藤原鎌足(中臣鎌足) — 王にすると言った人

皇子を王にすると言い、別の皇子と組んで、宮殿で一人の男を斬る計画を立てた。藤原氏の祖の、表に立たない一生

沓くつを拾う

「格別のお恵めぐみをいただき、前から望んでいた以上です。誰だれが、この方を天下の王にせずにいられましょう」

ある皇子の宮で、一人の男が、皇子の家来にそう語ったと『日本書紀にほんしょき』は書いています。

家来は、その言葉をそのまま主人に伝えた。皇子は、大いに喜びました。

言った男は、王の一族ではありません。この年の旧暦きゅうれきの正月に、もらったばかりの役目を断って、家に引っ込こんでいた人でした。

中臣鎌足なかとみのかまたり。のちに藤原ふじわらという姓せいをもらう人で、このころの記録では「鎌子かまこ」と書かれています。数えで三十一歳さいでした。

断った役目は、神祇伯じんぎはく。神々のまつりをとりしきる役所の長です。中臣の家は、代々、神のまつりにかかわってきた家でした。

鎌足かまたりは、何度も断った。そして、病気だと言って、三島みしまの家に引っ込んでしまいます。

同じころ、朝廷ちょうていに出てこない皇子が、もう一人いました。軽皇子かるのみこ。足を悪くしていたのです。

鎌足は、もともとこの皇子と親しかった。それで、皇子の宮へ泊とまりに出かけます。

皇子は、この客をたいへん重く見ました。かわいがっていた妃きさきの阿倍あべ氏に、別の建物をきれいに掃はかせ、新しい敷物しきものを高く敷しかせた。何ひとつ足りないものがないように、もてなしたのです。

鎌足は、そのもてなしに心を動かされた。はじめの言葉は、このとき家来に向かって言ったものでした。

この人については、もう一つ、伝記が残っています。子孫の藤原仲麻呂ふじわらのなかまろがまとめた『藤氏家伝とうしかでん』。先祖をたたえるために書かれた本です。そこでは、同じ場面の言葉が少し違ちがっている。

「どうして、あなたの君を帝みかどにしないことがありましょう。君子は、言葉を食べたりはしません」

言葉を食べる、とは、言ったことを取り消すこと。約束は守る、という意味です。

ところが、同じ伝記は、すぐあとにこう続けます。皇子の器では、大きなことを一緒いっしょに企くわだてるには足りない。そこで鎌足は、さらに別の君を選ぼうとした。

約束は守る、と言ったその口で、次の相手を探しはじめたことになります。

この伝記には、こんな話もあります。若いころから、兵法の本『六韜りくとう』を読むたびに、くり返し声に出して読んだ。王を助けて新しい国を開いた軍師、太公望たいこうぼうの教えを伝える本です。

ある人が、たくましい男が二人、いつもあの方のあとについて歩いている、と言った。それを聞いた鎌足は、ひそかに得意になった、とも書かれています。

先祖をほめるための本に、得意になった話まで、ちゃんと書いてあるのです。

鎌足が組む相手を探していたのには、わけがありました。

蘇我入鹿そがのいるか。朝廷で、思うままに力をふるっていた男です。

前の年、入鹿は兵を向けて、山背大兄王やましろのおおえのおうという王族を追いつめていました。王は、こう言ったと書紀しょきは書いています。

「私が兵を起こして入鹿を討てば、勝つのは決まっている。けれど、私一人のために、民を傷つけたくはない」

王は、一族とともに自ら命を絶ちました。入鹿の父の蝦夷えみしでさえ、これを聞いて、ああ入鹿はなんと愚おろかなのか、とののしったといいます。

書紀は、鎌足が入鹿に憤いきどおっていた、と書いています。君と臣、年上と年下の順序を乱し、国の力をうかがっている、と。

王族を一人ずつ見て回ったすえ、鎌足が心を寄せたのは、中大兄なかのおおえという皇子でした。けれど、近づくきっかけがない。

ある日、法興寺ほうこうじの槻つきの木の下で、毬まりを使った遊びの集まりがありました。鎌足も、その仲間に加わっていた。

毬といっしょに、中大兄の皮の沓くつが、脱ぬげて落ちました。

鎌足は、それを拾って手のひらにのせた。皇子の前にひざまずき、うやうやしく差し出します。

中大兄も、向かい合ってひざまずき、敬って受け取りました。

この日から、二人は親しくなった。思っていることを話し合い、隠かくすことは何もなかった、と書紀は書いています。

けれど、あまりたびたび会っていると、人に怪あやしまれる。

二人は書物を手に、南淵みなぶち先生という学者のもとへ、周公しゅうこうや孔子こうしの教えを学びに通うことにしました。

行きも帰りも、道の上で肩かたを並べ、ひそかに相談した。意見が食い違うことは、一度もありませんでした。

その相談は、やがて、宮殿きゅうでんの中で一人の男を斬きる計画になっていきます。

花嫁はなよめが消えた夜

「大きなことを企くわだてるには、助けがあるのがいちばんです」

鎌足かまたりは、中大兄なかのおおえにそう持ちかけたと『日本書紀にほんしょき』は書いています。

助けとして目をつけたのは、蘇我倉山田麻呂そがのくらやまだのまろ。入鹿いるかと同じ、蘇我そがの一族の男でした。子孫がまとめた伝記『藤氏家伝とうしかでん』によれば、倉山田麻呂くらやまだのまろと入鹿は、たがいを嫌きらい合っていた。

その長女を、中大兄の妃きさきに迎むかえる。親戚しんせきになってから、計画を打ち明ける。成功への道に、これより近いものはない。鎌足はそう説き、中大兄は大いに喜んで、そのとおりにしました。

話をまとめに出向いたのは、鎌足自身です。

ところが、長女が嫁とつぐはずだったその夜、娘むすめは一族の者に盗ぬすまれてしまった。書紀しょきは小さな注で、盗んだのは身狭むさの臣おみだと書いています。

倉山田麻呂は、うろたえ、恐おそれた。あおむけに寝転ねころがったまま、どうしていいか分からない。

父の様子を怪あやしんだ下の娘が、そばへ来て、どうしたのかと尋たずねます。父がわけを話すと、娘は言いました。

「どうか、心配なさらないでください。私を差し上げても、遅おそくはありません」

父は、大いに喜んだ。そして、その娘を差し出したのです。

姉の代わりに、自分から名乗り出た娘でした。

家伝では、花嫁はなよめを連れ去ったのは、倉山田麻呂の弟の武蔵むさしになっています。中大兄はその無礼に怒いかり、武蔵を罰ばっしようとした。そこで鎌足がいさめた、と家伝は書いています。

「すでに天下の大事を定めたのです。家の中の小さな過ちに、どうして怒るのですか」

中大兄は、すぐに思いとどまりました。

花嫁を盗まれた騒さわぎも、この人の口から出ると、「家の中の小さな過ち」になる。

鎌足の目は、ずっと先の一点だけを見ていたのかもしれません。

迷ったのは、中大兄のほうでした。

家伝によれば、中大兄はこう打ち明けています。母である天皇に事情を話せば、計画は成らないかもしれない。話さなければ、黙だまって事を運ぶことになる。天皇を驚おどろかせるのも気がかりだ。それは、臣下として、子として、道にかなうのだろうか。

鎌足は答えた、と家伝は書きます。

「臣下と子の行いは、ただ忠と孝です。忠と孝の道は、国を守り、家を興すもの。もしも皇室の綱つなが乱れて切れ、国の大もとが崩くずれたなら、これほどの不孝不忠はありません」

家伝によれば、中大兄はこう言いました。

「私が成るか敗れるかは、おまえにかかっている。努めよ」

次に鎌足が中大兄にすすめたのは、二人の男でした。佐伯子麻呂さえきのこまろと、葛城稚犬養網田かずらきのわかいぬかいのあみた。

すすめたときの言葉を、書紀は「云云うんぬん」と省いています。家伝にはこうある。武勇にすぐれ、決断が強く、力は鼎かなえを持ち上げるほど。大事に加えるべきは、この二人だけです。

その年の旧暦きゅうれき11月、入鹿と父の蝦夷えみしは、甘檮岡あまかしのおかという丘おかに、家を二つ並べて建てました。

父の家を「上の宮門みかど」、入鹿の家を「谷の宮門」と呼ばせ、自分たちの子どもを「王子みこ」と呼ばせた。どれも、本来は天皇の一族に使う言葉です。家のまわりには柵さくをめぐらし、武器の倉を建て、力の強い者に、いつも武器を持たせて守らせました。

年が明けて、645年の旧暦6月。

中大兄は倉山田麻呂に、ひそかに計画を打ち明けます。朝鮮ちょうせんの三つの国から貢みつぎ物が届く儀式ぎしきの日に、あなたにその国書を読み上げてもらう。そして、入鹿を斬きる。

倉山田麻呂は、引き受けました。

その日、皇極こうぎょく天皇は大極殿だいごくでんに出ました。そばには、古人大兄ふるひとのおおえ皇子が控ひかえている。蘇我の血を引く皇子です。

家伝は、その日の入鹿の様子を、こう書いています。

出かけようとして沓くつをはくと、沓は三度くるりと回って、どうしても足に入らなかった。入鹿は嫌な予感がして、引き返そうかと迷った。けれど使いの者に何度も呼ばれ、しかたなく駆かけつけた、といいます。

前の年、皇子の脱ぬげた沓を拾ったところから、鎌足の話は始まっていました。

入鹿は、疑い深い男でした。昼も夜も、剣けんを手放さない。

それを知っていた鎌足は、前もって、俳優わざおぎに、ある手を教えておきました。俳優とは、こっけいなしぐさで人を笑わせる芸人のことです。

どんな手だったのかは、伝わっていません。

入鹿は、笑った。

そして、剣を外して、座に着きました。

私には、罪がわかりません

入鹿いるかが座に着くと、蘇我倉山田麻呂そがのくらやまだのまろが進み出て、国書を読みはじめました。

そのあいだに、中大兄なかのおおえは宮殿きゅうでんの十二の門を、いっせいに閉じさせた。門の番をする者たちは、ほうびを与あたえると言って一か所に集めておく。誰だれも出入りできないようにして、自分は長い槍やりを手に、殿とのの脇わきに隠かくれます。

鎌足かまたりたちは、弓と矢を持って、守りについた。

箱にしまってあった二本の剣けんが、佐伯子麻呂さえきのこまろと網田あみたに渡わたされます。鎌足が中大兄にすすめた、あの二人です。渡した者は、こう言ったと『日本書紀にほんしょき』は書いている。

「しっかりやれ、しっかりやれ。すぐに斬きるのだ」

子麻呂こまろたちは、水で飯を流しこんだ。

そして、恐おそろしさのあまり、吐はいてしまった。

鎌足は、二人を叱しかりつけて、奮い立たせました。

国書の読み上げは、終わりに近づいていきます。子麻呂たちは、まだ来ない。

倉山田麻呂くらやまだのまろの体から、汗あせが流れ落ちた。声は乱れ、手は震ふるえている。

入鹿が、怪あやしんで尋たずねました。

「なぜ、震えている」

「天皇のおそば近くにいるのが恐れ多くて、思わず汗が流れるのです」

とっさの、言いわけでした。

中大兄は、子麻呂たちが入鹿の勢いに怯おびえて、動けずにいるのを見た。

「やあっ」

声を上げ、子麻呂たちと一緒いっしょに、不意を突ついて入鹿の頭と肩かたに斬りつけます。入鹿が驚おどろいて立ち上がると、子麻呂が剣をふるい、片足に斬りつけた。

入鹿は、転がるように天皇の座のほうへ進み、頭を床ゆかにつけて言いました。

「皇位にいるべきなのは、天の御子みこです。私には、罪がわかりません。どうか、お調べください」

皇極こうぎょく天皇は、ひどく驚いて、中大兄に言った。

「何をしているのか、分からない。何があったのですか」

中大兄は、地にひれ伏ふして答えます。

「鞍作くらつくりは、天皇の一族をことごとく滅ほろぼし、皇位を傾かたむけようとしています。どうして、天の御子を、鞍作に代えられましょう」

鞍作とは、入鹿のことです。

天皇は立ち上がり、奥おくへ入っていった。

子麻呂と網田が、入鹿を斬りました。

この日は雨が降り、庭には水があふれていた。入鹿のなきがらは、筵むしろとついたてで覆おおわれた、と書紀しょきは書いています。

記録の中の鎌足は、弓と矢を持って、守りについていた人です。

けれど、八百年ほどのちに、鎌足をまつる寺がまとめた縁起えんぎでは、話が大きくなっていきます。鎌足の太刀たちが入鹿の肩を打ち落とした。切られた首は飛んで、石の柱にかみつき、四十回も跳はね上がった。そんな言い伝えが、いくつも並べて書かれているのです。

その日、鎌足が何を思ったのか。本人が書き残したものは、ありません。

斬られた側にも、人がいました。

古人大兄ふるひとのおおえ皇子は、自分の宮へ走って帰り、まわりの者に言いました。

「韓人からひとが、鞍作臣くらつくりのおみを殺した。私の心は痛む」

朝鮮ちょうせんの国々の使いを迎むかえる儀式ぎしきの場で起きたことを、そう呼んだのかもしれません。書紀の注は、韓の国々とのまつりごとのために殺された、という意味だと説いています。皇子は寝所しんじょに入り、門を閉ざして、出てきませんでした。

中大兄は法興寺ほうこうじに入り、寺を砦とりでにして守りを固めた。皇子たちも、貴族たちも、みな従いました。あの槻つきの木のある寺です。

蘇我そがの側について戦おうと、武器を取って集まった人々もいた。けれど、その中の一人がこう言って、剣を外し、弓を投げ捨てて去っていきます。

「われらは、主君の入鹿さまのせいで、きっと罰ばつを受ける。大臣も、今日か明日には討たれるのを待つばかりだ。それなら、誰のために、むなしく戦って、みな罰を受けるのか」

集まっていた者たちも、散っていきました。

翌日、入鹿の父の蝦夷えみしは、討たれる前に、天皇の記録や国の記録、宝物を、すべて焼いた。船史恵尺ふねのふひとえさかという者が、燃えている国の記録をすばやく取り出し、中大兄に差し出しました。

その日、蝦夷と入鹿のなきがらを、墓に葬ほうむることが許されました。

声をあげて泣くことも、許されたのです。

置いていかれた王

子孫がまとめた伝記『藤氏家伝とうしかでん』によれば、中大兄なかのおおえは鎌足かまたりをたたえて言いました。断ち切れた綱つながまた張り、傾かたむいた運がよみがえったのは、まことに公きみの力だ。

鎌足は、こう答えたといいます。

「これは、聖なる徳によるもの。私の手柄てがらではありません」

入鹿いるかが斬きられて二日後、皇極こうぎょく天皇は、位を中大兄に譲ゆずろうとしました。

中大兄は、そのことを鎌足に相談します。鎌足の答えを、『日本書紀にほんしょき』はこう書いている。

「古人大兄ふるひとのおおえは、殿下でんかの兄上です。軽皇子かるのみこは、殿下の叔父おじ上です。いま古人大兄がおられるのに、殿下が位につけば、弟として、へりくだって譲る心にそむきます。ここは叔父上を立てて、人々の望みに応えるのも、よいではありませんか」

中大兄は、この考えを深く喜び、ひそかに天皇に伝えました。

軽皇子。一年あまり前、鎌足が泊とまりに行き、もてなしに心を動かされた、あの皇子です。家伝によれば、そのあとで、器が足りないと見て、別の君を探しはじめた相手でもありました。

軽皇子は何度も断り、古人大兄に譲ろうとした。

古人大兄は、座を下がって手を組み、自分は出家して吉野よしのに入り、仏の道を修めて天皇をお守りしたい、と申し出ます。

言い終えると、腰こしの刀を外して、地面に投げた。従う者たちにも、みな刀を外させた。

そして法興寺ほうこうじへ行き、仏殿ぶつでんと塔とうのあいだで、ひげと髪かみを剃そり落とし、袈裟けさをまといました。

二日前、門を閉ざして出てこなかった皇子です。あの日は入鹿が剣けんを外した。今度は、この皇子が刀を投げたのでした。

軽皇子は、天皇の位につきました。孝徳こうとく天皇です。中大兄は、皇太子になった。

鎌足には、大錦冠だいきんかんという位の冠かんむりと、内臣うちつおみという役目が与あたえられます。国書を読みながら汗あせを流した倉山田麻呂くらやまだのまろは、右大臣うだいじんになった。

書紀しょきは、このころの鎌足をこう評しています。まことの忠を胸にいだき、宰相さいしょうの力を持って、役人たちの上に立った。だから、人を取り立てるのも退けるのも、彼かれの計らいどおりに決まった。

五日後、新しい天皇と前の天皇、皇太子は、大きな槻つきの木の下に家来たちを集め、天と地の神々に誓ちかわせました。

「天が、私たちの手を借りて、暴逆の者を滅ほろぼした。今、ともに心の血をしぼって誓う。今から後、君に二つの政まつりごとはなく、臣に二つの朝廷ちょうていはない。この誓いにそむけば、天は災いを下し、地は怪あやしいことを起こし、鬼おにが罰ばっし、人が討つ」

誰だれが、この方を天下の王にせずにいられましょう。

あの言葉は、本当になったのです。

それから、八年がたちました。

653年、中大兄は孝徳天皇に、都を倭やまとへ移したいと願い出ます。天皇は、許さなかった。

すると中大兄は、母である前の天皇と、孝徳天皇の皇后、弟たちを連れて、飛鳥あすかの仮の宮へ移ってしまう。位の高い者も役人たちも、みなそのあとについていきました。

天皇は、恨うらんだ。位を捨てようと思い、山碕やまさきに新しい宮を造らせた、と書紀は書いています。

王にすると言われ、王になった人が、こうして置いていかれた。

そのとき鎌足がどちらの側にいたのか。書紀は、何も書いていません。

同じ653年の旧暦きゅうれき5月。唐とうへ向かう使いの船に、学問をする僧そうが何人も乗りこみました。その名の並びの中に、定恵じょうえという名がある。書紀は小さな注で、内大臣うちのおおおみの長子、と書き添そえています。

鎌足の、いちばん上の息子でした。

八百年ほどのちの寺の縁起えんぎには、定恵はじつは孝徳天皇の子で、身ごもった妃きさきを天皇から鎌足が賜たまわった、という話まで書かれています。書紀に、そのような話はありません。

翌654年の旧暦の正月、鎌足は、さらに上の紫冠しかんを授けられ、封戸ふこを増やされました。封戸とは、税を受け取れる家々のことです。この年の記事で、書紀は一度だけ、彼を「鎌足」と書いています。

置いていかれた王のそばにも、置いていった皇太子のそばにも、書紀の上の鎌足は姿を見せません。見えるのは、冠の色が変わっていくことだけです。

656年、鎌足は病にかかり、山階やましなの家にこもりました。手当てをしても、よくならない。

鎌足をまつる寺の縁起は、こう伝えています。百済くだらから来た尼あまの法明ほうみょうが訪ねてきて、維摩経ゆいまきょうというお経を読めば、病はおのずと治る、と言った。読んでもらうと、病は治った。

維摩経は、病の床とこにある維摩ゆいまという人が主人公のお経です。家伝によれば、鎌足は毎年、旧暦の10月に法会ほうえを開き、維摩の教えを説かせたといいます。

661年、斉明さいめい天皇が、遠い朝倉あさくらの仮の宮で亡くなりました。あの日、大極殿だいごくでんで「何があったのですか」と尋たずねた皇極天皇が、ふたたび位についていたのです。

家伝によれば、天皇の体が弱ったとき、鎌足は神々にも仏にも祈いのり、長生きを願ったといいます。

667年、都は近江おうみに移り、翌668年の旧暦の正月、中大兄はようやく天皇の位につきました。天智てんじ天皇です。

沓くつを拾ってから、二十四年がたっていました。

子孫の伝記によれば、即位そくいのあと、浜辺はまべの高殿たかどので開かれた酒の席で、一本の長い槍やりが、床の板を突つき通します。

葬儀そうぎは、軽く

子孫がまとめた伝記『藤氏家伝とうしかでん』だけが伝える場面です。

天智てんじ天皇は家来たちを集め、浜辺はまべの高殿たかどので酒宴しゅえんを開いた。酒がまわり、楽しさがきわまったころ、天皇の弟、大海人おおあま皇子が、長い槍やりで床ゆかの敷板しきいたを突つき通しました。

天皇は驚おどろき、激しく怒おこった。弟を捕とらえて、殺そうとしたのです。

鎌足かまたりは、強くいさめました。天皇は、すぐに思いとどまった。

大海人皇子は、はじめ、鎌足が天皇に重く用いられるのを、快く思っていなかった。このときからあと、鎌足をとりわけ親しみ、重んじるようになった、と家伝は書いています。

二十年あまり前、宮殿きゅうでんの脇わきで長い槍を握にぎり、身を隠かくしていたのは、いま怒っている天皇その人でした。

その天皇と鎌足は、家伝によれば、君と臣でありながら、師と友のようだった。出かけるときは同じ車に乗って馬を並べ、家では敷物しきものを寄せ合い、膝ひざをつき合わせたといいます。

『日本書紀にほんしょき』に残る鎌足の言葉は、王や国をめぐるものが多い。

けれど『万葉集まんようしゅう』には、鎌足が作ったとされる歌が残っています。いつ作ったのかは、分かりません。

鏡王女かがみのおおきみという女性に求婚きゅうこんしたときには、歌のやり取りがありました。櫛くしの箱にふたをするように、隠しておくのはたやすい。けれど夜が明けてからあなたが帰っていけば、あなたの名はともかく、私の名が惜おしい。そう詠よんだ鏡王女に、鎌足は返しています。共に寝ねなければ、とても持ちこたえられそうにない、と。

もう一首は、采女うねめの安見児やすみこを妻に迎むかえたときの歌です。采女とは、宮中に仕える女性のこと。

「われはもや 安見児得たり 皆人みなひとの 得かてにすといふ 安見児得たり」

ああ、私は安見児を手に入れた。誰だれもが手に入らないと言っていた、あの安見児を、手に入れたぞ。

短い歌のあいだに、手に入れた、が二度出てくる。

記録に残る鎌足の声で、いちばん弾はずんでいるのが、この歌です。

669年の旧暦きゅうれき5月、天智天皇は山科やましなの野で狩かりをしました。大海人皇子も、鎌足も、そろって従っています。

その年、鎌足の家に、雷かみなりが落ちた。

旧暦10月、鎌足は病の床にありました。家伝は、病がしだいに重くなっていったと書いています。

天皇は、自分で鎌足の家を訪ね、病のようすを尋たずねました。憂うれいのあまり、ひどくやつれていた、と書紀しょきは書いている。天皇は、こう言った。

「天の道は、仁のある者を助けるという。あれは、うその言葉だったのか。善いことを積めば、ありあまるほどのよいことが返ってくるという。それなのに、まだそのしるしがない。何か要るものがあれば、すぐに言え」

鎌足は答えました。

「私は、至らない者です。この上、何を申し上げましょう。ただ、葬儀そうぎは軽く、簡単にしてください。生きているあいだ、戦にも国の政まつりごとにも務めを果たせませんでした。死んでから、どうして重い手間をおかけできましょう」

家伝によれば、鎌足はそう言うと、また横になり、それきり何も言わなかった。天皇は声をつまらせて泣き、宮へ帰っていったといいます。

五日後、天皇の使いとして、大海人皇子が鎌足の家に来ました。授けたのは、大織冠たいしょくかん。いちばん上の冠かんむりです。書紀の注に引かれた別の記録によれば、このとき大臣の位と、藤原ふじわらという姓せいも与あたえられました。

家伝の伝える槍の騒さわぎで、天皇の怒りを鎌足に止めてもらった、あの弟でした。

翌日、鎌足は亡くなりました。数えで五十六歳さいでした。

三日後、天皇はふたたび鎌足の家を訪ね、蘇我赤兄そがのあかえに天皇の言葉を読み上げさせて、金の香炉こうろを贈おくりました。

家伝は、そのときの天皇の言葉を、長く書き残しています。この香炉を持って、願っていたとおり、観音かんのんさまのあとについて天へ昇のぼっていけ。そして、こうも嘆なげいている。

「大きな川を、まだ渡わたりきっていないのに、舟ふねも楫かじも沈しずんでしまった。大きな家は、土台を据すえたばかりなのに、棟むねも梁はりも折れてしまった。これから誰と国を治め、誰と民を治めればいいのか」

翌年、鎌足は山階やましなの寺に葬ほうむられました。家伝によれば、葬列そうれつの日、天皇は白い喪もの衣を着て、自分の足で歩いて臨み、柩ひつぎに向かって声をあげて泣いた。葬儀の道具は、本人の遺言のとおり、つつましくそろえられたといいます。

672年、壬申じんしんの乱と呼ばれる大きな戦が起きます。

大海人皇子は、吉野よしのを出て東の国へ向かう途中とちゅうで、こう嘆いたと家伝は伝えます。

「もし大臣が生きていたなら、私が、こんな苦しみに落ちることがあっただろうか」

鎌足が死の前日にもらった藤原の姓は、698年、息子の不比等ふひとが継つぐことに決まりました。ほかの一族は、もとの中臣なかとみに戻もどされます。神のまつりに仕えるため、という理由でした。

「誰が、この方を天下の王にせずにいられましょう」

三十一歳の鎌足は、もてなしてくれた皇子の家来に、そう言いました。

それから二十五年。今度は王のほうが、病の床の鎌足に、何か要るものはないか、と尋ねた。

鎌足が頼たのんだのは、自分の葬儀を軽くすることだけでした。

1934年、大阪の阿武山あぶやまで、一つの古い墓が見つかっています。中には六十歳前後の男性が葬られていて、冠の刺繍ししゅうに使われたらしい金の糸が残っていた。これを鎌足の墓とみる説がありますが、確かめられてはいません。

葬儀は軽く、と頼んだ人が、どこに眠ねむっているのか。今も、はっきりとは分かっていません。