嘉納治五郎 — 疲れた、と言わない人

投げられても、病んでも、「疲れた」とは言わなかった。柔道をつくった人の、意地っぱりで不器用な一生

おいでなさい

「今の手は、どうしてかけるのです」

先生に技をかけられて、投げられた。若者はすぐに起き上がって、そう聞きました。

「おいでなさい」

先生はそれだけ言うと、いきなり、もう一度投げ飛ばした。

若者は引き下がりません。また立ち向かって、もっとしつこく聞いた。

「この手は、手をどう、足をどういたします」

「さあ、おいでなさい」

また、投げられた。

三度目も、同じことを聞きました。今度の返事は、少しだけ長かった。

「なあに、お前さん方が、そんなことを聞いて分かるものか。ただ数さえかければ、できるようになる。さあ、おいでなさい」

そして、またまた投げつけられた。後年、本人がそう語っています。あのとき投げられたのは隅返すみがえしという技だったと思う、とも。技の名前に思い当たったのは、ずっとあとになってからだったのです。

嘉納治五郎かのうじごろう。のちに柔道じゅうどうをつくる人の、柔術じゅうじゅつの稽古けいこは、こんなふうでした。

1877年。東京で学んでいた嘉納かのうは、日本橋にほんばしの福田八之助ふくだはちのすけという先生に入門しました。

生まれは今の兵庫県、灘なだの酒造りの家です。8歳のころに母を亡くし、数えで12歳の年に、東京にいた父に迎むかえられて出てきました。

嘉納は、体の小さい若者でした。

大人になってからの背丈せたけを、本人は五尺二寸(約158センチ)と言っていました。伝記を書いた横山健堂よこやまけんどうは、本当はそれにも少し足りなかったかもしれない、と書いています。

柔術に目を向けたわけを、姉はのちにこう話しています。小柄こがらな弟は、学校の相撲すもうでもなかなか勝てなかった。それで、体の小さい者が大男を負かす手立てを求めたのだ、と。きっかけは、それだけではなかったのかもしれません。

子どものころは、着物の重さにも堪たえられないほど弱かった。それが柔術の稽古で、別人のように丈夫じょうぶになった。のちの講道館こうどうかんの記録には、そうあります。一方で横山は、それは少し大げさではないか、それほど弱い子ではなかったようだ、と書いている。

弱かったかどうかはともかく、意地っぱりではありました。

学生のころ、父から決まった額の学費をもらっていた。早く使い切ってしまっても、追加を頼たのむことは決してしなかったといいます。米を買うお金がなくなると、米屋でくずの小米こごめをもらってくる。炊たくと、のりのようになってしまう、扱あつかいにくい米です。それで何日も、食うや食わずで勉強を続けた。

のちに、妻にこう言ったことがあるそうです。

「お前たちは、小米のご飯を炊くことはできまい」

学生仲間とは野球もやり、投手をつとめたこともある。けれど柔術に夢中になると、野球もテニスも、まるで興味をなくしました。カードには、一度も手を出さなかったといいます。碁ごや将棋しょうぎも少しはやったのに、ほかの遊びは、みんなやめてしまったそうです。負けるのが嫌きらいな若者が、勝ち方を探しはじめていました。

1879年、その福田先生が、病気で亡くなりました。52歳でした。家族は、流派の伝書をすべて嘉納に託たくし、道場の指導も嘉納が継ついだと伝えられます。入門して、二年ほどの弟子でした。

翌1880年。東京大学に、千葉の柔術の名門、戸塚派とつかはの人たちが招かれました。講堂を道場にして、形かたや乱取らんどりを見せるのです。

乱取りは、二人が自由に技をかけ合う、試合のような稽古です。それが始まると、見ていた学生の中から、一人だけ飛び出した者がいた。審判しんぱんの許しをもらうと、洋服を脱ぬぎ捨て、稽古の着物をつけて、乱取りに加わったそうです。

嘉納でした。同じころ大学にいた井上哲次郎いのうえてつじろうが、のちにそう語っています。見物に来ていた山田顕義やまだあきよしが、元気な学生だ、とほめちぎった、という話も伝わっている。

その翌年、福田のあとに習った磯正智いそまさともも亡くなります。嘉納は、別の流派の飯久保恒年いいくぼつねとしに就きました。

この先生には、まるで歯が立たなかった。

「飯久保先生が五十歳になられるまでは、自分は一本も取り得なかった」

のちに本人がそう話したことがある、と伝記にあります。

1882年の2月。21歳の嘉納は、下谷したやの寺に移り住みました。

家を持ったら、思いきり柔術をやるつもりだったといいます。書生たちも、そこで一緒いっしょに暮らしました。

今度は、自分が教える番です。どうして、と聞かれたら、何と答えるのだろう。

位牌いはいが跳はねた寺

寺は、永昌寺えいしょうじといいました。下谷したやの北稲荷町きたいなりちょうにある、浄土宗じょうどしゅうの寺です。

はじめに借りたのは、十二畳じゅうにじょうと七畳しちじょうの書院だけでした。そこが嘉納かのうの書斎しょさいで、寝室しんしつで、客間で、道場だった。

学習院で教える仕事から帰ると、嘉納は稽古着けいこぎに着替きがえて、机に向かう。客が来れば、稽古着の上に羽織をひっかけて会ったといいます。

最初の年の入門者は、9人。翌年は8人でした。世間はまだ、柔道じゅうどうという名前を知らない。嘉納にあてた案内状にも、相変わらず「柔術じゅうじゅつ」と書いてあったそうです。

滋賀から、16歳の力持ちを連れて帰ったこともあります。弁当に一升いっしょうの飯を平らげる大男でした。ところが案外気が弱く、稽古はさっぱり。家に帰りたいとめそめそ泣くので、とうとう送り返したといいます。

それでも稽古けいこは、日曜日には一日に四、五回も始まり、夜の11時、12時まで続いたといいます。

激しい稽古が続くうちに、書院の床下ゆかしたがゆるんできました。畳たたみを打つ音が、住職の耳に響ひびく。苦情が来ました。

その夜のことは、こう伝えられています。

夜中に、師弟でこっそり畳をはがす。嘉納が明かりを手に床下を照らし、門人の富田常次郎とみたつねじろうと西郷四郎さいごうしろうが、頬ほおかむりをしてもぐりこむ。クモの巣を払はらい、はいつくばって木切れで補う。つちの音がもれないように、びくびくしながら釘くぎを打った。

師弟は顔を見合わせて、くすくす笑ったそうです。

床ゆかが直ったと思ったら、今度は住職がやって来ました。こう申し出たと伝えられます。

「先日来、位牌堂いはいどうの位牌いはいが右へ左へ動いて、乱れている。ネズミのいたずらかとも思っていましたが、近ごろは下に落ちて散らばっているありさま。そこで見張っていたら、お稽古の響きに合わせて、位牌が勇ましく跳はね上がり、ひっくり返るのを確かめました。先生の御一考ごいっこうを願う」

位牌堂は寺の命だから、おろそかにはできない。嘉納はそう言って、寺の庭の一部を借り、十二畳の道場を建てたといいます。講道館こうどうかんが初めて持った、専用の道場です。

道場のお金は、すべて嘉納が出しました。月謝も取らなかったそうです。

同じころ、嘉納は、手に余る客を一人あずかっています。

白井小介しらいこすけ。幕末に、長州ちょうしゅうで一隊の隊長をしていた人です。しらふのときは、ごくおとなしい。けれど酒を飲むと、往来でも家の中でも、かまわず暴れた。古い友人の山縣有朋やまがたありともも手を焼き、客分として嘉納にあずけたのです。

六十を過ぎた老人が、二十代の嘉納と、あの十二畳と七畳の書院で暮らすことになりました。酔ようと、門人たちに吉原よしわらへ案内しろと言い出して、うぶな若者たちを逃にげ回らせた。のちには、人を訪ねるのにカステラの大箱を手みやげに持っていき、月末に、その代金の請求書せいきゅうしょが届いたこともあった。そんな話がいくつも伝えられています。

最初は、嘉納にも打ちかかってきた。物を投げつけてきたことも、何度もあった。そのときのことを、嘉納はのちにこう語っています。

打ってくるのは、武術の心得があるから外せる。投げつけられた物もよけて、ふところへ飛びこむ。そして、

「まあ、おとなしくしなさい」

年上の人だから、言葉は丁寧ていねいに。けれど、しっかり抱だきしめて、身動きもできないようにした。

そんなことが重なるうちに、白井は嘉納の前ではおとなしくなってしまった、と本人は言います。白井を自分にあずけたのは、品川弥二郎しながわやじろうの考えだったと聞いた。嘉納の話は、そう続きます。

「子爵ししゃくは私の長所をよく見ていたのだと思う」

少し得意そうにも聞こえる一言です。

白井のほうは、嘉納は若いが、おれの兄貴だ、とほめていたといいます。

その品川は、夫人とともに、独身の嘉納にいろいろな縁談えんだんをすすめてくれた人でもありました。嘉納は、それをみな断っています。当時はまだ、妻をもつつもりがなかったからだ、と本人は語っている。

1888年8月。嘉納は門人たちを前に、七日間の講義をしました。塾生じゅくせいの書きとめた筆記が残っています。

自分の柔道は、昔からの柔術を材料にして、新しく組み立て直したものだ。だから、

「天下にただ一つで、ほかに源と呼ぶべきものはない」

のちに門人の中から新しい工夫を出す者がいたら、「講道館何々流」と名のればいい、とも言いました。

数さえかければ、と言われた若者が、柔道とは何かを、七日かけて人に説いていたのです。

やがて嘉納も、妻を迎むかえます。須磨子すまこ。学者の竹添進一郎たけぞえしんいちろうの、一人娘ひとりむすめでした。

結婚けっこんするとき、嘉納は一つ約束をしたといいます。家のことと、子どもを育てることは、すべて妻に任せる。

のちに、娘むすめの一人が大病で、赤十字病院に入ることになりました。妻が相談すると、嘉納はこう言ったと伝えられます。

「約束と違ちがうではないか」