藤原鎌足(中臣鎌足) — 王にすると言った人
皇子を王にすると言い、別の皇子と組んで、宮殿で一人の男を斬る計画を立てた。藤原氏の祖の、表に立たない一生
沓を拾う
「格別のお恵みをいただき、前から望んでいた以上です。誰が、この方を天下の王にせずにいられましょう」
ある皇子の宮で、一人の男が、皇子の家来にそう語ったと『日本書紀』は書いています。
家来は、その言葉をそのまま主人に伝えた。皇子は、大いに喜びました。
言った男は、王の一族ではありません。この年の旧暦の正月に、もらったばかりの役目を断って、家に引っ込んでいた人でした。
中臣鎌足。のちに藤原という姓をもらう人で、このころの記録では「鎌子」と書かれています。数えで三十一歳でした。
断った役目は、神祇伯。神々のまつりをとりしきる役所の長です。中臣の家は、代々、神のまつりにかかわってきた家でした。
鎌足は、何度も断った。そして、病気だと言って、三島の家に引っ込んでしまいます。
同じころ、朝廷に出てこない皇子が、もう一人いました。軽皇子。足を悪くしていたのです。
鎌足は、もともとこの皇子と親しかった。それで、皇子の宮へ泊まりに出かけます。
皇子は、この客をたいへん重く見ました。かわいがっていた妃の阿倍氏に、別の建物をきれいに掃かせ、新しい敷物を高く敷かせた。何ひとつ足りないものがないように、もてなしたのです。
鎌足は、そのもてなしに心を動かされた。はじめの言葉は、このとき家来に向かって言ったものでした。
この人については、もう一つ、伝記が残っています。子孫の藤原仲麻呂がまとめた『藤氏家伝』。先祖をたたえるために書かれた本です。そこでは、同じ場面の言葉が少し違っている。
「どうして、あなたの君を帝にしないことがありましょう。君子は、言葉を食べたりはしません」
言葉を食べる、とは、言ったことを取り消すこと。約束は守る、という意味です。
ところが、同じ伝記は、すぐあとにこう続けます。皇子の器では、大きなことを一緒に企てるには足りない。そこで鎌足は、さらに別の君を選ぼうとした。
約束は守る、と言ったその口で、次の相手を探しはじめたことになります。
この伝記には、こんな話もあります。若いころから、兵法の本『六韜』を読むたびに、くり返し声に出して読んだ。王を助けて新しい国を開いた軍師、太公望の教えを伝える本です。
ある人が、たくましい男が二人、いつもあの方のあとについて歩いている、と言った。それを聞いた鎌足は、ひそかに得意になった、とも書かれています。
先祖をほめるための本に、得意になった話まで、ちゃんと書いてあるのです。
鎌足が組む相手を探していたのには、わけがありました。
蘇我入鹿。朝廷で、思うままに力をふるっていた男です。
前の年、入鹿は兵を向けて、山背大兄王という王族を追いつめていました。王は、こう言ったと書紀は書いています。
「私が兵を起こして入鹿を討てば、勝つのは決まっている。けれど、私一人のために、民を傷つけたくはない」
王は、一族とともに自ら命を絶ちました。入鹿の父の蝦夷でさえ、これを聞いて、ああ入鹿はなんと愚かなのか、とののしったといいます。
書紀は、鎌足が入鹿に憤っていた、と書いています。君と臣、年上と年下の順序を乱し、国の力をうかがっている、と。
王族を一人ずつ見て回ったすえ、鎌足が心を寄せたのは、中大兄という皇子でした。けれど、近づくきっかけがない。
ある日、法興寺の槻の木の下で、毬を使った遊びの集まりがありました。鎌足も、その仲間に加わっていた。
毬といっしょに、中大兄の皮の沓が、脱げて落ちました。
鎌足は、それを拾って手のひらにのせた。皇子の前にひざまずき、うやうやしく差し出します。
中大兄も、向かい合ってひざまずき、敬って受け取りました。
この日から、二人は親しくなった。思っていることを話し合い、隠すことは何もなかった、と書紀は書いています。
けれど、あまりたびたび会っていると、人に怪しまれる。
二人は書物を手に、南淵先生という学者のもとへ、周公や孔子の教えを学びに通うことにしました。
行きも帰りも、道の上で肩を並べ、ひそかに相談した。意見が食い違うことは、一度もありませんでした。
その相談は、やがて、宮殿の中で一人の男を斬る計画になっていきます。
花嫁が消えた夜
「大きなことを企てるには、助けがあるのがいちばんです」
鎌足は、中大兄にそう持ちかけたと『日本書紀』は書いています。
助けとして目をつけたのは、蘇我倉山田麻呂。入鹿と同じ、蘇我の一族の男でした。子孫がまとめた伝記『藤氏家伝』によれば、倉山田麻呂と入鹿は、たがいを嫌い合っていた。
その長女を、中大兄の妃に迎える。親戚になってから、計画を打ち明ける。成功への道に、これより近いものはない。鎌足はそう説き、中大兄は大いに喜んで、そのとおりにしました。
話をまとめに出向いたのは、鎌足自身です。
ところが、長女が嫁ぐはずだったその夜、娘は一族の者に盗まれてしまった。書紀は小さな注で、盗んだのは身狭の臣だと書いています。
倉山田麻呂は、うろたえ、恐れた。あおむけに寝転がったまま、どうしていいか分からない。
父の様子を怪しんだ下の娘が、そばへ来て、どうしたのかと尋ねます。父がわけを話すと、娘は言いました。
「どうか、心配なさらないでください。私を差し上げても、遅くはありません」
父は、大いに喜んだ。そして、その娘を差し出したのです。
姉の代わりに、自分から名乗り出た娘でした。
家伝では、花嫁を連れ去ったのは、倉山田麻呂の弟の武蔵になっています。中大兄はその無礼に怒り、武蔵を罰しようとした。そこで鎌足がいさめた、と家伝は書いています。
「すでに天下の大事を定めたのです。家の中の小さな過ちに、どうして怒るのですか」
中大兄は、すぐに思いとどまりました。
花嫁を盗まれた騒ぎも、この人の口から出ると、「家の中の小さな過ち」になる。
鎌足の目は、ずっと先の一点だけを見ていたのかもしれません。
迷ったのは、中大兄のほうでした。
家伝によれば、中大兄はこう打ち明けています。母である天皇に事情を話せば、計画は成らないかもしれない。話さなければ、黙って事を運ぶことになる。天皇を驚かせるのも気がかりだ。それは、臣下として、子として、道にかなうのだろうか。
鎌足は答えた、と家伝は書きます。
「臣下と子の行いは、ただ忠と孝です。忠と孝の道は、国を守り、家を興すもの。もしも皇室の綱が乱れて切れ、国の大もとが崩れたなら、これほどの不孝不忠はありません」
家伝によれば、中大兄はこう言いました。
「私が成るか敗れるかは、おまえにかかっている。努めよ」
次に鎌足が中大兄にすすめたのは、二人の男でした。佐伯子麻呂と、葛城稚犬養網田。
すすめたときの言葉を、書紀は「云云」と省いています。家伝にはこうある。武勇にすぐれ、決断が強く、力は鼎を持ち上げるほど。大事に加えるべきは、この二人だけです。
その年の旧暦11月、入鹿と父の蝦夷は、甘檮岡という丘に、家を二つ並べて建てました。
父の家を「上の宮門」、入鹿の家を「谷の宮門」と呼ばせ、自分たちの子どもを「王子」と呼ばせた。どれも、本来は天皇の一族に使う言葉です。家のまわりには柵をめぐらし、武器の倉を建て、力の強い者に、いつも武器を持たせて守らせました。
年が明けて、645年の旧暦6月。
中大兄は倉山田麻呂に、ひそかに計画を打ち明けます。朝鮮の三つの国から貢ぎ物が届く儀式の日に、あなたにその国書を読み上げてもらう。そして、入鹿を斬る。
倉山田麻呂は、引き受けました。
その日、皇極天皇は大極殿に出ました。そばには、古人大兄皇子が控えている。蘇我の血を引く皇子です。
家伝は、その日の入鹿の様子を、こう書いています。
出かけようとして沓をはくと、沓は三度くるりと回って、どうしても足に入らなかった。入鹿は嫌な予感がして、引き返そうかと迷った。けれど使いの者に何度も呼ばれ、しかたなく駆けつけた、といいます。
前の年、皇子の脱げた沓を拾ったところから、鎌足の話は始まっていました。
入鹿は、疑い深い男でした。昼も夜も、剣を手放さない。
それを知っていた鎌足は、前もって、俳優に、ある手を教えておきました。俳優とは、こっけいなしぐさで人を笑わせる芸人のことです。
どんな手だったのかは、伝わっていません。
入鹿は、笑った。
そして、剣を外して、座に着きました。
私には、罪がわかりません
入鹿が座に着くと、蘇我倉山田麻呂が進み出て、国書を読みはじめました。
そのあいだに、中大兄は宮殿の十二の門を、いっせいに閉じさせた。門の番をする者たちは、ほうびを与えると言って一か所に集めておく。誰も出入りできないようにして、自分は長い槍を手に、殿の脇に隠れます。
鎌足たちは、弓と矢を持って、守りについた。
箱にしまってあった二本の剣が、佐伯子麻呂と網田に渡されます。鎌足が中大兄にすすめた、あの二人です。渡した者は、こう言ったと『日本書紀』は書いている。
「しっかりやれ、しっかりやれ。すぐに斬るのだ」
子麻呂たちは、水で飯を流しこんだ。
そして、恐ろしさのあまり、吐いてしまった。
鎌足は、二人を叱りつけて、奮い立たせました。
国書の読み上げは、終わりに近づいていきます。子麻呂たちは、まだ来ない。
倉山田麻呂の体から、汗が流れ落ちた。声は乱れ、手は震えている。
入鹿が、怪しんで尋ねました。
「なぜ、震えている」
「天皇のおそば近くにいるのが恐れ多くて、思わず汗が流れるのです」
とっさの、言いわけでした。
中大兄は、子麻呂たちが入鹿の勢いに怯えて、動けずにいるのを見た。
「やあっ」
声を上げ、子麻呂たちと一緒に、不意を突いて入鹿の頭と肩に斬りつけます。入鹿が驚いて立ち上がると、子麻呂が剣をふるい、片足に斬りつけた。
入鹿は、転がるように天皇の座のほうへ進み、頭を床につけて言いました。
「皇位にいるべきなのは、天の御子です。私には、罪がわかりません。どうか、お調べください」
皇極天皇は、ひどく驚いて、中大兄に言った。
「何をしているのか、分からない。何があったのですか」
中大兄は、地にひれ伏して答えます。
「鞍作は、天皇の一族をことごとく滅ぼし、皇位を傾けようとしています。どうして、天の御子を、鞍作に代えられましょう」
鞍作とは、入鹿のことです。
天皇は立ち上がり、奥へ入っていった。
子麻呂と網田が、入鹿を斬りました。
この日は雨が降り、庭には水があふれていた。入鹿のなきがらは、筵とついたてで覆われた、と書紀は書いています。
記録の中の鎌足は、弓と矢を持って、守りについていた人です。
けれど、八百年ほどのちに、鎌足をまつる寺がまとめた縁起では、話が大きくなっていきます。鎌足の太刀が入鹿の肩を打ち落とした。切られた首は飛んで、石の柱にかみつき、四十回も跳ね上がった。そんな言い伝えが、いくつも並べて書かれているのです。
その日、鎌足が何を思ったのか。本人が書き残したものは、ありません。
斬られた側にも、人がいました。
古人大兄皇子は、自分の宮へ走って帰り、まわりの者に言いました。
「韓人が、鞍作臣を殺した。私の心は痛む」
朝鮮の国々の使いを迎える儀式の場で起きたことを、そう呼んだのかもしれません。書紀の注は、韓の国々とのまつりごとのために殺された、という意味だと説いています。皇子は寝所に入り、門を閉ざして、出てきませんでした。
中大兄は法興寺に入り、寺を砦にして守りを固めた。皇子たちも、貴族たちも、みな従いました。あの槻の木のある寺です。
蘇我の側について戦おうと、武器を取って集まった人々もいた。けれど、その中の一人がこう言って、剣を外し、弓を投げ捨てて去っていきます。
「われらは、主君の入鹿さまのせいで、きっと罰を受ける。大臣も、今日か明日には討たれるのを待つばかりだ。それなら、誰のために、むなしく戦って、みな罰を受けるのか」
集まっていた者たちも、散っていきました。
翌日、入鹿の父の蝦夷は、討たれる前に、天皇の記録や国の記録、宝物を、すべて焼いた。船史恵尺という者が、燃えている国の記録をすばやく取り出し、中大兄に差し出しました。
その日、蝦夷と入鹿のなきがらを、墓に葬ることが許されました。
声をあげて泣くことも、許されたのです。
置いていかれた王
子孫がまとめた伝記『藤氏家伝』によれば、中大兄は鎌足をたたえて言いました。断ち切れた綱がまた張り、傾いた運がよみがえったのは、まことに公の力だ。
鎌足は、こう答えたといいます。
「これは、聖なる徳によるもの。私の手柄ではありません」
入鹿が斬られて二日後、皇極天皇は、位を中大兄に譲ろうとしました。
中大兄は、そのことを鎌足に相談します。鎌足の答えを、『日本書紀』はこう書いている。
「古人大兄は、殿下の兄上です。軽皇子は、殿下の叔父上です。いま古人大兄がおられるのに、殿下が位につけば、弟として、へりくだって譲る心にそむきます。ここは叔父上を立てて、人々の望みに応えるのも、よいではありませんか」
中大兄は、この考えを深く喜び、ひそかに天皇に伝えました。
軽皇子。一年あまり前、鎌足が泊まりに行き、もてなしに心を動かされた、あの皇子です。家伝によれば、そのあとで、器が足りないと見て、別の君を探しはじめた相手でもありました。
軽皇子は何度も断り、古人大兄に譲ろうとした。
古人大兄は、座を下がって手を組み、自分は出家して吉野に入り、仏の道を修めて天皇をお守りしたい、と申し出ます。
言い終えると、腰の刀を外して、地面に投げた。従う者たちにも、みな刀を外させた。
そして法興寺へ行き、仏殿と塔のあいだで、ひげと髪を剃り落とし、袈裟をまといました。
二日前、門を閉ざして出てこなかった皇子です。あの日は入鹿が剣を外した。今度は、この皇子が刀を投げたのでした。
軽皇子は、天皇の位につきました。孝徳天皇です。中大兄は、皇太子になった。
鎌足には、大錦冠という位の冠と、内臣という役目が与えられます。国書を読みながら汗を流した倉山田麻呂は、右大臣になった。
書紀は、このころの鎌足をこう評しています。まことの忠を胸にいだき、宰相の力を持って、役人たちの上に立った。だから、人を取り立てるのも退けるのも、彼の計らいどおりに決まった。
五日後、新しい天皇と前の天皇、皇太子は、大きな槻の木の下に家来たちを集め、天と地の神々に誓わせました。
「天が、私たちの手を借りて、暴逆の者を滅ぼした。今、ともに心の血をしぼって誓う。今から後、君に二つの政はなく、臣に二つの朝廷はない。この誓いにそむけば、天は災いを下し、地は怪しいことを起こし、鬼が罰し、人が討つ」
誰が、この方を天下の王にせずにいられましょう。
あの言葉は、本当になったのです。
それから、八年がたちました。
653年、中大兄は孝徳天皇に、都を倭へ移したいと願い出ます。天皇は、許さなかった。
すると中大兄は、母である前の天皇と、孝徳天皇の皇后、弟たちを連れて、飛鳥の仮の宮へ移ってしまう。位の高い者も役人たちも、みなそのあとについていきました。
天皇は、恨んだ。位を捨てようと思い、山碕に新しい宮を造らせた、と書紀は書いています。
王にすると言われ、王になった人が、こうして置いていかれた。
そのとき鎌足がどちらの側にいたのか。書紀は、何も書いていません。
同じ653年の旧暦5月。唐へ向かう使いの船に、学問をする僧が何人も乗りこみました。その名の並びの中に、定恵という名がある。書紀は小さな注で、内大臣の長子、と書き添えています。
鎌足の、いちばん上の息子でした。
八百年ほどのちの寺の縁起には、定恵はじつは孝徳天皇の子で、身ごもった妃を天皇から鎌足が賜った、という話まで書かれています。書紀に、そのような話はありません。
翌654年の旧暦の正月、鎌足は、さらに上の紫冠を授けられ、封戸を増やされました。封戸とは、税を受け取れる家々のことです。この年の記事で、書紀は一度だけ、彼を「鎌足」と書いています。
置いていかれた王のそばにも、置いていった皇太子のそばにも、書紀の上の鎌足は姿を見せません。見えるのは、冠の色が変わっていくことだけです。
656年、鎌足は病にかかり、山階の家にこもりました。手当てをしても、よくならない。
鎌足をまつる寺の縁起は、こう伝えています。百済から来た尼の法明が訪ねてきて、維摩経というお経を読めば、病はおのずと治る、と言った。読んでもらうと、病は治った。
維摩経は、病の床にある維摩という人が主人公のお経です。家伝によれば、鎌足は毎年、旧暦の10月に法会を開き、維摩の教えを説かせたといいます。
661年、斉明天皇が、遠い朝倉の仮の宮で亡くなりました。あの日、大極殿で「何があったのですか」と尋ねた皇極天皇が、ふたたび位についていたのです。
家伝によれば、天皇の体が弱ったとき、鎌足は神々にも仏にも祈り、長生きを願ったといいます。
667年、都は近江に移り、翌668年の旧暦の正月、中大兄はようやく天皇の位につきました。天智天皇です。
沓を拾ってから、二十四年がたっていました。
子孫の伝記によれば、即位のあと、浜辺の高殿で開かれた酒の席で、一本の長い槍が、床の板を突き通します。
葬儀は、軽く
子孫がまとめた伝記『藤氏家伝』だけが伝える場面です。
天智天皇は家来たちを集め、浜辺の高殿で酒宴を開いた。酒がまわり、楽しさがきわまったころ、天皇の弟、大海人皇子が、長い槍で床の敷板を突き通しました。
天皇は驚き、激しく怒った。弟を捕らえて、殺そうとしたのです。
鎌足は、強くいさめました。天皇は、すぐに思いとどまった。
大海人皇子は、はじめ、鎌足が天皇に重く用いられるのを、快く思っていなかった。このときからあと、鎌足をとりわけ親しみ、重んじるようになった、と家伝は書いています。
二十年あまり前、宮殿の脇で長い槍を握り、身を隠していたのは、いま怒っている天皇その人でした。
その天皇と鎌足は、家伝によれば、君と臣でありながら、師と友のようだった。出かけるときは同じ車に乗って馬を並べ、家では敷物を寄せ合い、膝をつき合わせたといいます。
『日本書紀』に残る鎌足の言葉は、王や国をめぐるものが多い。
けれど『万葉集』には、鎌足が作ったとされる歌が残っています。いつ作ったのかは、分かりません。
鏡王女という女性に求婚したときには、歌のやり取りがありました。櫛の箱にふたをするように、隠しておくのはたやすい。けれど夜が明けてからあなたが帰っていけば、あなたの名はともかく、私の名が惜しい。そう詠んだ鏡王女に、鎌足は返しています。共に寝なければ、とても持ちこたえられそうにない、と。
もう一首は、采女の安見児を妻に迎えたときの歌です。采女とは、宮中に仕える女性のこと。
「われはもや 安見児得たり 皆人の 得かてにすといふ 安見児得たり」
ああ、私は安見児を手に入れた。誰もが手に入らないと言っていた、あの安見児を、手に入れたぞ。
短い歌のあいだに、手に入れた、が二度出てくる。
記録に残る鎌足の声で、いちばん弾んでいるのが、この歌です。
669年の旧暦5月、天智天皇は山科の野で狩りをしました。大海人皇子も、鎌足も、そろって従っています。
その年、鎌足の家に、雷が落ちた。
旧暦10月、鎌足は病の床にありました。家伝は、病がしだいに重くなっていったと書いています。
天皇は、自分で鎌足の家を訪ね、病のようすを尋ねました。憂いのあまり、ひどくやつれていた、と書紀は書いている。天皇は、こう言った。
「天の道は、仁のある者を助けるという。あれは、うその言葉だったのか。善いことを積めば、ありあまるほどのよいことが返ってくるという。それなのに、まだそのしるしがない。何か要るものがあれば、すぐに言え」
鎌足は答えました。
「私は、至らない者です。この上、何を申し上げましょう。ただ、葬儀は軽く、簡単にしてください。生きているあいだ、戦にも国の政にも務めを果たせませんでした。死んでから、どうして重い手間をおかけできましょう」
家伝によれば、鎌足はそう言うと、また横になり、それきり何も言わなかった。天皇は声をつまらせて泣き、宮へ帰っていったといいます。
五日後、天皇の使いとして、大海人皇子が鎌足の家に来ました。授けたのは、大織冠。いちばん上の冠です。書紀の注に引かれた別の記録によれば、このとき大臣の位と、藤原という姓も与えられました。
家伝の伝える槍の騒ぎで、天皇の怒りを鎌足に止めてもらった、あの弟でした。
翌日、鎌足は亡くなりました。数えで五十六歳でした。
三日後、天皇はふたたび鎌足の家を訪ね、蘇我赤兄に天皇の言葉を読み上げさせて、金の香炉を贈りました。
家伝は、そのときの天皇の言葉を、長く書き残しています。この香炉を持って、願っていたとおり、観音さまのあとについて天へ昇っていけ。そして、こうも嘆いている。
「大きな川を、まだ渡りきっていないのに、舟も楫も沈んでしまった。大きな家は、土台を据えたばかりなのに、棟も梁も折れてしまった。これから誰と国を治め、誰と民を治めればいいのか」
翌年、鎌足は山階の寺に葬られました。家伝によれば、葬列の日、天皇は白い喪の衣を着て、自分の足で歩いて臨み、柩に向かって声をあげて泣いた。葬儀の道具は、本人の遺言のとおり、つつましくそろえられたといいます。
672年、壬申の乱と呼ばれる大きな戦が起きます。
大海人皇子は、吉野を出て東の国へ向かう途中で、こう嘆いたと家伝は伝えます。
「もし大臣が生きていたなら、私が、こんな苦しみに落ちることがあっただろうか」
鎌足が死の前日にもらった藤原の姓は、698年、息子の不比等が継ぐことに決まりました。ほかの一族は、もとの中臣に戻されます。神のまつりに仕えるため、という理由でした。
「誰が、この方を天下の王にせずにいられましょう」
三十一歳の鎌足は、もてなしてくれた皇子の家来に、そう言いました。
それから二十五年。今度は王のほうが、病の床の鎌足に、何か要るものはないか、と尋ねた。
鎌足が頼んだのは、自分の葬儀を軽くすることだけでした。
1934年、大阪の阿武山で、一つの古い墓が見つかっています。中には六十歳前後の男性が葬られていて、冠の刺繍に使われたらしい金の糸が残っていた。これを鎌足の墓とみる説がありますが、確かめられてはいません。
葬儀は軽く、と頼んだ人が、どこに眠っているのか。今も、はっきりとは分かっていません。