金子文子 — 言い返す人

名前を呼ばれずに育ち、口答えをやめなかった少女の、二十三年

名前を呼ばれない子

「無籍者むせきものとは生れていて生れていないことなんだよ」

朝鮮ちょうせんの祖母の家で、少女はそう言われました。十二銭じゅうにせんの絵具を、買ってほしいと頼たのんだだけでした。

のちに少女は、獄中ごくちゅうで書いた手記に、この言葉をそのまま書き残しています。

無籍者とは、戸籍こせきのない人のこと。役所の帳面のどこにも、その子の名前は載のっていない。

少女の名前は、金子文子かねこふみこ。手記の中では、自分を「ふみ子」と書いています。

話は、その数年前の横浜よこはまにさかのぼります。

文子ふみこは1903年、横浜で生まれました。父と母は、結婚けっこんの届けを出していなかった。生まれた子の届けも、出されませんでした。

いちばん古い思い出の中の父は、やさしい人です。毎夕、文子を肩車かたぐるまして銭湯の暖簾のれんをくぐった。食べ物が熱すぎれば、自分の舌で確かめて、さましてから口に入れてくれた。

この頃ころのほんの少しの間だけが、私の天国だった。本人は、そう書いています。

天国は、長く続きませんでした。父は一日じゅう酒を飲み、花札で遊び、母を殴なぐった。

七つになった年。一月生まれの文子は、ちょうど学校に上がる年でした。けれど、無籍むせきの子は学校に行けない。

学校に行きたいとせがむ娘むすめのために、母は、自分の子として届けを出そうとしました。それを父が許さなかったと、手記にあります。

「ばかな、私生児なんかの届けが出せるものかい。私生児なんかじゃ一生頭が上らん」

それでいて父は、娘を自分の籍せきに入れることもしなかった。

近所に、同い年の女の子が二人いました。海老茶えびちゃの袴はかまに、大きな赤いリボン。毎朝、手を握にぎり合って、歌いながら学校へ降りていく。

文子は、家の前の桜の木の根もとにしゃがんで、それを見ていた。そのころのことを、本人はこう書いています。

「ああ、地上に学校というものさえなかったら、私はあんなにも泣かなくって済んだだろう」

やがて父が、籍がなくても通える学校を見つけてきます。行ってみると、貧しい長屋の六畳間ろくじょうまでした。机は、サッポロビールの空き箱を横に倒たおしたもの。

父は、娘に口止めをしたと、文子は書いています。

「あすこのお師匠ししょうさんのところへ行ってることをうちに来る小父おじさんたちに話すんじゃないよ」

娘が貧しい子の学校に通っていると、人に知られたくなかったのかもしれません。

その学校にも、長くは通えなかった。片仮名を二、三十覚えたかどうかのうちに、足が遠のきました。

そのうち父は、家から姿を消します。母の妹と駆かけ落ちしたのだと、母は悔くやしがった。

そのころ文子は、無籍のまま、近くの小学校に通わせてもらえることになりました。

朝、先生が出席簿しゅっせきぼを読み上げる。名前が、一人ずつ呼ばれていく。

「私の名だけは呼ばれない。私の隣となりの子まで来て私がはねられる」

だから文子は、わざと遅おくれて行った。間に合ってしまった朝は、名前を呼ぶあいだじゅう机の蓋ふたを開けて、その中に顔を突つっ込こみ、いらない本を開いていたそうです。

通いはじめて、まもなくのことです。ある日、その父が、ふいに訪ねてきました。顔は、やつれていた。文子は父の耳に口を押おしつけて、小さな声で頼んだ。

「ゴム毬まりを買って」

その夜、父は娘を縁日えんにちへ連れていき、背中におぶって歩いた。文子は、紅い花模様のゴム毬を、大小二つ選びました。

帰りの暗い路地で、父は泣いて約束したと、手記にあります。

「そしたらお父さんが迎むかえに来る。きっと迎えに来る……」

父は、迎えに来ませんでした。

一年生の終わりの、修業式。ほかの子は、活字で刷った堅かたい修業証をもらいました。文子の分だけは、半紙を二つ折りにして、筆で小さく書いたものでした。

校長の手から受け取ると、それはぐにゃりと折れ下がった。

その日、文子は知り合いの男の子の着物を借りて、式に出ていました。こんなことならむしろ来なければよかった、と本人は書いています。

母も、やがて別の男の家へ嫁とついでいきました。文子は、母の実家に残された。

九つの年。冬が近づいたころ、朝鮮から、父方の祖母が迎えに来ました。

派手な身なりで、文子のためには、赤い帯や長い袖そでの着物を、どっさり持ってきた。尋常じんじょう小学校を出たら、すぐ女学校に入れる。成績がよければ、女子大学にも入れる。祖母はそう約束したと、手記にあります。

近所の女の人たちは、口をそろえました。

「ほんにふみさんは仕合せなことで……」

朝鮮へ渡るために、文子は初めて、戸籍に名前を載せてもらいました。

母方の祖母の、五番目の娘として。

生れて生きていた

朝鮮ちょうせんの芙江ふこうに着いて、まもなくのことです。祖母の家に来た客が、文子ふみこを見て、いいお嬢じょうさんね、と言いました。

祖母は、喜ばなかった。

「なあに、ちょっと知合いの家の子なんですよ」

ひどい貧乏人びんぼうにんの子で、行儀ぎょうぎも知らない。あまりかわいそうなので、引き取ってやった。祖母は誰だれにでもそう説明し、人に聞かれたらお前もそう答えるように、と文子に言いつけたと、手記にあります。

学校には、通わせてもらえました。名前は「岩下いわしたふみ子」。祖母の家の名です。そして、こう言われたと手記にあります。

「百姓ひゃくしょうの子にまけたり、恥はずかしいことをしたりするとすぐ名前をとり上げるよ……」

勉強は、よくできたと本人は書いています。十一、二のときには、四けたと四けたの掛かけ算を、頭の中でできたくらいだ、と。

ところが五年生になると、通知簿つうちぼの名前が「金子かねこふみ子」に変わっていました。わけは、今も分からない。わずか半年かそこいらで、私はもう岩下の姓せいを名乗る資格を奪うばわれたのだろうか、と手記は問いかけています。

もっと難しい、面白い本が読みたい。そう頼たのむと、祖母は退けました。

「生意気なことをお言いでない。本は学校の本だけでたくさんだ」

そして、絵具の日が来ます。

学校で、新しい絵具がはやりました。十二銭じゅうにせん。叔父おじと叔母おばは、買ってやろうと言った。祖母は箸はしを下ろして、文子をにらみつけたと書かれています。

お前は無籍むせきだった。わしらのお慈悲じひで、学校に行っているのだ。祖母はそう言い、あの言葉を続けました。

「無籍者むせきものとは生れていて生れていないことなんだよ」

絵具は、買ってもらえませんでした。

何年もたってから、文子は手記の中で、祖母にこう言い返しています。

「いくら祖母が、生れていて生れないことだと言っても、私は生れて生きていたのだ」

暮らしは、だんだん女中と同じになっていきました。

ある年の正月二日。雑煮ぞうにの席で、祖母の祝い箸が折れた。暮れに文子が袋ふくろに入れておいた箸で、中ほどが虫に食われていました。

お前はわしを祈いのり殺そうとしたんだな、と祖母は罵ののしった。文子は雑煮も食べさせてもらえず、凍こごえる外に、一日立たされた。

文子は、叱しかられるのがこわくなった。皿を割れば、紙に包んで箱の底へ押おし込こむ。折れた櫛くしは飯粒めしつぶで継ついで、箱の中にそっと並べておく。

祖母たちの子供の責め方は、事実私を、ねじけた嘘うそ言いにさせた。本人は、そう書いています。

それでも、息のつける日がありました。

ある秋、叔父の持ち山へ、栗くり拾いに通った日々です。蝮まむしよけに足袋たびと脚絆きゃはんで足を固め、棒で栗を落とす。雉子きじや兎うさぎが飛び出すと、文子は声に出して話しかけた。

「なんだ、びっくりさせるじゃないか。そんなに遁にげ出さなくってもいいよ。私達はお友達じゃないの?」

山の上から村を見下ろして、声が嗄かれるまで歌った。その日ばかりが私の解放された日だった、と手記にあります。

ある暑い夏の日。祖母が、いつになくやさしい声で言いました。親類の人の子守としてついて行くのが、いやならいやと、はっきり言えばいい。

文子は、正直に答えた。

「ほんとうは私、行かなくってもいいんなら行きたくないの」

祖母は文子を縁側えんがわから突つき落とし、欠けた木の椀わんを懐ふところにねじ込んで、裏門から追い出したと、本人は書いています。

朝から、何も食べていませんでした。井戸のそばで声をかけてくれたのは、近所の朝鮮人のおかみさんです。

「麦御飯むぎごはんでよければ、おあがりになりませんか。御飯はたくさんありますから……」

文子は、声を出して泣いた。けれど、祖母たちの目がこわくて、その御飯は断りました。朝鮮での七年のあいだ、このときほど人間の愛に感動したことはなかった、と手記にあります。

次の日になっても、許されなかった。文子は、死ぬつもりで家を出ます。

けれど途中とちゅうで、蝉せみの声が耳に入った。景色が、美しかった。母がいる。父も、妹も、弟もいる。故郷の友だちもいる。この世には、まだ愛すべきものがある。

そう思ううちに、考えが変わったと手記は書いています。

「そうだ、私と同じように苦しめられている人々と一緒に苦しめている人々に復讐ふくしゅうをしてやらねばならぬ。そうだ、死んではならない」

十四の春、高等小学校を出ました。約束の女学校へは、行かせてもらえなかった。

その夏から文子の部屋になったのは、物置を直した三畳さんじょうあまり。本も新聞も読ませてもらえない。壁かべに貼はられた古新聞だけを、すっかり暗誦あんしょうするまで読んだそうです。

十六の春。部屋の棚たなに、空っぽの古い行李こうりが置かれていました。

学校も終えたのだから、山梨へ帰れ。叔父はそう言い、小遣こづかいを五円だけ渡した。それが、この家が文子にくれたすべてでした。

足かけ七年住んだ土地を離れる汽車の中で、涙なみだは一滴てきもこぼれなかったと、本人は書いています。そのかわり、心の中で、汽車に呼びかけた。

「だが、今度こそお前は私を迎むかえに来た! お前は私を忘れてはいなかったのだ」

きっと迎えに来る、と泣いた父は、来なかった。

迎えに来たのは、汽車でした。

男のような女です

日本に帰っても、文子ふみこの居場所はありませんでした。

浜松はままつの父は、娘むすめを、母の弟にあたる寺の叔父おじに嫁とつがせようとした。寺の財産が目当てだったのだと、あとで父の家の叔母おばが文子に打ち明けています。その話が壊こわれると、父は娘を蹴けりつけました。

十七の春。手記によれば、文子は父にこう告げました。

「明日、東京へ行きます」

相談ではありませんでした。懐ふところには、汽車賃を入れて、やっと十円ほど。

東京で、文子は「苦学」を始めました。働きながら学校に通い、自分の力で偉えらくなる。英語は神田かんだの正則せいそく英語学校、数学は研数学館けんすうがっかん。女学校には、もうこりごりでした。

男子の学校を選んだ理由も、本人は書いています。男と競争しても負けはしない、という復讐ふくしゅうのような気持ち。それに、自分でもはっきり意識しない虚栄心きょえいしんも手伝っていた、と。

働き口は、電柱に貼はられた広告で見つけた新聞屋です。主人は、女ではとても辛抱しんぼうできない、と渋しぶった。手記によると、文子は熱をこめて訴うったえた。

「私はもう随分ずいぶん苦しい生活をしてきました。そのことを思えば何でもできます。それに、ご覧の通り私は男のような女です」

上野うえのの三橋みはしという売り場で、夕刊を売る仕事でした。

夕刊、夕刊、と大声で叫さけぶ。それが、なかなか声にならない。喉のどに引っかかって、ちゃんと叫べるまでに十日かかった。

夏の夕日に照らされて、喉が渇かわき、声が出なくなったころ。近くのそば屋の女中さんが、土瓶どびんとお茶わんを持ってきてくれました。中身は、そばをゆでた、どろどろのそば湯。

「ありがとうございます、ありがとうございます」

何度も礼を言って飲んだと、文子は書いています。全くいい気持ちであった、と。

売るのは夕方から夜中の十二時過ぎまで、立ちどおし。寝ねるのは一時か二時で、朝は店の子どもを幼稚園ようちえんまで送っていく。学校に着くと、一時間目は終わっていた。教室では、居眠ねむりばかりでした。

意地を張っても、駄目だめだった。どんなに私の意志がそれを欲しても私の肉体がこれを承知しない、と本人は書いています。文子は、新聞屋を出ました。

次の商売は、粉せっけんの夜店よみせです。

置きランプと古新聞と、三十足らずの袋。台がないので、地べたに新聞を敷しいて並べる。隣となりは、酒好きの古本屋のお爺じいさんでした。

「姐ねえさん、お前さんとこの店は馬鹿に陰気臭いんきくさいね。まるで化物でも出そうだよ……」

そう笑いながら、お爺さんはコップ酒を飲みに行くあいだ、文子に店番を頼たのんでいく。こんなお爺さんが、自分の祖父か父であってくれたら。文子はそう思った、と手記にあります。

雨が四、五日続くと、一文ももうからない。文子は、袋を抱かかえて家々を回る行商に切り替えました。

けれど、人の家に入る勇気が出ない。一日じゅう、ただ歩いた。空腹に負けて、やっと一軒いっけんの玄関げんかんに入って、粉せっけんを勧すすめた。断られて外へ出ると、中から笑い声が聞こえてきたと、文子は書いています。

「まあ、何てうるさいんでしょう、この頃ごろは毎日のように孤児院こじいんが来るのねえ」

物もらいと、間違えられたのです。

それでもその日のうちに、路地で洗濯せんたくをしているおかみさんを見つけて、子どもの浴衣ゆかたについた油の汚よごれに、きっと落ちます、と売り込こんだ。袋は、二十銭にじっせんで一つ売れました。文子はその足で団子屋へ入り、餅菓子もちがしを二皿食べたそうです。

そのころ文子をいちばん気にかけてくれたのは、伊藤いとうという青年でした。知り合ったのは、まだ新聞を売っていたころです。夜ふけに新聞を買ってくれた車夫が、笑って言ったのが始まりだったと、手記にあります。夜は人力車を引き、昼は数学の学校に通う人でした。

「あなたと同じ学校の、同じクラスですよ」

伊藤は、教室で居眠りする文子を見て、苦学生だと気づいていたのでしょう。文子は伊藤に座布団を縫ぬい、もらった心づけがたまると、伊藤に渡した。

その伊藤は、1920年11月30日の夜、不忍池しのばずのいけのほとりで、別れを告げました。あなたをただの隣人として見ることでは、満足できなくなった。信仰しんこうもぐらつく。だから今晩を限りに別れる、と。

後ろも振ふり向かずに歩き去る伊藤を見送りながら、文子は、何という臆病おくびょうな愛の使徒だろうと思った、と書いています。

そのころ文子は、浅草あさくさの砂糖屋に、住み込みの女中として入っていました。給金は、決めなかった。お金のことは口にするものではない、と教わっていたからです。

この家で、文子は人一倍早く起きて働きました。店の息子の友だちが来ると、自分はただの女中ではないと見せたくて、学校の話をする。数学のノートをのぞいて、ここが違っている、と言ってみせたこともあった。

何というさもしい惨みじめったらしい真似をしたのであろう。思い出すたびにいつも私はぞっとする、と手記にあります。

朝早くから夜中まで、三か月と一週間。大みそかの夜、やっと店を出て、帰りの電車の中で、もらった紙包みを開けました。

五円札が、三枚入っていました。

私は、人を怒おこるよりも自分を嘲あざけってやりたいような気がした。手記には、そうあります。

下手へたな求婚きゅうこん

年が明けて、文子ふみこは親類の家に戻もどり、家事を手伝いながら夜学に通いました。

学校で知り合った仲間が、社会主義のパンフレットを貸してくれます。読んで、文子は驚おどろかなかった。

社会主義は私に、別に何らの新しいものを与えなかった。それはただ、自分がこれまでの境遇きょうぐうで感じてきたことに、それが正しいという理論をくれただけだ。本人は、そう書いています。

そのころ文子には、好きな男がいました。山梨にいたころ、活動写真を見に行った晩に知り合った学生の瀬川せがわです。

1921年の夏の終わり。瀬川の下宿に泊とまった朝、文子は聞きました。もし子供ができたら、どうするつもりなのか。瀬川は、あくびをしながら答えたといいます。

「子供が出来たらどうするかだって? 僕ぼくはそんなこと知らないよ……」

そしてヴァイオリンを弾ひきはじめた。結局私がおもちゃにされたのだと、文子は思い知った、と書いています。

次に好きになったのは、同じ下宿にいた朝鮮ちょうせんの青年でした。二人で家を持とうと約束した。会うたびに、家はまだ見つからないの、と聞いた。その青年は、友人とドイツへ留学するからお別れだ、と告げました。

その晩、文子は足腰あしこしが立たなくなるまで、ウイスキーを呷あおったそうです。

文子は親類の家を出て、日比谷ひびやのおでん屋に住み込こみます。社会主義者や新聞記者が集まる店で、昼は客の相手をし、夜は学校へ行く約束でした。

夜学では、新山初代にいやまはつよという友だちができました。二つほど年上で、昼はタイピストとして働いている。肺を病んでいました。

死について話したときのことを、文子は手記に書いています。初代は言った。人が死を怖おそれるのは、死ぬ瞬間しゅんかんの苦しみを怖れるのではないか、と。文子は反対した。自分が永遠にこの世から去るのが悲しいのだ、と。

初代は聞き返しました。

「あなたには死の体験があるのですか」

「ええ、あります」

二人は、それから大の仲よしになりました。文子はずっと本を読みたかったのに、買えなかった。その本を、初代が次々に貸してくれた。

冬のある日、知り合いの下宿で、文子は雑誌の校正刷りを見せてもらいます。その片すみに、短い詩が載のっていました。作者は、朴烈ぼくれつ。朝鮮から来た青年です。

どこがいいのか、と聞かれて、文子はこう答えたと手記にあります。

「どこがってこたあない。全体がいい。いいと言うんじゃない、ただ力強いんです。私は今、長い間自分の探していたものをこの詩の中に見出したような気がします」

同じ日、学校はどうするのか、とも聞かれた。

「学校? 学校なんかどうだっていいの」

苦学して偉えらくなる。それが、ただ一つの目当てだったはずでした。けれど、人から偉いと言われることに、何の値打ちがあるだろう。手記には、こう書かれています。

「私はあまりに多く他人の奴隷どれいとなりすぎてきた。余りにも多く男のおもちゃにされてきた。私は私自身を生きていなかった」

それからしばらくして、ある寒い夜。文子は、朴烈本人に会いました。

痩やせて、肩かたまで黒い髪かみを伸のばした、二十三、四の男。青い職工服に茶色のオーバー。ボタンはちぎれかかり、袖口そでぐちはぼろぼろで、肘ひじには穴があいていた。

文子が話しかけても、相手は短く答えるだけでした。

「そうでしたか?」

そして、はっきりした声で言って、部屋を出ていった。

「失礼します」

文子は、会わせてほしいと人を通して頼たのみました。十日たっても、二十日たっても、朴烈は来ない。自分に何らの価値のないことを朴に裏書きされたような気がして、一層寂さびしかった、と手記にあります。

あきらめて、初代のようにタイピストになろうと決めかけたころ。1922年の3月5日か6日に、朴烈が、ふらりとおでん屋に現れました。文子は、ご飯と、煮込にこみの豆腐とうふと大根を出した。

その翌日の夜。二人は、神保町じんぼうちょうの中華ちゅうか料理屋の三階に上がりました。

出てきた中国茶の茶碗ちゃわんには、蓋ふたがついていた。蓋を取れば茶かすが口に入りそうだし、したままでも変だし。二人とも、飲み方を知らない。朴烈は、こんな立派な所へ入ったことがないから知らない、飲むものだから飲めばいいでしょう、と言って、蓋を少しずらして飲んだ。文子も、それを真似たそうです。

それから文子は、切り出しました。

「私は単刀直入に言いますが、あなたはもう配偶者はいぐうしゃがお有りですか、または、なくても誰だれか……そう、恋人こいびととでもいったようなものがお有りでしょうか」

もしいるなら、ただ同志としてでも付き合ってほしい。文子は、そう続けた。

「僕は独りものです」

何という下手な求婚きゅうこんであったろう。何という滑稽こっけいな場面だったろう。今から思うと噴ふき出したくもあるし、顔が赤らんでも来る。けれどその時の私は、極めて真面目に、そして真剣に言ったのだった、と文子は書いています。

朴烈は、自分のことをこう言いました。

「僕はつまらんものです。僕はただ、死にきれずに生きているようなものです」

勘定かんじょうのとき、朴烈はオーバーのポケットから、もみくちゃの紙幣しへいと銅貨をつかみ出した。

「僕が出しましょう、今日は僕お金を持っています」

文子は、それをさえぎった。

「私の方がお金持ちのようです」

やがて二人は、一緒に暮らす約束を交わします。その夜、二人は日比谷公園を歩きました。二人とも、時計を持ったことがない。文子が九時までに帰らなければと言うと、朴烈は交番まで、時刻を見に行ったそうです。

「九時に十七分前です」

別れぎわ、家がなくて寂しくないのか、と文子は聞きました。

「寂しいです」

去年の春、ひどい流感にかかった。誰も看病してくれず、三日ほど飲まず食わずで、木賃宿でうなっていた、と朴烈は話した。

電車に飛び乗る朴烈を見送りながら、文子は心の中で言ったと書いています。

「死ぬるなら一緒に死にましょう。私達は共に生きて共に死にましょう」

獄中ごくちゅうの手記は、この夜で終わっています。

君が金子かねこふみ子かね

1922年の5月から、文子ふみこと朴烈ぼくれつは一緒に暮らしはじめました。仲間と会を作り、自分たちの機関紙を出した。

それから一年あまりたった、1923年9月1日。関東かんとう大震災しんさいが起きます。

獄中ごくちゅうで書いた手記は、この日の昼前から書き起こされています。

「激動、不安、そして遂ついにあの馬鹿気きった流言と騒擾そうじょうだ」

朝鮮人ちょうせんじんが暴動を起こす、という根も葉もないうわさが広がり、多くの朝鮮人が殺ころされていました。その二日後の9月3日、文子は朴烈とともに、警察に連れていかれます。

何のためであったか。私にはそれを語る自由がない。手記は、そうとだけ書いています。

しばらくして、文子は裁判所の一室に呼ばれました。正式な裁判の前に、判事が取り調べる場所です。

判事は、文子をじっと見て言ったと、手記にあります。

「君が金子かねこふみ子かね」

立松たてまつという判事でした。自分が、君の取り調べの係だ、と名乗る。文子は、ほほえんで答えた。

「そうですか。どうかお手柔やわらかに」

まず、本籍ほんせきを聞かれました。戸籍こせきの上で、籍のある土地のことです。文子の答えは、こうでした。

「さあ、そう言われると少し困りますね。実はそこは、つまり諏訪村すわむらはですね、私の原籍地とは言い条、今までに二年とはいなかったんですから」

名前を呼ばれずに育った子が、いま、判事に名前を呼ばれている。

その判事が、文子に命じました。これまでの経歴を、何か書いてみせろ。

文子は、書きました。ただ私は、命じられたままに、私の生い立ちの記を書いた。それがこの私の手記である、と冒頭ぼうとうにあります。私として何よりも多く、世の親たちにこれを読んでもらいたい、とも。

原稿げんこうは、のちに仲間の栗原一男くりはらかずおに託たくされます。手直しを頼たのむにあたって、文子は注文をつけました。

「文体については、あくまでも単純に、率直に、そして、しゃちこ張らせぬようなるべく砕くだいて欲しい」

記録の部分は、すべて事実に立っている。そして事実であるところに命を求めたい、とも書いています。

二人は、大逆罪たいぎゃくざいで起訴きそされました。天皇や皇后、皇太子などに危害を加えようとした者を、死刑しけいで罰ばっする罪です。

当局は、二人が爆弾ばくだんを手に入れて、天皇と皇太子を襲おそおうとしていたとしました。朴烈は取り調べで、その計画を認めるような話をしたと伝えられます。ただ、実際に何かが起きたわけではありませんでした。のちには、この事件は政治に利用され、大きくされたものだ、という見方も出ています。

1926年3月25日。いちばん上の裁判所である大審院だいしんいんは、二人に死刑を言い渡しました。

4月5日、恩赦おんしゃが出て、刑は無期懲役むきちょうえきに減らされます。その恩赦を、朴烈は拒こばむと言ったそうです。文子のほうは、減刑を知らせる書きつけを、刑務所けいむしょ長の目の前で破り捨てたと伝えられています。

同じ年の7月23日。文子は、栃木とちぎの刑務所で亡くなりました。23歳でした。

刑務所は、自殺だと発表した。遺族は、それを信じなかった。遺体は、刑務所の墓地に葬ほうむられていました。そこを掘ほり起こして確かめようとしたのは、文子の母と、弁護士の布施辰治ふせたつじ、それに仲間たちです。それでも、何があったのかは分からないままです。

遺骨いこつは朴烈の兄が引き取り、朴烈の故郷、朝鮮の聞慶ムンギョンに埋うめられました。

朝の出席簿しゅっせきぼで、隣となりの子まで来て、名前を飛ばされた子でした。

家の前の桜の根もとから、学校へ行く子たちを見ていた。半紙の修業証は、ぐにゃりと折れた。生まれていて生まれていないと言われ、名前を付けられては、取り上げられた。

その子のそばにも、手を差し出した人たちがいました。

麦御飯むぎごはんでよければ、と声をかけた、朝鮮人のおかみさん。声の出なくなった新聞売りに、土瓶どびんでそば湯を運んできた、そば屋の女中さん。夜店の番を頼んでいった、古本屋のお爺じいさん。読みたかった本を、次々に貸してくれた初代はつよさん。

手記の最後に、文子はこう書いています。

「間もなく私は、この世から私の存在をかき消されるであろう」

そして、筆を置く前の、最後の一行。

「私の愛するすべてのものの上に祝福あれ!」