塙保己一 — 読み足りない人

三味線は一晩で忘れ、本の言葉は一生忘れなかった。人の声を借りて読み続けた、目の見えない学者の強情な一生

三年だけ

「三年たって何もできなければ、すぐに郷里へ送り返す」

師匠ししょうにそう言い渡されたのは、目の見えない若者でした。

三味線を習って、三年。今日習ったことは一晩で忘れてしまう。次の日には、もう分からない。三年かかって、一曲もまともに覚えられなかった。調子さえ、合わせられなかったといいます。

それならばと、師匠は鍼はりを習わせました。医学の本なら、二度読んでもらえば、次には一字も違たがえずに言えた。ところが、いざ治療ちりょうの腕うでとなると、人よりはるかに劣おとりました。

目の見えない人が暮らしを立てる道は、おもにこの二つ、音曲と鍼でした。その両方が、だめだった。

師匠の雨富あめとみ検校けんぎょうは、とうとう彼かれを叱しかりつけました。人がふるさとを離はなれてよその土地へ行くのは、何かをなしとげるためだ。お前も、そのつもりで親の家を出てきたのだろう。それなのに、暮らしの手立てになることを、一つも身につけない。朝も晩も、お前のすることは、何ひとつ気に入らない。

けれど、そのあとに続いた言葉は、少し変わっていました。

「お前の好まないことをやれ、と言うのではない。盗ぬすみとばくちのほかなら、何でもいい。心にかなうものをやれ」

そのうえで、あの三年の期限を切ったのです。

塙保己一はなわほきいち。のちにそう名乗る若者の、十代のころの話です。

生まれは1746年、武蔵国むさしのくにの保木野村ほきのむら。今の埼玉県にある村の、農家の子でした。

幼いころに病気で目を悪くし、やがて何も見えなくなります。

親は、できることを試したようです。この子は生まれ年の星が合わない、と人に言われると、生まれ年を二つ減らして、名前も寅之助とらのすけから辰之助たつのすけに変えた。近くの村の修験者しゅげんじゃの子になぞらえて、もう一つの名までつけました。

目は、戻もどりませんでした。

色の記憶きおくは、ほとんど残らなかった。ただ、柚ゆずの色と、ほおずき提灯の色だけは知っている。大人になってから、彼はそう人に話したと伝えられます。

花の好きな子でした。まだ見えていたころ、野原でスミレを何種類も探してきて、庭に植えたことがある。見えなくなってからも、花の咲さく草木を植えておき、人がきれいだと喜ぶと、自分もたいそう楽しんだ。門人の中山信名なかやまのぶなが、師の生きているうちに書いた伝記に、そうあります。

十歳を過ぎたばかりで、母を亡くしました。その嘆なげきようは、ふつうではなかったと、信名は書いています。

そのころ、ある話を耳にします。『太平記』の全部をそらで語れる男が、江戸えどのあちこちの屋敷やしきに出入りして、名を上げているというのです。

信名によれば、少年はこう考えました。

「太平記は、全部で四十巻にすぎない。これを覚えて名を上げ、妻と子を養えないことがあるだろうか」

十代はじめの、目の見えない子どもの計算です。江戸へ出たいという思いは、ここで、いよいよ強くなったといいます。

父に頼たのんで江戸へ出たのは、十代の前半でした。旅の荷物は、古い素麺そうめんの箱一つに入れてきたと伝えられ、その箱はのちのちまで塙はなわの家に残されていたそうです。

道連れは、絹を商う男でした。道中、二人は、互たがいに名を上げ比べようと約束したと伝わります。この商人が、のちに江戸で出世を重ね、町奉行まちぶぎょうにまでなる根岸肥前守ねぎしひぜんのかみだったといいます。

目の見えない少年と、絹の商人。どちらも、名を上げる気でいました。

江戸で入門したのは、四谷よつやに住む雨富検校、須賀一すがいちです。検校は、目の見えない人たちがつくる一座の、高い位の名です。

一座の習わしでは、弟子は三味線や琵琶びわを習って音曲を仕事にするか、鍼や按摩あんまで暮らしを立てる。

ところが少年の心は、はじめからそこにありませんでした。師匠がいさめるので、習うふりはする。けれど、隙すきをうかがっては、本を読むことばかりを考えていた、といいます。

鍼の腕が上がらなかったのも、本のほうに心を引かれていたからだろう。信名は、そうも見ています。

つらさのあまり、九段くだんの牛ヶ淵うしがふちというお堀ほりに身を投げようとしたことさえあった、と明治になってからの伝記は伝えています。

そこへ、あの言い渡しでした。

盗みとばくちのほかなら、何でもいい。心にかなうものをやれ。

彼は、その言葉を肝きもに刻みました。

選んだのは、自分の目では一字も読めない、本でした。

蚊帳かやの外

一度聞いたことは、一生忘れなかった。

同じ時代を生きた文人、大田南畝おおたなんぽは、保己一ほきいちのことを、そう書き留めています。

三味線の曲は、一晩で忘れた人です。本の言葉となると、話がまるで違いました。

ただし、その本を、自分の目では読めない。誰かに、声に出して読んでもらうしかありません。

雨富あめとみ検校けんぎょうの家の隣には、松平乗尹まつだいらのりただという武士の屋敷やしきがありました。乗尹も本が好きで、この少年の学才が人と違うのを、たいそう気に入った。

幕府の勤めで、忙しい人です。それでも二人は約束を交わし、朝、夜の明ける前から二時間ほど、乗尹が本を読んで教えることになりました。

その乗尹が、同僚どうりょうにこう話したことがあると、門人の中山信名なかやまのぶなは書いています。

「あの盲人もうじんの人となりを見ると、度量の大きさが並外れている。もし目が見えていたら、かえって法を犯し、身を滅ほろぼすだろう。目が見えないことこそ、幸いなのだろう。のちに必ず、仕事をなしとげる人だ」

ほめているのか、どうなのか。目が見えたら法を犯しかねない少年とは、どんな少年だったのでしょう。

読んでくれる人は、乗尹だけではありません。のちの伝記には、こんな話が伝わっています。

高井という幕臣の妾めかけの家に、彼かれはいつも治療ちりょうに呼ばれていた。その治療代ちりょうだいの代わりに、本を読んで聞かせてもらったというのです。

夜、女の人は蚊かを避さけて、蚊帳かやの中で本を読む。彼は蚊帳の外にきちんと座り、気が散らないように、両手を縛しばって聞いていたといいます。

手を縛っていては、蚊も払はらえなかったでしょう。

本の中でなら、どこまでも先へ進める。けれど暮らしの中の彼は、ひどく不器用でした。

娘むすめのとせ子の話として伝わるところでは、父は、目の見えない人にしては勘かんが悪かった。角を曲がるにも、橋を渡るにも、よく困っていた。食べるときは、にぎった箸はしで、お椀わんの奥おくのほうからかきこむようにしていたそうです。

見かねたのが、笹山ささやまという家の奥方おくがたです。

奥方は、勘が悪いから食べ方が見苦しい、と遠慮えんりょなく言った。そのうえで、よその家ではあまり手をつけずにおき、帰る道すがら食べるようにと、いつも豆を包んでくれた、と伝えられています。

ずいぶんな言われようです。でも、豆は、いつも包んでくれた。

腹の立つことも、多かったのかもしれません。若いころ、彼は一つの誓ちかいを立てています。何かをなしとげようとする者が、怒いかりの心を持っていては、なしとげられない。そう考えて、年を限って、怒りを起こさないようにと祈いのったのです。

ある日、麹町こうじまちを通ると、子どもたちが道ばたでしきりにはやしたて、通せんぼをする者までいた。彼は笑みを浮うかべたまま、相手にしなかった。子どもたちは、どうしようもなく引き下がったといいます。

体の弱い弟子でもありました。1766年、雨富検校は五両を渡して言いました。私の代わりに、伊勢神宮いせじんぐうへお参りしてきなさい。雨の日は、歩くな。悪い気を受けるから。

父と連れ立っての旅でした。旧暦の三月、吉野よしのの山で、花見に来ていた見知らぬ人たちと行き合い、その場で歌を詠よみ合っています。

さかりなば いづれをそれと しらくもの かかるも匂におふ みよしのの花

花の盛りになれば、どれが花で、どれが白い雲か、見分けもつかない。雲のかかるあたりまで、においたつ吉野の花よ。

見えない花の歌を、見える人たちが喜んでくれた。六十日あまりの旅から戻もどると、病はすっかり治っていたといいます。

1769年、22歳の年。歌の師匠ししょうの萩原宗固はぎわらそうこが、彼ともう一人の弟子を呼んで、彼にはこう言いました。お前は歌をやめて、ひたすら本を読め。それも、すぐれた師について学べ。今なら賀茂真淵かものまぶちだ。

ただし、私に習ったとは、決して言うな。学派が違うから、向こうが心を隔へだてるかもしれない。

真淵は、国学の学者として世に名を知られた人です。初めて訪ねた日、真淵はまず尋たずねました。これまで、どんな本を読んできたのか。

彼はこう答えた、と伝記にあります。

「本の読み方も分からないまま、宗祇そうぎや季吟きぎんといった人の書いたものを読んでおりました。惜おしい時間を、むだにいたしました」

むだでした、と自分から言ってしまう。真淵は、それをたいそう喜びました。

「それは、よいことをした。今の学者はたいてい、人の言ったことをなぞるばかりで、本の良し悪しを自分で見分けられる人は少ない」

このとき見せた歌も、伝記に残っています。

すがるなす 腰細こしぼそをとめ 得ましかば あさよひさけず なづさはましを

蜂はちのように腰こしの細い娘が、もしいてくれたなら。朝も晩も離はなれずに、寄り添そっていたいのに。

国学の大家に、初めて見せた歌です。真淵は、並々ならず感心したといいます。

けれど、教わることができたのは、半年ほどでした。真淵は、その年のうちに亡くなります。

学問なら、もう人に負けない。けれど、目の見えない人たちの一座で位を上げるのに要るのは、学問ではありませんでした。

お金です。

百両

真淵が亡くなって、しばらくしたころのことです。

一座に、豊一とよいちという盲人もうじんがいました。お金をためこんでいましたが、急に亡くなり、継つがせる子がいない。

ある人が、雨富あめとみ検校けんぎょうに勧すすめます。あの家を、保己一ほきいちに継がせてはどうか。

話を聞いた本人は、断ったと伝記にあります。

「豊一が生きていたころ、私とは気が合わなかった。死んだからといって、その家を継ぐ筋合いはない。それに、あの家を継がなくても、運さえあれば、あのくらいの財産をためるのは、むずかしいことではない」

雨富も、私もそう思っていた、と言って、話はそれきりになりました。

二十代のなかば、お金をほとんど持たない若者の、強気でした。

お金は、たまりませんでした。

1774年、雨富は彼かれを呼んで、こう言い聞かせたといいます。

「今の一座を見ると、位を上げる者は、みなお金が先で、腕前うでまえは問わない。このままでは、一座の中で芸を学ぶ者さえ、いなくなるだろう。お前の学問は、もう人を超こえている。けれど、お金がないから、位を上げられない」

「それを思って、お前のために、百両をたくわえておいた。これを、位を上げる費用にしなさい」

三年だけ養う、と言った師匠ししょうでした。

本人も、ただ待っていたわけではありません。天神さまに毎日お参りし、朝ごとに火を通した食べ物を断って、般若心経はんにゃしんぎょうを百回唱える。それを千日続ける、という願をかけていました。

九百日目で、願いはかないます。1775年、彼は勾当こうとうに上りました。検校へ上る道の、途中とちゅうの位です。

このとき、名を保己一と改めました。中国の古い詩文集『文選もんぜん』の言葉、「己を保ちて百年を安んず」からとった名です。姓の塙はなわは、師匠の雨富の、もともとの姓でした。

同じ年、彼は雨富の家を出て、自分の住まいに移ります。三年だけ養うと言った師匠の家に、十五年あまりいたことになります。

勾当になってから、保己一は、つくづく考えたといいます。

自分は、少しの財産も持たないまま、勾当になれた。お経を唱えた力だろう。もう二千日の願をかければ、検校にだって上がれるにちがいない。

けれど、それは自分一人のためのはかりごとだ。どうせなら、世のため、後の世のためになることをしたい。

中国には、古い本を集めて一つにまとめた「叢書そうしょ」がいくつもある。日本には、まだその例がない。あちこちに一巻、二巻と散らばっている本を集めて、版木に彫ほっておけば、この国で学ぶ人の助けになるだろう。

1779年、旧暦の元日。保己一は天神さまに誓ちかいを立てました。般若心経を、百万回唱える。半分唱えるまでに千部の本を集め、唱え終えるまでに、版木に彫って世に出す。

その日から毎朝、塩を断ち、毎日、夜明け前の寅とらの刻に起きて、百回ずつ唱えることを怠おこたりませんでした。

寅の刻。かつて隣の屋敷やしきで、松平乗尹まつだいらのりただに本を読んでもらっていた時刻です。

集める本には、『群書類従ぐんしょるいじゅう』という名をつけました。

1783年、保己一は検校に上ります。伝記は、「思いのほかに」と書いています。

この一座で位を上げるには、お金が要った。世の盲人の多くは、人にお金を貸して利息をとり、それで位を上げていた。けれど保己一の場合は、出入りしていた身分の高い家の人々や友人たちが、その志の強さに心を動かされて、お金を出してくれたのだと、同じ時代の大田南畝おおたなんぽは書いています。

翌1784年、雨富が重い病にかかりました。死を前にした師匠は、保己一を呼んで言った、と伝記にあります。

「私が人に貸した金が、いくらかある。そのうち、私が生きているうちでさえ返せそうにない人の証文は、みな焼き捨てた。返せそうな分の証文は、ここに残しておいた。譲ゆずる子がいないから、私が死んだら、お前が取り立てて使いなさい」

雨富もまた、人にお金を貸していたのです。

保己一は、受け取りませんでした。

「私が郷里を出たときは、露つゆほどの貯えもありませんでした。それが先生のおかげで、検校にまでなれました。これほど厚いご恩はありません。このうえ、何をいただけましょう。その証文は、まだ職のない門人たちに、お与えください」

これを聞いて、心を動かされない人はいなかったと、伝記は書いています。

雨富は、その年のうちに亡くなったといいます。

望みをかなえてからの保己一は、いつも、こう話していたといいます。

「本を読むのが、もともと好きでなかったわけではない。けれど、仕事をなしとげて名を上げる者は、みな、師のおかげだ。ただ一つ悔くやまれるのは、先生が生きているうちに、これほどの幸せを、聞かせてあげられなかったことだ」

髪かみの毛を数えて

「よく分かりました。花園天皇の御誓文ごせいもんです」

そう言ったのは、横で話を聞いていただけの保己一ほきいちでした。

弟子の屋代弘賢やしろひろかたの家を訪ねると、水戸藩みとはんの学者、立原翠軒たちはらすいけんが来ていたのです。

二人は、古い願文のことで議論していました。終わりに「太上天皇だじょうてんのう」とだけあって、名前がない。そのころ位をゆずった天皇は、二人いた。どちらが書いたのか、決められずにいたのです。

保己一は、どう書いてあるのか一度読んで聞かせてほしい、と頼たのみました。読み進めて、ある句まで来たところで、さきほどの一言です。

使われている言葉から、誰が書いたかが分かる。そう説明されて、翠軒をはじめ、みな感じ入ったといいます。

もっとも翠軒は、保己一の言うことに、すんなりうなずく人ではありませんでした。昔の天皇の位をめぐって保己一が書いた一冊の本には反対で、何度も問答を重ねた末に、ようやくその言い分を認めたといいます。

翠軒は、この人に、水戸藩の歴史書『大日本史だいにほんし』の校正を任せたいと考えました。1785年、保己一は水戸の殿とのさまに会い、まずは別の本の校正から仕事を始めます。

そのあいだにも、群書類従は少しずつ版になっていました。1786年には、予約を募つのる広告を出しています。申し込み先は、自分の家。摺するのは二百部かぎりで、そのあとはお断り。大田南畝おおたなんぽが、その広告を書き写して残しています。

けれど、水戸の学者たちは、口をそろえて反対しました。

「国の歴史は、われらの先の殿さまが手がけられたものだ。盲人もうじんに関わらせるのは、われらの恥はじではないか」

翠軒は、引きませんでした。

「あの人の目が見えないのは、病気のせいだ。身分の高い低いとは関わりがない。もっとも、世のいわゆる盲人は、人の慰なぐさみになることを仕事にしている。だから、さげすまれずにすむのはむずかしい。塙はなわは学問を仕事にしていて、多くの人が、師として学びに来る。その説には、取るべきところも多い。目が見えるか見えないかで、隔へだてる理由がどこにある。もし校正に加わって何も役に立たなかったら、私が罪を負おう」

こうして保己一は、『大日本史』の校正に加わりました。

ところが、加わってみると、今度は保己一のほうが、まわりを手こずらせる人でした。

人が読み上げるのを聞くたびに、事実の誤りや、年月の食い違いを、一つ一つ言い当てる。そして、こう言い出しました。

「各条に書かれた出典は、すべて元の本に当たって、違いを確かめるべきです」

学者たちは、はじめ渋しぶりました。

水戸の学者、藤田幽谷ふじたゆうこくは、のちにこう書き残しています。

「塙の言い分は、髪かみの毛を一本ずつ数えてから櫛くしを入れ、米を一粒つぶずつ数えてから炊たくようなものだ」

ただ、幽谷は、こうも書いています。それでも数年かけて、ついにやり遂とげた。塙の功も、消してはならない。

(数えてみなければ、何本あるかは分からない)

目の見えない男が、目の見える学者たちに、元の本を確かめろと言い張る。まわりからすれば、ずいぶん面倒めんどうな人です。

1790年、男の子が生まれ、寅之助と名づけました。自分が生まれたときの名前です。その子は、六、七歳で亡くなりました。

1792年、江戸えどの半分が焼けたといわれる大火事で、保己一の家も焼けました。しばらくは、人の家に仮住まいです。

そのころ、よく訪ねてきた常照院という修験者しゅげんじゃが、こう勧すすめました。今の世には、儒学じゅがくの本を読む所も、神道や歌の家もある。けれど、歴史や昔の法律を読む所がないのは、残念だ。お上に願い出て土地をもらい、講義の場所を定めてはどうか。

保己一も、そう思いました。翌1793年に願い出ると、すぐに許しが出ます。和学講談所。日本の古い書物を読み、講じ、正す場所です。

名前をつけたのは、幕府の老中をつとめた松平定信まつだいらさだのぶでした。定信は、自分の随筆ずいひつにこう書いています。

「その学校の名を、私にしきりに頼んでくる。だから、温古堂とつけよ、と人をやって言ってやった」

相手が誰であっても、しきりに頼む。この人は、ここでも引きませんでした。

温古。門人の伝記では温故とも書かれます。古いことをたずね、そこから学ぶ、という意味の言葉です。

古いものを、たずねる。どんな出典も元の本に当たれ、と言い張った人の、学校の名前でした。

群書類従ができあがるのは、それから二十六年も先のことです。

四十巻のつもりが

保己一ほきいちには、いちばんよく知られた話があります。

日の暮れたころ、風が吹ふいて、明かりが消えてしまった。講じていたのは『源氏物語』。聞き手たちが、講義をいったん止めてほしいと頼たのむ。保己一は笑って、こう言ったというのです。

「さてさて、目あきは不自由なものよなあ」

ただ、この話が本に出てくるのは、彼かれが亡くなって七十年ほどたった、明治の半ばからです。その言葉も、本によって少しずつ違っています。

彼が生きているうちに門人が書いた伝記には、別の場面が残っています。源氏物語の講義で、読み手が読み違えると、保己一がその先を続けて読んでみせた。一字も違わなかった、と。

見える人が読んで、見えない人が直す。

1801年、保己一は幕府に、もう一つの大きな仕事を願い出ます。九世紀の終わりから十七世紀のはじめまで、七百年ほどの歴史の資料を、集めて編む。返事は、なかなか来ませんでした。

二年後、もう一度願い出たときには、遅れれば私は老い衰おとろえて、残りの命も少ない、と書き添えたと伝えられます。まずは試しにやってみよ、と許しが出たのは、1806年。最初の願いから、五年がたっていました。

彼には、前々からの望みもありました。一座で上の職についた者が将軍にお目見えするのは、決まりごとにすぎない。けれど、もし職につく前にお目見えがかなったら、願いは満ちる。前々から、門人たちにそう話していたといいます。

1815年、68歳。長年の御用ごようと、書物の校正の骨折りが認められて、将軍へのお目見えが許されました。望みは、かなったのです。

1819年。『群書類従ぐんしょるいじゅう』の版木が、すべて彫ほり上がりました。門人の伝記によれば、六百七十巻です。

天神さまに誓ちかいを立てた元日から、四十年。続きの本も、もう集めはじめていました。

この年、門人の中山信名なかやまのぶなが、師の伝記を書き上げています。その結びに、こうあります。今年、先生は数えで七十四歳。その元気なことは、ふつうの人の五十すぎくらいだ。

般若心経はんにゃしんぎょうも、毎朝欠かさず唱えていた。その回数をつけた小さな手帳が生まれた家に伝わっていたと、1912年に出た伝記の書き手が、それを見て書いています。十回唱えるごとに、紙縒こよりを一本、小箱に入れる。その数を、妻が何日かに一度、折を見ては手帳に書き入れた。ただ筆跡は、少なくとも三人分あるそうです。

亡くなった年の、旧暦の正月までの合計は、百九十八万九千六百回。百万回の誓いが、倍近くになっていました。

四十巻のつもりが、六百巻をこえた。百万回のつもりが、二百万回近く。

晩年には、こんな話も伝わっています。歌会に呼ばれて五十首を聞き、帰ってから、そのうち三首を忘れているのに気づいた。こんなに物を忘れるようでは、今年は死ぬかもしれない。家の人に、そう言ったというのです。

一度聞いたことは一生忘れなかった人の、五十首のうちの三首でした。

1821年、保己一は、盲人もうじんの一座の頂点、総検校そうけんぎょうに上ります。同じ年の9月、急に病の床につき、10月7日に亡くなりました。75歳でした。

けれど、幕府に届けられた日付では、亡くなったのは翌年になっています。要職にない人は、家が次の年の禄ろくを受け取れるよう、死を一年遅らせて届けるのが、当時の習わしでした。

名を上げて、妻と子を養う。四十巻を数えた少年の願いは、亡くなったあとも一年、続いたことになります。

彼の学問には、いつも誰かの声と、誰かの手が要りました。

忙しい勤めの合間に、夜明け前から読んでくれた、隣の乗尹のりただ。蚊帳かやの中で読んでくれた人。三年と期限を切りながら、百両をたくわえていた雨富あめとみ。目の見えない男のために、罪を負うと言った翠軒すいけん。唱えた数を、折を見ては手帳に書き入れた家の人たち。

保己一の歌として、こんな二首が伝わっています。

何事も わがさきの世の むくいぞと おもへばいはん 言の葉もなし

何もかも、前の世の報いだと思えば、言うべき言葉もない。

身にあまる めぐみある世は よむふみの すくなきのみぞ なげきなりける

身に余るほどの恵めぐみのある世で、嘆なげくことといえば、読む本の少ないことだけだ。