関羽 — 並ばれたくない人
誰にも並ばれたくなかった。三国志の英雄の怒りっぽくて、ほめられると弱い一生
ここには、留まらない
「男たるもの、老兵と同じ列には、決して並ばぬ」
王の使者が、将軍に任じるという命令を伝えに来た日のことです。その男はこう言って怒り、任命を受けようとしませんでした。
老兵とは黄忠という将軍のこと。自分と同じ格の将軍に、その黄忠も任じられた、と聞いたのでした。
男の名は、関羽。千八百年ほど前の中国で、劉備という人に仕えた武将です。
このあと彼がどうしたのかは、もう少し先で話します。まずは若いころに戻ります。
関羽は河東の解という土地の生まれでした。あるとき故郷を捨てて、遠い涿郡へ逃れてきました。なぜ逃げたのかは伝わっていません。
そこで出会ったのが、劉備です。劉備が故郷で仲間を集めたとき、関羽は数歳年下の張飛と二人でその身を守る役をつとめました。
劉備はこの二人と寝るときは同じ寝台を使いました。恩は兄弟のようだった、と歴史書にあります。
けれど、大勢の人が集まる席では、二人は一日じゅう劉備のそばに立って控えていました。どこへでもついて行き、危ない目にあうこともいとわなかったのです。
寝るときは並んで横になります。人前では主君のそばに立ちつづけます。
国が乱れ、各地の武将が争っていた時代です。劉備は強い相手のあいだを渡り歩きました。その中でいちばん大きな力をつけていったのが、曹操でした。
関羽と曹操のあいだには、少し気まずい話が伝えられています。
建安3年(198年)。劉備と曹操が手を組み、呂布という武将を下邳の城に囲んでいたときのこと。城には呂布の使いに出た男の妻が残っていました。関羽は曹操に、その人を自分の妻に迎えたいと願い出たといいます。
曹操はいったんは許しました。ところが城が落ちる間際になって、関羽が何度も頼みに来たのです。よほどの美人なのではと怪しんだ曹操は、先に人をやって連れてこさせ、そのまま自分のもとに置いてしまったそうです。
関羽の心は穏やかではなかった、と伝えられます。
二年後の建安5年(200年)、曹操は劉備を攻めました。劉備は北の袁紹のもとへ逃げ、下邳を守っていた関羽は、曹操の手に落ちます。
曹操は関羽を連れ帰ると、偏将軍という位につけ、たいへん手厚くもてなしました。
曹操は関羽の人柄をりっぱだと見ていました。けれど、この男の心が長くここに留まりそうにないことにも、気づいていました。そこで、家臣の張遼に言いつけます。
「試しに、あの男の本心を聞いてみてくれ」
張遼が尋ねると関羽はため息をついて答えました。
「曹公が私を手厚く遇してくださることは、よく分かっている。だが私は、劉将軍から厚い恩を受け、ともに死のうと誓った。背くことはできない。私はけっきょく、ここには留まらない。ただ、必ず手柄を立てて、曹公に恩を返してから去るつもりだ」
張遼はこの言葉を伝えるかどうか迷った、と伝えられています。そのまま伝えれば、曹操は関羽を殺すかもしれない。伝えなければ、主君に仕える者の道に外れる。
「公は、主君であり、父でもある方。関羽は、兄弟にすぎない」
そう嘆いてから張遼は報告したといいます。曹操は言いました。
「主君に仕えて、その根本を忘れない。天下の義士だ。いつごろ去るだろうか」
張遼はこう答えたと伝えられます。
「公の恩を受けたのですから、必ず手柄を立てて公に報いてから、去るでしょう」
その年の旧暦四月。袁紹の大将、顔良が曹操の側の守る白馬を攻めていました。曹操は張遼と関羽を先鋒に出します。
関羽は遠くに顔良の旗と日傘を見つけると、馬に鞭を当てました。大軍のただ中で顔良を刺し、首を斬って、帰ってきました。
袁紹の将たちは誰も立ち向かえませんでした。白馬の囲みは解けました。曹操はすぐに朝廷へ願い出て、関羽を漢寿亭侯に取り立てます。
曹操には関羽がもう去ると分かっていました。それでも、さらに褒美を重ねて与えました。
関羽はもらった品をすべて封をして残し、別れの手紙を書いて、袁紹の軍にいる劉備のもとへ走りました。
家臣たちが追いかけようとします。曹操は止めました。
「あの男は、あの男の主君のために動いているのだ。追うな」
曹操が関羽を追わせなかったのは、これが一度目でした。
髯どの
劉備のもとへ戻った関羽は、主君とともに南の荊州を治める劉表のところへ身を寄せました。
そのころ劉備は一人の男を迎えます。諸葛亮、字は孔明。字とは本名とは別のふだんの呼び名です。
劉備はこの新しい家臣と、日に日に親しくなっていきました。関羽と張飛にはそれが面白くありませんでした。
劉備は二人をなだめて言いました。
「私に孔明がいるのは、魚に水があるようなものだ。諸君、どうかもう言わないでくれ」
二人はそれきり黙りました。
主君が「水」にたとえたのは、自分たちではありませんでした。
建安13年(208年)、曹操の大軍が荊州へ攻めてきます。劉備は南へ逃げ、関羽は別に数百そうの船を率いて、江陵で落ち合う手はずでした。
曹操の軍は当陽まで追ってきました。劉備は道を斜めにそれ、川の渡し場へ向かいます。そこで、ちょうど関羽の船と行き合ったのです。二人はそろって夏口へ逃れます。
このときのことで、こんな話も伝えられています。
何年か前、劉備が曹操のもとに身を寄せていたころ、二人で狩りに出たことがありました。人々が散り散りになったすきに、関羽は曹操を殺してしまえと劉備にすすめました。劉備は従いませんでした。
夏口で長江のほとりをさまよう身になった関羽は、怒って言ったそうです。
「あの狩りの日に、私の言うとおりにしていれば、今日こんな苦しい目にあうことはなかった」
「あのときは、国のために、あの人を惜しんだのだ。天が正しい者を助けるなら、これが幸いにならないと、どうして言えよう」
この劉備の返事を歴史書に注をつけた裴松之は疑っています。劉備はあの狩りのあと、曹操を討つひそかな計画に加わっていました。国のために惜しんだというのは、あとからつけたきれいな言い分だろう、というのです。
同じ年、劉備は呉の孫権と手を結んで曹操を退け、荊州の南の郡を手に入れました。
まわりの国も関羽を恐れていました。曹操の家臣は、関羽と張飛を「万人の敵」、つまり一人で一万人を相手にできると言い、呉の周瑜は「熊や虎のような将」と呼んでいます。
周瑜は孫権にこうすすめてもいました。劉備を呉に引き留め、りっぱな屋敷と美しい女たちで楽しませて、関羽と張飛から引き離してしまうのがよい。この三人をそろって国境に置けば、竜が雲と雨を得るようなものだ。孫権はこの策を取りませんでした。
関羽は『春秋左氏伝』という古い歴史の本が好きで、ほとんどをそらで言えた、とも伝えられています。
劉備はやがて関羽に荊州を任せます。そして自分は西の益州を取りに向かいました。諸葛亮も張飛も西へ行きました。荊州を守るために残ったのは、関羽だけでした。
建安19年(214年)。馬超という名高い武将が、劉備のもとへ降ってきます。
関羽は馬超と古い知り合いだったわけではありません。それなのに、諸葛亮に手紙を書いたのです。問いは一つです。馬超という男は誰と比べられるくらいの人物なのか。
諸葛亮には関羽が人に先を越されるのを嫌う人だと分かっていました。孟起は馬超の、益徳は張飛の字です。返事にはこうありました。
「孟起は、文武を兼ねそなえ、勇ましさは人並み外れた、一代の傑物です。益徳と並んで、先を争うところでしょう。けれど、並ぶ者のない髯どののずば抜けたところには、まだ及びません」
関羽は美しいひげを生やしていて、諸葛亮は彼を「髯」と呼んでいたのです。
張飛とは並べても、関羽とは並べない。そういう返事でした。
関羽は手紙を読んで大いに喜びました。そして、訪ねてきた客たちにその手紙を見せたのでした。
荊州を預かる大将が、ほめられた手紙を客に見せています。
人に先を越されたくない男を、どんな言葉が喜ばせるのでしょうか。それを知っていたのは、諸葛亮だけではありませんでした。
五年後関羽のもとに、もう一通、自分をほめたたえる手紙が届きます。
差出人は敵の将でした。
老兵とは並ばぬ
関羽は以前、流れ矢に当たって、左の腕を射抜かれたことがありました。
傷はふさがったのに、曇りや雨の日になると、骨がうずくのです。医者は言いました。
「矢じりに毒があって、毒が骨にしみこんでいます。腕を切り開いて骨を削り、毒を取り除けば、この痛みはなくなります」
関羽はすぐに腕を差し出して医者に切り開かせました。
ちょうど将たちを招いて、向かい合って食事をしているところでした。腕からしたたる血は皿や器にいっぱいになりました。それでも関羽は焼いた肉を切り、酒を飲み、いつもと変わらず笑って話していたと、陳寿は書いています。
陳寿は関羽の死から数十年のちに、この時代の歴史書『三国志』を書いた人です。のちの物語ではこの手術はもっと名高い場面に作り変えられていきます。けれど陳寿の歴史書には、医者の名前さえ出てきません。
建安20年(215年)ごろ。劉備が益州を手に入れると、呉の孫権は荊州の土地を返せと迫りました。劉備は関羽に三万の兵をつけて益陽へ向かわせ、呉は魯粛の軍を出してこれを拒みます。
二人は会って話すことにしました。兵と馬は百歩離れたところに止め、将たちは刀を一本ずつ帯びただけで集まりました。
魯粛は関羽を責めました。土地はもともと呉が貸したものだ。益州を手に入れたのに、返すつもりがない。
話がまだ終わらないうちに、座にいた一人が、口を挟みます。
「土地というものは、徳のある者のところにあるだけだ。決まった持ち主など、いるものか」
劉備の側に立った言い分でした。魯粛は声を荒らげてその男を叱りつけました。
すると関羽は刀を手に立ち上がって言いました。
「これは国の事だ。この者に何が分かる」
そして目でその男に出ていけと合図しました。
同じころ関羽はえりすぐりの兵五千で、夜のうちに上流の浅瀬を渡る、と言っていました。
呉の甘寧は兵を三百人しか持っていませんでした。それでも、魯粛たちにこう言い切ったといいます。
「あと五百人、私に足してください。私が行って向かい合いましょう。関羽は、私の咳ばらいを聞いただけで、川を渡ろうとはしないはずです。渡れば、私が捕まえます」
甘寧は千人を与えられて、夜のうちに向かいました。それを聞いた関羽は渡るのをやめ、柴を組んで陣を作ったそうです。その浅瀬は、のちに「関羽瀬」と呼ばれるようになりました。甘寧の伝記に残る呉の側の話です。
やがて曹操が西の漢中に攻め入ったため、劉備は孫権と和を結び、湘水という川を境に荊州を分け合いました。
孫権は関羽に縁談を申し入れたこともあります。自分の息子の嫁に関羽の娘をもらいたい。関羽はその使者を罵って恥をかかせ、縁談をはねつけました。孫権はひどく怒りました。
関羽が使者に何と言ったのかは、伝わっていません。
建安24年(219年)の秋。家臣たちは劉備を漢中王に推しました。その願い出には、諸葛亮、関羽、張飛……と家臣たちの名前がずらりと並んでいます。
王となった劉備は関羽を前将軍にしました。同じとき黄忠を後将軍にしようとします。
諸葛亮はこれを心配しました。黄忠の名声はもともと関羽や馬超と並ぶほどではない。近くで黄忠の手柄を見ている馬超や張飛なら、まだ分かってくれるだろう。けれど――
「関羽どのは遠くで聞くだけですから、きっと、おもしろく思われないでしょう。まずいのではありませんか」
劉備は答えました。
「私が自分で、わけを話して聞かせよう」
劉備が使者に立てたのは、費詩という家臣でした。あの「老兵」の一言は、このとき出たのです。
「男たるもの、老兵と同じ列には、決して並ばぬ」
任命を受けようとしない関羽に、費詩は説きました。王の事業を立てる者は、一人だけを用いるのではない。昔、漢の国を開いた高祖には、子どものころからのなじみの家臣たちがいた。一方韓信は、よそから逃げてきて、あとから仕えた男だった。それでも位は韓信がいちばん上。なじみの家臣たちがそれを恨んだとは、聞いたことがない。
君侯とは関羽を敬った呼び方です。
「いま王は、一時の手柄によって、黄忠を重んじられました。けれど、お心の中での重さが、君侯と同じであるはずがありません」
「王と君侯とは、ひじと体のように一つで、喜びも悲しみも、禍いも幸いも、ともにする間柄です。官位の高い低いや、俸禄の多い少ないを、お気になさるべきではありません」
「私はただの使いです。お受けにならないなら、このまま帰るだけです。ただ、このなさりようを、あとで悔やまれることになるのが、惜しいのです」
関羽は深く悟りました。そして、その場で任命を受けました。
関羽が気にしていたのは、位の高さそのものより、王の心の中での重さだったのかもしれません。
怒るのも早ければ、折れるのも早い人でした。
同じ年、関羽は荊州の兵を率いて、北へ向かいます。めざすは、曹操の将、曹仁が守る樊城でした。
天下を震わせた秋
樊城を囲みに出たはじめのころ、関羽は夢を見た、と伝えられています。豚に足をかまれる夢でした。
関羽は息子の関平に言ったといいます。
「今年は、私も衰えた。だが、もう帰れまい」
関羽の言葉で、弱音と呼べるものはほかに伝わっていません。
その年の旧暦七月、曹操は于禁に七つの軍をつけて、樊城の助けに送りました。
ところが秋、長い雨が降りつづきます。旧暦八月、漢水があふれ、于禁の七つの軍はすべて水に沈みました。高いところへ逃れた于禁に、関羽は大きな船で攻めかかり、于禁は降伏しました。
敵の中に、一人、降らない男がいました。龐徳です。
龐徳は兄が劉備の側にいたため、味方から疑われていました。だから、いつもこう言っていたそうです。
「私は国の恩を受けた。義は、命をかけて尽くすことにある。この手で、関羽を討つ。今年、私が関羽を殺さなければ、関羽が私を殺すだろう」
そして実際に関羽と戦い、そのひたいを矢で射当てたのです。
水に囲まれても龐徳は堤の上で鎧をつけて弓を引き、夜明けから昼過ぎまで戦いつづけました。乗った小舟がひっくり返り、舟にしがみついているところを、関羽に捕らえられます。
龐徳は立ったままひざまずきませんでした。関羽は言いました。
「おまえの兄は漢中にいる。私は、おまえを将に取り立てたい。なぜ早く降らないのか」
龐徳は関羽を罵りました。魏王とは曹操のことです。
「小僧め、何が降れだ。魏王の兵は百万、その威は天下にとどろく。おまえの劉備など、ただの凡人だ。かなうものか。私は国家の鬼となっても、賊の将にはならぬ」
関羽は龐徳を斬りました。
于禁が降ったと聞いた曹操は、長いあいだ嘆き悲しんだといいます。
「于禁を知って三十年になる。危ういときになって、かえって龐徳に及ばないとは、思いもしなかった」
十九年前、敵の手に落ち、敵の将の位を受けたのは、関羽のほうでした。
勝ちはそれだけでは終わりませんでした。遠くの盗賊たちまでが関羽の印を受けて手下になり、その威光は中国の真ん中を震わせました。曹操は都の許を移そうかと相談したほどでした。
関羽の人生で、いちばん高いところでした。
ただ、その足もとは見えていなかったのかもしれません。
関羽は兵にはよくしましたが、身分のある人たちには驕りました。陳寿はそう書いています。
荊州の江陵を守る麋芳と、公安を守る士仁。二人はかねてから関羽が自分たちを軽く見ていると、嫌っていました。関羽が出陣しても二人は軍の物資を十分には送りませんでした。
関羽は言いました。
「帰ったら、きっと処罰してやる」
二人はおびえ、落ち着かなくなりました。
降った于禁の兵は、数万。米が足りないことを口実にして、関羽は孫権の側の関所にあった米を勝手に取ってしまいます。
呉では関羽と境を接して守っていた呂蒙が、重い病だと言って都へ引き上げました。呂蒙はもともと病気がちでした。その病を口実にして、関羽を油断させようとしたのです。関羽はそれを信じて、守りに残していた兵を少しずつ樊へ回していきました。
代わりに呉の守りについた陸遜は、関羽に手紙を書きました。
「于禁らが捕らえられ、遠くの者も近くの者も、喜び、感嘆しております。将軍の手柄は、長く後の世まで伝わるでしょう」
昔の名高い戦いを二つ並べて、そのどちらもこれにはかなわないとまで書きました。自分のことは、「書生で、気がきかず、のろま」だとへりくだっています。
同じ手紙にはこんな一節もありました。
「戦に勝ったあとは、とかく敵を軽く見がちなもの。昔の人は、策をめぐらせ、勝つほどに用心したといいます。どうか将軍も、広く手を打って、勝ちを全うなさいますように」
関羽は手紙を読み、へりくだって身を寄せてくる気持ちがあると見て、すっかり安心しました。もう何も疑わなかったといいます。
用心してください、と書いてある手紙を読んで、安心したのです。
そのころ孫権はひそかに曹操へ手紙を送っていました。兵を出して関羽の背後を突きたい。関羽に備えさせないよう、このことは秘密にしてほしい。
曹操はその手紙をわざと関羽に知らせることにしました。家臣の一人が、こう言ったからです。
「関羽は強情な男です。二つの城の守りが堅いのを頼みにして、すぐには退かないでしょう」
孫権の手紙は、弩で樊城の中と関羽の陣へ射込まれました。
関羽はためらって去ることができませんでした。
そのころ。長江を商人の服を着た男たちが漕ぐ船が昼も夜も上っていました。
船の中には呉の兵がひそんでいました。
これは、国の事だ
樊城の外で関羽は曹操の将、徐晃と向かい合いました。
二人は古くから親しい仲だったと伝えられます。遠くから語り合い、話すのは昔のことばかりで戦のことには触れなかったそうです。
しばらくして、徐晃は馬を下り兵たちに告げたといいます。
「関雲長の首を取った者には、黄金千斤をとらせる」
雲長は関羽の字です。関羽は驚きおそれて言ったといいます。
「大兄、これは何を言われるのか」
「これは、国の事にすぎぬ」
数年前、益陽で口を挟んだ男を黙らせたとき、関羽自身が口にしたのとほとんど同じ言葉でした。
徐晃は関羽の陣の一つを攻めるふりをして、別の砦を攻めたのです。砦が崩れそうになるのを見て、関羽は自ら歩兵と騎兵五千を率いて打って出たが、打ち破られ、囲みの陣まで攻め込まれます。
関羽は樊城を落とせないまま兵を引きました。
けれど、帰る場所はもう残っていませんでした。
呉の呂蒙が、すでに公安と江陵を取っていたのです。公安の士仁は呉の使いの手紙を読んで、涙を流して降ったと伝えられます。江陵の麋芳も城を開いて降りました。
帰ったら処罰してやる、と関羽が言った二人でした。
江陵に入った呂蒙は関羽の兵たちの家族を、みな手の内に収めました。けれど、手荒なことはしませんでした。家族をいたわり民の家から物を取ることを固く禁じます。
引き返す途中、関羽は何度も呂蒙へ使者を送りました。呂蒙はそのたびに使者を手厚くもてなし、城の中を歩かせて家々を訪ねさせました。家族の手紙を持たせることもありました。
戻った使者に兵たちはこっそり尋ねます。家はみな無事で、ふだんより手厚く扱われているというのです。それを知った関羽の兵たちは、戦う気をなくしていきました。
兵にはよくした、と陳寿が書いた人のその兵たちでした。
樊城の側では曹仁の将たちが、逃げる関羽を追おうと言い出していました。けれど、家臣の一人が止めました。関羽をあえて生かしておけば、孫権を苦しめることになる。関羽が逃げたと聞いた曹操も、将たちが追わないよう急いで命令を送りました。その家臣の考えと同じ判断でした。
曹操が関羽を追わせなかったのは、これが二度目でした。
援軍も来ませんでした。樊を囲んでいたあいだ、関羽は山あいの郡を守る劉封と孟達に兵を出せと何度も命じていました。二人は従ったばかりの郡を動かせないと言って、応じなかったのです。
関羽はもうひとりでした。
麦城にこもると孫権が降るように誘ってきます。関羽は降るふりをして城の上に旗を立て、人形を並べました。そのすきに城を抜け出しました。
兵は散り散りになりました。残ったのは十騎あまりです。
樊へ出たはじめのころに見た夢を、関羽は思い出していたのかもしれません。帰れまい、と息子に言った、あの夢を。
建安24年の旧暦十二月。逃げ道をふさいでいた呉の軍が関羽を捕らえました。息子の関平も一緒でした。二人は斬られました。
関羽が最後に何を言ったのかは、伝わっていません。
年が明けた正月、関羽の首は洛陽にいた曹操のもとへ送られました。同じ月、曹操もその洛陽で亡くなっています。
二十年前、「追うな」と言って関羽を見送った人でした。
体のほうは孫権が諸侯の礼で葬った、と伝えられています。
魏では劉備が関羽のために兵を出すかどうかが話し合われました。劉備の治める蜀は小さな国で、名のある将は関羽だけだった。その関羽が死に、軍も敗れた。もう兵を出す力はない。多くの家臣がそう言いました。
ひとりの家臣だけが、違う見方をしています。
「関羽と劉備は、義の上では君と臣だが、恩は、父と子のようなものだ」
劉備は孫権が関羽を襲ったことを許しませんでした。章武元年(221年)の秋、劉備は呉へ兵を出します。孫権が和を求めてもひどく怒って、受けつけませんでした。
去っていく彼を、追わせなかった曹操。彼の性分を知って、返事を書いた諸葛亮。怒る彼を、使いの身で説いた費詩。そして、和睦をはねつけて、彼のために兵を挙げた劉備。
関羽が死んで四十年あまりたった景耀3年(260年)の秋。蜀の朝廷は亡くなった将軍たちに、諡を贈りました。死んだ人をたたえてあとから贈る名前です。
劉備の息子、二代目の皇帝の記録には、そのことがたった一つの文で書かれています。
関羽、張飛、馬超、龐統、黄忠。
老兵と同じ列には並ばぬ、と怒った男の名は、その老兵と同じ列に並んでいます。
いちばん前に。