけられる。
二十四歳の若者が、物語に出てくる一人の僧を、そう書きました。ぼろをまとい、鉢をさげて歩く、名もない乞食僧です。
しかも、この僧の生まれた土地に、わざわざ注までつけている。讃岐の多度。年は二十四。書いた本人と、まったく同じでした。
若者の名は、のちの空海。この物語は『聾瞽指帰』といい、のちに書き改められて『三教指帰』と呼ばれます。
自分の分身を、ここまでみっともなく描く人は、あまりいません。
もともと彼は、家の期待を背負った若者でした。十五歳で、母方のおじ、阿刀大足について書物を学ぶ。おじは、皇子に学問を教えるほどの学者です。十八歳で、都の大学に入った。役人を育てる学校でした。
その大学にいたころ、一人の僧が現れて、ある修行のやり方を見せた、と記録にあります。決まった真言を百万回となえれば、あらゆる経典の言葉と意味を覚えられる、というものでした。
若者は、それを信じた。阿波の大瀧嶽によじ登り、土佐の室戸の岬で祈り続けた。谷はその声にこだまし、明けの明星が姿を見せた、と記録は短く書いています。
大学は、離れました。
周りが黙っているはずはありません。のちに彼が書いた序文によれば、たくさんの親類や知人が、儒教の教えという縄で、彼を縛ろうとした。
そこで若者は、筆を取ります。
物語は、ある屋敷から始まる。主人の兎角公には、手のつけられない甥がいた。蛭牙公子。博打が仕事で、鷹と犬が趣味。飲んで、食べて、色ごとにふけり、寝てばかり。親戚が病気でも心配しない。父や兄をからかい、年長者を見下す。
兎角公は、客に来ていた儒学者の亀毛先生に、この甥をなんとかしてほしいと頼みます。
亀の毛も、兎の角も、この世にないもののたとえ。つまり、作り話ですよ、という名前です。
ところが研究者によれば、兎角公のモデルは、あのおじの阿刀大足。蛭牙公子は、親類の放蕩息子だといわれます。
作り話だと断っておいて、身内を舞台に上げ、思うさまやり込める。二十四歳の、なかなかの意地の悪さでした。
亀毛先生が儒教を説く。続いて、道教の隠者が出てきて、それをやり込める。そこへ、あの乞食僧、仮名乞児が門口に立ちます。
この僧は、ある人に厳しく責められたことがありました。
「あなたには親がいて、主君もいる。それなのに、なぜ親を養わず、主君に仕えないのか」
親戚はあなたのせいで恥じ入り、他人はあなたを見ると目をおおう。早く心を入れかえて、忠と孝につとめなさい、と。
僧は、すぐには言い返しません。まず、認めるのです。
「年老いた親は、髪が真っ白で、あの世が近い。それなのに私は頑固で、恩を返すすべがない」
家の財産は細り、垣根も家も傾きかけている。進んで仕えようにも、自分を取り立ててくれる主君はいない。退いて黙っていようにも、俸給を待っている親がいる。進むことも退くこともできず、ため息ばかりが出る、と。
物語の中の台詞です。けれど、生まれた土地も年も自分と同じ僧に、彼はこれを言わせました。
(勝ちたいのではない。分かってほしいのだ。分かってもらえないから、勝つしかないのだ)
それから僧は、ちゃんと言い返す。そして最後には、全員を負かしてしまいます。
世の中のはかなさを歌いあげると、聞いていた亀毛先生たちは、酢に漬けた梅を百石ぶん鼻に詰めこまれたように顔をゆがめた。泣きくずれ、地面に倒れて、気を失う。僧は、持っていた瓶の水を、その顔にぱっとふりかけて、目を覚まさせるのです。
ずいぶん芝居がかった勝ち方でした。
序文には、こう書いています。
「ただ、たまった怒りを吐き出すだけだ。誰が、ほかの人に読んでもらおうなどと望むものか」
最初の序文は、もっと生々しい。胸の中のものが、つぶれていない腫れもののようで、かごの中で飛び立ちたがる鳥のようだった。書くことで、その腫れものの膿をつぶすのだ、と。
そのくせ、こうも添えている。もしこの巻物を手に取る人がいたら、まず斧を研いで、この瓦礫を叩き割って捨ててほしい。
誰にも読ませるつもりはない、と書いた人が、読む人に向かって、壊して捨てていい、と語りかけているのです。
物語の乞食僧について、彼はこうも書きました。
「姿は笑われそうでも、志は、もう奪えない」
書き終えた日付は、七九七年の十二月一日。
紙の上では、勝ちました。おじも、放蕩息子も、ひれ伏させた。
そしてここから七年、空海の姿は、記録からほとんど消えてしまいます。
書類のない船
波の上で揺られること、二か月あまり。
水は尽き、人は疲れ、海はどこまでも長く、陸は遠い。
八〇四年の夏、日本を出た遣唐使の船は、嵐に流されていました。四隻のうち、唐までたどり着けたのは二隻だけです。
空海が乗っていたのは、その第一船。大使の藤原葛野麻呂と同じ船でした。
あの物語を書いてから、七年。そのあいだ彼は四国や紀伊の山で修行し、奈良の寺々で学んだとされます。久米寺で『大日経』という経典に出会ったが、読んでも分からないところが多く、教えてくれる師を唐に求めた、とも伝えられます。
三十一歳。自分で費用をまかなう、名もない留学僧でした。同じ船団の第二船には、すでに天皇の信頼を得ていた僧、最澄が乗っていた。
船が流れ着いたのは、目指していた港からはるか南、福州の赤岸鎮という海辺の村です。八月十日のことでした。
着いても、陸には上がれない。
日本からの正式な使いだと言っても、信じてもらえなかった。海賊ではないかと疑われたのです。一行は福州の港まで回されますが、役人たちが乗りこんできて、全員を船から引きずり下ろし、船を封印してしまった、と伝えられます。
大使が手紙を書いても、話は進まない。
そこで、大使に代わって筆を取ったのが、空海でした。
手紙は、まず唐の皇帝の徳をたっぷりとほめる。日本がどれほど昔から唐を慕ってきたかを述べる。そのうえで、問題の書類のことに触れます。
「竹の割り符や銅の印は、もともと、うそやごまかしを防ぐためのものです。世の中がすなおで、人が正直なら、書きつけが何の役に立つでしょう」
書類がないことを、謝ったのではありません。書類がないことこそ、正直な国のしるしだ、と言いきったのです。
役人のすることも、決まりとしては正しい。そう認めたうえで、こう続けた。
「遠くから来た者は、着いたばかりで、どこへ行っても心配ごとばかりです。海の上の不安が、まだ胸いっぱいに残っているのです」
この手紙のあと、観察使の閻済美は、態度を変えました。船の封印は解かれ、一行には十三棟の住まいと食べ物が与えられた、と伝えられます。
ほっとしたのも、つかの間でした。
都の長安へ向かうことを許された二十三人。その名簿に、空海の名前がなかったのです。
二十年学ぶつもりで、ここまで来た。都に行けなければ、何も始まらない。
空海は、今度は自分のために手紙を書きました。自分をへりくだって低く見せながら、どうか都へ行かせてほしい、と願い出たのです。
名簿に、名前が書き加えられました。
十一月三日、一行は福州を発つ。長安に入ったのは、その年の十二月の下旬でした。
ところが翌年の二月、大使たちは日本へ帰っていきます。
空海は、ひとりで残りました。西明寺という寺に住まいを与えられ、師を探して寺々を歩く。のちに彼は、そのときの自分を、ただ空海ひとりがぽつんと残った、と書いています。
(あの浜では、書けば道が開いた。けれどこの都では、誰に向けて何を書けばいいのかさえ、分からない)
数か月がたったころ、空海は西明寺の僧たち五、六人と連れだって、青龍寺を訪ねました。
そこにいたのは、恵果という老僧。三代の皇帝に灌頂を授け、都の人々に仰がれていた密教の師です。
恵果は、空海を見るなり笑みを浮かべた。そして喜んで、こう言ったと、空海は書き残しています。
「私は前から、あなたが来ることを知っていた。ずっと待っていたのだ。今日会えて、本当によい、本当によい」
老僧は、続けました。
「私の命は、もう尽きようとしている。それなのに、教えを託す人がいなかった」
恵果に残された時間は、あと半年ほどでした。